保健室のベッドの上。
エリカはあの後ここまで辿り着いたはいいものの、すぐ側にみほがいるため「処理」をすることができずにいた。
追いだそうとしてもそのやり取りをするだけで限界を迎えるだろうし、トイレに行ったとしても時間がかかれば怪しまれるだろう。
今のエリカにできるのは、ただ頭から布団をかぶって必死に疼きを耐えることだけであった。
なぜだ。そもそもなぜ催眠が解けていないのだ。エリカは昨日の就寝時を慎重に思い出す。
イヤホンで催眠音声を聴いて――そのまま寝落ちした。何か他におかしいことはなかっただろうか?
――そうだ。スマホの電池切れ。
催眠音声というものは、必ず最後に聴き手を催眠状態から解くための「解除音声」というものがついている。
「カウントダウンとともに身体を覚醒させ、最後には伸びをする」というような内容のものが多く、言ってみれば寝起きのシーケンスでしかないのだが、これを聞かないと翌日の目覚めが悪くなったり――滅多にないことであるが、暗示が解けないままになってしまうという。
エリカが先程から危惧していたのはこの可能性である。
そしてスマホの電池切れが、エリカに一つの仮説を導かせた。
おそらく、一番深く催眠が掛かった状態の時にスマホの電池が切れたのだ。
そしてエリカ自身はそのまま眠りに落ち、解除音声を聞くことなく朝になったのだろう。
即ち、今のエリカは暗示が解けないまま――あの音声の言葉を借りるなら、「イけ」と言われればはしたなく絶頂する雌犬のままなのだ。
今からでも解除音声を聞けば催眠状態を解くことができるだろうか。
試してみる価値はある。幸いスマホは持ってきているから、布団の中でこっそり聴いてしまおう。
そう思ってポケットに手をやった所で、エリカはそこにあったものが消えていることに気がついた。
まさに、そのスマホである。
――嘘、嘘、そんな。どこ。どこにやったの。落とした? どこで? まさか、さっき?
一気に血の気が引く。
保健室に来る前に落としてしまったのだろうか。誰かに拾われてしまっただろうか。
買い換えたばかりだったのもあって暗証番号ロックをしていなかったことを、エリカは心から悔やんだ。
あの中には例の音源も入っていれば、自作の肉声音源も、そしていつも使っている二人の写真まで全部が揃っているのだ。
もし、もし誰かに知られたら。
そう思った瞬間、エリカは恐慌した。
心臓を締め付けられるような感覚、吹き出す冷や汗、布団がやたらと重く、暑苦しく感じた。
どうしようどうしようどうしよう。焦燥感が震えに変わる。
暗い、身体が思うように動かない、息ができない、誰か――
「――エリ……っ、逸見さん、大丈夫!? 逸見さん!?」
「誰か」の声がして、自分にへばり付いていた分厚い布の塊が取り払われる。
開放感とともに、白い光がエリカの目を眩ませた。
「ひっ、はっ、はっ、はぁっ、ど、どどっ、どうしよ、どうしよう、わたし、わたし」
上半身を起こすが、目の焦点が合わない。
息が上手くできず、まともな思考も覚束なかった。
がたがたと震えるエリカの肩を、「誰か」が抱き寄せた。
その「誰か」はエリカの背中を撫でながら、耳元で優しく囁く。
「大丈夫。大丈夫だから。落ち着いて、ゆっくり息を吐いて。できる?」
「はっ、はっ、はぁぁっ、はっ……ひっ、はっ」
優しい声だ。何故か懐かしいような、聞き慣れたような、心の奥まですうっと入ってくる声だった。
「吐いたら、ゆっくり吸って。落ち着いて……ほら、吸って、吐いて……」
「はっ、はぁっ、すぅぅぅっ、はぁぁぁっ」
繰り返される言葉。
言う通りに深呼吸するだけで、嘘みたいに呼吸が落ち着いた。
はらはらと頬を涙が伝う。なんで自分は泣いているんだろう。
「あっ、わたし、私、泣いて、やっ、やだ」
「いいんだよ、大丈夫。大丈夫……」
声の主が、エリカの頭を撫でる。
手のひらが優しく滑る度に、気持ちがどんどんリラックスしていった。
自分は何を慌てていたのだろう。思い出せない。
ただ、頭がふわふわして気持ちがいい。手足が暖かくなって、血液が指先まで行き渡っていく。
いつのまにか拍動も落ち着き、一定のリズムを奏でている。
頭を撫でながら「誰か」がなにか言っているが、その内容はよくわからない。
目を開けているのに、目の前のものがなんなのかもわからない。
分かることは、心地いいことだけ。
ただぼんやりと、エリカはその感覚に身を任せる。
そして何の疑いもなく、そのまま意識を手放した。
――
「……さん、逸見さん」
「……っ、あれ? ……みほ」
エリカが目を覚ましたのは、保健室のベッドの上であった。
傍らには心配そうな顔のみほが座っている。
「良かった。ひどくうなされてたから……」
「うなされてた……? 私が……?」
呆けた頭が、徐々に覚醒されていく。
自分は確か――そう、「あの状態」を何とかするために保健室まで自力でたどり着いて、ベッドの中で解除音声を聴こうとしたのだ。
しかしスマホがポケットに無くて――
「――あれ?」
無意識のうちにポケットを探った指先が、扁平な筐体に触れる。
恐る恐る取り出してみると、それは取りも直さずエリカのスマートフォンであった。
ホーム画面もちゃんと実家の猫の写真だし、もちろん「あのファイル」も入っている。
それでは、この記憶は何なのだろうか。
よく思い出してみようとしても、布団の中でスマホがないことに気づいたところまでしか覚えていない。
夢でも見たのだろうか?
そういえばこの部屋に入ってからいつ眠ったのかも思い出せない。きっと催眠のせいで朦朧としていたのだろう。
ともあれ、解除音声さえ聴くことができればこの状況から解放される。
さっさと聴いてしまおう。そして一刻も早く隊長の所に戻って名誉を挽回しなくては。
そこまで考えた所で、エリカの思考は中断される。
「ねえ、逸見さん」
「! ……な、何?」
みほの呼びかけに、エリカはまるで冷水を浴びせられたかのようにびくりと反応した。
駄目だ。やはりまだ催眠状態は解除されていない。
たったこれだけで、既に身体の芯が熱くなり始めているのだ。
「こんなこと……わたしが言うことじゃないかもしれないけど、無理はしちゃだめだよ」
「私は別に、無理なんか……」
していない、と言えば嘘にはなる。しかしおそらくみほとエリカでは「無理」の意味が違う。
おそらくみほは、エリカの具合が悪いのが過労のせいだと思っているのだろう。
その気遣わしげな表情が、エリカの良心をちくちくと苛んだ。
みほが真相を知ったらどう思うだろうか。
目の前の元チームメイトが最低の変態だと知ってしまったら、それも自分と姉を劣情の的にしていると知ってしまったら。
あの優しげな目を侮蔑に釣り上げ、口を極めてエリカを罵るだろうか。
それとも悲しそうな顔をして静かに離れていくだろうか。
はたまた恐怖を覚えて震えるだろうか、走って逃げ出すだろうか。
いろいろな可能性が頭を過ぎるにつれて、下腹部に熱が溜まっていく。
この状況はまずい。
身体に引っ張られているのか、思考すら自制できなくなっていた。
このままみほと話していれば、それだけでまた元通りになってしまうだろう。
「お姉ちゃんもきっと心配してるし、わたしだって……」
「……だ、大丈夫。平気よ。もう少しだけ横になったら行くから、アンタは先に隊長の所にいってなさい」
「でも……」
「いいから。お願い」
眠ったおかげか、先程よりは平静を装うのが楽であった。
横たわり、毛布を頭にかぶって背を向ける。
もう貴方と話す気はありませんよ、という意思表示のつもりであった。
みほはそれほど押しが強いタイプではないから、これぐらいはっきり言って態度にも出せばきっと聞いてくれるはずだ。
だが、そういう時に限ってやはり見立ては外れるものだった。
「じゃあ、一つだけ……行く前に、いい?」
「っ……!」
「行く」という所で、エリカの身体はじくりと反応した。
この調子では、予想よりもずっと早く限界が来そうだ。
「こんなこと……今話すのは変かもしれないけど、いつか言わなきゃって思ってて……」
「な、何よ」
「ずっと逸見さんとお話したかった。転校してからいろいろあって、なかなかそんな機会もなかったけど」
みほの声が毛布越しに聴こえるだけで、じわじわと腰が痺れてくる。
膝と膝を擦りあわせ、エリカは必死に深呼吸した。
耳は塞いでみほの声をシャットアウトするという選択肢はなかった。もちろん、聞こえなくなってしまうのが嫌だからだ。
――待て、「嫌だから」?
そんな場合じゃないだろうと、エリカの理性がその理由を否定する。
じゃあなぜ今そんなことを思ったのだろう。そして、なんで今も全く耳をふさごうと思えないのだろう。
生じた違和感はしかし、みほが喋り出すと同時にかき消える。
「できれば昔みたいにゆっくりお茶しながらお話できたらなって……それでまた仲良くできたら……なんて、むり、かな。でも、久しぶりに試合とか以外で会いたかったんだ」
もはや返答をする余裕もなくなっていた。
エリカは、毛布を噛んで漏れそうになる声を殺し、必死に息を整えて意識を保った。
「実はね、今日もそのつもりで来たんだ……ごめんね、自分勝手なのは分かってる。だけど……」
違う。みほは何も悪く無い。
それどころかこれに関しては素直になれない自分のせいだ。
あんなに冷たく当たった自分と、それでもまだ仲良くしたいだなんて。
――それに引き換え私は、そんな風に思ってくれている友人の声で股を濡らしているのだ。
みほが言葉を重ねる度に、エリカは自分の醜悪さが際立っていくような気がした。
今この地球上で自分よりも下劣な存在があるだろうか。
性的興奮と自己否定がないまぜとなり、エリカは溢れ出る涙を止められなくなる。
「それでも、せめて前みたいに名前で呼べたらいいなって……」
名前で、呼ぶ。
たったそれだけなのに、心臓が凍りついたかのようにどきりとした。
直感が伝えている。駄目だ。
今そんなことされたら、今度こそ完全に「堕ちてしまう」。
そう思った瞬間――エリカは気が付かなかったが――エリカの顔は、歓喜に歪んだ。
「ねえ、また……エリカさん、って、呼んでも……いい?」
「――――ッ!! ふっ、く、ぅ、っ……! く、っ……!! う……っ、ふぅっ……」
エリカは絶頂した。
目の裏を白い光が明滅し、身体がガクガクと震える。
どこも触っていないというのに、いやむしろ触っていないからこそ、全身が同じだけの性感に晒されていた。
長く深い、一生続くかと思えるような快感の波。
ずっと我慢していた分だけそれは強く、気づかれてはならないと思う分だけ鋭かった。
どれほど時間が経っただろうか。
1分ほどか、あるいは10秒ほどか。それとも10分か1時間か。
エリカはまだ色濃く残る絶頂の残滓の中、みほの言葉に答えようとしていた。
だめだ。これは許してはならない。
もう一度呼ばれたらどうなるか。何度も呼ばれればどうなるか。
想像するのは容易かった。少なくとも、今は断らなければならない。
しかし――エリカの口は、理性に反して勝手に動いた。
「い、いいわ……名前で、呼んで」
震える声でそれだけ返す。
もはや、エリカは自分がなにを言っているかもわからなかった。
みほは嬉しかったのか、声のトーンがぱっと明るくなる。
「……ありがとう! えへへ、エリカさんっ」
「――っ、く、ふっ……」
みほが嬉しそうに紡ぐ自分の名で、エリカは再び絶頂した。
毛布を強く噛みすぎて、顎が痛くなる。だがせめて声だけは我慢しなければ。
「ふふっ、嬉しいな。エリカさん、エリカさんっ!」
「くっ、ひっ、ぃ……っ!」
既にそれは暴力の域に達していた。
自分の名前が、まるで絶頂のためのスイッチになったようだった。
間を開けない二度のアクメに、エリカは気絶しかけていた。
「ねえ……こっち向いて欲しいな、エリカさん」
「い、っ……、い……、ひ……っ」
ダメだ、今の顔を見られたら。快感でとろけた表情を見られたら、全てがバレてしまう。
でも、もうみほの頼みは断れない。
言う通りにしたい。
エリカはぼんやりと鈍った思考の中、自分がみほに従うことを無意識のうちに望んでいるということに気がつく。
しかし、それはごく自然なことだと思いなおして――掛け布団を剥いで、みほの方に身体を向けた。
「……ふふ、かわいい。エリカさん」
みほは――笑っていた。
名前を呼ばれただけで何度もイキ狂い、顔中を涙やらでべちょべちょに濡らしたまま、とろけた瞳で自分を見上げるエリカを見て――口の両端を淫靡に釣り上げて、笑っていたのだ。
エリカはその顔を見ながら声もなく絶頂し、そのまま意識ごと深く、深く闇へと落ちていった。