ブラックベリーフィールズ 〜やがて女の子になる君へ〜 作:孤児郎
ビーチでヤバそうな男に強引にナンパされた。暴力的な言葉で脅され腕を掴まれてしまった俺だったが、どういうわけか逆らうことができない。そして気づくと見知らぬ男に助けられていた。検査のため乗せられた救急車の車内で男が自己紹介をする。彼は樹里亞の婚約者だと名乗った。
「僕は
そう言って、露澪はにこやかな表情を見せる。
でも、俺の頭の中は最初のセリフ以降、なにも入ってはこなかった。
開いたままの救急車のバックドアに寄りかかって後ろをチラっと振り向いてから、彼は話を続けた。
「アイツはもう警察に引き渡されているから大丈夫。身元もなにもまだわからない状態みたいだけど、車は県外ナンバーだったから地元の人間ではないだろう」
そんなヤツのことなんかどうでもいい!
今重要なのは目の前にいるお前! お前はいったい何者なんだ?
「念のため君はこのまま病院で精密検査を受けるけど、その後で警察の事情聴取があると思う。僕も呼ばれているから、向こうで会えるかもしれないね」
事情聴取って……そんな
ボンヤリとしていた俺の思考がゆっくりと回転を始める。
でも、警察に事情を聞かれるってことは、自分の身元を明かすということだ。男子高校生である俺が女性用のこんなエロい水着を着ている理由も話さなきゃならない。そうすると、ランさんたち『女子大生ズ』のことも、温泉の女湯で彼女たちと知り合ったことも言わなくちゃならないの?
いや、病院での精密検査も問題だ。こんな身体を医者に見られたら俺が男ではないことがわかってしまう。俺の主治医の
万が一にも樹里亞の目の前で女だと言われてしまったら、もう取り返しがつかない。自分がいくら男だと言い張っても、病院で医者を相手に性別を偽るなんてできっこない。
もし樹里亞が一緒に行かなければ、少なくとも彼女には秘密が知られずに済む……一瞬そう考えたが、コトはそんなに簡単じゃない。
事件の被害者が診断で男だと証明されたら、俺は『ビキニを着た女装男子』として扱われ、関係者である露澪を通じて樹里亞にもそう伝わるハズである。つまり、逆になんの問題もなく帰ってこれたら樹里亞は違和感を感じるだろう。彼女はそんなちょっとした事から真実に気づいてしまうほど鋭い女なのだ。
どうすればいい?
どうすれば、この危機から脱することができる?
考えるまでもない。文字通り『脱出』するしかない!
「樹里亞。俺、病院には行けない。ここで逃げる」
彼女の可愛らしい耳たぶに唇を近づけてそう囁く。すると樹里亞は俺の目を見てコクンと小さく頷いた。
俺は事件の当事者だから、いま逃げ出したとしても、後日居場所を突き止められて事情聴取を受けることになる。その時に生徒手帳を見せて、必要なら学校に電話して俺が男子生徒だと証言してもらえばいい。まぁ、下手すりゃ、お小言では済まないかもしれないけど、罪に問われることはないだろう。もしも精密検査の診断が必要だったら、俺の身体を診断した大学病院の多岐川医師に頼めばいい。
よし! これならなんとか切り抜けられそうだ。
幸い、救急隊員は無線連絡で忙しい。目の前の露澪をなんとか騙して、この救急車を脱出するんだ。そうだ! 『トイレに行きたくなった』とでも言っ……!!!!!
突然、樹里亞の真っ白な太ももが俺の目の前に突き出され、その先端……ミュールを履いた右足のつま先が露澪の顔面にめり込んでいた。
救急車のバックドアから覗き込むように立っていた彼がゆっくりと後ろに倒れる。
ちょ! そこまでしなくていいから!
これじゃ、俺たちが犯罪者じゃないか!
でも、こうなりゃもう行くしかない。
「走るぞ! 樹里亞」
俺たちは救急車を飛び出して辺りを見回す。ナンパ男の黒いワンボックスカーの辺りは警官と野次馬でいっぱいだったが、こっちは幸い誰も見ていないようだ。
俺は樹里亞の手を引いて大通りに向かって駆け出した。
「樹里亞、
るちあの声だ。振り返ると
ヤツらのことをスッカリ忘れてた。と言っても事情を説明してる暇はないし、説明できる理由もない。
「先に宿に帰ってる!」
それだけ叫んで振り返らずに走り続ける。
「雪緒、ダメよ。あの旅館は露澪兄さんがオーナーなのよ」
なんだって?
なんたるホテル産業経営者一族!
どおりで予約とか料金とか昼飯とかいろいろ便宜を図ってくれたわけだ。親が経営するホテルは嫌がるくせに、従兄弟の旅館ならいいのかよ。
……てか、そんな相手を蹴り倒すなよ。なんて無計画な女なんだ!
まぁ、病院に行きたくないってワガママ言ったのは俺だけど……。
◇◇◇
そして今、俺と樹里亞はタクシーの後部座席に並んで座ってる。
旅館に戻るわけにはいかないし、温泉街をウロウロしてたら実証実験中だという防犯システムとやらに見つかってしまうかもしれない。でも、遠くに移動しようにも、こんな恥ずかしい水着姿で電車やバスに乗るわけにもいかない。
そんなことを考えていたら、樹里亞が大通りで手を挙げた。俺たちの目の前にグリーン色のセダンが停車する。乗り込むと樹里亞は運転手にクレジットカードを見せて住所を告げた。
タクシーの運転手はルームミラー越しに俺たちを一瞥すると黙って頷いた。
伊豆から家までタクシーで帰るのかよ!
「うん、こっちは大丈夫。心配しないで。突然ゴメンね。雪緒がどうしても病院はヤダって言うから……。そおなのよぉ。子供みたいでしょぉ? うふふ」
誰が子供みたいだ! なにが『うふふ』だ!
さっきから、樹里亞は携帯で好き勝手言っている。相手はるちあだ。
病院に行かないために逃げ出したのは事実だし、樹里亞が理由も聞かずに一緒にきてくれるのもありがたいけれど……。
俺はたぶん、最高に不機嫌な顔をしているだろう。
「あたしと雪緒の荷物、宿の人に言ってウチに送ってもらって……。悪いんだけどお願いね。え? あたしが蹴った人? 刑事じゃないわよ。あたしの従兄弟。『門倉 露澪』って言うのよ。そうそう『ロミオ』よ。嘘じゃないってば。笑えるでしょぉ? 漢字よ。露店の『露』にサンズイに雨に令で『澪』。わかんないって? 自分で調べなさいよ! えーっ? イケメンかなあ? 普通じゃない? そんなこと言うから、後ろで夕夜くんが怒ってるみたいよ。え? ああ、あの人はダメよ。ううん、そういう意味じゃなくって……とにかく変わった人なの。うん。そうなのよぉ……」
いつまでも通話は終わらない。
緊急事態だというのにイケメン談義かよ。これだから女は……。
それから延々と無駄話をした後、やっと通話が終わった。
「露澪って人のことなんだけど……」
隣に座る樹里亞の横顔を見ながら、気になっていたことを口にする。
タクシーは高速道路に入ってスピードを上げていた。道に詳しくないので今どの辺りを走っているのかわからないけど、トンネルを抜けた辺りで空は雨雲に包まれて、やがて大粒の雨がフロントガラスを叩き始めた。
聞くべきかどうか一瞬だけ迷った。
彼が自分を婚約者だと紹介したのに、樹里亞はそれについて俺になにも説明しない。その必要がないということなのだろう。それが、漫画でよくある『親同士が安易に決めただけの単なる口約束』だからなのか、それともすでに確定していて覆せない事実だからなのか、それが気になる。
ふと前方に視線を移すと、ルームミラー越しに運転手と目が合った。
年齢は幾つくらいなのだろう。乗客が繰り広げる様々な人生のラッシュフィルムを眺めてきただろうその双眸が、力強く俺に頷いた。
『聞いてみろ。踏み出さなければなにも始まらない』
運転手の目はそう言っていた。その通りだと思う。
俺は意を決して口を開く。
「婚約者って、どういうこと?」
俺だって樹里亞に話していないことがある。だから彼女が秘密を持っていたとしても、それを非難する権利はない。でもその秘密が俺たち二人の将来に関わるものだとしたら、それはそのままにしてはおけない。
『説明すると長くなるんだけど』……しばらく黙った後に、そう彼女は前置きして話し始めた。
話の内容はこうだった。樹里亞の実家である門倉家は、一族でホテルグループを中核に飲食店や旅行会社を経営している。一族の本家である樹里亞の家には子供は彼女一人だけ。前時代的な言い方をするのなら『跡取り』がいなかったのだ。齢九十を超えてなおグループの会長として経営の実権を握る祖父の『門倉
彼女の家が世間の常識からちょっと離れていることはわかっていたけど、親——というか祖父だけど——が決めた許婚がいるなんて思いもしなかった。まるでドラマの中の出来事のように現実感がない。
「樹里亞の爺さんが決めた婚約者ってことは、将来あの人と結婚するってこと?」
もしもそうなら、俺は彼女に騙されていたということになる。
雨に洗われる窓ガラスを眺めながら樹里亞が否定してくれるのを願った。
「いいえ。違うわ」
……違うんだ。良かった。
やっぱり樹里亞と結婚するのは俺だ。
「露澪兄さんの他に独身の従兄弟が二十七人いるの。その中で適齢期の人だけでも十二人。今高校生の人もいるから、あたしが成人になるまでにはさらに増えるわね。その全員が婿養子の候補なのよ。露澪兄さんはその中の一人に過ぎないから、あたしがあの人と結婚するとは限らないわ」
樹里亞は前席のヘッドレスト越しにフロントガラスの向こうを見据えてそう言った。
マジデ?
だったら俺は何のために今まで……。
確かに樹里亞は俺なんかじゃ想像できないレベルのたくさんのしがらみに縛り付けられている。それを考えると、ここで自分のワガママを通して良いのだろうかとも思ってしまう。
ふと顔を上げると、ルームミラーに映った運転手とふたたび目が合った。
高速で走行するロードノイズと、エンジン音、フロントガラスを叩く雨音に掻き消されているが、彼の目はこう言っていた。
『言わずに後悔なんかするな。なにを遠慮することがある。言いたいことがあるなら言っちまえ』
そうだ。今これを言わないわけにはいかない。
はっきりと言ってやる!
「じょ……だんじゃ……」
「え?」
食いしばった歯の間から嗚咽に似たうめき声が漏れる。
「じょっ……冗談じゃないって言ってるんだ! それじゃあ今まで俺が頑張ってきたことは何になる? 樹里亞を守れるようになろうと努力してきたのは何のためだよ? うんと小さい頃、あの神社の境内のブランコに座って俺と結婚するって言ったのは嘘だったのか? それともそんな子供同士の約束なんか、大きくなったらどうでもよくなったのかよ? そりゃぁ、高校生にでもなれば、樹里亞の家の事情だって理解できるよ。世の中のすべてが自分の思い通りになるわけじゃないってことぐらいわかってるよ。でもさ、俺はずっと覚えてるんだよ。樹里亞にとっては子供の頃の懐かしい思い出なのかも知れないけど、俺にとっては今でもずっと守り続けてるリアルな約束なんだよ!」
自分がワガママを言ってるのは十分理解している。でも、これだけは言わずにいられなかった。
まるで激しい雨に洗われる窓ガラス越しの景色のように突然、樹里亞の顔が歪んで見える。人間の目にもワイパーが付いていればいいのに。
ああ、口では格好良いことを言ってても、俺はちっとも男らしくない。話を聞かせるために女の武器を使う彼氏ってどうよ?
「雪緒。あなた、あの約束を覚えていたの?」
樹里亞が驚いた声を出す。
驚かれるなんて心外だけど、ちゃんと覚えてるさ。樹里亞との約束は一度だって忘れたことはない。
「最近のあなたが女の子っぽく感じるのって……そういうことなの?」
樹里亞が不思議そうな顔で俺の目を覗き込む。
え? なにを言ってるんだ?
相変わらず、強い雨がタクシーのフロントガラスを叩き続ける。
いきなり樹里亞の腕が伸びてきて、俺の体を抱き寄せた。
樹里亞に抱きしめられた姿勢のままルームミラーに視線を移す。
しかし、そこには目尻が垂れ下がり鼻の下を伸ばしきった運転手の顔が映っていた。さっきまでは俺を勇気づけて背中を押してくれる人生の先輩だと思っていた運転手は、どこにでもいるような好色そうなオヤジだった。俺たちのことを『水着でタクシーに乗ってイチャイチャしてるレズカップル』かなにかだと勘違いしてるみたいだ。
単なるエロオヤジだったのかよ! ちゃんと前見て運転しろよ!
しかし……と、俺は考える。俺が女に近づいていってるのは、樹里亞には秘密にしている俺の身体の問題だ。彼女との約束とは関係ない。どうしてそれを今、口にするんだ?
「小さい頃……五歳くらいだったかしら。あたし、大きくなったらあなたと結婚するって宣言したのよ。あの頃、着てるものを交換してよく遊んだわ。覚えてる? あたしの白いワンピースを着たあなたはとっても可愛くて、あたし、あなたに『お嫁さんになって』って言ったのよ」
ジェンダーなんて面倒な常識にとらわれない子供たちの自由な世界。セピア色に染まった懐かしい思い出が俺の脳裏を支配する。
忘れるハズもない。あの時、樹里亞は俺の方が可愛いから俺にお嫁さんになれと言ったんだ。
そんな小さい頃から俺には女装の兆候があったのかと、胸の内で苦笑する。
「そしてあなたはこう言ったのよ。『わかった。僕はじゅりあちゃんの代わりに女の子になるよ』って……」
え? 俺、そんなこと言ったの?