どうぞ
部屋の移動も無事に終わり、結婚生活もそろそろ慣れてきたとある土曜日。
俺は平日の疲れを取るために睡眠をしっかりととっていた。
具体的には昼前くらいまで。
「こーら、八幡。そろそろ起きないと、せっかくの休日が睡眠で潰れちゃうよ?」
俺のことを八幡と呼ぶのはこの家には2人、うち1人は確か今日は部活があるので朝から学校へ行っているはずだ。テニス部顧問も大変だな。
要するに、今俺を起こしているのは俺の愛する妻なのだろう。
「……それは違うぞめぐり。せっかくの休日だから睡眠で過ごすんだ」
「もうっ、彩加くんは朝から学校へ行っているのに、だらしないよ? ほら、今日はお布団干したいんだからそろそろ起きて」
「布団なら明日干せばいいだろう。明日なら超早く起きてみせるから。俺やってやっから」
「それを今やってよ。それに明日は雨だから今日中に干したいの。もうそろそろお昼だよ? いい加減にして」
う、めぐりの声に段々とイライラが増してる気がする。正直なところめぐりが怒っても全く恐くはないのだが、拗ねるとかなり面倒くさい。3日間一切話してくれないとか余裕にある。既に大学時代に体験済みだ。あれはキツい。
仕方ない、起きることにするかと身体を起こそうとする。
この時俺は何故ちゃんと目を開けて起きなかったのだろう。
「はぁ、起きないならチューしちゃう、ん!?」
「……? ん!?」
柔らかい感触が口に触れる。甘い匂いが鼻孔を擽り、驚きで目を開ける。
目の前には驚いたような顔をしためぐり。恐らく俺も似たような表情をしているのだろう。
寝ぼけていた意識が一気に覚醒する。
「……っ、はっ!」
「……ぷは」
お互い慌てて唇を離す。時間にして1秒もない、一瞬の出来事だった。事故とはいえ、もしかしたら今までのキスの中で一番時間の短いキスだったかもしれない。
小町と彩加は実はキスに関しては結構オープンな所があり、俺たちの前でもたまに一瞬触れるだけの軽い口づけをすることがある。
逆に俺たちは人前でそんなことは恥ずかしくてできない。それが例え一緒に住んでいる妹や親友の前だとしても。その代わりと言ってはなんだが、誰もいない2人きりのときはガッツリするタイプだ。
なのに、もう何回もしてきたガッツリなキスのときよりも心臓がドキドキいってるんだが。
いや、この動悸は不意打ち+寝起きということが重なったからに違いない。だから、腹から下に掛けられている掛け布団の一部が少しばかり盛り上がっているのも寝起きだからに違いないのだ。
―――
――
―
「ガキじゃないんだから、ああいうテンションの起こし方はやめて欲しいものだ」
あの後めぐりは顔を赤くしながら「とにかく、着替えて下に降りてきてよ!」と言い、部屋を出ていった。
まぁ、いつまでたってもあの初な反応の変わらないで欲しいけどな。
俺は寝間着から『I ❤️ 千葉』Tシャツに着替え、寝間着を畳んでベッドの上に置き、ベッド脇の棚から眼鏡を取って掛ける。
実は20歳を越えた頃から徐々に視力が落ちていき、今では普段はコンタクトをしている。が、休日の家にいる時までコンタクトはしたくないので家にいるときは眼鏡をしているのだ。
他の3人からは絶対に普段から眼鏡をしていた方がいいと口を揃えて言われるのだが、それは勘弁してもらいたい。
家にいるときやちょっとコンビニに行くくらいの時は眼鏡の方が楽なのだが、ちゃんと外出するときや仕事に行くときはコンタクトの方が何かと便利だ。
なので俺の眼鏡姿は生徒たちや先生方は知らない。学校でも眼鏡で行けばお兄ちゃんモテるかもしれないのにと小町に言われたことがあるが、その直後めぐりに絶対に学校へはコンタクトで行けと言われたからという理由もある。
眼鏡1つで俺がモテるとは到底思えないが、めぐりがそれを望むならまぁそうした方がいいのだろう。
そんな事を考えながら眼鏡のレンズを専用の布で軽く拭く。と、手を滑らしてしまい布がヒラヒラと床に落ち、そのままベッドの下へ入り込んでしまった。
「何だよその華麗な吸い込まれ方は」
ベッドの隙間へ入り込んだ布切れに文句を言いながらしゃがんで手をベッドの下に入れる。
布はすぐに見つかった。のだが、その布は何かに覆い被さるように落ちていたのだ。
布を引っ張り出すと、その何かも一緒に外へ転がってきた。
それは大きさ的にシャチハタのハンコくらいの大きさで筒上の形をしていた。
何でこんなところにシャチハタ? と思いながらそれを拾うと、それはシャチハタではないことに気づく。
つーかこれ普通に口紅だな。うん、超口紅。
「いや、だから何で口紅がこんなところに落ちてんだよ」
めぐりが化粧をしていた際に口紅を落とし、ここまで転がってきたと考えるのが妥当ではあるのだが……
俺は部屋の角にあるドレッサーに目を向ける。化粧はいつもあそこで行われるのだが、あそこで落としてここまで転がってくるとは到底思えない。
「…………って考えすぎか。あそこで落としたとは限らないし、持って歩いてた時に落としたってとこだろ」
俺はそう結論付け、その口紅をドレッサーの上に置いて部屋を出ることにした。
―――
――
―
「そういや、さっきベッドの下に口紅が落ちてたから、ドレッサーの上に置いといたぞ」
俺は朝食兼昼食を食べながら、先程あったことをめぐりに話す。
食卓には俺とめぐりだけ。彩加が部活でいないことは知っていたが、どうやら小町も今日は保育園で保育士たちの会議があるらしく不在だった。まったく、休日だというのに大変だこと。
「口紅? わたしの?」
「いや、それは知らねーけど、俺たちの寝室にあったんだからめぐりのだろ?」
小町がわざわざ俺たちの寝室で化粧する理由がないしな。
「どんなの? わたし別に無くしたりしてないはずだけど……」
「どんなのって、口紅に詳しくないからよくわからんが、普通の口紅だったと思うぞ? ああ、何か塗るところに窪みというか割れ目みたいなのがあったな。口紅ってああいう風になってるのか?」
「窪み? 割れ目? …………………………っ!!! は、八幡、それベッドの下にあったって言った!?」
「ん? おお。そうだけど?」
「今は!?」
「だからドレッサーの上に置いといた、って……」
俺が全部言い切る前にめぐりが慌ててリビングを出ていった。階段を上がり、寝室の扉が勢いよく閉まる音がする。そんなに大事な物だったのだろうか。
10分くらい経ってから、めぐりがリビングに戻ってきた。顔がほんのり赤いのは何故だろうか。
「おー、めぐりのだったか?」
「う、うん。えっと、ちょっと前に無くしたのだった。見つけてくれてありがとね……」
めぐりは何故か俺と目を合わせないようにしながら、再び食事に戻った。
食事が終わった後寝室に戻ると、ドレッサーの上の口紅は消えていた。どうやらめぐりがちゃんとしまったらしい。
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