ブラックベリーフィールズ 〜やがて女の子になる君へ〜 作:孤児郎
入院している宏海を見舞いにきた俺は、自覚が足りないと怒られる。事情聴取で警察に行ったら成田という女検事に会って、俺を襲った変質者が十二年前の誘拐犯の息子だと聞かされる。そして強姦罪で起訴するために俺の戸籍を女に変えろと言い出した。
「ふざけんなっ! 正義だかなんだか知らねぇが、裁判のために性別変えろだなんて、そんな馬鹿げた話があるもんか!」
突然の怒号と同時に目の前を青い固まりが横切って、ベッドサイドの手すりに激突する。
この病室ですでに何度も繰り返されている彼の怒りのサインだ。
「お前はお前だ。自分がどうありたいのかなんて自分で決めろ。他人の都合で振り回されるんじゃねぇ!」
それに『男であることの未練』もなかった。このまま男になろうとしても、自分が憧れるような男らしい男になれるわけじゃない。そうなりたいと憧れる気持ちは、宏海や夕夜が実現してくれるだろう。ヤツらに託せると思えば素直に諦めることができる。
だから戸籍の性別なんか変更しても構わない……検事から話を聞いた時、俺はそう考えていた。
じゃあ、なにが決断を鈍らせたのか。
それは『恐怖』だ。
女生徒として生活してみれば、他の女子に受け入れられず喧嘩になるわ、祭りに行けば拉致されるわ、挙句の果てに大切な親友に大怪我を負わせる結果になった。女子の制服を着ただけで、
そんな俺が戸籍を書き換えて法的にも女になってしまったら、どんな恐ろしいことになってしまうのか想像もつかない。自分はおろか、親しい人たちまで不幸にしてしまうような醜い悪女になるかも知れない。
そんな俺が完全な女になんかなっていいハズがない。
「そんなこと、わかってるよ。俺は今でも自分のことを女だなんて思ってない。お前だってそうだろ? だいたい、俺は女装すれば女の子よりも可愛いって言われてたんだ。でも、実際に女になってみればなんの取り柄もないくだらない女に成り下がった」
さっきまでギプスの腕を振り回して激昂していた宏海が黙り込む。
身体は女になってしまったけれど、宏海にとって俺は変わらず『男友達』であるハズだ。
だから、一言……その男らしい声で俺にはっきりと言って欲しい。
『女になんかなるな』って……。
「
え?
ナニソレ。なんか話のつながりがおかしくないか? なんでナース? 俺とはもう話したくないって言うのかよ!
親友だと思っていたのに、それは俺の勝手な思い込みだったのか?
頭にきて宏海を睨みつけると、眉間に深い皺を刻み、玉のような汗がいくつも噴き出していた。
「痛いのか、宏海? 待ってろ。今呼んできてやる」
病室を飛び出して廊下を右へ。エレベーターホール前のナースステーションを目指してPタオルの床を蹴って走る。
角を曲がったところで鉢合わせした看護師の腕を掴んで慌てて叫んだ。
「助けて! 宏海が……死んじゃう!」
◇◇◇
「今度からナースコールで呼んでくれればいいからね」
紺色の制服を着た若い女性の看護師がそう言って優しく微笑む。落ち着いて見てみれば、宏海のベッドのヘッドボードにオレンジ色のボタンが付いたハンドマイクみたいな形の機器が掛けられていて、コードで壁のコネクタに繋がっていた。ナースコールだ。
看護師はベッドに横たわる宏海に覆い被さるようにして背中の下に腕を入れ、彼の上半身を起こして座らせる。
なんだ? 起きあがれるのか。容態が急変したのかと思ってビックリしたじゃないか!
そんな俺の心配をよそに、宏海は脚を降ろしてベッドに腰掛けてから看護師の介助で立ち上がった。
「あれ? 立てるの?」
俺の質問に宏海は無言で頷いて、病室の入り口に向かって歩き出す。俺は頭の上にハテナマークを飛ばしながら、彼の様子を見守っていた。
すると近くで低いバイブレータ音が聞こえてきた。看護師が持っている院内通話用のPHSだ。電話に出た看護師が短い返事を返して電話を切る。
「あなた松崎くんの彼女よね? 急変した患者さんがいて、すぐに行かなきゃならないんだけど、彼の手伝いお願いできるかな? いつもは妹さんがやってるんだけど、カンタンだから大丈夫だよね? ゴメンね」
俺にそう言うと、彼女は小走りに病室から出て行ってしまった。
宏海は『ちょっ!』とか言って、看護師を引き止めようとしたけれど、忙しい彼女の手を煩わせるまでもない。俺がバッチリ手伝ってやるぜ。
いつも真琴がやってるなら難しいことはないだろう。大船に乗ったつもりで頼ってくれればいいんだ。
彼女じゃないけどな。
しかし、宏海は病室の入り口付近で立ち止まったまま黙っている。
「どうした? 俺はなにを手伝えばいいんだ?」
「……小便したいんだ」
宏海が消え入りそうな声で答える。
看護師まで呼んで、いったいなんの手伝いをするのかと思えばそんなことか。
「俺が何年男子トイレを使ってきたと思ってるんだ? 遠慮しないで任せろよ」
宏海が立っていた先にあるのは、個室に設えられたトイレのドアだった。
俺はトイレのドアを開けて明かりのスイッチを入れると、洋式便器に向かって宏海の背中を押した。
「恥ずかしがるなよ。お前のパンツくらい降ろしてやるぜ」
そう言うと、宏海の履いているパジャマに手を掛けて、下着と一緒に膝の辺りまでズリ下げてやった。
「ちょっ! おまっ! マジか!」
宏海が変な声を出して身をよじるけれど、いちいち取り合わない。目の前にペロんと出ている男の尻はできるだけ見ないようにする。武士の情けだ。
そういえば、Tバックのビキニを履いた尻を宏海に見られて恥ずかしい思いをしたことがあった。お返しにちょっだけ見てやっても構わないよな?
そんなくだらないこと考えてると、ホントなら豪快なおしっこの音が聞こえてくるハズなのに、いつになっても水音は聞こえてこない。
「我慢しないで出せよ。宏海」
返事はない。まるでしかばねのようだ。
「おい、宏海?」
「雪緒。このままじゃできねぇんだ。下向けないし摘めねぇから狙いが定まらねぇ……」
ん? 狙い?
あんなに広い的なのに当てられないのか? 縁日の射的は得意なくせに。
俺は洋式便器を覗き込む。
どうやら、ギプスで腕が曲がらないし使える指も少ないから摘めないってことらしい。
子供の頃に『立ちション』がうまくできなくて——女だから当たり前だったんだけど——親に怒られたトラウマを思い出す。
そう言う時は……。
「宏海。便座に座ってやれば大丈夫だ」
俺が親から教わったやり方だ。
しかし、宏海は突っ立ったまま首を振って俺の提案を却下した。
「ダメだ。深く座っても先が便器の外に出ちまうんだよ」
は?
俺は初め、宏海がなにを言ってるのかわからなかった。
先が便器の外に出る? アレってそんなに長いモノなの?
自分がトイレの便座に座った時のことを思い出してみる。奥まで深く座ると膝の裏側近くまで便座に乗る感じになる。と言うことは、宏海のアレって膝近くまであるってこと?
スキー合宿の風呂場でのことを思い出す。クラスメイトの一人が宏海に言った『お前のは規格外』ってセリフだ。あれはつまりアレのサイズが平均より長い(大きい?)ってことだよな。
そうだ。あの時見ることができなかった宏海のアレの大きさを今日こそチェックしてやろう。
「大丈夫だ、宏海。俺が掴んでてやるから遠慮しないで出しちまえよ」
ドス黒い微笑みを浮かべて宏海の太ももに手を当てる。中腰になって、その手を一気に前に回した。
「つーかまーえー……あれっ?」
俺は戸惑ってしまった。
宏海の規格外サイズのアレ。手を前に回せば触れる位置にぶら下がっているハズの彼のモノがどういうわけか想定していた場所には存在せず、俺の指先が彼の引き締まった太ももに沿って右往左往した。
おかしい! 宏海のアレがない!
指を開いて手を動かしても、太ももの表面以外に触れるものはない。
まさか、宏海までもが女になったのか?
なんてな。
どうせ、大事なアレが俺なんかに触られると思って小さくなってるんだろ?
もっと上まで手を動かせば、萎縮してしまったモノに触れるハズだ。
「雪緒。勘弁してくれ! 頼むからナース呼んでくれぇ!」
宏海が悲痛な声で叫ぶ。
遠慮は美徳なのかも知れないが、俺たちの友情にそんな杓子行儀なものは不要だぞ。
彼を無視して股間に向かって手を滑らせる。
「ちょっと! 何してるの?!」
いきなり背後から怒鳴り声が聞こえてきた。宏海の妹『真琴』だ。
俺は宏海の尻に後ろからタックルするように抱きついたまま、首だけで振り返って真琴を見る。彼女は今日も学校帰りなのか制服を着てカバンを抱えていた。
「なにって、トイレの手伝いだよ。真琴もよくやるんだろ?」
「やんないわよっ!」
そう叫んで彼女は俺を兄から引き剥がした。
◇◇◇
その後、戻ってきた看護師に介助してもらって小便を済ませた宏海は、スッキリした顔で無事にトイレから生還した。
後から話を聞いてみると、真琴が手伝った時は手で摘んで介助していたわけではないらしい。考えてみれば、女子中学生の妹にアレを触らせる兄貴なんて普通じゃないんだけど、やってる最中はそこまで頭が回らなかった。
では、どうやって小便の狙いを定めていたのかと言えば、その辺にあるもので適当に持ち上げてやっていたそうだ。たとえば『靴ベラ』とか『見舞いの花の茎部分』だとか……。
靴ベラなんてなんだかSMチックに聞こえるし、花の茎で……って完全にフェティッシュな世界じゃないか! もしかして、トゲのあるバラの茎で兄貴のアレを扱うのか? どんな兄妹だよ!
見舞いの帰り際、病院の一階ロビーで俺は真琴に呼び止められた。
「アンタ、言葉遣いが男子みたい。もっと女の子らしくしなさいよ」
ロビーに設けられたカフェのテーブルで、透明プラスチックのカップに注がれたアイスコーヒーを一口飲んでから真琴が言う。
男子みたい?
彼女がなにを言ってるのかわからず、目の前の冷たいチョコレートのフラペチーノをストローでかき混ぜながら考える。
そうか。真琴は男子だった頃の俺を知らないのか。
俺に『女の子らしく』 なんて言うのは、スクールカウンセラーの
彼女だって俺の事情なんか知らずに『女は女らしく』なんていう手垢がついた価値観でアドバイスをしているのだろう。
「大きなお世話だよ。俺は昔からこうなんだ。お前につべこべ言われる筋合いはねぇよ」
「筋合いとかどーでもいーの! アンタのためじゃなくて、ヒロのために言ってるのよ」
うん?
俺が女らしくすることが宏海のためだって? どういう意味だ。ソレ?
「だって、ヒロの彼女でしょ?」
「誰が?」
俺の質問に真琴が無表情で指を差す……俺に向かって。
どうしてこう、どいつもこいつも俺を宏海の彼女だとか、彼のことが好きだとか勘違いしてやがるんだ?
「彼女じゃねぇし!」
「嘘ぉ! だってヒロは昔からアンタの話ばっかりしてるわよ」
真琴が疑いの目で俺をジトーっと見つめる。
「俺の話ばかりするのは当然だろう。俺たちは親友なんだから……」
そこまで言ってから、俺は真琴の話の小さな違和感に気がついた。
「ちょっと待てよ。宏海が俺の話をし始めたのっていつからだ?」
「んー? そんなのいちいち覚えてないわ。昔だもん。あたしが小学生の頃から聞いてるわよ」
真琴とはつい最近会ったばかりだから、見た目で俺を女だと判断するのは当たり前だと思ってた。でも、宏海が俺の話をし始めたのはまだ男子学生の頃みたいだ。だったら俺のことを女だと思うのは変じゃないか?
あるいは宏海の話と俺の見た目の違和感に気がつくんじゃないか?
「宏海の話を聞いて俺を女だと思ってたのか?」
そう聞くと、真琴は一瞬不思議なものを見るような視線を俺に投げてから、両手のひらを天井に向けたポーズで答える。
「そんなの当たり前でしょー! ヒロがあたしを怒るときに、いつもアンタを引き合いに出すのよ。雪緒の方がずっと女らしいぞ。雪緒の方が可愛いぞって……。ヒロがそこまでこだわってる雪緒って女がどんだけ素敵な人なのか、いつか採点してやろうと思ってたのよ。でも、実物に会ったらこぉーんなガサツな
真琴の話は途中から俺の頭を素通りして、まるで夢の中の会話のように輪郭がぼやけて意味が曖昧になっていく。
俺が女らしいって宏海が言ってたのか?
男子の制服を着ている中学生の時から。俺が自分のホントの性別を知るずっと前から、俺のことをそんな風に見てたのか?
それは宏海が妹を戒めるために言っただけかも知れない。でも、俺が男っぽくなろうと必死になって努力してきた姿は彼の目にはまったく映っていなかったことになる。
宏海の中には『男の俺』なんて最初からどこにも存在してなかったってことじゃないか!
真琴と別れて病院を出た。
太陽が傾いて真っ赤な西日が眩しかった。どこをどう歩いたのかわからないけれど、気がつくと駅の階段を上っている途中で、手に持っていたチョコレートのフラペチーノは完全に溶けてしまっていた。
俺はもう要らなくなったカップをゴミ箱に投げ捨てて、スマホの一番新しい登録アドレスに電話を掛けた。
自分の戸籍を『女』に変更するために。