ブラックベリーフィールズ 〜やがて女の子になる君へ〜 作:孤児郎
夕夜おすすめの超豪華ラブホで入室を断られた俺と樹里亞と宏海の三人は別のホテルを探してタクシーに乗る。途中、樹里亞が仕事の電話で呼び出されて別行動に。ついに俺は宏海と二人でラブホに入るのか? お互いの気持ちを確認してイザこれからというときにタクシーが突然何かに激突した。
『夢』を見ていた。
世界が真っ赤に染まる夕暮れ時。俺――『
逃すまいとするように両手でブランコのチェーンを掴み、じっと俺の瞳を見つめるその顔には幼いながらも彼の面影があった。
それは大切な俺の親友『
「お前は俺の妻になるんだ。いいな?」
妙に真面目な顔でそう囁く。
宏海の頬が赤く染まっているのは夕日のせいだろうか。
彼は強くカッコ良く、そして優しい。命をかけて守ってくれた、俺だけの
俺は彼のことが大好き……なのは間違いないんだけど、あるぇ? 幼い頃に結婚の約束をしたのは彼じゃなくて
その違和感に気がつくと、憧憬の中の神社は茜色からセピアに変化して魔法が解けていくようにゆっくりと薄れていった。
◇◇◇
埃っぽい匂い。それにわずかにカビ臭い。
おまけに妙に蒸し暑い。
さっきまで涼しかったから余計にそう感じる。
涼しかった……そう、エアコンの効いたタクシーに乗っていて……そう言えばタクシーはどうなったんだろう。ぶつかったのか? それに……そうだ、宏海は! 彼は無事なの?
ゆっくりまぶたを開くと、そこは薄暗い場所だった。
なにかの倉庫なのだろうか。天井や壁の所々にある裂け目から陽の光が差し込んできて、積まれた段ボール箱や用途の分からない機械のようなものが遠くに見える。かなり広い場所みたいだ。
見上げる天井にも大きな機械が取り付けられていて長いチェーンやワイヤーがぶら下がっていた。
足元に視線を向けると、埃だらけのコンクリートの床に倒れているのは……宏海だ! 一見すると大きなケガはなさそうだけど、ギプスで固定された両腕を投げ出したままピクリとも動かない。
宏海。無事……だよな?
イヤな予感に突き動かされて彼の元に駆け寄ろうとしたけど、なぜか金縛りに遭ったように体が動かない。
そこで初めて自分の状態を意識する。俺は錆びたパイプ椅子に座らされて、背もたれの後ろで両手を拘束されていた。ただ縛ってあるだけじゃなく、どこかに結び付けられているみたいで手首はまったく動かせない。足を動かしてみたが、どうやら両足首もパイプ椅子の脚にそれぞれ縛られているようだった。
なんだ、コレ? どうしてこんなことになってるんだ?
そう言えば以前にもこうして椅子に縛りつけられたことがあった。樹里亞の生徒会長立候補を妨害するために、脅迫の材料として俺が拉致監禁されたのだ。あの時も宏海が助けに来てくれて……でも結局役に立たなくて、最後は樹里亞が解決したんだっけ。
イヤ、そんなことよりも今は彼のことが心配だ。
呼びかけようと口を開いて初めて気がついた。俺の口に何か押し込まれて、布切れで縛られている。いわゆる『猿ぐつわ』というヤツだ。
叫び声はくぐもった音になって、しんとした広い室内に小さく響いた。
「おっと。新婦のお目覚めだな」
突然、暗がりから声がした。
その刹那、俺の身体が雷に打たれたように硬直する。背中を悪寒が駆け上り身体が激しく震えだす。全身から一斉に汗が噴き出した。視界が急激に回転して、吐き気が喉の奥から込み上げてくる。
苦しい。
でもどうしてそうなったのか。それは、聞き覚えがあったからだ……その声に。
倉庫の暗がりに無造作に置かれた、くたびれてボロボロのソファーにソイツは座っていた。所々革が破れて変色したスポンジがむき出しの背もたれに両腕を預け、脚を組んでふんぞり返っている。
どうして……『お前』がここにいる?
俺に乱暴して、宏海や
猛烈な吐き気と、まるでドラム缶をメチャクチャに叩くような頭痛に苛まれながら、俺は目を細めてヤツを睨み返す。白いワイシャツに紺色のズボン。見覚えがあると思ったらこれは運転手の制服だ。俺たちが乗ったタクシーはコイツが運転してたのか!
「拘置所ってのは案外不便なところでなぁ、ネットもないし電話もメールもできねぇ。でも、
郷島が得意そうに種明かしを始める。しかし猿ぐつわをされた俺は睨み返すことしかできない。
「俺がここにいるのがそんなに不思議か。そうだろう? ちょいと奥の手を使ってな。でも、空港のゲートは監視カメラがいっぱいでなぁ。仕方ねぇから電車と船を乗り継いで、なんだかんだで今朝までかかっちまったよ。せっかく苦労してきたっていうのに、俺の花嫁は男をたぶらかしてホテルにシケ込む真っ最中じゃねぇか。俺の目の前でこれ見よがしにイチャつきやがって。ハンドル切り損ねて事故っちまったぜ」
そう言って郷島は笑った。
またもコイツのせいで宏海が……そう思うと猿ぐつわの隙間から激しい怒りが唸り声になって漏れていく。
俺たちを拉致するためにタクシーをワザとぶつけて事故を起こしたというのか……自分だって大怪我するかもしれないのに……いや、場合によっては死ぬ可能性だってあるのに。
やっぱりコイツは狂ってる。
今年の夏、祭りの夜の事件を思い出す。
あの時、宏海と口喧嘩した俺は、ムシャクシャして一人で神社の参道を走ってた。そこで、複数の男たちに拉致されて襲われそうになったんだ。やっと助けがきたと思ったらそれは以前から俺を狙っていたストーカー野郎で、俺を酷い目に遭わせて、宏海や夕夜に大怪我を負わせた。
それだけじゃない。コイツを確実に起訴して有罪に持ち込むためだと検事に言われて、俺は戸籍上の性別を『女』に変更させられたのだ。
裁判っていう手続きがどんなものなのかよくわからないけれど、こんなに早く出てこれるなんてあり得るのか?
しかし、どんな魔法を使ったのか知らないけど、目の前でふんぞり返っている男は間違いなくアイツ――郷島 翔だ。
「お前は俺のモンだって言ったよなぁ。あれだけカラダに刻みつけてやったってのに、もう忘れちまったのか?」
決して怒るわけでもなく、低い声音で無感情に言葉を続ける郷島。
あの夏祭りの夜にコイツに陵辱された記憶がまぶたの裏にフラッシュバックする。
蒸し暑い夜。締め切ったワンボックスカーの車内。ガラスの割れる音。叫び声。
俺はこんなヤツ、恐くなんかない!
こんな最低野郎なんざ、俺の鉄拳制裁で黙らせてやる。
喋れない代わりに心の中で叫ぶ。
でも……身体は意思を裏切るように震え続けて、今にも喉の奥から悲鳴を絞り出しそうになっている。
戦わなくちゃ……抵抗しなくちゃいけないのに、耳元では大音量のノイズが響き、まぶたの裏では真っ白な閃光が点滅して俺の頭から正常な判断力を奪い去っていく。あり得ないほどの危機感に心臓がオーバーレブしてめまいがする。
悲しいわけでもないのに両目からはとめどなく涙が溢れ、ベクトルを失った思考が頭の中を無軌道に飛び回る。
コワイっ!
一瞬でもそう思ってしまったら、全身真っ黒な恐怖に飲み込まれて、自分の感情がコントロールできなくなる。
目の前の男は危険だ。コイツはまた、俺に乱暴するつもりなんだ。
誰か、助けて!
宏海はまだ目を覚まさない。衝突したタクシーの中でシェイクされたみたいに振り回されたのだ。窮屈だと言って嫌がったシートベルト……ちゃんと締めていればこんなことにはならなかったのに。
拘置所はなにやってたんだ? 俺の戸籍を変えさせてまでコイツを起訴したがっていた女検事はどうした? 調書をとるために根掘り葉掘り嫌な質問をぶつけてきた刑事は? 診察台に両脚を固定して、冷たい器具を事務的に押し込んだ女医は? 念のためにと言われて、どうでもいい話を長い時間喋らせた眼鏡のカウンセラーは? 樹里亞の従兄弟の路澪(ろみお)さんはどこでなにしてる?
そして、この非常時に婚約者の樹里亞はどこに行ってるんだ?
心が無差別な怒りの感情に支配される。
でも、今一番許せないのは、目の前で無様に寝転がってる男子生徒だ。
俺を守るって言ったくせに……。
俺のことを女として好きだって言ったくせに。
キスしたくせに。
裸を見たくせに。
胸に触ったくせに。
それに……今日はその先までするつもりだったくせに。
るちあや樹里亞に焚きつけられてはいたけど、それでも俺だって期待してたのに……。
それなのに、どうしてお前はそんなところで倒れてんだよ。
頬にふたたび涙が流れる。
今度は悲しみの涙だ。自分でもビックリするくらい目まぐるしく変化する感情に、思考がまるで追いついてくれない。
俺は今から郷島に『奪われる』のだ。
それは恐怖であり、嫌悪であり、そして……屈辱だ。
楽しみにしていた修学旅行にきて、どうしてこんな目に遭わなければならないんだ?
いったいなにが悪かった?
婚約者がいる身で、他の相手とエッチしようとしたから罰が当たったのだろうか?
それとも、男として育ったのに男を好きになったのがいけなかった?
やっぱり、俺が全部悪いのか……。
俺が女になったばかりに樹里亞だけじゃなくて、るちあや夕夜にも迷惑をかけることになった。それに宏海だって身体中骨折して、まるでサイボーグみたいな格好になってしまった。
大怪我した宏海……。ギプスとコルセットでぐるぐる巻きにされて、自分一人で寝返りも打てない状態だった。
それが今、埃だらけの床に倒れて……そして、背を丸めて苦しそうに咳き込んだ。
ゆっくりと持ち上げられた彼の頭がコンクリートの床にぶつかる。
郷島が黙ったまま黒革のブーツのカカトで宏海の頭を踏みつけていた。
俺の思考が現実に引き戻される。
そう。悪いのは俺でも宏海でもない。ましてや他の誰でも……。
本当に悪いのは間違いなくコイツだ。
喉の奥から絞り出せるだけの大声でヤツを罵る。猿ぐつわのせいで俺の叫びはすべて意味のない呻き声になってしまうけれど、そんなことは構わない。今、目の前にいるこのクソ野郎に俺の怒りをぶつけられれば後のことはどうでもいい。
ひとしきり叫ぶと疲れてしまった。喉が焼けるように痛い。
「やっと自分の立場が理解できたか。まったく困った女だ」
宏海を踏みつけたまま、郷島が両手を伸ばして口に巻かれた枷を外した。
「うるせぇ! このストーカー野郎っ! なにが女だ、なにが立場だ。宏海を踏むな! その汚ねぇ足を今すぐどけろ! 俺はお前のモノじゃねぇ! 俺たちに付きまと……っ!」
すべて吐き出す前に、デカイ手のひらで鼻と口を塞がれた。一瞬、息ができなくなる。
「オイオイ。なんて下品な喋り方をするんだ。
郷島の話があまりに衝撃的で、全身から嘘のように力が抜けていく。
コイツは知ってるんだ……誘拐事件があったあの日の、俺が忘れてしまった俺のことを。
「まさか、覚えてないのか? あの時、お前は俺と結婚するって言ったんだよ」
ヤツの言葉に俺の大切な思い出が煙のように揺らいでいく。
夕暮れの神社のブランコで樹里亞と交わしたハズの結婚の約束が現実のことだったのかどうか、もう確信が持てなくなってしまった。
認めたくないのに、郷島が言ってることがどういうワケか嘘だと否定できない。
俺はいったい誰と結婚の約束をしたのか。
でも……小さな違和感に俺は冷静さを取り戻す。
「十年前なんて俺は小学生だ! そんな子供と結婚の約束をするなんておかしいじゃないか!」
郷島が手を離した途端、俺の口が罵声を吐き出す。
「どうやらホントに忘れちまったみたいだなぁ……あぁ、おかしいさ。でも仕方ないだろう。お前は突然いなくなっちまったんだ。どこかに行ったって意味じゃない。消えたんだ。事件のあと、なんとか探し当てた門倉家の娘は見たこともないガキだった。俺はすべてを捨ててお前を手に入れたハズなのに、お前は霧のように消えちまった。いくら探しても見つからない。こんなヤツに執着しない方がおかしいだろ?」
そう言って郷島は茶色のボロ布のようなものを取り出して俺の目の前に広げて見せた。
「これがなんだかわかるか? 門倉の屋敷のゴミ袋から見つけたんだ。ハサミで切り裂かれていたのを俺が縫い合わせた。血が乾いてこんな色になっちまったが、あの日、お前が着てた白いサマードレスだよ」