ブラックベリーフィールズ 〜やがて女の子になる君へ〜 作:孤児郎
金属のドアが荒々しく閉まる音で目が覚めた。
廊下の先で男の人の怒鳴り声が聞こえる。
目を覚ますとオレンジ色の小さな常夜灯に照らされた和室に、あたしは一人で寝かされていた。
廊下をドタドタと早足で歩く音がする。部屋の引き戸が勢いよく開くと、いきなり照明が点けられた。眩しさに両手で目を覆う。
「起きろっ。クソガキ! お前、いったい誰なんだっ?!」
部屋に飛び込んできた男の人が早口にがなり立てる。
それが昼間の優しそうなおじさんだとしばらく気づかなかった。それほどおじさんは激昂していた。出かける前はあんなに優しかったのに……。
恐怖に取り憑かれて何も言えないまま、サマードレスの襟首を掴まれ、強引に引きずり回された挙句に突き飛ばされた。
脊中を思い切りぶつけて一瞬息ができなくなる。畳敷きの部屋で布団が敷いてあったためにダメージは少なかったものの、生まれて初めて受ける圧倒的な暴力に全身が硬直してしまって、逃げるどころか声を上げることもできない。
「
今度はあたしの髪を掴んで無理やり立たせようとする。髪の毛が引き抜かれそうな痛みに悲鳴をあげた。
「痛い痛い痛い。
◇◇◇
「目の前で女の子が助けを求めてたら、それに応えるのが男ってもんだろう? たとえ敵が実の親父だろうともなぁ」
そう言って翔くん――現在の『
痛みと恐怖に耐えられず、彼に助けを求めたシーンが昨日のことのように鮮明に蘇る。
「俺の親父は真面目なことだけが取り柄でなぁ。酒は飲まねぇ、ギャンブルはやらねぇ。おまけに浮気もしたことがねぇっていう堅物だった。でも、失業してから人が変わっちまった。酒浸りになって昼間から酔っ払って、俺もお袋も毎日のように殴られる。耐えられなくなったお袋は、ある日近所のスーパーに買い物に出かけたままそれっきり帰ってこなかった。リストラで家庭がバラバラに壊れちまったんだ。だからって、俺は親父の誘拐を正当化しようなんて思っちゃいないぜ。誘拐してなにをしたかったのか、復讐したかったのか、それとも単純に金が欲しかったのか今となっちゃあわからねぇが、小さい子供を人質にするなんざ俺に言わせりゃ卑怯者のやることだ。おまけに、さらう相手を間違えて小さい子供に八つ当たりだなんて救えねぇほどの大馬鹿野朗だぜ」
郷島が顔を歪めてニヤリと笑う。
「誘拐が失敗して、親父は絶望と罪悪感から自殺した……表向きはそういうことになってるが本当は違う。悲鳴を聞いて俺が部屋に飛び込んだ時、アイツはお前の細い首を絞めてたんだ。夢中で親父に飛びかかって止めようとしたが殴り飛ばされた。このままじゃお前が殺されると思って、キッチンにあった包丁を掴んで夢中で親父の首に突き刺した」
郷島の独白が続く。
あまりの衝撃に言葉を発することができない。郷島の話に……じゃない。彼の父親が絶命する瞬間をこの目で見ていた……それを思い出したからだ。
包丁が引き抜かれた首から生暖かい血がシャワーのように噴き出して顔や腕に降り注ぐ。
父親は鮮血を撒き散らしながらも翔に掴み掛かり、しばらく揉み合ったあと力なく布団の上に倒れ込んだ。噴き出し続ける血は布団に吸い込まれてもまだ余り、大きな血溜まりとなって着ていたサマードレスを赤黒く染めてしまった。
あまりにもあっけない最期。
当時の俺は幼すぎて、事件の重大さ……恐ろしさが理解できていなかったのかもしれない。
包丁を投げ捨てて部屋の隅で震えている翔に駆け寄って、彼の頭を抱きしめながら囁いた。
『ありがとう。翔くんが助けてくれたんだね』
大量に出血すると命に関わるなんて知識はなかったと思う。いや、それ以前に『死』というものを正確に把握していたかどうかもわからない。
むせ返るほどの血の匂いに包まれながら、倒れて動かなくなった男を見てまるで悪の組織の怪人みたいだと思った。そして、翔は主人公のピンチに駆けつけて助けてくれる謎の王子様。複雑な運命に翻弄されてラストで二人は結ばれるのだ。
『あたし……大きくなったら翔くんのお嫁さんになる』
返り血が目に入って、世界は薄赤く見えていた。俺の記憶に残っている樹里亞と結婚の約束を交わした真っ赤な夕焼けの景色は、ひょっとしたらこの血のせいなのかもしれない。
翔が言ったことは事実だった。幼い俺は自分から彼の嫁になると言ったのだ。
「どのくらい時間が経ったのか、気がついたらお前はいなくなってた。それからしばらくして警官がきて俺は保護された」
郷島が話し続ける。
頭を抱きしめていた翔は、いつの間にか眠ってしまってた。
俺は急に我に返って、真っ赤に濡れたドレスを見て大変だと思った。返さなければならないのに、こんなに汚してしまったからだ。
洗おうとも思ったがやり方がわからない。それに、外はもう暗くなっていた。
とにかく家に帰らないと、お父さんとお母さんが心配する……子供心にそう思って、俺は翔の家を出たのだ。
「警察で話したよ。親父が女の子を誘拐してきたこと。でもそれが人違いだったこと。怒った親父を止めようとして俺が包丁で刺したこと……ぜんぶ正直に話したんだぜ。だけど俺は一切罪に問われなかった。それどころか、親戚中から犯罪者の息子として疎まれた俺に、生活費と学費のすべて、それに卒業後の就職先までも用意されていた……事件の詳細を口外しないという条件付きでな」
彼が自嘲する。
孫娘と間違えて誘拐された俺を見殺しにしたという門倉のじいさんの告白を思い出す。その事実を隠すために、翔の口をも封じようとしたのか。
「俺は喜んだよ。どういう事情か知らねぇが、お陰でこの先食いっぱぐれることはねぇ。あのウザい親父もいなくなった。こんなチャンスは二度とないと思ってとにかく勉強した。親父みたいな人生はゴメンだったからな。そして徹底的に体を鍛えたよ。柔道やって空手をやって、調子に乗ってマーシャルアーツも学んだ。贅沢さえしなければ何不自由ない生活ができた。女だって取っ替え引っ替えヤリたい放題だったぜ」
過去を懐かしむように遠い目をして翔が微笑む。でも、次の瞬間にそれが苦悶の表情に変わった。
「だがなぁ……どんなにいい女を抱いても満足できなかった。なんだかワケがわからなかったよ。でも、気がつけばいつもお前のことを考えてた。子供の頃に会ったきりの五歳のガキを忘れられなかったんだ。おかしいだろう? 俺は自分が変な病気になっちまったのかとマジで心配したよ。それからだ。本気でお前を探し始めたのは。でも、いくら探しても見つからねぇ。まるでそんな娘は最初からどこにもいなかったみたいに……。だから、伊豆の海岸でお前を見つけた時は驚いたぜ。運命なんてのはあるもんだと思ったよ」
名前も知らない俺を『女の子』だと思って探していたのだ。まさか『男の子』として育てられ、男子生徒として学校に通っていたとは思わなかっただろう。
それほど俺の個人情報は完璧に隠蔽されていたのだ。
「警察でお前が本当は男なんだと聞かされた時、悪い冗談だと思ったぜ。俺が十年以上も恋い焦がれていたのはオカマだったのか……ってなぁ。でも、男として学校に通ってるとわかれば、お前を見つけるのは簡単だった。お前が本物の『門倉 樹里亞』の同級生だと知ったときはウケたぜ。そして、祭りの夜にガキどもに襲われてるお前を見つけて、俺が再び助けたってわけだ」
郷島はドヤ顔でそう言い切った。
でも、それは違う。
「なにが『助けた』だ。俺を襲ったのはお前だろうが!」
「仕方ねぇだろう。可愛い浴衣を着てガキどもに襲われてたんだぜ。助けた時はもう素っ裸に剥かれてやがって……それに、男だと聞かされてたんだから確認したくもなるだろう……女だったけどな。あんな調子じゃぁ、この先誰に犯されるかわかりゃあしねぇ。現に今日だってコイツとヤルつもりだったんだろう? ……ったく、俺の女にチョッカイ出しやがって」
そう言うと、ヤツは宏海の頭をブーツの底で蹴りつけた。
小さなうめき声がする。
「やめろぉっ!」
目の前の光景に瞬間的に脳みそが沸騰して、郷島に飛びかかろうとする。でも、拘束されているために身体を揺することしかできない。
ヤツは宏海の頭を何度も踏みつけてから俺の目を覗き込む。
「そんなにやめて欲しいか?」
翔がゆっくりと近づいてきて、パイプ椅子に縛り付けていた俺の手首のロープをほどく。きつく締め付けられていた手首には赤黒い痕が残っていて、解かれてもまだなにかに縛られたままのようだ。
意図が読めない翔の行動にじっと動かないでいると、今度はしゃがみ込んで足元の拘束を解き始めた。今なら反撃できる……そう思ったけれど、俺の体は動かなかった。
「コイツを助けて欲しいのなら今ここで俺に抱かれろ。あの祭りの夜の続きをやるんだ。お前は俺のものだって、体で証明してみせろよ」
郷島の声が冷たく響く。
冗談じゃない。そう何度もやらせるもんか!
俺が動かずにいると、ヤツのブーツがなんども蹴り降ろされた。
宏海が苦痛に呻く。
「やめろ! わかったから、やめて……」
こんなヤツの指示――それも屈辱的な命令に従う気なんかさらさらない。でも、とりあえず今はフリでもいいから言うことをきくしかないだろう。
仕方なく黙って椅子から立ち上がる。
無意識にスマホを入れていた尻ポケットに手を当てた。以前みたいに樹里亞がスマホのGPSで俺の居場所を探してくれれば……。
「悪いが携帯は途中で捨ててきたぜ。最近のヤツは電源が切れた場所を記録したりできて便利だからなぁ。まぁ、必要なら俺が新しいのを買ってやるよ」
まるで俺の考えを読んだように郷島が楽しそうに言う。
スマホが使えないとしたら、すぐに助けがくると思わない方がいいかもしれない。絶望感にめまいがして足元がフラつく。
こうなってしまったら、俺に残された方法は一つ。郷島の要求に大人しく従うだけだ。救助がいつになるのかわからない以上、隙をついてヤツに殴りかかったところで時間稼ぎにもならない。俺は間違いなくヤツに押さえつけられて、ひどい乱暴を受けるだろう。
いや、もしかしたら報復の矛先が宏海に向くかもしれない。下手をすると殺されるかもしれないのだ。安易な行動をとるわけにはいかない。
胸の前で両腕をクロスしてキャミソールの裾を掴む。そのまま頭上に引き上げて脱ぎ捨てた。
続いてショートパンツのボタンを外す。前の部分がファスナーじゃなくボタンになっているタイプだ。震える指に力を込めてボタンを外す。
ショートパンツを足元に落とすと、身につけてるものはコンバースのハイカットと下着だけ。この日のためにるちあと一緒に買いに行ったピンクレースの3/4カップブラのセットだ。
ああ、これを知ったら、るちあが悲しむだろうなぁ。そんなことをボンヤリと考える。
俺が大人しく服を脱いだのを見て、郷島が宏海の頭からブーツを退ける。そしてゆっくりとソファーに腰を下ろした。顔にはニヤついた表情。
嫌悪感を抑えて俺は毅然とした表情を作る。
宏海を助けるには……こうするしかない。
床に倒れている宏海の方に視線を向けないように気をつけて、郷島が座るソファーにゆっくり近づく。
幼い頃の俺を助けてくれた命の恩人でもある郷島が、宏海たちに大怪我を負わせて今も俺たちを苦しめている。
俺の心の中で翔に対する感情がぐるぐると渦を巻いて複雑に混ざり合っていた。怒りと嫌悪、それに恐怖。
心がぐちゃぐちゃで整理がつかないけれど、それでも今はやらなきゃならないことがある。
膝をついて郷島の腰にまたがる。
自然に身体が動いて、翔の頭に胸を押し当てて両腕で抱きしめた。
まるであの日、助けてくれた彼にそうしたように。
「なんだ? 俺に同情でもしてるつもりか?」
両手を掴まれて強引に引き剥がされる。
「大丈夫。俺は……あたしは翔くんの味方だよ」
「ふざけるなっ!」
突然激昂した彼に突き飛ばされる。
冷たいコンクリートの床に尻餅をついて、頭をパイプ椅子にぶつけた。思わず床についた手に鋭い痛みを感じる。床にガラスの破片が散らばっていて、手のひらを浅く切っていた。