鳳凰学園の生徒会の業務は、一般的な耶馬都の教育機関に於ける生徒会と比較して、非常に多岐に亘っている。
それは鳳凰学園が教育機関としての側面と、もう一つ。
創設者一族である鳳凰院家の現当主を理事長職に据え、耶馬都内にある四方院家に僅か程度劣っているが、強大な権力を持つ十人で構成される理事会。
経営を行っている面々の時点で、耶馬都のパワーバランスの大半を担っている事は明白であるが、それらに加えて、学生でありながら鳳凰学園の生徒会は耶馬都市民の選挙によって行われる。
そう。
鳳凰学園内、だけではないのだ。
学園都市である耶馬都の全体を以って、鳳凰学園生徒会の生徒会長と副会長は選任される。更に会長職に至っては、市民の選挙結果に加えて、理事会の総意による承認を経なければ到る事が出来ない。
その断崖絶壁の如き関門を越えたが故に、鳳凰学園の生徒会は耶馬都の治安維持に関する警察機関と同等以上の権限を持ち、比例して生徒会業務は相当多くなる。
法外な時間労働を要する黒い噂の絶えない会社も真っ青な労働環境である。時期によっては放課後どころか泊まり込みで業務や執務を熟すのは当然。そもそもとして休みが存在しなかったりする。
その激務からか選出される者は
許されている、とは言ってもその代わりにするのは休憩ではなく生徒会業務なので、体感としては余り変わらないだろう。
時分としては夏も半ば。
新入生も新しい学園の空気にとっくに慣れ、在校者は先達としての体裁を保つ為に尋常ではない努力をし始める頃、夕焼け色に染まり始めている日差しを窓から注ぎ込んでいる生徒会室に、ペンが走る音、薄い紙が捲られる音が静かに響いていた。
煩わしげに視界を遮るように目元に垂れて来た蒼い髪を指先で梳いて後ろに流し、うなじ辺りで束ねている紫色のリボンが解き掛けていたので結び直す。
生徒会に於いて副会長職にある
生徒会長であり、理事長の息子である
アイドルのように異性は当然として同性すらも惹かせるような精悍さと爽やかさを併せ持った表情を難しげに歪めて書類に目を落としている姿は、一見すれば普段と変わらない。
だが前生徒会の頃から一緒に居るシヅカは、彼の普段とは違う些細な変化に気付いていた。
こうして放課後、一般生徒は下校時刻を疾うに過ぎている時間まで居残り業務を行っている事は、珍しくない。一夜を明かす事もある。
そして、それをカナトは当然のように受け入れ、普段ならば時間など気にもしない。
シヅカが偶にそれを指摘すれば、返ってくる言葉は「あ、気付かなかった。……んー、でも取り敢えずこの書類を終わらせてからにするよ」とまるで時間の経過を気にもせず、仕事を優先する始末。
そんなカナトの視線は、今日に限って言えば頻りに時計を気にしている。
らしくない、とシヅカは思った。
用事があるのなら、カナトはいつも業務に入る前にその事をシヅカや、彼女以外の役員に伝えて、その時間通りに席を外すなり早抜けをする。
しかし今日は何も聞かされておらず、只々時間を気にしている素振りを見せるだけ。それも、シヅカに気付かれないようにさり気なくだ。
一度、二度程度だったら彼女は気にも留めないが、その回数が両手の指で足りなくもすれば、気になりもする。
一時間以上が経過し、自分の仕種にも如実に違和感が生まれ始めている事に彼女は気付いていた。けれども、こうしてカナトが伝えないのならば、それは伝えない事に意味があるのではないか、安易に自分の不安や興味だけで踏み込んで良いものか、と躊躇いが二の足を踏ませている。
信頼も、信用もある。
けれども、シヅカにとってカナトとは憧憬の対象であると同時に、その年頃らしい恋慕の対象でもあった。故に、この踏み込みが彼との関係を決定的に変えてしまうのではないのかという恐れ。
どうするべきか。
その思索の時間は一瞬でこそあったが、止まったペンの音に気付いてカナトが宙を見詰めるシヅカを訝しむのには充分であった。
「どうしたんだい、シヅカ?」
手が止まっているようだけれど、という言葉が続く事はない。
純粋に、書類の処理が終わった訳でもないにも拘らず、唐突に動きを止めたシヅカの変化を案じた声である。
「へぁっ、あっ、ん、いえ、なんでもないわ」
考えに耽っていたからかカナトの問いにシヅカらしからぬ、気の抜けた声が漏れ出た。
恥ずかしさに頬を薄らと赤く染めた彼女は動揺を隠せずにいたが、口から出た言葉は誤魔化しであった。咄嗟の対応で、口にしてからこれではなんでもない訳がない、と後悔をしてしまうが、既に後の祭り。
「その割には僕を見ていたようだけれど、何か気になる事でも書類にあったのかい?」
泰然とした微笑みは包容力に溢れており、躊躇って疑問を言葉にする為の心の壁を、容易くシヅカから取り払った。
「それなら聞くけれど、カナト。今日、本当は外せない用事があったんじゃないの? 時計を気にしている風に見えていたけれど」
「あぁ、君には気付かれるか、やっぱり」
「明日は土曜日だし、私も休みだから別にこのまま残っても構わないわ。だから―」
「いや、大丈夫だよ。用事があるのは事実だけれど、書類自体はもうこれに判を押すだけだから」
薄い紙を一枚だけ持ってペラペラと動かすカナトの様子に嘘は感じられなかった。
「それなら良いのだけれど」
事実として、積み上げられていた書類は既に整理済み。許可、不許可に分けられてすぐ傍に置かれており、その最後の一枚にも赤々と大きな不許可の押印がされる。
それが一体どのような内容の書類であったのか、シヅカの位置からはわからなかったが、先程のカナトの扱いの軽さから、余程下賤な内容であったと当たりを付ける。
「こっちが許可済み、これが不許可の書類。いつも通りに」
「受け取りました。……許可が多くないかしら」
先の書類を含めての不許可の書類の束の厚さと、許可の書類の厚さは倍近い差がある。
基準に関しては、学園の定めている範囲に含まれている事が前提で、生徒会長の裁量に任せられる為、これは即ち、カナトの優しさとも、甘さとも取れる結果だ。
そうした人心を集める術数に関して秀でている彼の、無自覚の行動のフォローをするのがシヅカの役割でもあるが、こうした事にまで一々目くじらを立てる気はなかった。
受け取った書類を、自身の背にある棚へと収納し、時計へとシヅカは視線を移す。
「これで今日の業務は終わりね。……本当に大丈夫だったの、時間?」
「問題ないさ。寧ろ丁度良いかもしれない。時にシヅカ。この後に何か用事はあるかい?」
茶目っ気を出すかのように片目を瞑ってウィンクをしてくるカナトに、思わずシヅカは目を瞬かせて固まるが、直ぐに首肯を返した。
(用事って、私にも関わる事なのかしら?)
心内に生まれた疑問に小さく首を傾ぐが、彼女の様子に気付かず、シヅカの同意に顔を綻ばせたカナトは、会長職の立場にある者が羽織る外套を脱ぎながら口を開く。
「さっきの用事って言うのは、僕単独だと少し面倒でね。出来れば実力のある、信頼出来る人がいてくれると助かるんだ。そう言う点では、シヅカは最適だ」
「荒事なの?」
「そうならないようにはするよ。ほら、『絶頂石』っていう開運グッズが巷で流行っているだろう。あの会社への抜き打ちの調査さ」
監査権限を持つ生徒会業務の一環。違法な活動を都市内で行う者達に対する検挙。その一つだと理解をしたシヅカは頷きながらも新たな疑問が生まれる。
何故、日も暮れ始めた時間に行うのか、と。日中か、或いは夜半に行うのが常である事前予告なしの監査。この時間に向かった所で、肝心の会社に門前払いをされる可能性が高いかもしれないのに。
「この時間でも良いの? 違法の可能性があるなら、人手の少ない夜とかの方が」
「あの会社はどうにも就業時間が不規則らしくてね。探りを入れて、この時間が最適だと判断したんだ。まあ、決定的だったのは紅炎寺君の件だ。彼女と言う、学園内の者に対して被害が発生した。それを口実に以前からの違法売買も検挙出来れば良いんだけれど」
「要は、悪徳商法や違法労働、それに……襲撃に関して纏めて調べるのね」
カナトの言葉の間に挟まれた名に、シヅカは我知らずと眉根を寄せた。
紅炎寺カリン。鳳凰学園の朱雀組三号生にして、在籍する朱雀系
彼女とシヅカは言うなれば
規律と秩序を重んじるシヅカに対して、感情と勢いに任せて突き進む傾向が強いカリン。幾度となく衝突を繰り返し、気付けば彼女とは不思議な関係になっていた。
生徒会の副会長と言う立場上、表立って学園の意向に背いて活動を続ける彼女達を容認する事は出来ないが、その
その彼女は、重傷を負って休学していたのだ。今でこそ全開したが一時は意識不明の重体ですらあった。
その原因が絶頂石。開運グッズを始め、占い関連には目のない彼女が持っていたそれを狙って、不埒者が襲撃をした。
屈指の実力を持つ
それら全てが、シヅカにとっては認め難く、到底許せるものではない。
(何か疚しい事があるというのなら、是非もないわ)
「ではないらしいけれどね。その辺りを聴取しに行くんだ。本当の事を語って貰えるかわからないけれど」
「ええ、わかりました。お供させて頂くわ、会長」
知らず、昂揚して吊り上る口角を押さえ込む。
知人を傷付けられた事の原因が少しでも解明出来るのなら、多少の危険すらもシヅカにとっては望む所だ。
「ありがとう」
「私は副会長なのよ? 会長であるカナトの手助けをするのは当たり前じゃない」
勿論、それは事実ではあったが建前でもある。
想い人の少しでも力になりたいという女心も働いている。
準備を整えて行く為にカナトに背を向けて、隣室の宿直室の方へと向かうシヅカに、カナトはもう一度感謝の言葉を投げ掛ける。
「それでも感謝は確り伝えないと。『本当にありがとう』」
その時のカナトの表情を、シヅカは背を向けていた為に気付かなかった。
夕日を浴びて、暗い影に隠されたその爽やかな微笑が、昏い狂気を滲ませていた事に。
◇
耶馬都の建造物の中でも高く築かれたビル群が立ち並ぶ区画がある。
その多くは耶馬都の経済の一角を担う商業関連の会社が入っているが、大多数は一つの巨大なビルの中に、幾つもの異なる会社が間借りをしているテナント形式だ。
その中でも、高層ビルには入らないが五階建てのビルの全てが一つの会社という時点で、
そうして、一階のロビーで受付に用件を伝えたカナトとシヅカの二人は、何の妨害も受ける事無く、また待たされる事もなくすんなりと社長室の前にまで通された。
が、その大きな扉の前に立っているシヅカの頬は不自然なほどに赤い。
羞恥心と照れが場違いにも拘らず隠し切れていないのは明らかな様子だ。
「随分と大きな会社なのね。開運グッズだけじゃなくて、その、あ、あんな、あんな玩具まで、つくって、るなんて!」
声が裏返っているシヅカの様子に、カナトは顎に手を添えて小さく笑いを零す。
「性玩具まで取り扱っているとなると、ますますを以って偏見を持つね。法外な値段じゃないけれど」
ビクン、とシヅカの肩が小さく跳ねた。次いで、恨めしそうに隣に立つカナトへと向けられる瞳には、気恥ずかしさと八つ当たりにも似た苛立ちが
「そ、そんなハッキリ言わないでよ」
そうした知識こそあれ、健全に生きて来た少女。気品と清廉に溢れたシヅカにとって、所謂大人の玩具とやらは刺激が強過ぎたのである。
こんな時でも泰然自若とばかりに余裕を崩さないカナトと違って、出鼻を挫かれたシヅカの背中は僅かに萎れている風にさえ見えた。
「ごめんごめん。女性に向ける話題じゃなかったね」
反省をしている様子が全く見えないカナトに、尚も言い募ろうとしたシヅカではあったが、これ以上藪蛇をして自爆をしても、今から行う調査に集中出来ないかもしれないと、内心でモヤモヤを抱えながら押し黙った。
「それじゃ、気を取り直して。……行こうか」
温和な表情の中に、精悍な勇ましさを秘めたカナトの面持ちに気を取られそうになったシヅカは、咳払いをして意識を切り替えた。
此処からは、鳳凰学園生徒会の二席『副会長』として挑まねばならない。
抜き打ちの調査とは言え、社長の在社はロビーで確認しており、同時にそれは自分達が来た事も既に伝わっていると前提するべき。
遠慮は無用ね、とシヅカは一歩踏み出そうとして、扉を叩こうともせずにドアノブを回す躊躇いのないカナトに虚を突かれる。
先走る
「ちょっとカナト、せめてノックくらい」
「必要ないさ」
微笑みは変わらず、だがその全く変化のない爽やかな笑顔に、シヅカは寒気を感じた。
今まで一度も、カナトから感じた事のない気配。
それを気のせいだと判断しなければ、彼女はまた違う結末を迎えていたのかもしれない。
◇
「どういう……事?」
当惑を隠し切れず、震える声で呟いたシヅカの言葉が、『壁に反響して返って来る』。
彼女の、そして先んじて足を踏み入れたカナトの視界に広がるのは、贅の限りを尽くした典型的な富豪が権力を顕示する様な豪奢な社長室ではなかった。
簡素、否。
廃墟であった。
コンクリートが剥き出しになった床と壁面には亀裂が走り、咄嗟にシヅカが振り返った場所にあったのは、木製の絢爛な扉ではなく、枠から外れている錆び付いた押し戸。
壁紙どころか所々が崩れ落ちて空洞すら見える壁は、小さく漏れ出たシヅカの声すらも拾い上げて響かせたのだ。
「簡単な事だよ、シヅカ」
一歩、一歩と歩みを進めるカナトに迷いや戸惑いなど一切存在しない。
まるで初めから此処がこのような有様である事を熟知しているかのような自然体。
笑みを携えて正面からシヅカに向き直るカナトは、大仰に両腕を左右に広げて舞台俳優のように高らかに
「最初から、この中に社長室なんてないという事さ」
その瞬間、彼の傍らの空間に水滴が水面に落ちたかのような波紋が広り、まるで陽炎のようにゆっくりと滲み出て来た存在に、今度こそシヅカは言葉を失った。
カナトのパートナーであるカムイ、いや
普段と変わらず、いや、いつもよりも酷薄な眼差しをシヅカに向けるケン、表情の読めないカムイ、ニヤニヤと嘲弄を交えた笑みを浮かべるナイアの三名を従えるように、その中央に立つカナトは、広げていた腕をゆっくりと下ろす。
その仰々しい立ち振る舞いは会話の流れを有利に運ぼうと、場の空気を支配する意図を持って行われている事は明らかだ。
「カナト?」
「騙すような真似をした事を謝ろう、シヅカ。けれども、どうかわかって欲しい。僕は意味もなく、君を謀る事はしない。どうしても必要だったんだ」
―僕の目的の為に。
そう、唇が弧を描いて紡がれた言葉に、シヅカの背中に寒気が走った。
まるで目の前にいる存在が、初めて出逢った畏怖すべき存在だと身体が判断したとばかりに、無意識にシヅカは一歩
「目的って、どういう事なの?」
「シヅカ! 今すぐ私を魂獣解放して!」
腰に差している
「カグヤ?」
「早く!」
戸惑うシヅカを遮っての強い口調のカグヤに、何を考える暇もなく、事態を把握する余裕が削られたシヅカは言われるがままに魔力を起こし、
「カグヤ!
シヅカの叫びと共に青白い光に包まれるカグヤの姿が大きく変容する。
ぬいぐるみのように小さな体躯から、百五十センチ程度の身体になり、閉じていた天頂の白蕾は花開き、二輪の白い薔薇を咲かせ、リボンのように円輪状の荊が生える。
「うん。流石に香具耶は察するのが早いか」
香具耶が
その傲慢とも取れる余裕の態度を崩さないカナトに、香具耶は眉根を寄せながら警戒を隠さずに、己の中で渦巻いていた疑念を問い質した。
「カナト、なんのつもりなのかな。私ですら、この部屋に入るまで幻術に掛けられていた事に気付けなかった。ううん、そうじゃない。なんでシヅカや、
「幻術じゃなくて私の完全催眠なのだー」という、ナイアの発言を後ろから口を押さえ込んで阻むケン等を気にもせず、カナトは悠々と香具耶の糾弾に答える。
「言っただろう。僕の目的の為だと」
そう言い切るカナトには迷いも、罪悪感も何もない。
仲間であるシヅカや香具耶に対して、ナイアの完全催眠能力を発動させて、この商社ビルと思われていた廃ビルに連れて来た事を、何とも思っていないのだ。
それは、冷静になる時間を僅かながらでも与えられて動揺を鎮めさせたシヅカでも気付く事が出来た。
シヅカは心内から込み上げて来る嫌な予感を堪えて、不安そうな眼差しを香具耶の背中越しからカナトへと向けた。
「目的って、一体何なの? 穏やかな話じゃない事は、もうわかるけれど」
「ああ、うん。そうだよね。君達には言っておこうか。僕の目的は―」
―鳳凰学園が壊滅する事さ。
何の気負いもなく、一切の躊躇いを見せず、穏やかな微笑を浮かべたカナトの口から、理解し難い言葉が放たれた。
一瞬の静寂は、現実を正しく認識出来ないシヅカと香具耶の二人が、彼の口から放たれた言葉を脳内で咀嚼し、理解する事で破られた。
「え、ちょっと……待って、待って。何を、言ってるのカナト? 鳳凰学園の、壊滅?」
「信じられないのは仕方がない。僕がそんな事をする筈がない。そんな風に思い込んで貰えるように振る舞って来たからね。でもシヅカ。事実さ。僕の望みは、鳳凰学園を壊滅させる事。こうして君や香具耶に素直に話したのは、是非とも二人には協力して貰いたいからだ。君達の力が、どうしても僕の望み通りに事を為す為には必要だ」
冷静さをかなぐり捨てて混乱するシヅカと、飽く迄泰然とした様子のカナトは如何にも対照的だった。
「待って! 整理出来ないわ! カナト、だってアナタは!」
「僕はね、出来れば先生方や普通の生徒達を余り傷付けたくないんだ。その為には、君や香具耶の植物を操る力。延いては毒物を操る力が非常に役立ってくれる」
それはまるで、聞き分けの悪い子供を諭すような超然とした口調。
断られる筈がない、そんな余裕から出る自信ではない。
断る事が出来ない事を、まるで最初から知っているとばかりに、堂に入ったカナトの言動は、いっそ不気味にさえ見える。
その一見すれば普段と変わらない、だが決定的に自分が見た事もない、得体の知れない何かとばかりの雰囲気を醸し出しているカナトに、シヅカは悲痛に声を荒げた。
「待って! 何を言ってるのよカナト!? アナタは鳳凰学園の生徒会の、会長でしょ!? それに学園の理事長はアナタの父親で―」
「だからこそだ。僕があの男。
それまでの温和な雰囲気は、父の、いや養父が話題に上がった途端に、平坦なものへと変化する。
「……え?」
呆然とした声が、シヅカの口から衝いて出た。
その予兆すらなかった突然のカナトの変化に、怯えを滲ませて肩を震わせたシヅカは、今にも涙を零しそうに顔を歪めたが、カナトはそれを一瞥しただけで淡々と続ける。
「僕はね、シヅカ。あの男の本当の子供じゃない。義理の息子なんだよ。そしてあの男は……僕の目の前で、僕の本当の両親を事故に見せ掛けて殺した。その時からずっと、僕は復讐の為だけに生き続けて来た」
「なに、いって、るの?」
告げられた言葉を素直に飲み込めるほど、今のシヅカは冷静ではなかった。
震える声での問い掛けに、カナトは漸くシヅカの怯えや悲しみに気付いたのか、困ったように笑う。
「ああ、うん。ごめんね、僕ばかり喋っていても、話す事が衝撃的過ぎるかな。でも全て事実さ」
「……カナト」
「なんだい?」
「全部、嘘だったの? アナタの学園の生徒を想っている言葉も、私達に向けている言葉も、全部……演技だったの?」
一歩、歩を進めてカナトへと近付きそうになるシヅカを、その心情を理解出来て辛そうに顔を歪める香具耶が腕を広げて制した。
「……一部は本心だね。でも殆ど嘘さ。皆の事は大事に思っているけど、学園の事なんて正直僕はどうでも良い。耶馬都で最も
「……本気、なのね?」
俯いて、前髪がシヅカの表情を隠した。
饒舌に語るカナトは、どこまでが本気で、本心なのか。まるでその全てが空虚で捏造されたものにしか見えず、真意を見破る事が出来ない。
だがもう覆らない事実は、今のカナトと自分の関係が、生徒会の会長と副会長ではなく、害意を向ける者と向けられる者である事はシヅカにとって苦渋の現実であった。
「当然さ。……さて、シヅカ。改めて言おう。鳳凰学園を壊滅させる為に、僕に協力をして欲しい。君や、香具耶の力が僕には必要なんだ」
考える時間などない。
混乱し、未だにカナトの言葉を認めたくないと訴える己の心を押し殺し、手を差し伸べて協力を仰ぐカナトに対して、シヅカは血が滲みそうなほどに拳を握り締めて意志を決した。
想い人の為に善悪の観念を捨てて、その人の為だけにと言う少女としての感情ではなく、鳳凰学園の生徒会の副会長としての責任を果たすという意志を。
「……わ」
「ん?」
聞き取れなかったのか、小さく首を傾いだカナトに、髪を振り撒くように強く顔を上げて、正面から厳しい表情と鋭い眼差しで、シヅカはカナトを見据えた。
「断らせて貰うわ! 仮にカナト、アナタの言っている事が全て本当だとしても、鳳凰学園がなくなってしまえば多くの人が不幸になる事は避けられない! それに!」
心の整理はつかない。棚上げしただけである。問題の先送りだ。
自分の踏ん切りの付かない揺らいだ心を責め立てる容赦ない呵責がシヅカの中で生まれては突き刺さって来る。
それでも切り替えた。今のカナトを止めなければならないという義務感が彼女を支える。
迷いに震えていた表情は厳然と引き締められ、鋭利な眼差しの先にいる『敵』を捉えて声を張り上げる。
「私は、鳳凰学園の生徒会、副会長。学園の脅威となる存在を、見過ごす事は出来ません……!」
それを虚勢と嗤う事もカナトには出来ただろう。
だが、健気とも言えるシヅカの姿を見て、カナトは幾度かの首肯の後に満足そうに微笑んでいた。まるでそう在る事こそが正しいと理解しているように。
「……そうか。うん、君なら、そちらを選ぶとは思っていたけど、残念だな」
一歩、小さく下がったカナトに変わってケンが彼を庇い守るように前へと出た。
その一挙一動を見逃さないようにしながら、香具耶はシヅカの心境を思って声を掛ける。
「シヅカ、大丈夫なの?」
「全然大丈夫じゃないけれど、頷く訳にはいかないわ。此処でカナトを止める」
その横顔を見て、慰めを掛けるべきでないと察した香具耶は、小さく頷くだけに留めた。既にお互い臨戦態勢に入っているのだ。僅かな間隙すらも決定打に変わる。それだけの実力を彼等が持っている事を、香具耶は勿論、シヅカもよく理解しているのだから。
「うん、わかった」
杖を握り締める指の力が無意識に強くなり、緊張からか微妙に身体が強張っている事に、香具耶自身はおろか、隣立つシヅカも気付けなかった。
そんな二人の、自覚のない緊張した様子を見て頭を軽く掻いたカナトは、不気味なまでに穏やかさを保っている。
「……頑張ろうとしている所申し訳ないけれど、四対二で本当にやる気かい? 聡明なシヅカならわかるだろう?」
「無力化させるなら幾らでも手段はあるわ」
「それを熟知していないとでも? うん、やっぱり君の動揺を突いておいて正解だった。君らしくもないミスだよ、シヅカ」
こうして会話をする余裕すらあるのか、と問い掛けて来たカナトに、シヅカは言葉少なに険を込めて返した。
「……何がかしら」
「この部屋に入っている時点で、本当は君達に選択肢なんてないんだよ。勝負というものは、得てして始める前から決まっている事が多い。今みたいに」
吊り上った口角。その言動に訝しさを覚えた瞬間に、シヅカと香具耶の二人は、意図せずしてガクンと膝から崩れ落ちて床に座り込んでしまう。
「!? なっ、にが……!?」
「君達に気付かれないように幻術を施したのは、カムイの『能力模倣』による誤認。そして部屋に入った瞬間に君達は、ナイアの『完全催眠』を無防備で受け入れた」
驚愕と失態に表情を渋面に変える二人へと向けて、わざわざカナトは己の下した指示を明かす。同僚と言う立場であったが為に、個々の能力は知っていたのだ。今更能力を曝した所で秘されているものでないため、何らカナト達が不利になる要素はない。
「私はその時
旧知の間柄であるナイアの能力。それが自分の想像の埒外の領域にあると予想をしていた香具耶を、鼻高々に胸を反らすナイアが遮った。
「ふふふのふー、なのだ! 香具耶、私の能力が
哄笑が響く。
元より悪戯好きで倫理観の欠如が著しいナイアが己の欲望の制限を取り払われてしまえば有頂天になるのは必至。彼女を見上げる香具耶は、自らの見通しの甘さを痛感して歯噛みする。
「余り喋るな、ナイア。調子に乗ってベラベラと情報を渡せば瞬時に対策を立てられる相手だぞ、副会長と花媛香具耶は」
「あぅ、ごめんなのだ、ケン」
先程のように口を押さえて遮るまではしないケンに諌められて肩を落とすナイアを見れば、ある意味では彼女が純真である事がわかる。或いは、無邪気とも言える。善悪観念に囚われないからこそ、彼女は躊躇いもなく、同僚の立場にあるシヅカと香具耶の二人を己の能力で絡め取ったのだ。
一見すれば精神を動揺させる隙として突けるかもしれないが、それを補うように、揺らぐ事のない厳然とした忠義の意志を持つケンが居る。彼が傍にいる限り、ナイアが精神に揺らぎを来たす事はないだろう。
「なんっ……カムイ、ナイア! 二人はそれで良いの!? 私達魂獣は、パートナーが間違っている事をしているなら止めるべきでしょ!」
「その通りだ。だが、私はそれでもカナトの選ぶ道を支えるだけだ」
「カムイに同じー、なのだ。ケンが決めたなら私はそれを手伝うのだー」
香具耶の糾弾を前にしても、二人が動じる様子は一切なかった。
彼等二人の在り方もまた、一つの相棒としての
けれども、その献身を香具耶は認められない。認める事は出来ない。善人ではないが、進んで悪道に走る精神性を持っていた訳ではないカムイとナイアが相手だからこそ、正しくはない選択を糾そうとしたのだ。
「っ! 見損なったよ、二人とも!」
「……私達を、どうするつもりなの、カナト」
完全催眠によって身体の自由を奪われた今、シヅカも香具耶も抵抗する術を持たない。
その気になれば精神すらも意のままに操る事の出来る強力且つ凶悪な能力。
こうして、自由意思を残している事すらも、カナトにとっては余裕の表れの一つ。そう解釈をしたシヅカは内心の動揺を悟られないように静かな口調で問い質した。
「手伝って貰うのさ。僕の望みを」
「断る、と言ったわよ」
間髪入れずに決然とした意思を込めて、シヅカはカナトの言葉に対して断言した。
だが泰然としたカナトは冷ややかな反応をされても気に留めない。
まるで、それすらも無意味。その高尚な決意と意思すら無駄だと言わんばかりに。
「出来ないよ。そうさせない。……本当はね、こんな手段は取りたくないんだけれど、なりふりなんて構っていられない。カイ君が想定よりも善人気質だったからね。彼と対抗する為の保険は幾つもかけておかなければならない」
自分の思い描いた通りに進まない現状をどこか楽しむように語るカナトの言葉に、シヅカは瞠目する。
カナトが鳳凰学園に対する破壊工作を企んでいた事までは理解出来た。
それが入念に、用意周到に段階を踏んでいた事も。だが、こうして強硬な策に出た理由が、火群カイ。しかも、彼が思い描いていた人物像よりも好漢であった事だとカナトは言う。
「カイが、アナタの目的にどう関係があるって言うの」
困惑を隠せず、自分を見下ろすカナトに対して不可解とばかりに表情を歪めたシヅカに、カナトは両肩を竦めて小さく嘆息を零す。
「彼もまた復讐者だ。赤子の頃に両親である学園長に捨てられ、謂れのない誹謗中傷に曝されて生きて来た。一族の秘宝を奪った裏切り者である学園長から秘宝を取り戻す為に、耶馬都を訪れたんだ。利害は僕と一致している。その思考も。……そう思っていたんだけれどね。彼は優しい。そして甘い。彼は……僕の前に立ち塞がると、この前の守護獣との一件で確信した」
流暢に紡がれるその発言の内容を頭の中で整えるのに、数瞬の空白を要した。
けれども、捨て子であり復讐者。その強烈な内容を正しく認識した瞬間に、驚愕を抑え切れずにシヅカは声を荒げた。
「カイが、学園長の子供!? いえ、それは今はどうでも良い! カナト、アナタ、自分を慕ってくれている相手すらも利用しようとしていたの!?」
だが動揺は直ぐに、シヅカのその清冽な意志を支える性根が鎮め、義憤へと駆り立てた。
それが、偽りだった。慕われるように演じていたのならば、許せるような事ではない。
シヅカの真っ直ぐな、紅玉の眼差しが更に鋭く険しくなっていくのを淡々と受け止めて、カナトは一度目を閉じ、己の心の中にある躊躇いを切り捨てるように一瞬の間を開けてから目蓋を開いた。
そこに、シヅカの知っているカナトはいなかった。
皆に笑顔を振り撒く、爽やかな貴公子然とした鳳凰学園生徒会の長ではない。
恐ろしい目的を遂行する為に、優しさや温かさを切り捨てた悪漢の
「そうさ。そう言う意味では、君も違わない、シヅカ。……僕としては、君の意思で自ら僕の側に就いて欲しかったって言うのが本音だけれど、君もまた、善人だ。それが叶わない以上、強引な手段に出る」
「かな……あぐっ」
冷たい声、冷たい眼差しで座り込むシヅカに近付き、頭頂部に掌が触れた瞬間に流れ込んだ魔力が強制的に彼女の意識を黒く沈ませた。
「シヅカ! このっ! ひきょうも」
「君もだ、香具耶」
シヅカにしたのと同様に、カナトは怒りを込めて声を上げる香具耶を遮り、魔力を流し込めばすぐに上半身を支えていた力さえ身体から抜け落ち、強い脱力感と共に香具耶の視界が大きく揺れて霞む。
「ぅぁっ……」
それでも、と一矢報いるかのように呻きながらもカナトを睨み付ける翡翠色の瞳には、言葉に出来ない程の悲憤が込められていた。
そんな二人を見下ろしたカナトは、大きく息を吐き出した。
これまでの演じていた自分への決別を込めて。もう戻る事の出来ない道を選んだ事への躊躇いを全て吐き捨てた。
「……宜しかったのですか、カナト様」
「良いさ。どうせ嫌われるのはわかっている。なら徹底的に嫌われ、憎まれる手段を取るだけだ」
「アナタがそう仰られるなら、私はそれに従うだけです」
慎重に言葉を選びながらもカナトを気遣うケンに、彼が返せたのは曖昧な笑み。
「ありがとう、ケンケン。それじゃ、二人を地下の方に。用意している外海獣は万全かい、ナイア?」
「ばっちしなのだ。まだ二体しか用意出来ていないけれど、一から私が育てて、完全催眠で従順に仕立てあげた奴なのだ!」
歯を出してニカニカと笑うナイアに頷き返し、カナトはこの廃墟を後にする。
「それじゃ……行こうか」
此処までは当初の予定通り。これから先は一切の妥協も許されない。
歪んだ決意を胸に抱えたまま、黄金の髪を靡かせて青年は突き進む。
気を失った二人の少女を両脇に抱えたカムイは、脳裏を過ぎった逡巡を瞑目で打ち消し、先を行く仲間達の背中を追った。