次にエリカが目を覚ましたのは、見慣れた天井の下だった。
寮の自室だ。
日も暮れかけているのもあって、カーテンが閉められた部屋の中は薄暗い。
一瞬、起きてから今までのことが全部夢だったのではないかと思ったが――その可能性は、すぐに否定された。
「おはよう、エリカさん」
「! ……あ、あれ?」
みほに名前を呼ばれて、エリカの心臓が跳ね上がる。
しかし、エリカが恐れる反応は起きなかった。それどころか、みほの声を聞いてもあの疼きすら起きない。
やはり夢だったのだろうか、しかしそれならなぜここにみほがいるのか。
エリカは半ば混乱しながら、ベッドの縁に腰掛けるみほに目を向ける。
優しく微笑むその顔には、エリカが気絶する前に見せたあの雰囲気のかけらもなかった。
ああ、いつものみほだ。
その感情は確かに安堵であったが、エリカは同時に幾許かの落胆が交じるのを感じる。
もし夢だったとして――あのまま気絶しなかったら、どうなっていたのだろう。
考えただけでぞっとするのは、恐怖からだろうか。それとも。
「ねえ、エリカさん」
みほに再び呼ばれ、エリカは思考を中断した。
みほは笑みを崩さないまま、いつも通りのトーンで続ける。
「大丈夫だよ、もう名前のトリガーは外しておいたから」
「……えっ?」
エリカはその言葉に耳を疑った。
名前の、トリガー?
それは「知っている」者しか使わない文字列だ。
トリガーとは、「催眠状態の相手に何らかの狙った効果を生起させるためのもの(単語や絵、音楽など)」を意味する。
なぜみほがこんな言葉を知っているのか、エリカには全く思い当たる節がなかった。
「すごく可愛かったよ、エリカさん。名前を呼ばれるだけで……ベッドの中に隠れてても分かるくらい、がくがくってしてて」
「ちょ、ちょっと待って、どういう……」
まるで実家の飼い犬の事を語るかのような口調だが、その内容は確かに保健室でのエリカのことである。
状況が飲み込めないまま狼狽えるエリカの耳に、おもむろにみほが口を近づけた。
とっさのことに一切の抵抗もできないまま、エリカはみほの吐息を耳のふちに受けることとなる。
「ふぅ……」
「ひっ……!?」
ぞくぞくと背筋を昇る痺れが、エリカの息を詰まらせた。
触れるか触れないかの距離で、みほの唇が動くのが分かる。
「動かないで、エリカさん」
「あ、あ……」
それだけで、エリカの身体は金縛りにかかったように固まってしまう。
いや、動こうと思えばまだ動けるのかもしれない。だが、どうしてもそうしようとは思えなかった。
折角みほが「動かないで」と言っているのになぜ動く必要があるのか。
みほの言うことを聞けば、それだけで気持ちが良くなることをエリカは知っていた。
その証拠に、たったこれだけなのに、脳の奥からじわじわと甘い蜜が出てくるような感覚がする。
溢れ出る甘露で、エリカの思考はずるずると溶けていった。
「ねえ、また……してほしい?」
「……え、あ、あ」
みほの息が、みほの声が、みほの言葉が、耳の穴を通して脳髄に直接響く。
エリカはかろうじて動く眼球でその表情を伺うが、みほはしかし、慈しみをすら感じさせる静かな笑みを浮かべたままだ。
「いっぱい、気持ちよくしてほしいの?」
「あ、は、ぁ、っ……」
つう、と涙がエリカの頬を伝う。
それを見て、少しだけみほの目が細まったような気がした。
「どうして欲しいか、聞かせてくれるかな?」
「ひっ、う……き、気持ちよく、して……お願い……」
エリカは真っ白になりつつある頭で、なんとか懇願する。
――みほの笑みが深まった。
「よくできました。それじゃ、『スイッチ、オン』」
「……ひっ、ぎ、い、ひっ……!」
その言葉を聴いた途端、エリカは急激に高まる性感によって強制的に絶頂を迎えた。
衝撃に背中を丸め、エリカは快感の奔流に耐えるように縮こまる。
間欠泉の如き快感の発露がエリカの太腿をかくかくと揺らし、声も上手く出せないほどに噛み締めた奥歯が軋みをあげた。
先程まであまり濡れていなかったはずの局部も、触らずとも分かるほどに潤い始める。
「大丈夫だよ、深呼吸して。もっともっと気持ちよくなろうね」
「ふ、ぅ……っ」
エリカの背中を撫でながら、みほは労うように言った。
暴力的な快感からようやく開放され、肩で息をしながらエリカはこくりと頷く。
もはやこれが夢なのか現実なのか、既にエリカにはどうでも良いことであった。
ただ目の前にみほがいるということだけが、エリカには重要だった。
「ねえ……エリカさんは、ずっとこういうことをして欲しかったの?」
「え……ええ、ずっと、して欲しかった……」
「そっか……だから、こんなものまで持ってたんだね」
「あ……そ、それ……そんな……」
みほが取り出したのは、エリカのスマートフォンであった。
その液晶は、音楽再生ソフトのホーム画面を表示している。
そこに並ぶのは、一見しただけでは何のことかわからない英数だけのトラックであった。
しかしエリカにはもちろん、これが意味するところが分かる。
バレていたのだ、みほに。
「1A、1B、2A、2B、12A、12B、2401、2402。番号が作品名でAが本編、Bが解除音声。そうでしょ?」
「あ、うぅ……そ、そう、よ……」
みほが理路整然と説明していく。全てそのとおりであった。
エリカはただ頷くしかない。
「12が意味するのは1と2を合わせた音声ということ。そして……この2401と2402は」
「あ、あ、あぅ……や、やめ……」
その1分弱の音声は、エリカが催眠音声を見つける前に作っていた例の「肉声編集音源」である。
まさか。本人に聴かれてしまったのか。そんな。
エリカは羞恥と絶望に心臓を掴まれるような感覚と――同時に、言いようもない背徳を感じて身震いした。
「……エリカさんは、お姉ちゃんにもこういうことして欲しかったんだね」
「ち、ちがっ、違うの……」
「本当に?」
「ぅ……ち、違わない……」
普段ならありえないほどの素直さで、エリカはみほの優しい詰問に屈する。
そんな様子が可笑しかったのか、みほは小さく笑った。
そしてエリカのすぐ側に座り直すと、もう一度耳元へと唇を近づける。
「お姉ちゃんと私に挟まれて、両側からこうやって囁かれて……」
「ひ、んっ!」
嬌声すらも素直になりかけているのか、存外に高い声が出てしまう。
甘い匂いが鼻をくすぐり、これが音声だけのものではないということを否応なしに再認識させた。
「詰られて、責められて、頭の中までとろとろにされるくらい気持ちよくされたかったんだね」
「ひゃ、ふ……っ、そ、そう、です……隊長と、みほに、挟まれてぇ……、どろどろにされたくて……」
「いいよ。早速してみようか」
「え……?」
唐突な返答の意味を図りかねるエリカをよそに、みほはエリカのスマホでいずこかへ電話をかける。
ぼんやりとエリカがそれを眺めていると、通話相手が出たようだった。
「あ、もしもし。お姉ちゃん? うん、私。エリカさんがお話したいって」
「え、あ……!?」
「うん、今替わるね」
「へ、え、ちょっと、みほ、そ、それは……」
狼狽えるエリカに、みほはスマホを差し出す。
「いいから。エリカさんはずっとこれがしたかった、そうでしょ?」
確認するような台詞。みほの言うことはその通りだ。何も間違いはない。
自分はずっとこれを夢見ていたのだ。毎晩毎晩、二人の声に挟まれて脳の奥まで犯されることを。
何もわからなくなるくらいどろどろに溶かされて、二人の雌犬に成り下がることを。
エリカは震える手で端末を受け取り、早くなる鼓動に急かされるようにしてそれを開いている左の耳へと近づける。
「た、隊長……」
『エリカか?』
「ひぃっぎ……っ! いっ、――っ!!」
まほの声が受話器から聴こえてきた瞬間、エリカはまたしても絶頂を迎えた。
手から力が抜けてずり落ちそうになるスマホを、耳にベタ付けして間一髪で押さえる。
『……エリカ?』
「あっ、はっ、はい、た、隊長……っ」
訝しげなまほの声。必死にエリカは返答した。
もしここでバレたら、きっと電話を切られてしまう。それだけは防がないといけない。
幸いなことに、まほはエリカの異変には気づいていないようだった。
『みほから聞いた。具合が悪いらしいな」
「は、はい、その……すみません、途中で、私」
『いや、いいんだ。今日のことは気にするな。それよりゆっくり休んで、ちゃんと身体を治せよ』
「はい……すみません、隊長……ふ、ふぅっ……」
気遣うまほの声音は、普段よりもどこか優しげだった。
エリカのことを本当に心配しているのだろう。その実、まさかこんなことになっているとは露ほども思うまい。
若干の罪悪感と後ろ暗い快感が首をもたげた瞬間、無防備だった右耳を甘い囁きが襲う。
「お姉ちゃん、心配してるよね」
「……っ! ひっ――」
みほだ。その身体の距離はさっきよりもさらに近く、ほとんど密着する寸前となっていた。
みほの気配が、体温が、エリカの右半身に伝わってくる。
しかしそれに集中するより早く、左耳への刺激が再開した。
『ああそれと、大洗との練習試合の件は上手くまとまったから安心しろ』
「ぁひっ……!? しょっ、そ、それは、よかった、れす」
「あはは、呂律が回らなくなってきちゃった? しょうがないよね。気持ちいいもんね」
みほが笑うと、エリカの耳朶を吐息が触る。
それだけで耳が溶けてなくなりそうなくらい熱い。
その通りだった。気持ちが良いんだから、しょうがないのだ。
既に体中の力が抜けて、喋るのもやっとのことだった。
『……どうした、やっぱり調子が悪いんじゃないのか?』
「い、いっ、ぇ……」
「みほに看病してもらってるから大丈夫です、って言ってごらん?」
「ふぁ……み、みほにかんびょぉ、してもらっへ、る、からっ……だいじょ、ぶ、れすぅ……」
「よくできました。いい子だね、エリカさん」
右耳から入ってくる内容を、そのまま口に出して言う。
その行為は、まるでみほの言葉に脳を犯されるような感覚であった。
鼓膜から頭の奥まで挿入されたみほの台詞が、エリカの自我を口から押し出していってしまうのだ。
『そうか……仲良くできているなら何よりだ』
「なかよくぅ……できれまふ……」
「そうだね、エリカさんとわたしは仲良しだもんね」
「え、えへへぇ……」
二人から褒められたように感じて、エリカはだらしなく笑った。
大好きな二人に褒められることは、とても気持ちが良い。
エリカは知っていた。二人の言うことを聞けば気持ちが良くなるのだ。
――そう、「誰か」が教えてくれた。
『それじゃエリカ、また明日。もし具合が良くならなかったら休むように』
「ふぁい……また――」
「“待ってください、隊長”」
「まってください、たいちょぉ……」
『ん? どうした』
電話を切ろうとするまほを、みほの命令で引き止める。
あともう少しだけでも正気を保っていられたなら、エリカはこの命令を不可思議に思っただろう。
だが、半ば腹話術人形と化した今のエリカには到底無理な話であった。
ただ、もう少しまほの声を聴いていられることが嬉しいとぼんやり思うだけであった。
みほは、そんなエリカを楽器のように奏で出す。
「実は」
「じつは」
「私」
「わたし」
「隊長の声を聴きながら」
「たいちょぉの……こえを、ききながら」
「オナニーしてました」
「おな、にー、して、ました」
「ふふ、よくできました」
みほの笑みが深まる。それはあの時と同じ、口の両端を淫靡に釣り上げた――三日月の笑み。
だが夢うつつのエリカはそれを見ることはない。
自分が何を言ってしまったのかも分かっていないのだろう。
その様子に、みほは何を思ったのか再び耳元に口を寄せ――言った。
「スイッチ、オフ」
トリガーが、エリカの意識を急速に浮上させる。
瞬く間に瞳には光が戻り、ほとんど同時にエリカは自分が何をしたのかを理解したようだった。
「……あ、え……、え!? あ、わた、私、な、何を……」
言ってしまったのだ。ずっと隠していたことを。
それもあんな、いとも簡単に。
受話器の向こうから、まほの困惑に染まった声が聞こえる。
『エリカ……?』
どうしよう。どうすればいい。
頭のなかは真っ白だ。息が詰まって、不規則になる。
スマホを握る手が震える。石化したように固まってしまって耳から離すこともできない。
何も手立てを考えられなくて、涙が溢れてくる。
「エリカさん、大丈夫だよ」
右の耳から入ってきた声が、狼狽していたエリカを鎮静する。
その声音を聞くだけで震えは収まり、不規則な呼吸も徐々にゆっくりと落ち着いた。
「大丈夫。エリカさん……全部説明すれば、お姉ちゃんもきっと分かってくれるから」
「ぜ……全部……?」
「そう。今までエリカさんがしていたこと、全部お姉ちゃんに自分で説明するの。そうすればきっと、お姉ちゃんも許してくれるよ」
「で、でも、そんなことしたら、私、わたしっ、隊長に、き、きっ、嫌われ、ちゃう……!」
エリカの頬を滂沱の滴が流れ落ちる。
みほはそれをぺろりと出した舌で舐め上げると、さらに身を寄せた。
ぴたり。
エリカの身体に、みほの体重が少しだけ掛かった。
「大丈夫。お姉ちゃんは、エリカさんのこと、だいすきだよ」
「あ、あ……っ……!」
エリカの身体がこわばる。もはやその絶頂には、「スイッチ」のオンオフも関係なくなりつつあるようだった。
みほはさらに追い打ちをかけていく。
「エリカさん。いい子だから、全部全部話しちゃおう? お姉ちゃんもきっと、エリカさんがどういうことしてるのか知りたいと思うよ……?」
「ほ、本当に……? 隊長が、私のこと、しりたいの……?」
「そうだよ。わたしもお姉ちゃんも、エリカさんのことを知りたいって思ってるんだよ。だから、安心して全部お話しよっか」
「あ、う……、で、でも、でも……」
「大丈夫。言うことを聞くのは気持ちがいい、でしょ?」
「う、ん……きもち、いい……」
「気持ちがいいことは、いいこと。そうだよね?」
「いいこと……」
「エリカさんは気持ちが良いことがだいすき。そうだよね?」
「うん……きもちがいいこと、だいすき……」
「言うことを聞くのも大好き、でしょ?」
「あ……はぅ……いうこときくの、だいすき……」
「それじゃ、説明しようか。なにしてたか、全部」
「や、だめ、だめ……ぇ」
「ちゃんと言うとおりにできたら、もっともっと気持ちよくなれるよ……?」
「あっ、あ、なりたい、もっろぉ……」
「ふふ、そうだよね。それじゃ、全部お姉ちゃんに話しちゃおう? いい、よね?」
「ひっ、う……、い、イ、いぃ、です、ぅ……」
みほの声が、鼓膜を叩く。頭の奥を叩く。なけなしの理性を、叩き潰す。
『……エリカ? おい――』
「……た、隊長、聞いて、ください」
焦点の合わない目を幾度か泳がせた後、エリカは口を開いた。
その口調は、深い催眠の中にあるというのに比較的しっかりとしている。
「……私は、ずっと前から、隊長と……みほの声を……使って、毎晩、オナニー……自慰行為を、していました。最初は、お二人の……声を、録音したものを、聴きながらで……でも、それだけじゃ、物足りなくなって、その音声データを……編集して、ひっ、卑語、を、言わせてる、みたいに、して……」
エリカは、言われたとおりに自分がしていたことを白状していく。
羞恥が、絶望が、一つの事を自白する度に快感に変わっていった。
みほの言っていたとおりだ。みほの言う通りにすれば、もっともっと気持ちよくなれるのだ。
「それでも、やっぱり満足できなくて、ね、ネットで、催眠オナニーっていうのを、知って、私、どんなんだろうって思って、探したら、た、隊長、みたいな、声のがあって、みほみたいな、声のもあって、わたし、わたし、ふたりが、だいすきでっ……それでっ、毎晩、ふたりに一緒に、両側からささやいてもらうのを、もうそう、しながら……オナニー……して、まし、た……、ごめん、なさい……っ」
全て、言ってしまった。
身体の震えは恐怖や焦りに依るものではなく、背筋を断続的に這い登る甘い痺れのせいである。
それでも、なぜだろうか。エリカの頬を伝う涙は、一向に止まることはなかった。
電話の向こう側は、静まり返っていた。
ホワイトノイズだけが受話口から聞こえてくる。
みほは何も言わず、かすかな笑みを浮かべるだけだ。
その沈黙を破ったのは、まほであった。
『……エリカ』
「ひゃっ……はい」
『……待っていろ。話がある』
たったそれだけで、電話は切れてしまった。