ブラックベリーフィールズ 〜やがて女の子になる君へ〜 作:孤児郎
王子親衛隊の堂本 由理はプールの授業中に水泳勝負を挑んできた。俺が勝ったと思った瞬間、水着のパンツが脱げていたことが発覚。でも体育教官の菅原 鮎美によって危機を脱した。しかし放課後呼ばれた教官室で俺はふたたび性別チェックをされるハメに。
そして……樹里亞が消えた。
照明がギリギリまで落とされた展示室で、壁にくり抜かれた四角い窓だけが仄暗い光を放っている。ガラスのように透明な分厚いアクリル窓の向こうには、水よりも透き通った生物がゆっくりと拍動を繰り返しながら漂っていた。
クラゲだ。
クラゲは卵から産まれる。最初は小さな幼生だ。そいつが大きくなってクラゲになるのかと言うと、話はそんなにカンタンじゃない。卵から孵ったクラゲの幼生はしばらく海中を漂ってから岩などにくっついて自分の身体を固定する。そして、イソギンチャクのような形になって水中を漂うプランクトンを食べて成長するのだ。その姿から大人のクラゲを想像するのは難しい。しかし、クラゲの不思議な生態はさらに続く。
イソギンチャクのようになった身体は、水温の変化などによってまた大きな変身を遂げる。身体が薄い輪切り状に分割されて少しづつ剥がれていき、その一枚一枚が一匹のクラゲとして大海原に泳ぎだすのだ。
それっていったいどんな感覚なんだろう?
もちろんクラゲには脳なんてないから自我もないのだろうけど、自分の身体が小さく分割されていって、その一つ一つが別の自分になってそれぞれの人生を生きていくのだとしたら……。ある者は成功して順風満帆の人生を謳歌し、ある者は悲劇的な運命に翻弄されてその生涯を閉じる。ある者は男になり、ある者は女になる。
でも、水槽の窓から覗ける世界では、どのクラゲも気楽に漂っているだけにしか見えなかった。ぷかぷかと浮かんでなんの悩みもなく一生を終えられたら、それもまた『幸福』と定義しても良いんじゃなかろうか。
都心のビルの最上階にある水族館で一人、俺はクラゲの気持ちを想像してみる。
「それで、水族館を出てどこに行ったの?」
気がつけばそこは近所にある神社の境内。公園のように子供向けの遊具が設置された広場で、子供の頃によく遊んだ場所だった。
つま先で地面を蹴るたびに、腰掛けたブランコの鎖が錆びた音を立てる。
「駅前の映画館に行ったんだけど、面白そうな映画はやってなかった。それからカフェでフラッペを飲んで、モールでショーウインドウを見て歩いた。さすがにもう水着はなくなってて、ほとんど秋冬ものになってたよ。まだこんなに暑いのになんであんなに急いでるんだろうね。夕方になったんで帰ろうとしたら、神社が見えたから懐かしくなってブランコに乗ってみたんだ」
「ふーん」
聞かれたから答えたのに、るちあはまるで無関心な返事を返す。
「何日も学校にこないからどうしてるかと思ったけど……探してたんだぁ」
「探してた? 俺が? 何を?」
「
るちあがなにを言ってるのか一瞬わからなくなる。
だって樹里亞は今、アメリカに行ってるじゃないか。
俺が女生徒の制服で登校するようになってしばらくの後。古典の授業中に担任教師が樹里亞を呼びにきた。話を聞いた彼女の顔色が変わるのがちょっとだけ見えた。普段冷静な彼女らしくない反応。
そして俺に向かって『連絡するわ』とだけ囁くと、樹里亞はそのまま担任に連れられて教室を出て行ってしまった。
どうやら緊急事態らしいけど、呼ばれたのが樹里亞だけだから彼女の家でなにかあったのかもしれない。連絡すると言っているから、なにがあったのか後で教えてくれるだろう。俺はそう思っていた。
授業の合間、担任をつかまえて話を聞いてみると、アメリカに行っている親族になにかあったとかでスグに帰すように家から連絡があったというのだ。そんな適当な理由で早退が認められなんてさすが優等生だと感心していたんだけど、その日は放課後まで待っても樹里亞からのメールはこなかった。
学校帰りに彼女の家に寄ったら、樹里亞はすでに出掛けた後だった。
留守番の家政婦さんの話を聞いてある程度事情がわかった。家族でロサンゼルスに行ったらしい。彼女の祖父……つまり
いくら病気と言えど高校生の孫まで海外に呼びつけるなんて、どれだけワガママな爺さんなんだ! 今度会ったら文句の一つも言ってやらないと気が収まらない。
今ここで言っても仕方ないけれど……。
朝、脱いでいった男子の制服と下着を渡されて、俺は着替えることすら忘れてそのまま大人しく家に帰った。
樹里亞からすぐに連絡がくるだろう……そう思ったまま数日が過ぎてしまった。
シビレを切らした俺は、こっちから彼女にメールを送ってみた。しかし、翌日まで待っても返事はない。
ひょっとして、門倉の爺さんが危篤状態とかなのか? そう考えてみたけれど、それでもまったく連絡が取れないというのはおかしい。
心配ではあるけれど俺の貧弱なイマジネーションでは、なにが起こっているのかまるでわからなかった。
そして、夕闇迫る神社のブランコで、俺は制服姿のるちあに出会ったのだ。
「樹里亞が学校に来なくなってもう一週間かな。
彼女はそう言って俺に近づく。
「学校? ちゃんと行ってるよ」
「嘘。今日だって水族館に行ったりモールに行ってたんでしょ?」
ん? るちあはなにを言ってるんだ?
「いつも通り樹里亞の家で制服に着替えて一緒に学校に……って、あれ?」
言いながら俺は自分の服装を見直してみる。
Tシャツの胸とデニムのスキニーを履いた太ももが見えた。
ああ、そういえば樹里亞はアメリカに行ったままだ。
それじゃ俺は、いったいなにをしてたんだ?
ブランコの錆びた鎖から手を離し、じっと見つめてみる。カバンもなにも持ってないことに今さらながら気がついた。
「ちょっとぉ! 大丈夫? 心配なのはわかるけど、東條くんがそんなだったら、樹里亞が帰ってきたときびっくりしちゃうよ」
俺がそんなだったら? 『そんな』ってどんななんだ?
俺はそんなに変な状態なのか?
鏡がないから自分がどれだけ変な顔をしてるのかわからない。そう言えばここしばらく鏡を見た記憶がない。
「俺が気にしてるのはそんなことじゃないよ」
「そんなことじゃないって……じゃぁ、いったいなにを気にしてるの?」
るちあの言葉で強引に現実に戻される。
樹里亞の無事よりも、俺が気になってること?
そんなのあるわけないじゃないか!
俺にとって樹里亞は一番大切な婚約者なんだぞ。
あれ? でも、俺が言ったのか……『気にしてるのはそんなことじゃない』って。
俺はいったいなにを気にしてるんだ?
「樹里亞だって、すぐ帰ってくるんでしょ? ずっと向こうに行ってるわけじゃないんんだよね?」
るちあが確かめるように俺に問いかける。それを聞いて俺の胸にストンと落ちるものがあった。
ああ、そうか。
俺は樹里亞がもう帰ってこないんじゃないかと心配していたんだ。
将来を誓い合った彼女なのに、なにも言わずにどこかへ行ってしまうハズはない。
俺が警察署で拉致犯に再会して気を失ったとき、どうして俺みたいな男を好きになったのか泣きながら話してくれた樹里亞。従兄弟の露澪さんの前で、俺との結婚を決意した樹里亞。結婚の承諾を得るために俺を門倉の爺さんに紹介して、今度は爺さんを騙すためのシナリオまで作り上げた樹里亞。
そんな彼女が、俺を置いていなくなるなんて考えられない。
でも、もし俺が『ホントの男じゃない』ということがバレてたとしたら……。
樹里亞にとって俺はなんの価値もない存在になってしまう。
もしも俺が女になったら……以前、彼女は冗談交じりに言ったことがあった。そのときは自分が男になるって……。でも、それは不可能だ。門倉グループを継ぐ宿命を負っている彼女には、子供が産めなくなることがわかりきっている性転換なんて許されるワケがない。樹里亞は門倉の本家の一人娘なのだ。
いや、それを言ったら、俺と樹里亞の間にだって子供はできない。性別がどうとかの問題じゃない。『彼女にバレたら』なんていうレベルの話ですらない。
樹里亞の夫になる資格なんか、俺には最初からなかったんだ。
◇◇◇
翌朝、『彼女が迎えにきたよ』と母親に起こされた。
樹里亞が帰ってきたのかと一瞬思ったけれど、もちろんそんなことはあるはずもなくて、玄関に立っていたのは
樹里亞がロサンゼルスに行っても、俺は女子の制服で通学していた。制服のギンガムチェックのスカート姿で初めて自宅に帰った時、母親からなにか言われた気がするけれど俺はなにも答えなかった。
以前までは、こんな格好をしなきゃならない理由があった。でも、俺はもう樹里亞の婚約者としての条件から外れている。門倉の爺さんに
しかし、GIDではないとはいえ俺の身体は既にほぼ完全な女だ。学校側からも女子として学校生活を送るよう言われているし、二学期からは女生徒と一緒に着替えて体育の授業を受けている。
皮肉じゃないか!
樹里亞がいてもいなくてもどちらにしたって俺は女生徒になる運命だったのだ。いや、むしろ彼女がいたおかげで俺は女子としての人生にスムーズに移行できたと言ってもいい。
もしかして、樹里亞は最初からすべて知っててやったんじゃないだろうか……そんな気さえしてしまう。
「おはよう、
そう言って彼女が太陽のように微笑む。
俺を元気づけようとしてくれているのはわかる。それはとてもありがたいことなんだというのも理解できる。でも、今の俺はそれを嬉しいと感じることができなかった。
「今日、放課後なにも用事ないよね? 駅の向こうのアーケードに新しいアイスクリーム屋さんができたの知ってる? 砂糖を使ってないヘルシーなアイスなの。一緒に行こうよ」
◇◇◇
その夜、パジャマに着替えて横になろうとした時、スマホが突然鳴り出した。
画面を見ると『+』で始まる見たこともない番号が表示されている。
それがなんなのか俺は一瞬でわかった。
国際電話だ。
だとしたら、かけてきた相手はただ一人。
「もしもし」
俺は今にも叫び出したい興奮を抑えて電話に出る。
「もしもし、
スマホの向こうから愛おしい彼女の落ち着いた声が溢れてくる。
何日ぶりだろうか。あの夏の日から四十八時間と離れることなく一緒に過ごしてきた樹里亞の久しぶりに聴く澄んだ声だった。
「雪緒には悪いけれど、まだいつ頃戻れるかわからないの」
ああ、やっぱり。
やっぱり俺は樹里亞にとって不要な人間になっていたのだろう。これ以上彼女に気を遣わせるのは忍びない。彼女が気に病まないような対応をしなければならない。
「何も言わずに行っちまったのに、いつ戻れるかわかんないのかよっ!」
自然と語気が荒くなる。
俺は嫌なヤツになれただろうか。
「ワガママ言わないで。詳しく話せないけどグループの将来に関わることなの。これも重要なお仕事なのよ」
「俺と仕事とどっちが大事なんだよ!」
優しくなだめようとする樹里亞の言葉を遮って、そんな言葉が口から溢れた。急に溢れてきて止める間もなく出てしまった。
スマホの向こうからため息が一つ聞こえて、それから静かに電話は切れた。
俺は上手くできただろうか。
彼女の将来のために背中を押すことができただろうか。
でも……。
ダメな彼氏を演じたつもりだったのに、口から出た言葉は俺の本心そのものに思えてしまう。俺は樹里亞になんと言って欲しかったのだろう。もっと違うことを言っていたら、彼女は俺が望む言葉を言ってくれただろうか。
急に怒りが湧いてきて、持っていたスマホを投げつける。派手な音を立てて壁ぶつかったスマホが床に落ちた。でも、いったいなにに腹を立てたのか、自分でもわからない。
気がつくと灯りを消した部屋で一人、頬に止めどなく涙が伝っていた。