新しい生活
――金木犀の香りが漂いながらも、夏の暑さがまだ残る夜。
肉体的な疲労がピークに達しながらも、家に向かって一歩踏み出していく。
今日も倒れるかもしれなかった激務だったけど、なんとかこなせた。
自宅から数メートル離れた場所につくと、自分の部屋の電気がついていることがわかった。
窓から微かに漏れる明かりを目印に、重い身体を引きずる。
長屋のボロアパートだ、金目の物を盗みに来るなんて考えられない。
考えられるケースは一つしかない。
ドアノブに手をかける。ゆっくりと回す。
立てつけが悪いのか、なかなか開きはしない。
もう一度、ドアノブに手をかける。その瞬間、ゆっくりと扉が開く。
中から出てきた人影は不敵な笑みと共に、優しい声色で俺を迎えてくれた。
「おかえり、優人」
「あぁ、ただいま、風香」
自分の意思で村を出て、二人で生きていこうと決意したは良いものの、早々上手くいくはずがない。
そう思っていたが、思っていたよりも事はスムーズに運んでいった。
住む場所は、風香の里親の知り合いに、大家さんがいて紹介してくれた。
お金も提供してくれると言ってくれたが、さすがにそこまでしていただくのは悪いと思い、学園生の身ながら働ける“少し訳あり”な飲食店で働いている。
学業は諦めていたのだが、風香の強い勧めもあり、定時制の学園に編入学した。
こちらに引っ越してきた理由も理由なので、てっきり拒否されると思ったが、難なく編入できた。
多分、村長が気を利かせて、俺らのことを表立たせないよう学園側にかけあってくれたんだと思う。
そうじゃなければ、ここまで上手くいくはずがない。
「今日、お客に怒鳴られた。なんか話し方とか顔が気に食わないって」
「それは酷い……と言いたいところだけど、半分、わからなくはないわね」
「……一応、理由だけ聞く」
「優人って、なんか見てるとイライラしてくる顔じゃない?」
「それはあんまり過ぎませんかね」
「思えば、学園で初めてあんたを見たときもイライラしたわね。女をはべらせてるのに、ジロジロ見てきて、不愉快だったわ」
「えっ、弟見つけて嬉しかったんじゃ……」
「そんなの嘘よ、嘘。女は呼吸するように偽るんだから」
「辛辣だなぁ」
「自業自得よ、あれは」
風香と言えば、相変わらず絶好調だ。
里親のところへ戻り、俺を彼氏と紹介し、元々通っていた学園へ復学してしまう自由っぷり。
もちろん、元いた学園で成績優良生徒だったのが大きい。
突如、転校した生徒が戻ってきてくれるんだから、学園側からしてみたら願ってもないことだろう。
当然、いい大学へ進学し、学園の代表して卒業してくれる。教師たちはそう思ってたはずだ。
「まぁ、優人にしてはしっかり頑張ってるみたいで嬉しいけど」
「風香はどうなんだよ? ちゃんと勉強してるの」
「抜かると思って? 一次試験なんて楽勝だったわよ。優人とは頭のデキが違うんだから」
風香は公務員試験を受けた。理由は単純で、安定しているから、そして高卒でも働けるからだ。
大学に行くべきじゃないかと反対はしたが、風香は早く自立がしたいからと聞く耳を持たなかった。
学園の教師たちはさぞ驚いただろう。公務員になるにしても、大学進学をしてからが普通のルートだろうし。
それでも、風香は俺との将来を第一に考えてくれて、就職すると言い張った。
ずっとそばにいて、罪を共に分かち合うために。
「受かってたの? なんだよ、言ってくれればいいのに」
「言ったらサプライズにならないでしょ?」
「それはそうだけど……あっ、ちゃんと栞さんとかには伝えたのか?」
「まぁ、一応ね。喜んでたわ」
「なんで他人行儀なんだ」
椿栞さん、つまり風香の里親の名前。
風香が名前を変えた理由は、引き取ってくれた奥さんの名前が“栞”だったからだ。
同音同字の場合、氏名を変えても良い制度がこの国にはある。
だから、風香は野々村栞から椿風香へと名前を変えた。
でもきっと、名前を変えたことには、過去を捨てる意味もあったんだと思う。
過去を捨てて、真新しく生きていく、その決意の表れ。
それでも、彼女は過去を捨てきれず、俺の傍にいてくれることを選んでくれた。
その事実が嬉しくもあり、悲しくもある。
「他人だもの。別にいいじゃない」
「いや、血は繋がってなくても、一応、戸籍上は家族だろうに」
「私の家族は優人ただ一人なの」
「ちょ、急に腕を絡めないで。胸、押し当てないで」
「ふっふ~ん、別にいいじゃない。こうしてイチャイチャするの、久しぶりなんだから」
「それを出されると、弱る」
「優人が私に勝とうなんて百年早いのよ……ふぅ」
風香が俺の腕に自分の腕をぎゅっと絡めてくる。
甘えてくるときと違う彼女の動きに少し困惑し、理由を優しく尋ねてみる。
「いい人たちなのに、なんでよそよそしいんだ? 俺だって助けてもらって、感謝してる」
「……よそよそしくもなるわよ。絵に描いたような善人だもの」
「“私たちのこと”なにも知らないんだから」
「それは……」
栞さんたちは俺と風香の名字が一緒でも特に言及はしてこなかった。
栞だって被ったんだから、野々村って名字も同じってあるわよね、と笑う程度だ。
「あの人たちには感謝してる。育ててもらった恩もあるわ」
「なら、余計に大事にしないと」
「私にとって、大切なものなんて、優人しかないの」
風香の腕の力が増す。痛いぐらいに、彼女は俺にしがみついてくる。
俺はそれを振りほどくことも、嫌がりもせず、受け入れる。
だって、彼女の言うことは、俺も同じだからだ。
こうして、厳しい生活ができるのも、風香がいるから。
最愛の家族、そして恋人がそばにいるから、俺は生きていけている。
「ごめん、なんか変な空気になったかも」
「全然、気にしてないし、俺のほうこそ説教臭くなってごめん」
「優人は謝らないで。確かに、言う通りだから」
「一人でしょい込まないでね。俺だって力になる」
「あら、なんとも頼もしいわね。なら早く大検とるなり、大学入るなりして、就職して、結婚費用稼いでね」
「うわーすっげぇ現実的な話」
「理想だけじゃ、物事は成り立たないのよ」
軽口を叩き合いながら、俺たちは手を握る。
風香と話してると、疲れているというのに元気が出てくる。
「……こっちに来てからの生活はどう?」
「大変だけど、楽しい。風香がいるから」
「ふふっ、嬉しいこと、言ってくれるじゃない」
「風香はどうなんだよ」
「面倒くさい友達に絡まれて、うんざりしてる」
「珍しいね、風香がそんな風になるなんて」
「私だって苦手な奴ぐらい、一人や二人いるわよ、ったく……」
「じゃあ、こっちに来て、楽しくないんだ」
「馬鹿ね、なに言ってるのよ。優人のそばにいられるなら、なんだって幸せよ」
風香はクスっと微笑んで、俺に肩を預けてくる。
彼女の体温と甘い香りが伝わってきて、鼓動が高鳴ってしまう。
なんか節操ないみたいで恥ずかしくなるが、それでも彼女を求めるのは男の性なんだろう。
「優人……」
「風香、俺、シャワー浴びてない。汗臭いし、せめて銭湯に行ってから……」
「普通、女の子が気にするようなことを男が言ってどうするのよ」
「年頃の男の子は気にする」
「私は気にしない」
風香は妖艶な笑みを浮かべると、俺の唇を奪う。
唇の先と先が軽く触れ合うだけのキス。それだけで、脳内の理性が溶けてしまう。
「これでも、我慢してたんだから」
「なにを?」
「……一次、落ちたらシャレにならないから。こういう風なことするの、自重してたの」
「だから、最近、こっちに顔出してなかったんだ」
「そういうこと。つまり……」
「つまり?」
風香があんまりにも可愛らしく甘えてくるので、意地の悪いことをしてしまう。
俺のニヤけ顔を見ると、彼女は唇を尖らせ、か細くつぶやく。
「合格のご褒美、欲しい。もう我慢、できない。優人が欲しいの」