母親とこの街に来たのは、小学生のときだった。
手を引っ張られながら、母がなぜこんなことをするのかも疑問に思わず。
珠里村に置いてきた優人のことを心配しながら、この新天地に私は来た。
ほどなくして、母は病に伏し、亡くなり、身寄りのない私は里親に引き取られた。
あとで知るが、どうにもこの夫婦は子宝に恵まれなかったらしい。
そこで、私を引き取り、娘として育てたかったみたいだ。
私と言えば、施設暮らしを望んでいたわけでもないし、彼らも優しく迎えてくれたから、不満はなかった。
好きなものを与えてくれたし、彼らなりの愛情を注いでくれていたと思う。
「本当にいいの? 栞ちゃん」
「いいんです、私、この名前のほうが好きだから」
私が椿風香と名前を変えるときも、心配してくれた。
別に無理矢理変えなくてもいい、同じ名前でいいじゃないと諭してくれた。
それでも、私は、野々村栞という名前を捨てたい気持ちがあった。
おそらく、それは、優人に対する罪悪感だろう。
ひとり、幼い弟を村に残してきてしまったという心残り。
彼に申し訳ないことをしてしまったのではないか、そんな気持ちで、幼心に私は贖罪をしようと、野々村栞を殺した。
いつまでも一緒にいるという約束を反故してしまった罰として。
そして、新しい自分に生まれ変わるために。
椿風香としての私は満たされない日々を送っていた。
容姿や頭脳で大人には褒められ、同年代の子たちからは羨望の眼差しを送られる。
ちやほやされて、子どもだったら浮かれるようなものを、私は無価値だと思っていた。
我ながら、冷めた子供だったと思う。
適当に愛想笑いをし、周りが望む振る舞いはできた。
変に敵を作りたくなかったのもあったけど、周りに迷惑をかけたくなかったからだ。
良い子を演じて、虚無な毎日を過ごすだけ。
里親は、出来のいい私を褒め、自慢にしていた。
こんな子と出会えて、私たちは幸せだ、と何度も何度も泣きながら繰り返し微笑んでいた。
私は、彼らの言う“幸せ”が理解できなかった。
頭が良いねと褒められることも、運動が得意なんだねと羨ましいがられることも、可愛いと伝えられることも。
どれも、ぽっかりと空いた私の胸を埋めることはなかった。
彼らが賞賛する椿風香は、演じているだけの偽物だというのに。
一般的な“幸せ”というものが、空虚に思えて、なんだか、ガラクタに見える気がした。
縫い糸がほつれ、綿が出てしまった人形。
部品が抜けて音が出なくなった玩具。
幼い頃から見てきたそれらに、“幸せ”というものが該当するように思えた。
そして、周囲に褒められている私も、なんだか気持ちが悪いものに思えてきた。
ここにいるようでいない、私。
野々村栞であるのに、椿風香な私。
演じている自分にも気味悪さを覚えていた。
それでも、成長すれば、この感覚は薄れていくんだろう。
いつかきっと、優人のことも忘れてしまって、“幸せ”を理解できるときが来るのだと。
中学生になっても、私はそんなことを考えながら日々過ごしていた。
いつまでも変わらない、灰色の毎日の中で、ただ生きていた。
誰もが私に羨望の眼差しを向けていたはずだったのに。
ただ一人、椿原恵美だけは違った。