静岡沖の彼方に浮かぶ幻の島、鬼ヶ島王国。
人語を話す獣人やオーク、ドワーフやエルフが暮らす、どこか懐かしくて、少しだけ現実離れしたその国で、ノワールは今日もまた、ミンチ肉について考えていた。
「もう三百年も生きてるのに、こんなことでいいのかなあ……」
王都の南、ミンチ肉専門学校の裏庭。
猫耳ハーフとオークの生徒が肉を叩いているのを横目に、ノワールは校庭の木陰に腰掛け、ため息をついた。
卒業後の進路は、肉屋か、ハンバーグ屋か、それともコロッケ工場か。
いずれにしてもシャコガイ通貨に困ることはないが、それ以上に豊かにもなれない。
「年金も減るばかりだし……」
ポケットからくしゃくしゃになった新聞の切り抜きを取り出す。
年金支給、七十歳からに繰り上げ。給付額一部削減の見出しに、ノワールの耳はピクリと動いた。
「ダメダメじゃん……」
ぽそりと呟いたその瞬間、彼の中で何かが弾けた。――そうだ。せっかくの長寿なのだから、もっと賢く、もっと欲張りに生きてみてもいいはずだ。
「……投資って、どんな感じなんだろう」
浮かんできたのは近ごろ王都でも流行りの言葉。確定拠出年金、NISA、シャコガイ分散投資――。
未知の語彙はそれだけで宝石のようにきらめいて見える。
十一月二十五日。天気は、晴れ。
ネギミソ通りの角を曲がり、ノワールはウサタン銀行の自動ドアをくぐった。
芳しい香りが鼻先をくすぐる。
「いらっしゃいませ」
受付に立っていたのは、長い銀髪のエルフだった。
姿は若々しく肌は輝き、微笑みには年季のある余裕がある。
「確定拠出……年金みたいなもの、ありますか?」
「ええ、ございますよ。こちらはいかがでしょう?」
そう言って彼女――エリカと名札に書かれた受付嬢は、一枚のパンフレットを差し出してきた。
カモネギ保険・チョベリグS。
「十年後には四十万の利息が付き、その後は毎年じわじわと。もちろん、万が一会社が潰れても、九割保証されております」
近くで話すエリカの香水が甘く香る。ラベンダー? いや、もっと深く、身体の奥をほどくような香り。
指先がふとノワールの袖をつついた。
「お支払いは?」と尋ねられた。
「二百九十万シャコガイ。一括でお支払いいただく形ですけれど……」
「――いいですよ。現金でお願いします」
思わず即答していた。香りと声と、なぜかほんのり上目遣いの眼差しに押されて。
それだけではなかった。彼女が見せた一瞬の、どこか寂しげな表情。ノワールはその影に惹かれたのかもしれない。
「それと、NISAというのもお得ですよ。年に百二十万まで非課税。株もできますし、最近では恋する気持ちのように人気です」
「恋する気持ちって……」
「ふふ、冗談です。でも意外と似ているかもしれませんよ。大切なのは、信じて待つことですから」
その言葉に、ノワールの胸が小さく跳ねた。
彼は知らなかった。この日、手にしたパンフレットよりもずっと危うくて、甘やかな投資先がすぐそばにいたことを。
十二月一日、晴れ。
王都の中心街、トリプルマッスル大通りに面した白亜の高層建築。その一階にあるSMBCライジングサン証券は、まるで宝石店のような気品を放っていた。
ドアマンのゴーレムが無表情で立つ扉を抜けると、奥から声がした。
「イラッシャイマセ」
しゃべるゴーレムだった。
(すごいところに来ちゃったかも……)
ノワールは少しだけ尻込みしたが、受付に呼ばれて前に進む。
現れたのは――まるで夜の花のように艶やかな、オークの女性だった。
豊かでしなやかな肢体に、凛とした知性。肌は琥珀色に輝き、瞳は深い緑。オークといっても、そこに粗野という言葉は似つかわしくなかった。
「ご来店ありがとうございます。ご用件は?」
「証券口座を……開設したいのですが……」
「まあ。それは素晴らしい一歩ですね」
彼女の名はグランマリー。肩につく黒髪を指でそっと払ってから、微笑みを見せた。
「年収と貯金の額をお伺いしてもよろしいですか?」
とろけるような低音で問われ、ノワールの耳が熱くなる。
――その後も、彼女のペースであれよあれよと手続きは進み、特定口座・源泉徴収あり・使い魔トレードも申し込んでいた。
そして――なぜか、グランマリーは言った。
「今夜、少しお話しませんか? 投資って、一人で抱えこまないほうがきっと楽ですよ」
十二月七日。曇り空。
朝から冷たい風が王都を抜けていた。
ノワールは、ひときわ地味な建物の前で足を止めた。
ヒル蔵証券・王都南支店。
入り口に吊るされた木製の看板は、年季を感じさせる風合いで、先日のライジングサン証券の豪奢さとは対照的だった。
(……だいぶ地味だけど、手数料は安いらしいし)
そう言い聞かせて中に入ると、すぐにちりんと小さな鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ!」
受付に現れたのは――身長百三十センチに届くかどうかの小柄な少女だった。
栗色のツインテールに柔らかな頬。年の頃は十歳そこそこにしか見えない。
……が、どこかで違和感があった。目の奥に光る成熟した影。
(……まさか)
「担当させていただきます、トゥーリと申しますっ」
彼女はぎこちない笑顔で一礼した。制服の袖が少し長くて、名札がちらちらと揺れている。
「口座開設をご希望、ですね?」
「ええ。あの、使い魔トレードも……」
「は、はいっ。がんばります!」
と、彼女は机の上に書類を並べ始めた。手際はあまりよくない。
ペンを落とす、用紙を逆に出す、印鑑の向きを間違える――でも一つひとつ、必死で取り繕う様子に、ノワールは自然と笑みがこぼれていた。
「……あの、笑ってます?」
「ん、いや。可愛いなって思って」
「か、かわ……っ……」
トゥーリの頬が一気に赤く染まった。
その仕草はまるで本物の少女のようで――でもそのあと、彼女がそっと呟いた言葉には、大人びた響きがあった。
「……もう、数十年ぶりにそう言われましたよ」
ノワールは一瞬、言葉の意味を飲み込めずに固まった。
彼女は、微笑んだまま名刺を差し出した。その肩書にはこう書かれていた。
ヒル蔵証券 上席補佐官 トゥーリ・ヒルフォルク(148歳)
「……ドワーフって、そういう種族でしたね」
「はい。年をとっても、見た目はあまり変わらないんです。ちょっと損ですね、こういう仕事だと」
恥ずかしそうに笑う彼女は、それでも堂々としていた。年齢を告げても、怯まず、隠さず、可愛らしさをそのまま武器にしていた。
「でも、私は見た目でなめられるのに慣れてますから。むしろ、頼ってくださる方のほうが、嬉しいんです」
それは、まるで告白のような響きだった。
ノワールは、不思議な胸のざわめきを感じていた。
エリカの包容力。グランマリーの官能。そしてトゥーリの、年齢不詳の可愛さと危うさ。
――どれが正しい恋なのか、なんて、きっと誰にも分からない。
ただ、確かなのは。
今、目の前の少女のような女性に、心が動いてしまっているということだった。
十二月十九日、夜。
ノワールの部屋には、ほの暗いランプの灯りが揺れていた。
机の上にはライジングサン証券とヒル蔵証券から届いた報告書が散らばっている。
含み損。シャコガイ安。下がり続ける評価額。
(……結局、投資も俺には向いてないのかもなあ)
ため息まじりに呟いたそのとき、ドアをノックする音がした。
「ノワールさん? 開いてますか?」
――エリカの声だった。
慌てて扉を開けると、そこには仕事帰りらしいスーツ姿の彼女がワインボトルとグラスを抱えて立っていた。
「たまたま通りかかったんです。よかったら、ご一緒にどうですか?」
二杯目を飲み干したころ、エリカはふと、ぽつりと呟いた。
「……わたしね、若い頃、一度だけ破産しかけたことがあるんです」
ノワールは驚いたように彼女を見た。
「でも、そのとき支えてくれたのは、やっぱり誰かだった。口座でも、制度でもなくて、ただの人でした」
そう言いながら、彼女の手がそっとノワールの指を撫でた。
「だから、ノワールさんにも。今、ちょっとくらい、頼られたいんです」
そしてそのまま、彼女は膝の上にそっと座った。
「今夜は……商品じゃなくて、わたしを預けてもいいですか?」
答えは要らなかった。
エリカの唇は、もう彼の首筋に触れていた。
大人の余裕に満ちたその動きは、しかしどこかぎこちなさもあって。
ふとした拍子に肩が触れるたび、艶やかな吐息がこぼれるたびに、ノワールは胸の奥が熱くなるのを感じていた。
襟元をゆっくりと解かれ、指先が胸を撫でる。
そして、そのまま身体を重ね、彼女は何も言わずに、ただ小さくひとつの音を漏らした。
それは損失でも利回りでも測れない、柔らかい幸福の音だった。
――けれどその翌日。
「おはようございますっ!」
ノワールの前に、朝の光とともに現れたのはヒル蔵証券のトゥーリだった。
「書類、ちょっとミスがあって……直接、お持ちしようと思って」
目をきらきらと輝かせ、胸元に抱えた書類を差し出す姿は、まるで恋する少女だった。
「あの、ノワールさん……もし、今度、時間があれば、私と一緒に口座じゃない勉強とかしませんか?」
少し震える声。赤くなった頬。
ノワールは、その言葉を断れなかった。
そして夜――
もう一通の使い魔メールが届いた。
From:グランマリー
Subject:お疲れさまです
Body:
今夜、例のカジノ関連の話、続きをしませんか?
気が向いたら、あの時と同じ部屋で待っています。
今度は、少し長めに――甘く、深く。
ノワールは、膝の上に投資報告書を置いたまま、しばらく動けずにいた。
心は指先よりもずっと繊細だ。
この想いは確定できない。
けれど、誰かの温もりに寄せたくて仕方がなかった。
夜の帳が、王都をしっとりと包んでいた。
高層階の窓の向こうに、煌めく街の明かり。
王都証券街の中でもひときわ静けさと熱を抱えるその部屋には、ローズマリーの香が漂っていた。
ソファの上には、長い脚を組んだオークの女性――グランマリー。
肩にかかる黒髪はゆるくウェーブがかかっており、淡いネグリジェが彼女のラインを隠しきれていなかった。
「来てくれたのね、ノワール」
声は囁きのようで、でも確かな響きを持っていた。
「……来ないつもりでした。でも……来てしまった」
正直なその言葉に、グランマリーはくすりと微笑む。
「なら、遠慮なんて、いらないでしょう?」
立ち上がった彼女はゆっくりと歩み寄り、ノワールの手をとった。
「今日だけは、資産でも、利回りでもなく――あなたの鼓動だけを見せて」
唇が重なる。ゆっくり、そして深く。
彼女の手がノワールの胸元をほどく。ネグリジェの裾がさらりと落ちる。
豊かな胸があらわになり、その柔らかさがノワールの指先に触れる。
「……硬くなってる」
「触ってるから……」
思わずこぼれたノワールの声に、彼女は悪戯っぽく笑った。
「あなたの反応、悪くないわね」
ベッドの上、二人はもう言葉を持たなかった。
彼女の指が首筋を這い、舌が耳の裏をなぞる。
ノワールの手が腰を抱き寄せると、彼女は一度、息を漏らした。
「そのまま、入れて。……じらさないで」
太腿を開かれたまま、彼女は羞じらう様子もなく、正面から彼を迎えた。
蜜のように湿った入口に導かれるまま、ゆっくりと彼女の中へ、程々の大きさの根っこが沈んでいく。
奥に触れた瞬間――
「あっ……、んんっ……」
低く湿った声がグランマリーの喉から漏れた。
ノワールはすぐには動かなかった。
ゆっくり指を絡め合い、彼女の頬に唇を押し当てた。
「……好きとかまだ分からない。でも、今日は……」
「ええ。分かってる。今日はそれでいいの」
そして、ひとつ、ふたつと波が打つように身体を動かし始めた。
グランマリーの瞳が揺れる。彼女の手が背を撫で、脚が絡む。
押し寄せる熱に、何度も名前を呼び合いながら、ふたりは何度も高みに達した。
その夜、投資口座に動きはなかった。
でも心の口座には確かな温もりが預けられていた。
……そして朝。カーテンの隙間から差し込む陽の光のなか、グランマリーはうつ伏せのまま、少し眠たげに笑った。
「ノワール。今度は、長期保有でお願いね?」
ヘイヘイ29年、王国暦の新しい年が明けた。
元旦の鬼ヶ島王国は、お節の代わりに焼きシャコガイと芋酒で新年を祝う風習があり、ノワールの家にも近所の獣人が持ち寄った土鍋が並んでいた。
……が、彼の目は、朝からずっと使い魔トレード端末に釘付けだった。
「……柔らかバンク、値上がってる」
通信業界大手柔らかバンクは、年明けの市場で急伸を見せていた。
昨年末に仕込んでおいた100株が、すでにプラス圏に浮上している。
年始に届いたヒル蔵証券の使い魔からのメッセージは、思いがけず的中していたのだった。
その日、ノワールは思い立ち、ヒル蔵証券の支店へ足を運んだ。
あの小さなドアを開けると、ちりんちりん、と鈴が鳴った。
「おはようございますっ!」
トゥーリが、変わらぬ笑顔で立っていた。年始早々にもかかわらず、いつも通りの制服姿で。
「今日も……来てくださったんですね」
「うん。柔らかバンク、ありがとう。……助かったよ」
「ふふっ。ノワールさんに喜んでもらえると、私、なんだか……こう、がんばりたくなっちゃいます」
言いながら、彼女は帳簿を抱えたまま、頬を染めた。
しかしその時。背後のカウンターから、トントン、と足音が響いた。
「トゥーリちゃん、その書類、まだなの?」
振り返るとそこには、背の高い、猫耳の少女が立っていた。しなやかな体つきに、腰まである銀髪。
目尻にかかった眼鏡が知的な印象を与えつつ、その微笑はどこか小悪魔めいていた。
「あっ……ご紹介します。こちら、ミレナさん。この春からうちの証券チームに加わった方で――」
「ミレナ・フォルト。投資歴、10年。趣味は短期トレードと……年上の男性、かしら」
さらりと言って、ミレナはノワールの目の前に手を差し出した。
「あなたがノワールさん? ヒル蔵で本命を持たない投資家として、ちょっと有名よ」
「は、はあ……?」
「でも、そういう人って、意外と……落としがいがあるのよね」
彼女の指が、ノワールの手の甲をそっとなぞった。
(……なんだこの人)
どこかグランマリーに似た、けれどもっと獰猛で、積極的な攻めの匂い。
その瞬間、トゥーリが小さく、ぎゅっと帳簿を抱きしめた。
「ミレナさん……ちょっと、そういうのは、ノワールさんが困りますよ……」
「まあ、嫉妬? かわいいわね、トゥーリちゃん」
女の火花が静かに散った。
ノワールは思った。
――新年早々、確定していたのは恋心ではなく、混乱だけかもしれない。
その夜、ノワールは自室でひとり、柔らかバンクの株価チャートを眺めていた。
終値は、8,363シャコガイ。
午前中の高騰が嘘のように、午後には一時的に下落し再び戻った。
その乱高下に、投資家たちは一喜一憂しただろう。
――だがノワールは、株よりも別の動きに心を奪われていた。
ピコン、と使い魔トレード端末が震える。
差出人はミレナ・フォルト。
【今夜、時間ある? 市場の話、もう少し深く教えてあげる。もちろん、投資だけじゃないわ】
そして、指定された部屋へ足を運んだ。
そこは、王都南部の高層マンションの一室。
スタイリッシュな調度品、ワイングラス、シルクのソファ――そして、バスローブ姿のミレナ。
「いらっしゃい。……入って」
ガウンの隙間から覗く白い太ももと谷間に、ノワールの喉がごくりと鳴った。
「……君の投資法って、いつもこんなに……誘惑じみてるのかい?」
「ふふ、投資も恋も、タイミングと突っ込みが大事よ」
その一言で、ソファの間の空気が甘くとろけた。
ミレナはワインを注ぎながら、ノワールのネクタイに手をかけた。
「ほどいてあげる。今日は、利確日でしょ?」
唇が近づく。彼女の舌がノワールの唇をゆっくりなぞり、やがて軽く吸い上げる。
「あ、あ……」
ノワールはもう声にならない。
服を脱がされ、ソファへ押し倒され、体温を測るようにミレナの手が腹部から下へ滑っていく。
「もう……こんなに、反応してる。可愛い」
バスローブが開かれ、滑らかな乳房が露わになる。ノワールの指が震えながらそこへ触れると、ミレナは小さく喘いだ。
「遠慮しないで。好きにして……ノワール」
身体を重ねるたび、ミレナはまるで相場のように気まぐれに、でも激しく揺れた。
脚がからみ、髪が乱れ、息が熱を帯びるたびに、ノワールは飲み込まれていく。
「奥、きて……いい。もっと、突いて……っ」
胸の奥に届く感触と、彼女の叫ぶような囁きにノワールの心が決壊する。
夜は終わらない。ミレナは何度も何度も、投資のように彼を求め、
ノワールもまた、自分の資産を惜しげなく彼女に委ねた。
――そして夜が明けるころ。
ミレナはシーツを巻いたまま、彼の耳元で囁いた。
「……一番になるつもりよ。恋でも、投資でも」
その言葉が、ノワールの心の中で、確定の鐘のように鳴り響いた。
今日も王都は、よく晴れていた。
けれどトゥーリの胸は、晴れなかった。
ヒル蔵証券の小さな事務室。帳簿をめくる手が止まるたび、彼のことを考えてしまう。
――ノワールさんは、昨夜、ミレナさんと……。
想像するたび、胸の奥がちくりと痛んだ。
背も、胸も、年収も、経験も、きっと全部ミレナさんの方が上。
見た目はただの子ども、ほんとの年齢を言えば引かれてしまう。
そんな自分が恋なんてしていいのか。そのたび帳簿の数字が滲んだ。
でも。
「……それでも、わたし……ノワールさんのこと、好きなんです」
そう、心に言い聞かせて、彼の家のドアを叩いた。
「トゥーリ……?」
驚いた顔で出てきたノワールに、トゥーリは目を逸らせず言った。
「話が、あります。……いえ、話だけじゃ、ありません」
顔が熱い。でも止めなかった。
部屋に入るとすぐ、帳簿を広げるふりをして、そっと指先を伸ばした。
ノワールの手の甲に自分の指を重ねた。
「……触れても、いいですか?」
頷いてもらえた、それだけで胸がいっぱいになった。
けれど、今夜は引かないと決めていた。
小さな体を、彼の膝に乗せるようにして向き合う。
服の袖をくぐらせた指が、彼の胸元に触れた。
唇が震えながら、そっと重なる。
「こんな、子どもみたいな私じゃ……満足できませんか……?」
小さな声で囁くと、ノワールは首を横に振った。
「トゥーリ……君は、ちゃんと女の子だよ」
その言葉で、涙がこぼれそうになった。
だから、もう一度、今度は自分から唇を寄せた。
ネクタイを外し、シャツを脱がせ、胸に頬をあずけた。
彼の手が戸惑いながら背中を撫でる。
「やさしく、して……ください……ね?」
その夜、彼女は自分のすべてを差し出した。
手を引かれるようにベッドに横たわり、
指が太腿を撫でて、花びらのように柔らかな場所を探る。
「ん、ふぁ……や……あっ」
小さな声が漏れるたびに、ノワールの手は優しく、奥へと進む。
そして。
「……入れて、ください。今夜は……大人に、なりたいんです」
ゆっくりと、でも確かに結ばれた。
小さな身体が震えながら、彼の程々の大きさの根っこを迎え入れた。
奥まで届くたびに、彼女は抱きしめて、名前を呼んだ。
ふたりだけの、静かで熱い夜だった。
終わったあと、ノワールに背中を撫でられながら彼女は囁いた。
「明日からも、私は証券レディですから。……でも、今日だけは……お嫁さんみたいに扱ってくれて嬉しかったです」
その寝顔は女の子として、誰よりも愛らしかった。
夜明け前の空は、藍と紫の間に揺れていた。
ノワールは起きたばかりのベッドの上で、天井を見つめていた。
隣では、小さな寝息を立てるトゥーリがシーツに包まっている。
指先が、彼女の頬に触れた。驚くほど柔らかくて、あたたかくて――けれど、そのあたたかさが、かえって胸を締めつけた。
(……俺は、何をしてるんだろう)
数週間前までは、ただ年金と老後を案じていた。
ミンチ肉専門学校の卒業を控え、細く、穏やかな日々を想像していた。
けれど今は――
グランマリーと熱を交わし、ミレナに翻弄され、そしてトゥーリの涙に触れた。
投資も、恋も、答えは簡単には出せない。
どちらを選んでも、失うものがある気がした。
窓の外、朝日が差し込む。
ノワールはそっと、寝台を抜け出してキッチンに立つ。
ハーブティーの香りが部屋に広がった。
と、その香りに誘われるように、トゥーリが目を覚ました。
「……おはよう、ございます」
眠そうな声。けれど笑みは確かにそこにあった。
「トゥーリ。昨夜のこと、後悔してない?」
「してません。……でも、少し不安です」
「どうして?」
「だって、ノワールさんの隣に立つには、わたし、まだ小さくて未熟で……」
「……でも、もう大人だよ」
ノワールはそっと、ティーカップを彼女の前に置いた。
「俺も、選ばなきゃいけない日が来ると思ってる。……恋も、資産も、放っておけば逃げるから」
トゥーリは一瞬、言葉を呑み込んでから、優しく微笑んだ。
「……はい。待ってます。ちゃんと選ばれる側になれるように」
そのとき、使い魔トレード端末が鳴った。
新しい通知。
【カジノ関連銘柄 大福屋、爆騰中!】
【モミガラケシノミも急騰再開】
【王国政府、税制優遇措置の発表か?】
――投資も恋も波に乗るなら今だった。
ノワールは決意する。
逃げないこと。答えを先延ばしにしないこと。
この熱と、このぬくもりを、ただの「一晩の出来事」にしないために。
そして今日、もう一人の女性に会いに行くつもりだった。
グランマリー。
彼の中で、何かが確かに形を取り始めていた。
その夜、グランマリーの部屋には、暖かな光と沈黙があった。
ノワールは、玄関のドアを開けた瞬間から、何も言葉を交わせなかった。
彼女もまた、何も聞かなかった。
けれどそれでよかった。
グランマリーはワインも出さなかったし、冗談も言わなかった。
ただソファに座って、優しい眼差しでノワールを迎えた。
「……ただいま」
「……おかえりなさい」
それだけで、すべてが通じていた。
彼女の指先が、そっとノワールの頬をなぞる。
手の甲で撫でるような動きに、ノワールの心が静かにほどけていく。
「……あの夜のこと、後悔してないわ」
「俺もです。……でも答えは、まだ出せなくて」
「いいのよ。今日は、何も決めなくていい」
グランマリーは微笑んだ。深く包み込むように。
「ただ、私のことを思い出してくれた。それが、いちばん嬉しい」
ゆっくりと抱き寄せられた身体は、しっかりと大きくて、そしてやっぱりどこまでも優しかった。
ふたりは、そのままベッドに身を沈めた。
ノワールの手がグランマリーの髪をすくい、うなじに口づける。
彼女の胸元を解くと、前よりも少しだけ早く、布が滑り落ちていった。
「今夜は……、長く抱いて?」
「……うん。何度でも、あなたが満ちるまで」
熱を帯びた肌が重なり合い、彼女の脚がノワールの腰を受け入れるように開いた。
唇が重なるたび、名前を呼び合うたび、何度も高鳴る心音が響く。
胸元に頬を預けながら、腰を揺らすノワールに彼女は小さく呻いた。
「あ……奥、だめ、そんなに……気持ち……いい……っ」
それでも止めなかった。
今夜は快楽だけではなく、確信が欲しかったから。
グランマリーの身体の奥に満たされる熱が、
彼女の心にも、きっと届いていると信じたかったから。
そして何度目かの絶頂のあと、ノワールは、グランマリーの耳元で囁いた。
「俺……たぶん、あなたのことが好きなんだと思う」
彼女は言葉を返さなかった。
ただ頷いて、彼の髪を撫でて、そして深く――微笑んだ。
その夜、シャコガイ市場は静かに閉じたが、ふたりの関係は新しい価値で確定された。