ブラックベリーフィールズ 〜やがて女の子になる君へ〜 作:孤児郎
みんなで海に遊びにきた二日目の晩、夜中に目が覚めてトイレに起きると酒盛りをして起きていた宏海と夕夜に見つかって温泉に拉致された俺。薄暗いから裸を見られることもないと安心していたけど、海水浴用に持ってきていた防水デジカメで無防備な全裸の姿を撮られてしまった!
薄暗い真夜中の露天風呂に時おりフラッシュの閃光が走る。源泉掛け流しの湯が流れる音しか聞こえない静寂の中で、デジカメのシャッター音が鋭く響く。
フラッシュが光った瞬間、最初に感じたのは恥ずかしさだった。続いて激しい怒り。そして最後に俺の心は諦観に支配された。
ああ、これで秘密がバレてしまう。そうなったら、今までどおり男子生徒として学校に通うわけにはいかなくなるだろう。心無いヤツらや興味本位に騒ぎ立てるヤツらもでてくるかもしれない。
でも、俺が最も恐れること。それは、最愛の幼なじみ……
彼女と幼い日に誓った結婚の約束。俺がもしも女になってしまったらそれを叶えることはできない。幼い子供の頃の約束だからと言って無かった事になんてできないんだ。だって俺が彼女を好きなんだから。今さら、樹里亞のいない人生なんて考えられない。
それともう一つ。俺は樹里亞に嘘がつけない。彼女に唯一嘘をつかない人間として俺は信用されているのだ。今は俺になにが起こっているのか話せるようになるまでの猶予をもらっているだけだ。その前になし崩し的にバレてしまうことは避けたかった。
もしそうなったら、樹里亞は嫌な思いをするだろう。なにも言わずにずっと彼女を騙していたのだから。だから俺は猶予を……。
ん?
猶予をもらってたんだから、俺は樹里亞を騙してたわけじゃない……のか?
なんだかいろいろあってウヤムヤになってしまっていたけど、その猶予だって手術なりホルモン治療なりをやってもっと男らしくなるために必要な時間だったハズだ。
でも、樹里亞は俺に男っぽくなってはダメだと言った。これでは猶予そのものに意味がなくなってしまう。
だとしたら、俺はすぐにでも樹里亞にすべてを話して、今後のことを一緒に考えるべきなんじゃないだろうか?
いったい今まで俺はなにを迷っていたんだろう。正直に話してしまえば彼女は俺を責めるようなことはしないハズ。俺の置かれている状況を話して、二人で答えを探せばいい。もう俺はなにも恐くなんかない!
でも……ホントにそうなのか?
樹里亞は俺を無条件に信じてくれる。俺の意見を尊重してくれる。俺のやりたいようにやらせてくれるし、万が一の時には味方になってくれる。でもソレは『俺が男』だという前提の話なんじゃないのか?
俺は男だ。なにも迷うことなんかないし、今さら考えるまでもない。
しかし、今もゆっくりと俺の体を作り替えつつある女の器官を無視することはできない。あんなものを腹に隠している俺が、樹里亞にとって男の範疇に入るのだろうか。
男の戸籍を持っているから法的には樹里亞と結婚することは可能だ。だけど俺には彼女を妊娠させられるだけの能力がない。それに、生理がきてからは見ないようにしていたけど、俺の股間のアレだって役に立つのかわからない。
こんなヤツを男と呼べるか?
幼い日に結婚を約束した俺と樹里亞だけど、俺が一方的に約束を破っているんじゃないだろうか? もう、とっくに彼女の婚約者としての資格を失ってしまっているんじゃないのか?
そう思ったら頭の中が真っ白になって、あとはもうなにも考えることができなくなってしまった。
「よーし、東條。次はセクシーポーズやってくれよ。昼間のビキニは最高だったぜ! なんの罰ゲームだか知らないけどよ!
夕夜が野卑た笑いを貼り付けまま横っ飛びに飛んで、ものすごい水しぶき……いや、温泉しぶきというべきか……を上げて湯船に沈んだ。
は? 宏海が殴ったのか?
夕夜はアホでバカで嫌なヤツだけど、なんで急に?
それにしても『女と間違えて……』……てことは、俺が女だとバレてはいないってことか!
「雪緒。出るぞ」
宏海はそう言うと一人で戻って行ってしまった。
俺は湯船に浮かんだ夕夜を助け起こして、とりあえず岩風呂の淵に寝かせた。しばらく呼びかけたりほっぺたを叩いたりしたが目を覚ます気配はない。いくらスリムな夕夜と言えど、部屋まで俺一人で運ぶのは無理だ。仕方なく宏海を追って室内の大浴場に戻った。
脱衣所を覗くが、すでにヤツの姿はない。
俺はバスタオルで体を拭くと、手早く服を着て廊下に出た。
でも、宏海の姿は見えない。
真夜中の旅館の廊下は不気味なほどに静まり返っていて、まるで間違って死者の世界に足を踏み入れてしまったみたいだ。生者である俺を異物のように排除しようとする悪意に満ちた視線が、どこからか投げつけられているような気さえしてしまう。
怖ぇー!
くる時は野郎三人で固まって歩いてきたからなにも感じなかったけど、一人になると話は別だ。
こんなことを言っていると『男らしくない』と批判するヤツもいるだろう。だが、恐怖と男らしさの間に因果関係など本当は存在しないのだ。
恐怖というものは自己保存欲求からくる非常事態に対する警告である。それを感じない者は大怪我をしたり時には命を落とすこともある。死を恐れないことは勇敢なことだけど、死に向かっていくことは蛮行でしかない。つまり俺は、生還して子孫を残すため……という実に男らしい本能に従って正当な恐怖を感じているのである。
蛇足かもしれないが、ジェットコースターや観覧車のような高速で走るもの、あるいは高く上がっていく乗り物に対して苦手意識はゼロなのだ。両手を上げて乗るのも楽しいし、観覧車ならば中で暴れてゴンドラを揺らしても恐いことなどない。
しかしながら、古い日本家屋だとか巨大な廃病院だとか、いかにも本物が出てきそうな危険な空間を、本来小さい子供が楽しめるハズの施設の中に建造するなどという危機管理意識の希薄なアミューズメントパークがいかに多いことか!
そう言えば、バブルの頃に建築されて今は廃墟と成り果てた巨大な温泉旅館の映像をテレビで観たことがあったけど、あの場所は絶対に呪われている。
話が脱線した。というか、なぜか遊園地の話になってしまっていた。
とにかく廊下は明るかった。
俺は自分に言い聞かせる。
いいか、雪緒。これから部屋に戻るまでの間に誰かとすれ違ったとしても、それが『この世のもの』だという保証はどこにもない。万が一こちらがそれに気づいてしまったら、なにをされるかわからない。絶対に後ろを振り返るな!
俺は走った。
真っ直ぐな廊下を。広い階段を。別棟に向かう渡り廊下を。
「あれ! 雪緒ちゃん! こんな夜中になにしてるの? あ、ビールなら……」
階段の途中で白っぽい和服を着た人影に遭遇した。
でも、脚を止めたら終わりだ。張り裂けそうな胸を押さえて俺は走った。振り返ってしまったら取り憑かれてしまうに違いない。
俺は目をつぶって闇雲に廊下を駆けた。
気がつくと俺たちの部屋の前だった。
これでもう大丈夫だ。そう思った瞬間、廊下の向こうからなにか恐ろしいものが近づいてくる気配を感じた。
早く中に入らなくては!
しかし、ロックされているようで押しても引いてもドアが開かない。
嘘だろぅ?!
俺は死に物狂いでドアノブをガチャガチャと回し、必死にドアを叩いた。
開けてくれ!
早く!
早く!
助けてっ!
突然ドアが開いて、目の前に白い浴衣が現れた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「悪い。オートロックなの忘れて、先に戻っちまった」
なんだ、宏海か。脅かしやがって。変な悲鳴が出ちまったじゃないか!
俺はヤツの胸に飛び込みながら後ろ手でドアを閉めた。
助かった……。
あと少し遅かったら取り憑かれていたかもしれない。
もちろんそんな非科学的なことなど、あるわけないのはわかってる。
俺は万が一のために走ってきただけなんだ。世の中なにがあるかわからない。あらゆる病気や災害、事故に備えるための保険があるように、備えることは決して恥ずかしいことではないのだ。
なぜか震えてくる体を落ち着かせるために、目の前に突っ立っている親友を有効活用しても罰は当たらないだろう。宏海にしがみついて大きく深呼吸すると、不思議と落ち着いてきた。
普段なら、まるで男の匂いを嗅ぐようなキモいことはしないのだけど、緊急事態だから仕方がない。
「もしかして、怖かったのか?」
宏海が余計なことを聞いてくるけど、男の矜恃に抵触する事柄なので無視する。ヤツのデリカシーのなさにちょっとだけ腹が立ったので、掴んでいた浴衣を力いっぱい引っ張ってやった。
「悪かったな」
そう言うと、頭の上に大きな手が置かれる感触。そして、ゆっくりと前後に動かす。
は? 今、頭を撫でられてルンデスカ?
なぜ?
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
頭上からまるで地響きのような低いため息が聞こえてきた。
体がいきなり宙に浮く。俺は宏海に持ち上げられ……いや、違う。横向きに抱きかかえられていた。
明かりがついたドアのところから廊下を通って薄暗い和室に入る。見上げる宏海の顔の向こうに、壁紙や襖が流れて行くのが見えた。
途中までゆっくりと降ろされてから、背中からドスンと着地した。背中を打って息が苦しい。どうやら敷布団の上に降ろされたようだ。
「雪緒。お前……」
俺の顔のすぐ横に手をついて、宏海が何かを言いかける。続きを待っていたけど、ヤツはそのままなにも言わずに俺の上に倒れてきた。
なに?
なんだ? どうした?
俺に覆い被さってきた宏海の体が重い。
なにふざけてんだ? コイツ。
起き上がろうと体を動かすがビクともしない。
顔がぶつかるっ……と思ってすんでのところで避けると、首筋に熱い息がかかった。
ひゃっ!
首筋にゾクリとする感覚が走り、喉の奥から変な声が漏れる。
くすぐったさと異様な感覚に全身鳥肌が立ち、俺は反射的に膝を突き上げていた。なにか硬いものが圧壊するような嫌な感触。
「くぁwせdrftgyふじこ!」
解読不能な奇声を発して宏海の体は宙に浮き上がり、次の瞬間に全体重が俺にのしかかる。
ぐぁ、重てぇ!
ヤツの体の下から出ようとともがくけど全然動かない。覆いかぶさったまま重くなっていく宏海の下で潰されながら俺はヤツと格闘する。
しばらくすると、ふっとヤツの重さがなくなった。
「なにしてるの? 雪緒」
すぐ目の前に樹里亞の顔が見える。トイレに起きてきて、悶絶している宏海と俺を見つけたようだ。
助かった……。
うつ伏せに畳の上に転がっている宏海の姿が薄明かりに照らされている。敷かれた布団の周りには、ビールの空き缶がいくつも散乱しているのが見えた。
「夜中に飲んでたみたいだな。トイレに起きたら無理やり露天風呂に付き合わされたんだよ。それから風呂場に置き去りにされて、俺が部屋に戻ってきたら酔ってのしかかってきやがった。コイツ、酔っぱらうと昔のようになるみたいなんだよ」
宏海は中学時代、すっごく嫌な奴だった。それは今の夕夜の比じゃない。いつも不機嫌な顔で、なにかというと俺を目の敵にしていた。ケンカが強くて近隣の中学校では恐いものなしだった当時の宏海を叩き潰したのは樹里亞だった。それ以来、ヤツは樹里亞に頭が上がらない。
そんな宏海も今では頼もしい味方だ。俺は勝手に親友だと思ってるけど、ヤツは俺のことをどう思っているんだろう? 酔うと人間の本性が出るって言うけど、心の中ではまだ俺のことを嫌ってるのだろうか。そう思うとなんだか少し寂しい。
それにしても……と、俺は寝転がる宏海を見下ろす。
今度からイベントでは飲酒厳禁だな。
「用が済んだのなら寝るわよ。あたし、まだ眠いんだから……」
あくびをしている樹里亞に背中を押されて女子部屋になっている洋室に戻る。
ああ、結局二晩とも女の子と一緒に寝て終わってしまうのか。
男同士で夜更かしするのを楽しみにしてたのに。普段女の子には絶対に聞かせられないような話をしたり、全力でマクラ投げしたりしたかったのに。
それにしても、今夜の宏海と夕夜はいつもよりベタベタしてた気がするな。ひょっとすると、仲が良い男同士って女の子同士みたいにベタベタするものなのかな?
俺は小さい頃から樹里亞と一緒だったから、漫画やドラマの中でしか男同士の付き合いというものを知らない。もしそうだとしたら、俺とヤツらは仲が良いってことだよな。
だったらイイな。
大事なことをいくつか忘れているような気もしていた。でも、温かい樹里亞の胸に抱きしめられてるうちに、他のことはどうでも良くなってしまった。
◇◇◇
翌朝、露天風呂で全裸で倒れている夕夜が旅館の従業員によって発見された。