チセは内心慌てた、それが顔に出なかったのも、言葉にならなかったのも驚きすぎたせいかもしれない。
ヨセフと首のない男は突然、部屋に入ってきた、だが、それは家の主であるエリアスにとって侵入にも似た行為だったのだろう。
エリアスは黙ったままだ、そして二人も、だが、その沈黙は突然破られた。
いきなりだ、閉じていた窓が開いたのだ、そして一匹の黒い猫が姿を現した。
「なんだい」
だが、猫はエリアスの言葉には答えなかった。
「この場から逃げても無理ですよ、今、あなたを見つけました、そして我々の眷属はあなたの姿を二度と見失う事はありません」
その言葉にエリアスの視線が、ヨセフと首のない男が、視線を動かした。
床の上の黒い影を。
「あなたは死んでいるのです、関わるのは、おやめなささい」
「ワ、私ノ、コト、を、そんな風ニ」
猫は黒い影を見下ろした。
「彼女に手を出すなら、あなたの手の届かない場所に連れて行きます」
「馬鹿、ナ、事を」
一呼吸置いて猫は言った。
「あなたは、もう、スレイ・ベガではないのです」
この言葉にチセは驚いた、一瞬、自分の事かと思ったが猫の視線は自分ではないものに向けられていた、明らかに先ほど部屋に入って来た、あの黒いものに向かってだ。
悲鳴のような、怒りの叫びが響いた。
「邪魔、ヲ、私の、ジャマ、を」
たどだとしい、きれぎれの声が、言葉が、はっきりと聞こえた、男の声だ、怒りが爆発したような、そんな感じだ。
「彼女を連れて行くなら、我らの王は許しはしません」
絶対にと、それは低い呟きだった。
「どうして、ここに来たの」
チセの言葉に猫は小さなあくびをした。
ソファーの上でうたた寝をしていた猫は王から言われたのでと、閉じていた目をうっすらと開けて、自分の向かいに座っているヨセフと首なしを見たが、それは投げやりな視線だった。
「結婚するという話を聞いたのは一ヶ月ほど前です、そして、魔法使いが弟子をとった、その娘がスレイ・ベガだと聞いて、王は気にしておられました」
自分のことが、関係しているのだろうか、どうしてとチセは聞かずにはいられなかった。
「あなたの空気と気配に紛れて近づこうと考えたのでしょう」
そう言って猫はエリアスの方を見た。
「あなたの師匠は何も言わなかったのですか」
エリアスは猫を睨みつけると、何を知っているんだと不機嫌な口調で尋ねた。
だが猫は軽く首を振ると知らないとばかりに話相手をヨセフに向けた。
「眠りは長くは続きはません、イングランドを離れるべきです、できるだけ早く」
「早く、だって、それは」
「カタルフィルス、そして夫となるべき方、事は、あなた方の手を離れました、そう、今、この時から、そして、後は我ら眷属にお任せ頂きたいと王は申しておりました」
ニャーオ、マーオ。
アアーッ。
窓の向こうから猫の鳴き声が聞こえてきた。
「王は彼女に礼を返したいと、申しておりました」
過去のこと
どうすればいいとモリィは考えた、王になって日が浅い自分の前に初めて訪れた試練は得体の知れないモノが突然、現れたことだった。
森には近づくな、なるべく人のいる場所、人家から離れるなと仲間達には伝えているので今のところ被害はない。
だが、良くないモノだということはわかる。
魔法使いに頼めばいいのだが、誰に頼めばいいのか。
ここ昨今、魔法使いと名乗る者が出てきたが、まがい物、偽物か多すぎる、勿論、まじめに修行をして力をつけている者もいるが、微弱な力しか持たない者では、あれを消滅させる事はできるのだろうかと危惧してしまうのだ。
被害が出ないうちに手を打たなければ、教会に連絡を入れたのは数日前だ、だが、緊急だと告げたにもかかわらず、連絡はこない。
もしかして、自分が王になったばかりなので軽んじられている、いや、そんなことはない。
教会の様子、何かあったのかもしれない。
あの噂は、本当なのかもしれない。
いつもなら、どんな些細な風の噂も自分たちの耳に入ってくるというのに。
外に漏れないように隠しているのなら、ただ事ではないのかしれない。
ところが、それは予兆もなく、突然、起こった。
被害は自分たちの同胞、猫ではなく、人間の子供だった。
魔物なら、悪魔なら見境なしに襲うだろう、だが、親子連れの被害者は子供だった。
見張りを頼んでいた猫の話を聞いて、モリィは不安になった。
自分の飼い主である娘、まだ子供なので、いつ森に足を踏み入れるかもしれない、襲われたら、自分の命に代えても守って見せるという気持ちはある、だが、しばらくして。
あれは森から出てきた、それも人家の近くまでだ。
厄介なのは人には姿が見えないことだ、感のいい人間なら気配を感じ取ることができるかもしれないが、二人目の犠牲者が現れたとき。
子供が忽然と姿を消した事で村は大騒ぎになったが、数日すると、人は勝手な解釈、家出したのかも、遠くに遊びに行ったのかもしれないと自身を納得させたのだ。
人の気持ちを、思考を、操っているのではないかと思った。
自分たち猫を襲う事はない、だが、人を襲うのだ、それも子供を。
そして大きくなっていく、こんな化け物は見たことがない。
猫ではない、人間の異変、いや変事だ、教会にも届いている筈だ、何故、自分に何も言ってこないのだ。
その日、モリィは自分の住む家の前で、それを見つけた。
自分の飼い主が、娘が襲われてしまう。
男が、あれを消滅させたとき、モリィは、ほっとした。
自分は魔法使いではない、魔術師だというが、とてもそうは見えず、いや、らしく見えなかった、多分、それを感じ取ったのだろう。
自分はスレイ・ベガだと男は名乗った、そして、知人に言われて、あれを始末しにきたのであって教会とは一切関係ない、もし、尋ねて来た者がいたら、自分のことは内緒にしてほしいと言われて、モリィは考えた。
男が教会という言葉を口にするとき、嫌悪するような様子が伺えたからだ。
それから、数年、一人の魔術師が亡くなった。
モリィは男が仲間内では有名な人嫌いで、魔術師の面汚しだと言われていたことを初めて聞いた、家族も身内もいないということだ。
だが、男の近くに、たった一人の人間が、死ぬ間際まで、側にいたことをモリィは知った。
数年の間、魔法使い、魔術師たちは、それを知ることはなく。
スレイ・ベガという特殊な者たちの間てば、禁句となった。
何故なのか、理由を知っているのは猫だけであった。