ユミナが部屋に戻ってから、どのくらいの時間が経っただろうか。
誰かが体を静かに揺さぶる感触を、ユミナはまどろみの中で感じ取った。
「ん……?」
最近、眠っていると毎回のように悪夢を見るのに、今はどういう訳か目覚めが悪くない。
疲れ切っていたせいで、夢どころではないレベルで熟睡していたのか。
そんな事を思いながらユミナが起き上がると、彼女のベッドの傍らには、意外な人物が立っていた。
「久し振りでござるな、ユミナ殿。」
「えっ? や、八重さん?」
ユミナは目を瞬かせて、八重の顔を見つめる。
すると、八重はいつもの快活な笑みを浮かべ、喋り始めた。
「拙者、つい先ほどここに帰ってきたのでござるが、皆出掛けていたみたいで留守だったので、勝手に上がらせてもらったでござるよ。何かと急で申し訳ござらんな。」
「いえ。ここは八重さんの家でもありますから、それはいいのですけど……。」
八重は、少し前に「故郷へ暫く戻る」という置手紙を残して、突然この家からいなくなった。
あまりにも唐突過ぎたため、八重がいなくなった事が発覚した直後は「事件に巻き込まれたのでは?」とユミナもエルゼもリンゼも心配していたほどだ。
しかし、置手紙の字は間違いなく八重のものであった事、冬夜が「多分大丈夫だろう」という見解を示した事から、八重を無理に追わず、彼女が帰ってくるのをユミナ達は待っていた。
「急にいなくなったから、みんな心配してたんですよ?」
ユミナはそう答えながら、仲間達の顔を思い浮かべる。
エルゼもリンゼも、恋敵であるはずの八重が急にいなくなった事を喜ぶどころか非常に気にかけていた。
だが。
(そういえば、冬夜さんは八重さんの事を「故郷に帰ったんなら仕方ないよ」って言ってましたね。)
よく言えば、冬夜は寛大なのかもしれない。
しかし、悪く言えば、無関心。
冬夜は、八重に対してそれほど執着していなかったのだ。
八重が冬夜に想いを寄せていたのは、傍目から見てもバレバレなほどだったにも関わらず。
(八重さんも私も、同じだったんですね。)
冬夜が自らの婚約者であるユミナに対して先ほど取った態度と、八重に対して貫いていたスタンスは全く同じ方向性のものだ。
そこから導き出される結論はただ1つ。
(冬夜さんは、誰の事も好きじゃなかった。婚約者である私の事も。)
ユミナは、冬夜には自分以外にも妻を娶ってもらって構わないと思っていた。
冬夜はそれが出来るだけの器の持ち主であると、ユミナは確信していたからだ。
でも、その考えは誤りだった。
冬夜ならば、確かにハーレムを築く事は出来るだろう。
しかし、それは皆を同時に愛せるからではない。
皆の事を愛していないからこそ、冬夜はどの女の子に対しても平等に接するため、女の子達の間で不和は生じず、ハーレムを築ける。
プラスの理由ではなく、マイナスの理由で、冬夜はハーレムに向いた人間なのだ。
だが、そんなものは、ユミナが男性に求める器とは程遠い。
「あの、八重さん。八重さんは、冬夜さんの事、今も好きですか?」
ユミナは八重の顔を見上げ、尋ねる。
真剣なユミナの視線を真っ直ぐ受けた八重は、静かに笑った。
「いいえ。今の拙者は、冬夜殿の事は何とも思っていないでござるよ。代わりにお慕いしている方はいるでござるがな。もし良ければ、彼にユミナ殿も紹介したいでござる。彼ならば、きっと、ユミナ殿の事も受け入れてくれるでござるよ。」
八重の瞳が、妖しく光る。
その刹那、ユミナは頭がクラリと揺れるような感覚を覚えた。
(あれ……? この人、八重さん?)
八重らしからぬ、淫靡で蠱惑的な表情。
仄かに漂い始めた、邪悪な魔力。
ユミナの魔眼がたった今捉えた、目の前の「九重八重」を称する女の本性。
それに衝撃を受け、ユミナの思考は、ふわふわと宙に浮きかけた状態から一気に現実へと引き戻される。
「あ、あなた、本当に八重さんですか?」
改めて声に出してみて、自分の中でその疑問を噛み締めたユミナは、八重の顔を観察する。
(八重さんの顔、以前よりもふっくらしていますね。)
八重の頬にはしっかり肉がついていて、ややぽっちゃりした感じにユミナには見えた。
それ以外にも、八重の睫毛が少し長くなっていたり、笑い方自体が上品になっていたりと、細かい点で変化がある。
とはいえ、八重は元々大食いだったので、毎日の鍛錬を暫くサボったりすれば太る事自体は充分にあり得るだろう。
若干色気が増しているのも、故郷で母親に化粧を教わった等の理由があるのなら納得は出来る。
しかし、外見の僅かな変化に理由付けしたところで、八重から漂う魔物の気配だけはユミナにも説明がつかない。
目の前の存在が本当に八重であるなら、彼女が魔物の気配を纏っているなどという事は絶対に起こり得ないのだから。
つまり、ユミナの前に立っている女の正体は。
「ふふふっ、うふふふふっ! さすがはユミナ殿、よく分かりましたね。」
八重の声がグッと低くなり、熟れた女の色香を備えたものへと変貌した。
その声に不思議と惹きつけられるものを感じたユミナだが、首を横に振って、自分の気力を奮い立たせる。
だが、とうとう本性の一端を現した八重は、ユミナのそうした動きを見ても、薄い笑みを浮かべたままだ。
「ユミナ殿。あなたは既にわたくしの眷族。幾ら拒んだところで、全ては手遅れですわ。」
八重が懐に手を入れ、黄色く濁った色のガラス玉を取り出した。
そのガラス玉の正体を即座に看破したユミナは、素早くベッドから飛び退いて八重から距離を取り、戦闘態勢に入る。
「雷よ来たれ……あっ!」
ユミナの魔法の詠唱が、途中で止まってしまった。
(魔力が、消えていく!?)
魔法を発動しようとユミナが魔力を集中させた瞬間、彼女の魔力が急速に消失したのだ。
しかし、八重はまだ、ガラス玉に込められた魔法を発動していない。
「一体、何をしたんですか!」
魔法を不発にされたユミナが、八重を睨みつける。
その視線を笑みで受け流した八重は、ガラス玉を掲げ、口元から牙のような鋭い歯を覗かせた。
「言ったでしょう? あなたはわたくしの眷族であると。あなたの魔力は、わたくしを攻撃するためにあるのではないわ。だから、あなたは無意識に、自身の仲間であるわたくしへの攻撃を躊躇った。それが魔力消失の原因ですわ。」
「そんな事、あり得ません! 私は、ユミナ・エルネア・ベルファスト! 王国の第一王女です! その私があなたのような魔物の仲間であるはずがないです!」
「はぁ……。事実を認められない人間というのは、見苦しいですわね。本当に醜い。わたくしもかつてはこのような愚かしい人間だったなんて、思い出すだけで鳥肌が止まりませんわ。」
「え? あなた、人間だったの?」
「あら。わたくしは人間だった頃から、あなたの仲間だったはずなのですけれどね。」
「ま、まさか……!」
ユミナの目が大きく見開かれる。
瞼は小刻みに震えており、彼女が如何に衝撃を受けたのかを物語っていた。
「あなたは、本当に八重さんだったんですか!?」
「ご名答。わたくしのかつての名は、
ユミナは自分の置かれた状況も忘れ、唖然とした表情で固まっている。
イロハの語った真実を、ユミナの脳が処理し切れていないのだ。
「そんな……。」
本質を見抜く魔眼を持っているが故に、ユミナはイロハの語った内容がおそらく真実である事を悟った。
変わり果ててしまった仲間の笑顔を前にして、ユミナの膝がふらつく。
「さあ、ユミナ殿。共にわたくし達の主人の元へ参ろうではありませんか。香りよ来たれ、スリーピング・フローラル!」
手に持ったガラス玉に込められた魔法を、イロハは起動した。
ガラス玉からピンクの淡い光が放たれ、周囲に花のような甘い香りが漂い始める。
「しまった……!」
戦闘の構えを解いていたがために、ユミナは魔法の香りを吸い込んでしまったのだ。
香りに含まれた催眠効果が、ユミナの脚から力を奪い、彼女を地面に座り込ませる。
そればかりか、ユミナに眠気までも与えてきた。
「私は、こんなところで……やられる訳には、いかないんです!」
王国の第一王女としての矜持が、ユミナの心に再び火を灯す。
ユミナは脚に力を込めて立ち上がると、大きく息を吸い込んで踏ん張り、反撃の一手を紡ぎ出した。
「雷よ来たれ! サンダー・アロー!」
ユミナの決死の一撃は、雷の矢となってイロハに襲い掛かる。
だが、イロハの口元には、嗜虐的な笑みが浮かんでいた。