エルゼ・リンゼ姉妹とのお風呂を楽しんだ後、ユミナはすぐに自室のベッドに入った。
「ふわ~ぁ……。明日も朝早いし、大変だなぁ。それにしても、何か良い匂いがする。」
自室に入った瞬間から、ユミナは部屋に満ちる甘い香りに気付いていた。
だが、どうしてそんな匂いがするのか、疲れていたユミナはよく考えなかった。
ここで原因をきちんと追究していれば、彼女は雌奴隷の未来へと進まずに済んだかもしれない。
しかし、ユミナの魔眼は、人の本質は見抜けても未来は見抜けないのだ。
彼女の運命は、偶然ではなく必然だったと言うべきだろう。
甘い匂いに包まれながら、ユミナは瞼を閉じる。
匂いの発生源が、昼間に部屋に仕込まれた3つのガラス玉のうちの1つが発する魔法だとも知らずに。
この香りに催淫効果がある事も知らずに。
ユミナは、ゆっくり、ゆっくりと、夢の世界へと堕ちていった。
「あれ……?」
瞼を閉じてから暫くして、ユミナは何かに導かれるように起き上がる。
「ここは?」
ユミナが目覚めた場所は、彼女が恋い慕っている望月 冬夜の部屋のベッドの上だった。
窓の外はまだ暗く、部屋の灯りも消えており、今の時刻が深夜である事は明らかだ。
(もしかして、私、寝惚けて冬夜さんの部屋に侵入しちゃった!?)
王国の第一王女であり、淑女である自身が、深夜に男性の部屋に忍び込むなど決してあってはならない事。
なんとしても、これを誰かに知られる訳にはいかない。
特に、冬夜にだけは、絶対に。
(そういえば、冬夜さんは?)
ユミナはふとベッドの傍らに視線を落とす。
すると、そこでは冬夜がいびきをかいて熟睡していた。
(冬夜さん……。)
すぐに部屋を出て行かなければならないと分かっていても、ユミナは冬夜の前から動けずにいた。
次第にユミナの胸の鼓動は高鳴り、股間がジンワリと滲んでくる。
(私ったら、はしたない……。で、でも、今なら多少の事をしても、バレませんよね?)
ユミナの中の魔が囁く。
それが、彼女の変化の切っ掛けとなった。
「あれ?」
頭が異様に熱っぽい。
いや、頭だけではない。
全身が、まるでサウナで茹っているかのように、熱くなってきている。
そう感じたユミナは、冬夜に延ばしかけた手を止めた。
「っ!」
唐突に、ユミナの頭に激痛が走る。
特に、頭の左右の痛みが尋常ではない。
(頭が、割れるっ……!)
ユミナの頭の左右に走る痛みは、頭蓋骨や皮膚を突き破り、鮮やかな金髪を掻き分けて外側に延びていくような感覚のものだ。
更に、今度はユミナの背中にも痛みが現れた。
(背中が、破れちゃう!)
背中の皮膚を破り、破れた皮膚の隙間から何かが生えてくる感覚。
自分が自分でない何かに変貌していく感覚に、ユミナは捉われていた。
「いっ、いや、誰か、助けて!」
ユミナは叫ぶ。
誰かに気付かれるとマズい状況だった事も忘れて、必死に、何度も何度も、声を張り上げる。
しかし、幾らユミナが叫ぼうとも、彼女の声に誰かが反応する気配はない。
他の部屋にいる女の子達どころか、傍らで眠っている冬夜すらも、未だ楽しそうな寝顔を浮かべたままであり、どう見てもユミナの声には気付いていない様子だ。
(どうして? こんなに大声で叫んでるのに、何で冬夜さんは起きないの?)
単純に考えれば、それだけ冬夜は熟睡しているという事なのだろう。
しかし、今日のモンスター討伐の際にリンゼと2人で行動していた冬夜は、帰宅後もエルゼやユミナほどは疲労していない様子だった。
なのに、こんなにもぐっすりと眠っていられるものなのだろうか。
(そもそも、冬夜さんは、私の婚約者なのに、今日はずっとリンゼさんと2人きり。それで今もこんなに楽しそうに眠ってる。私がこんなに苦しんでいるのに……!)
理不尽な怒りだと、ユミナも理解はしている。
だが、ユミナの中に生まれた感情は滞る事無く膨らみ、彼女の胸から溢れ出していく。
「冬夜さん……!」
ユミナの着ていたパジャマは、いつの間にか、黒いボンテージ衣装に変わっていた。
しかし、その事にユミナは気付いていない。
先ほどまでの激しかった頭痛や背中の痛みが今は完全に掻き消えている事にも、彼女は気付いていない。
「冬夜さん、冬夜さん、冬夜さん……。」
ジワリ、ジワリと、ユミナは四つん這いの体勢で冬夜に忍び寄る。
その時、どうしてか、彼女は何となく顔を上げた。
下を向いていたユミナの顔が正面へ向き直ると、彼女の視線は、暗い窓ガラスに映る女の視線と衝突する。
「誰?」
外は暗く、部屋の中も暗い。
だから、窓ガラスに映った女の人相は、ユミナにはよく見えなかった。
しかし、その女が誰なのか、ユミナに分からないはずはない。
今この部屋にいる女は、ユミナ1人だけなのだ。
なのに、ユミナには窓ガラスに映る女が誰なのか、分からなかった。
その理由は、窓ガラスに映る女の顔立ちや姿が、ユミナのイメージしている自身の姿とはかけ離れていたからだ。
釣り上がった鋭い目つき。
プックリと膨らんだ唇。
やたら濃い化粧。
頭部の左右から生えている、大きな角。
背中から広がる、コウモリのような翼。
セクシーな黒いボンテージ衣装。
それが、窓に映る女の姿だ。
何処からどう見ても、その女の姿はサキュバスにしか見えない。
「えっ?」
暗さに目が慣れてきたためか、窓に映る女の姿が、よりはっきりとユミナにも見えるようになってきた。
そのお陰で、ユミナは、窓の女の顔の造作が自分によく似ている事に気付いてしまったのだ。
「う、嘘! こんなの、嘘!」
ユミナは慌てて、激しく首を振り、「窓の女は自分ではない」と否定する。
しかし、ユミナの首振りに合わせて、窓の女もまた、激しく首を横に振った。
自身はサキュバスではないと否定したいがために起こしたユミナの行動は、皮肉にも、窓の女=ユミナである証拠となったのだ。
「嫌、嫌、嫌あああっ!」
ユミナは悲鳴を上げ、ベッドから跳ね起きた。
「あ、あれ? 今のは、夢?」
ユミナがいたのは、彼女がいつも使っている自室のベッドの上。
つまり、先ほどまでの出来事は全て、ただの夢だった。
「そ、そうだよね。私がサキュバスになるなんて事、あり得ないよね……。」
安堵したユミナは、大きく空気を吸い込み、息を吐き出す。
そうして落ち着きを取り戻し、もう一度、ベッドに入ろうとした彼女は、ある事に気付いた。
「何か、パジャマが湿ってる?」
パジャマからは、ほんのりと汗の匂いが漂っている。
きっと、悪夢に魘されていたせいで汗をたくさんかいてしまったのだろう。
ユミナはそう理解して、ベッドから降りた。
「少し、シャワーで汗を流してこようかな……。」
汗だくの体でそのまま寝る気になれなかったユミナは、風呂場へ向かう支度を始めた。
シャワーで汗と共に悪夢も綺麗さっぱり洗い流して、スッキリした状態で彼女は眠りたかったのだ。
着替えを持って風呂場へユミナが向かうと、深夜だからか、やはり浴室には誰もいない様子だった。
「音で誰かを起こしちゃったら悪いし、静かにしなきゃ。」
ユミナがかつて住んでいた王宮であれば、入浴の際の音など全く気にする必要もなかった。
しかし、ここは王宮ではないし、共同生活をしている以上、深夜に大きな音を立てるのは厳禁だ。
ユミナは音を立てず、素早くパジャマや下着を脱ぐと、浴室に入った。
「やっぱり、夢だったんだよね?」
シャワーの所の鏡台に映るユミナの顔は、いつもと何ら変わらぬものだ。
目つきが悪かったり、唇がプックリ膨らんでいたり、やたらメイクが濃かったり、頭の左右から大きな角が生えているなんて事はない。
改めて安堵したユミナは、水道の蛇口を捻り、早速シャワーを浴びる。
「ふぅ……。」
シャワーから流れる温かいお湯が、ユミナの全身を伝っていく。
汗だくだった体からは既にベトベトした感触は消えていたが、ユミナはそのまま髪や体を軽めに洗い出した。
そうして足のつま先まで洗い終えると、ユミナは背筋を伸ばし、シャワーヘッドに手を伸ばす。
しかし、その時、彼女の視界に一瞬だけ入った鏡に、あり得ないモノが映った。
「う、嘘……だよね!?」
1秒にも満たない時間だけ見えた「それ」は何なのか。
このまま鏡を見ずに逃げるという手もない訳ではないが、ユミナにその手は選べなかった。
「私は、王国の第一王女で、冬夜さんの婚約者なんだから……!」
絶対に、あってはならない。
鏡に映ったユミナの姿が、サキュバスのものであるという事は。
だから、「自分はサキュバスではない」と、ここではっきりさせておくべきだ。
恐怖を決意で強引に押し込んだユミナは、ゆっくりと頭を動かし、視線を徐々に鏡の方へ移動させていく。
そして、鏡に映る自身の顔を、彼女はようやく正面から視認する事が出来た。
「や、やっぱり、見間違い、だったの?」
今、鏡に映るユミナの顔は、いつもの彼女の顔だ。
先ほど、一瞬だけ鏡にサキュバスの顔が映ったように見えたのは、やはり疲れているからかもしれない。
ユミナはそう結論付けて、早くベッドに入り直すべきだと判断した。