パチパチパチ、指先で珠を弾いて上下に滑らせる。
比較的最近になって普及し始めた計算道具――――――
「ふぅ。」
計算を何度か試して間違いないことを確認してから書類に額を記入し、同時に自分のサインを付ける。
顧客からの依頼料、作った家具を納品した時の売却額、設備の維持費、人件費、材料費、国に納める税金等々………………一言で会計といっても勘案すべき事柄は多数に上り、確認しなくてはいけない項目は山積している。
会計事務を行っている職員は何人か雇っているが、必ずしも彼ら彼女らだけで処理しきれるものでもない。
なので、経営者である自分もこうして暇を見つければ会計の手伝いのようなことをしている。
「暇を見つけては、とおっしゃいますがラストル社長。もう、夕方になりますよ。」
「おや、もうそんな時間ですか。職員の皆さんも仕事に一区切りついたら今日は退出していただいて結構ですよ。」
職員の一人が声を掛けてきたので、処理が終わった書類を片付けながら退勤の許可を出す。
窓の外を見てみれば空は夕暮れの色に染まりつつあり、建物はその影の色を黒く濃くしていた。
「わかりました。下の工房にもそう伝えておきますね。………社長はどうなさいますか?」
「僕は………そうですね。もうしばらく仕事をしてから帰りますよ。」
会計の仕事は終わったが、他にもやっておくべきことは色々とある。
付き合いの長い取引先への手紙や、同業者への連絡、資材や商品の輸送の手配、これから売り込みを掛けたい製品のプレゼン資料、工房から上がってくるインシデント報告への目通しと対策の考案……………トップである自分がやっておくべき仕事は多い。
家具工房の経営者である僕だが、僕はあくまで経営者であり工房で職人たちに混ざって
ならせめてこうした事務仕事だけでもこなして、『らしい』ことはやっておきたいのだ。
「………あまり、根を詰めすぎないでくださいね。」
「えぇ、大丈夫ですよ。」
僕の目を見て職員は少し呆れたような溜息を吐いてからそう言った。
部下としては上司が仕事をしているのに自分だけ先に帰るのは心苦しいものがあるらしいが、僕が残業をして部下に命じて帰らせるのはいつものことだった。
それを承知しているのだろう。彼も特に何か文句を言うことはなかった。
それから掃除や後片付けに関して幾つか連絡を交わしてから職員は帰っていった。
「さてと………。」
パタン、と音がして執務室の扉が締められるのを見送った。
それからほどなくして職員達が簡単な掃除や後片付けをする音が建物のあちこちから聞こえ始める。
僕はそれを音響代わりに聞きながら、自分の残りの仕事に取り掛かった。
******
カリカリとペンを紙の上に走らせて書類を処理していく。
僕が使っている紙は製紙工房が木材を加工して作ったものだ。現状の費用面では、羊皮紙より少々割安といった程度だが、ゆくゆくはもっとコストダウンが図られて安く多く供給されることになるだろう………、というのは取引先で聞いた話だ。
確かその話をしてくれたのは『商連』に属する商人………つまりはプレイヤーだったように思う。
プレイヤーは不思議だ、特に商人のプレイヤーは。彼らはまるで将来的に何が普及するのか分かったうえで投資しているような節がある。
彼らに未来を知る能力があるというのであれば(おそらくはないと思うが)、同じ商人の端くれとして後塵を拝し続けるのは忸怩たる思いがある。
「………うん。」
そんなことをつらつらと考えていると、手元の書類の字が随分見えづらくなっているのに気付いた。
既に外の日は落ちて夜になっているようだ。道理で暗いはずである。
窓が面している通りにはちらほらと街灯の松明に火が灯されていた。その明かりが執務室に差し込んでくるが、流石にその明かりだけでは仕事に差し障りがある。
僕は机の上の魔石式ランプのスイッチを入れた。パチッと言う音がして橙色の明かりが室内を照らしてくれる。
ランプの魔石は昨晩入れ替えたばかりなので、明かりが途中で切れる心配はしなくていいだろう。
調子を確かめてから僕はまたしばらく仕事に取り掛かった。
「………………。」
………取り掛かったのは良いものの、もう自分が処理すべき仕事は大体やりつくしてしまったことに気が付いた。今やっている書類が恐らく最後になるだろう。
やろうと思えば仕事を捻出することもできるが、さすがにそれをやると明日に何をやったらいいのかわからなくなるし、部下に与える仕事がなくなってしまう。
「………………うーん。」
僕はしばらく考えてから最後の書類を仕上げ、ここで残業を切り上げることに決めた。
書類を束にして片付けてから、もう一度執務机の椅子に深く腰掛ける。
背もたれに寄り掛かるとぎぃ、という軋み音が聞こえた。慣れ親しんだ音である。
椅子に座って僕はしばし逡巡して………机の一番下の引き出しを開けた。
一番下の引き出しに入っているのは確かにあまり人に見られたくないものだが、鍵をかけるほどのものでもない。取っ手を引くと引き出しはあっさりと口を開いた。
僕がそこから引き出したのは――――――お酒の瓶とグラスだった。
片手で持っても軽い小さな瓶の中には濃い琥珀色のお酒………ラム酒が入っている。
これをショットグラスに注いでストレートで飲む。
アルコール特有の熱さと共に焦がした砂糖のような香りが喉と鼻を抜けるのを楽しんだ。
ここに他の職員がいたら、執務室でお酒を飲むことに良い顔をされないのだろうが、今は僕一人なので気兼ねなく飲める。
仕事を終えたことへの自分から自分への労い、という名目なので大目に見てほしい。
………というかここ最近これが自分の趣味になりつつある。
誰もいない夜の執務室で仕事を終えてから一人の晩酌。
この静かで誰にも邪魔されない夜のひと時は、僕のお気に入りの時間だった。
ただ、夕食も食べずにお酒だけ飲むというのは些か不健康に過ぎるだろうか。
この一杯を飲んだら戸締りをして、どこかのレストランで夕食を取ることにしよう。
そんなことを考えながら、少しずつラム酒を口に含んで味わい、物思いにふける。
――――――コンコン。
「………?」
グラスを傾けていると突如、何処からかノックをする音が聞こえた。
もう職員は皆帰っているはずの時間帯だ。
それとも誰かまだ居残りで作業をしていて、今から帰るのを伝えに来たのだろうか?
だがドアに視線を向けたとき、その音源が聞こえてくる方向がおかしいことに気が付いた。
ノックの音は執務室の扉から聞こえてくるものではないのだ。
なら、どこから?
予感のような直感にひかれるままに背後を振り向く。
自分の執務室は建物の二階にある。人がそこをノックすることなどありえないはずだ。
だが、そこには確かにいた。
夜の闇を移す窓の向こう、街灯の明かりで逆光になった黒い人影がこちらを覗き込んでいた。
長い髪を夜風にゆらすその小柄な少女の人影が二階の窓ガラスを叩いている。
少女の影は「コンコン、コンコン」と絶え間なく一定のリズムでノックを繰り返し、窓越しに氷色の目で僕を見つめていた。
その姿を認めた瞬間、胸の中で心臓がドキン、と音を立てて跳ねる。
あまりに急に跳ねたせいで胸の奥に痛みが走ったほどだ。
だがそれは恐怖ではなくて――――――突然に会えたことの、喜びだった。
「まったく………貴女という人は。」
席を立って窓の鍵を開ける。
だらしなく緩みそうになる頬をごまかして表情を作る。
何とか苦笑くらいに見えていれば嬉しいのだけど。
「リオさん。盗賊ではないんですから………せめて玄関から入ってきてください。」
「玄関が閉まっていましたので………。それはそれとして全く動じてませんね、ラストルさん。ちょっと驚かそうと思ったのですけど。」
「貴女に会えた喜びの方が大きいですよ。」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないですか。」
開いた窓から、窓の桟を蹴って少女――――――リオ・オーガスタが部屋に飛び込んで着地する。
着地した瞬間にふわりと長い髪が舞って花を散らしたような甘い香りが鼻を擽った。
床の絨毯の上で革靴を滑らせてくるりとターンして、彼女はころころと笑いながらあどけない笑みを浮かべた。
それを見て、胸の中にじんわりと温かいものが込み挙げてきて、僕も微笑みを浮かべた。
リオ・オーガスタ。
この街でも有数の実力を持つ凄腕の冒険者であり――――――僕の愛人。
「こんばんは、ラストルさん。今夜も残業………のついでに晩酌ですか?いけませんね、いけません。夕飯は済ませましたか?空っぽの胃粘膜にアルコールのダイレクトアタックは負担が大きすぎます。胃が焼かれますよ。」
「あはは、体に悪いという自覚はあるのですが………ちょうど今、夕食はどこに食べに行こうかと考えていたところでもあります。」
「おやまぁ、それはタイミングが悪い。私は丁度夕食の帰りでして………ご相伴には預かれませんが、お土産ならありますよ。」
彼女は左手首の端末から何やら袋を取り出した。
開いてみると中身はケーキの類だった。
夕食を食べたレストランで帰り際に包んでもらったものらしい。リオは紙袋を裂いて簡易の皿にしながら一つ摘まみ、僕にも食べるようにと促してきた。
手のひらサイズに切り分けられたパウンドケーキを摘まみ、口に運んで咀嚼する。
ふんわりと焼き上げられた生地の中には干した果物が練り込まれており、慎ましやかな甘みを演出していた。
「んー………、丁度ラム酒とよく合いますね!」
「リオさん、それ僕のお酒とグラス………。」
「いいじゃないですか、ちょっとくらい。貴方と私の仲でしょう?」
机の上の瓶とグラスを勝手に取ってケーキと一緒に飲み始めるリオ。
苦言を呈するとくすくすと悪戯気に彼女が笑うので、「全部は飲まないでくださいね」と釘を刺すだけにとどめる。
あぁ、もう。彼女の微笑みを見るといつも押しが弱くなってしまう。
これは――――――いわゆる惚れた弱みというやつなのだろうか。
それにしても今日のリオはやたらと上機嫌で、良く笑う。
ケーキを頬張りながら屈託のない笑みを浮かべるその頬はいつもよりも赤らんでいるようだった。
ついでに言うと彼女はいつもよりも服を着崩していた。
ストッキングや手袋を外しており、長い脚や細い指が露出している。
ブラウスも胸元を緩めているし、いつものジャケットも袖を通さずに肩に引っ掛けている。
そんなこともあって露出した白い肌に健康的な朱色が差している様が良く見えて少々目の毒だった。目の保養かもしれないが。
「リオさん、今日は随分と上機嫌ですね。」
「えぇ、今日はセルフ打ち上げパーティーというやつです。随分と飲んでしまいました。」
「打ち上げ………ですか?」
「はい。そうですね、忘れないうちに出しておきましょうか。」
彼女はそう言うと部屋の壁際に端末から出した石材を積み上げ始めた。
そのブロック状の石は新雪のような美しい白さを持っており、そのうちの最も大きいものは人が抱えるほどのサイズがあった。
そんな大型の石が六つあり、他にも小ぶりな石が幾つかその上に並べられた。
僕が以前彼女に依頼した素材――――――『
「もう取ってこられたんですね。ありがとうございます。早速買い取りの査定を――――――、」
「別にいいですって、そんなに急ぐわけじゃないですから。支払いの準備ができたら連絡をくれるっていう形で大丈夫ですよ。」
貴女が支払いを踏み倒すような人でないのはわかっていますからね、とそう言ってリオは僕に微笑みかけた。
そこまで信用してもらえるのは商人冥利に尽きる。同時に彼女のそんな期待を裏切ることはできないな、と心の中で帯を引き締め直す。
「今夜ここに寄ったのはただの散歩気分だったんですけどね。部屋に明かりがついているのを見て、ついでに渡しておこうかなと。」
「それで窓から。」
「そう、窓からです。………大丈夫です、下からスカートを覗かれるようなへまはしていませんよ。」
「それは重畳です。」
二人して顔を見合わせてくすくす、と笑い合う。
グラスにラム酒をついで回し飲みしつつ、お土産のケーキを食べながら、他愛のない雑談に花を咲かせた。
僕は椅子に座り、机の上に腰かける(行儀は悪いがあえて窘めることはしなかった)リオと言葉を交わす。
やはり一番の話題は今回の『
僕は一商人として家具工房を経営する人間であり、そういった斬った張ったの世界とは縁がない。
だから彼女の語る体験談は同じ町で起こっている地続きの出来事でありながら、どこかここではない彼方の御伽噺を聴くようで、童心に帰るような心地だった。
ありていに言えばワクワクさせてくれる話――――――だったのだが、その中に一つどうしても聞き逃せないことがあった。
「………同行者がいらしたんですか?」
「えぇ、同行者というか遭遇者というか………。『彼』とは地下都市の第四層で出会ったんですよ。彼はキムロという名前のリカントの侍でして――――――、」
リオはグラスに口を付けながら上機嫌に今回の旅の道連れになったという人物の………僕の知らない、男の人の話をする。
機嫌良さそうに。
「………………。」
彼女の話に相槌を打ちながら、胸の奥の方にちくりとした小さな痛みを感じる。
楊枝の一本、魚の骨の一本が刺さったような、小さくてそれでいて無視できない、ささやかな痛み。
………いや、わかっている。
僕は彼女の唯一無二の男性というわけではない。僕以前に関係を持った男性も大勢いたと彼女は言っていた。
第一、僕と関係を持つときにも「自分は誰か一人のものにはならない」と彼女は宣言していたし、僕もそれを了承した。
にもかかわらず、自分以外の男性の事を楽しげに語られることに胸の痛みを覚えるのは――――――僕の身勝手なのだろう。
「………ラストルさん?」
リオの声が耳を打つ。思わずはっと顔を上げる。
知らないうちに物思いに耽っていたようだ。
「いや、申し訳ありません。少し考え事をしていたもので。」
そう言って場を繕い彼女に話の先を促した。
しかし彼女はくすり、と笑うと机の上で片膝を掛けて座り、細めた視線で僕を見つめた。
悪戯な光を浮かべる澄んだ冬空色の瞳の中に、僕の姿が映っていた。
「もしかして―――妬いてます?」
「………………そんなことは、ありませんよ。」
図星を突かれた。思わず顔が赤くなりそうだった。
自分の心の動きをごまかすためにお酒を注いで一息に飲んだ。フルーツケーキのほのかな甘みとラム酒の苦み交じりの甘さが口と喉の奥で混ざり合うのを味わう。
そんな僕の様子が可笑しかったのか、リオは自身の膝に顎を載せてくすくすと笑っていた。
「本当に、妬いてません?」
「………少しだけ。」
彼女の見透かすような視線から逃れるために、目を反らしながら呟いた。
嘘ではない。嫉妬しているのは少しだけだ。
ただ――――――その僅かな嫉妬が針のように痛み続けるだけ。
本当はそんな資格なんて、自分にはないくせに。
「男の人は難儀ですね。」
「………リオさんはどうなんでしょう。自分と仲の良い………
「――――――いえ、別に。特に何も感じないでしょう。………………私は誰か一人のものにはならないと決めていますし………だから同じように、誰かを自分のものにしたい、と考えたことは無いです。」
『誰かの一人のものにはならない』。
そう語る彼女の表情はどこか遠くを見つめているような、そんな神妙な色があった。机の上のランプがそんな彼女の横顔に複雑な陰影を落としていた。
ならないと決めている………………、と彼女は言った。『感じている』ではなく『決めている』と。
そう決意を固めるだけの何かが、彼女にはあったのだろうか。
僕にはわからなかった。
わからなかったが………聞こうとは思わなかった。
彼女は冒険の体験談や経験談などは聞かせてくれるが、『リオ・オーガスタ』自身の過去のルーツのようなものに関してはいつも話をはぐらかせていたからだ。
彼女が語りたくないのであれば、僕もそれを無理に聞くべきではないと思った。
だからこそあえて彼女の内面には踏み込まなかった。
結果として今の、依頼人であり飲み友達であり、愛人でもあるという絶妙な距離感が保たれているとも言える。
その距離感に満足を抱いている僕が嫉妬を抱くなど………お門違いもいい所なのだろう。
「ラストルさん。私の事は好きですか?」
「………えぇ、好きですよ。」
「ありがとうございます。私も好きですよ。」
机に腰かけたままのリオが唐突にそんなことを訊いてくる。
それに僕は嘘偽りない気持ちを返した。
これは本当の事だ。彼女のことが好きでなければ――――――彼女に好きだと言って、彼女に好きだと言われて、こんなに胸の奥が温かくならないはずがない。
リオは机から降りて床に足を付けた。肩から羽織っているジャケットを机に無造作に掛けて置いた
そして椅子に座ったままの僕に歩み寄って――――――僕の頬に指で触れた。
白木づくりの筆のような、繊細で美しい指だ。
彼女の氷の色をした瞳が熱を帯びたように潤んで僕の目を見つめている。
「でも好きになっても――――――私に恋したり、愛したりしないでくださいね。」
そう呟いた彼女の声音は何かの悔いを語るような、懺悔するような、そんな悲しい響きがあった。
そんな悲しい響きが嫌だな、と僕は思った。
僕は彼女の方に自分の手を伸ばし、その髪に触れた。
金糸のように細く艶めいていて絹糸のように滑らかなそれは、少ししっとりとした手触りをしていた。
ここに来るまでの間にお風呂にでも寄っていたのだろうか、甘い香りがいつもより強くて心が痺れるようだった。
「好きになるということは………恋や愛とは違いますか?」
「違いますよ。強いて言うなら――――――恋は焦がれるもので、愛は溺れるもの、でしょうか。………………どちらも息ができなくて、死んでしまいます。」
リオはやはり悲しそうな声でそう語った。
………きっと彼女は
焦がれるように熱くて、溺れるように深くて、そして息もできないような経験を。
そして――――――彼女にそんな気持ちを味あわせることができるのは自分ではないのだろうと思うと、やっぱり胸が痛かった。
「でも――――――それでもいいでしょう。」
自分に添えられている彼女の手を引っ張り、彼女の体を引き寄せた。
リオはきょとん、とした顔で僕の腕の中に納まる。
細くて華奢で、小さく愛らしく、そして暖かい彼女の体を抱きとめる。
息を吸い込むと甘くて痺れるような香りがして胸の奥がトクンと高鳴った。
「ラストルさん………?」
「どういう何があったところで――――――今は………今この瞬間だけは、僕だけの貴女で、貴女だけの僕ですから………。」
すっぽりと腕の中に納まる彼女の体を抱きしめる。
彼女が自分の知らない男に、自分が今そうしているように抱かれているのを想像すると狂おしい気持ちになる。
確かに僕は、彼女にとっては数多くいる体で関係を持っただけの男に過ぎないのかもしれない。
それでも――――――それでも、今この瞬間だけでも、僕らは二人だけだった。僕だけの彼女であり、彼女だけの僕だった。
誰かに縛られることを殊更に嫌う彼女に対して何かと身勝手な話だけど………これが紛れもない僕の本心であり、真実だった。
「あっ………♡」
抱きしめている腕にぎゅっ、と力を籠めるとリオの吐息が耳元を掠めた。
耳朶を震わせるその悩ましい吐息はラムとケーキの甘い香りと――――――アルコールの匂いがした。でも、そんなところが彼女らしいと思う。
「リオさん………。」
抱きしめる腕を離して向かい合う。
彼女の小さな体躯は僕の腕に納まるほどで、今は椅子に腰かける僕の膝の上にそれこそ童女のように対面で向かい合うように座っていた。
夜に落ちた執務室、机の上の橙のランプの明かりの中で彼女の姿を改めて確かめる。
愛らしく、そして美しいと僕は思った。
腰まである長い髪は金糸のように光沢があり絹糸のようにサラサラとしていた。
瞳の色はアクアマリンのように透き通った水と氷の色をしており、頬は少女のように丸みを帯びていながら面立ちは女性的に細く整っており、愛らしさと美しさが奇跡的なバランスで調和していた。
体躯は幼ささえ感じられるほどに小さいが、胸のふくらみや腰のくびれは確かに存在していて、まるっきり幼女体形というわけではなかった。むしろ小さくまとまっている、と形容した方が正しいだろう。
肌は染み一つなく真っ白でともすれば不健康との印象も与えそうなものだが、今はそこに血が通っていることを確かに知らしめるように桜色に紅潮していた。微かに汗をかいてしっとりと湿っている様は、むしろ艶めかしさを感じさせた。
まるで熟練の職人が精魂込めて作り上げた人形が、命を吹き込まれて歩き出したかのよう。
芸術品のようにそこで佇んでいるだけでも価値がある人形めいた可憐さと、野を駆けて山を駆ける動物のような躍動感あふれる瑞々しさが同居していた。
「ん………っ」
ガラス細工に触れるように優しく、そっと彼女の
唇同士を触れ合わせる、その粘膜一枚だけの接触だけで心の内に温かくて熱いものが込み上げてくる。
その衝動に逆らわず、僕は彼女の顎を傾けさせてより一段と深く口を合わせた。
互いの唇を割るように舌を差し出して絡め合うディープキス。
彼女の口の中は砂糖菓子のような味がする。
これは多分、さっきまで食べていたお酒とお菓子の味だ。なら自分の中も同じような味がするのだろうか?
自分の口の奥から唾液を出して舌で給仕するように彼女の口へと流し込めば、彼女もお返しとばかりに唾を届けてくれる。
リオの小さな舌と僕の舌が互いの体液を交換し合うくちゃくちゃ、という品の無い音が夜の執務室にこだました。
「………………………っ、ぷぁ………っ。ラストルさん………♡」
何分もの間たっぷりと口と口で交わってから互いの顔を離す。互いの舌先に着いた唾液が糸を引いて中空でふつり、と切れるのが見えた。
はぁ、はぁ、と二人して荒い息を上げながら見詰め合う。
リオはそのつぶらな瞳の
彼女の頬は上気して桃のよう。唇は桜色に艶めいて熱い吐息を零していた。
「………………………リオさん、脱がしても………?」
僕が問いかけると彼女は言葉もなくこくん、と頷いた。
彼女の悩ましい表情を見ていると胸の奥がドクンドクンと騒がしくなる。頭の奥が痺れるような心地。
僕は彼女の了解を得てから着ているブラウスのボタンに手を掛けて、胸元を大きくはだけさせた。
細い首筋から鎖骨までのライン微かに朱色が差してうっすらと汗をかいていた。
造りの小ささに似合わない色気を見せるデコルテの更に下、彼女の乳房を覆っているのは薄い水色のブラだ。
僕は彼女の首筋や鎖骨に顔を埋めるように何度もキスをして、掌でその慎ましくも張りのある胸に手を伸ばした。
微かに汗ばんだ彼女の肌は少し塩気があり、そして甘い香りがした。
「んっ、ふぅ………っ、んん………♡」
ちゅっ、ちゅっ、と白い肌の上に跡を残すように何度も口づけをする。
ブラの下に手を差し込んで胸をまさぐり、その先端の小さな肉塔を手の上で転がした。
こりこりとした乳首を掌でくじるように動かすとリオは眉根を寄せて官能の声を上げた。
そして僕の愛撫の間、彼女は何もしていないわけがなかった。
リオは片手で僕の頭を抱えるようにしながら、もう片方の手で自分のスカートの下に手を伸ばしていた。
僕からは死角になって見えない場所で指が布地を擦るしゅっ、しゅっ、という音がして、その中に時折何かが粘るような音が混じる。
彼女は指だけではなく、時折悩まし気に体をくねらせていた。腰を僕のズボンに擦り付けるように、あるいは胸を僕の手に差し出すように。
僕の膝の上でリオは肌を赤く染めながら婀娜っぽい踊りを踊る。
「ねぇ、ラストルさん………わたし………………」
彼女の熱に浮かされたような声が僕の耳に届いたかと思うと、腰に快感が走った。
リオの小さく細い指が僕のズボンの股間の部分を撫で上げている。
自分でも気づかないうちに僕の
そしてそこをリオの手がズボンと下着の上から揉むように触ってくる。
掌で下から上へと優しく睾丸を撫で上げる。指先で亀頭をきゅっ、と扱かれると下着の布地と擦れ合って気持ちがいい。
でも流石にパンツの中に射精するわけにはいかない。そんなもどかしい気持ちのまま快感が腰の奥で蓄積される。
声を上げて抗議しようとしたところで、彼女の手がまた動く。
今度はそのまま僕のズボンとパンツをずり下げてペニスを露出させたのだ。
窮屈な狭い場所から解放された僕の愚息はぶるんっ、といっそ滑稽な動きを見せて立ち上がった。
赤黒い亀頭をパンパンに張りつめさせた僕の性器はその奥に溜まっている欲望を吐き出す時を今か今かと待ち焦がれているようだった。
いや、正確にはそれを待ち焦がれているのはその持ち主である僕自身だった。
今すぐこれを勢いよく扱いて、睾丸の奥にドロドロに溜まった雄の汁を射精したらどれだけ気持ちがいいことだろうか。
そんな男の欲望の塊、その象徴とも呼ぶべきものにリオは熱い視線を注いでいる。
そして彼女は、今度は直接そこに手を触れてきた。
すべすべして熱を帯びた彼女の手が亀頭を包み込むようにくるくると撫でる。これだけでも射精していいと思わせるような気持ちよさだったが、同時に射精に導くような力強い手技ではなかった。
リオの綺麗な手の中にたっぷりと透明な先走りの汁がにちゃにちゃと塗り込まれる。
彼女はその汚れた自分の手を顔の前まで持ってきて――――――舌で舐めた。
「くさい………………♡」
「………ごめんなさい。まだお風呂に入っていないので………」
「いいんですよ、べつに………♡ んふふ………すごく、くさくて………………いいにおい………♡」
くさい、と言いながらリオはすんすん、と何度も鼻を鳴らして先走りでべったりと汚れた自分の掌の匂いを嗅いでいた。
その表情はとろんとふやけたように緩んでいて、目の奥には本当に幸せそうな光が浮かんでいた。
正直男である自分には自分のペニスがいい匂いがすると言われても首をかしげざるを得ない。
でも僕も情事の時、女性の愛液から甘酸っぱくていい匂いがすると感じる時がある。きっとそれと同じことなのだろう。
僕の匂いをひとしきり堪能したリオは、僕の膝の上に跨ったままスカートをたくし上げた。
その奥にあるのはブラと同じ薄い水色のショーツだ。そしてその股間の部分には確かに水で濡れたような染みができている。
僕はその奥にある物を否応なしに想像させられてますます愚息をいきり立たせてしまった。
はぁはぁ、という吐息が耳元でうるさかった。その荒い呼吸は僕の物なのか、彼女の物なのかもう判別はつかない。
「…………………♡」
何かを期待するように潤んだ目でリオが僕を見つめながら、ショーツの股部分の布をずらす。
幼く慎ましやかな作りの陰唇は正しく童女の物でありながら、今のそこは奥から溢れ出る蜜と共に綻んで淫蕩な女の顔を覗かせていた。
リオのスカートの下から微かに、しかし確かに濃い花蜜のような甘ったるくて微かに酸っぱいような香りが立ち上る。それは女の香りであり、女性の性器の香りだった。
彼女が僕の性器の匂いで興奮するように、僕もまた彼女の性器の匂いで否応なく昂るのを感じていた。
既に僕のペニスは硬く勃起していて、我ながら肉の杭のようだと思う凶悪な面構えだった。
一刻も早く
「はぁ………………っ♡」
リオと僕は暫し見つめ合って、どちらからともなく頷いた。
そして彼女は片手でショーツをずらしたまま、もう片方の手で僕のペニスを握って導いていき―――――――――そのまま腰を落とした。
「うっ………………あっ………………!」
思わず声を上げる。
亀頭がぬぷんっ、と陰唇に飲み込まれたかと思うと、恐ろしいほどの締め付けが先端から飲み込むように襲ってきたからだ。
締め付けは強烈なはずなのに膣道内の潤いのせいで一連の動きは全く滑らかだった。
おまけにざらざらとした襞々が同時に全方向から余すところなく僕のモノを舐めしゃぶるように締め上げてくるのだ。
暴発するように射精しないために、ぐっと奥歯を噛み締める。
「んん………………っ、くぅっ………んっ………♡」
リオは鼻にかかった吐息を漏らしながら、ゆっくりと体重をかけていく。
膣内は潤っているが膣肉はまだ生硬く狭隘だった。
膣肉を馴染ませるようにゆっくりと腰を下ろして、その陰部に僕のペニスを飲み込んでいく。
ずぬぬぬ………、と肉を掻き分ける音が聞こえそうな時間がたっぷりと数十秒過ぎて――――――ようやくリオの腰と僕の腰が密着した。
僕の勃起したペニスの上から下までが余すところなく彼女の胎内におさまり、全方位からぎゅっと熱く潤んだ膣襞が僕を締め付けてくる。
「はぁ………………っ♡」
リオは陶然とした表情で息を吐きながら、そこにある物を確かめるように自分の下腹部を擦っていた。
僕も手を伸ばして彼女の細い腰に触れる。この華奢な細腰の中に僕のあのガチガチに勃起したペニスが入っているのだと考えると奇妙な感動さえ覚えた。
そして僕はそのまま彼女の体を改めてぎゅっ、と抱きしめた。
小さくて細くて華奢で愛らしい彼女の体を強く抱いていると密着感が幸福感になるようだった。
すぅ、と息をすると彼女の体から立ち上る甘い香りがいよいよ強くなって頭の中がくらくらした。
リオは僕の体を抱きしめ返して胸に頭をぐりぐりと擦りつけてくる。その様は猫のようで愛らしかった。
その間にも彼女の膣内は呼吸のようなリズムでぎゅっ、ぎゅっ、と絶え間なく僕のペニスを締めあげている。
食い千切ってきそうな締め付けを見せる狭い膣。それが急に蠢き始める。
「んぁ………………っ♡」
リオが僕に跨ったまま腰を捻る。
まるで円を描くように、螺旋を描くように彼女の腰がうねると僕の陰茎に強烈な快感が走る。まるで無数の舌に絡めとられて舐めしゃぶられるようだ。
彼女は腰をくねらせながら、その股間部を僕の腰に押し付けてくる。彼女の陰核が僕の陰毛に当たる感触がする。その度に彼女は「んっ♡」と悩ましい声を漏らした。
同時に彼女の子宮口が僕の亀頭にも当たる。コリコリとした弾力のあるそこがまるでマッサージでもするように僕のペニスの先端部分を上から押しつぶしてぐりぐりと刺激してくるのだ。
かと思えば彼女は軽く膝立ちするようにして上下に腰を揺すったりもした。
膣道全体を使ってペニスを扱くかのような動き。
下から上へと擦りあげられると裏から雁首がぞりぞりと刺激されて酷く心地よい。
腰を下ろす瞬間は勢いよく狭い膣肉を掻き分けてずぐり、と最奥まで昂りを突き立てる感触に背筋が戦慄いた。
そしてそれに快感を覚えているのはリオも同じだった。彼女は腰を上下するたびに背筋をびくっ、びくっ、と震わせている。
「んー………っ♡ んふー………………っ♡」
互いの性器を交わらせながら、僕らは互いの体をまさぐり合った。
どちらからともなく口を合わせて、鼻息を荒くしながらお互いの口を貪り合い、唾液を啜り合う。
リオの汗で張り付いた乱れ髪を整えて、頬や耳や首筋を撫でてあげると彼女の口から甘い吐息が零れる。
はだけさせたブラウスの中に手を伸ばして、ブラをめくりあげて直接胸を揉む。リオは官能に眉を寄せながら一層
彼女からも僕の体に手が伸びる。体の輪郭を確かめるように、白木のような指が首や肩や胸元に触れてくる。かと思えば顔を寄せて肌に直接キスを落としてくる。
くすぐったいようで淫らなその手つきがますます僕の中にある情欲を煽り、彼女の中で僕の陰茎が一層いきり立った。
交わいを続ける僕らの陰部は既にリオのそこから漏れ出てきた愛液でびしょびしょに濡れていた。
彼女が腰を振るう度にじゅぷっ、ぐちゅっ、と卑猥な音が立った。
リオだけではなく、僕も彼女に合わせるように腰を使う。椅子に座ったままなのでやや不自由ではあったができる限りのことをやる。
彼女を悦ばせてあげたいという気持ちもあったが、同じくらい早く射精したいというケダモノじみた欲もあった。
既に腰の底、睾丸の中でぐるぐると渦巻いている熱いものを感じている。ペニスにかけられる快感は今にもはちきれそうで、それに耐えるのに必死だった。
あと少しだけこのギリギリの快感を味わいたいという思いと、これを一息に吐き出す快感を味わいたいという誘惑が心の中でせめぎ合う。
だが、その葛藤はいきなり後者に傾く形で終わりを告げられる。
「あぁ――――――っ♡ イくっ、イくイくイく…………………っ♡ イっちゃう………っ♡」
僕の上に跨るリオが、僕の体にしがみついてくる。
「イく♡ イくっ♡」と何度も自分自身を昂らせるように呟きながら、細い腕に力を込めて僕を抱きしめてくる。
彼女の言葉が本当であることを示すように、彼女の中は今までよりもさらに熱く強く、濡れそぼって僕のモノを締め付けてきた。
奥へ奥へと蠕動するようなその締め付けはまるで子種を催促されているかのよう。
「リオさん………っ、僕も………………っ!」
暴発しないようギリギリのラインを綱渡りしながら僕はリオにそう声を掛けた。
僕の胸板に顔を埋めながら彼女はこくこくと頷いた。
それを確認して僕は彼女の体を抱きしめ返しながら―――――――――ようやく、我慢を解いた。
―――――――――びゅぶっ、びゅびゅるるる………………………!!
自分の体の中、あるいは彼女の体の中でそんな音が聞こえた気がした。
だがそれに耳を傾けるような余裕はなかった。我慢に我慢を重ねた精を解き放つという快感はすさまじいものがあり、それはまるで魂が抜けていくかのようだった。
僕は自分の意識が飛んでいかないように、リオの体を強く強く抱きしめていた。
力加減などする余裕はなかったが、彼女の方もそれにどうこう言う余裕はなかっただろう。
彼女は僕のシャツに歯を立てながら声を噛み殺して、背筋を何度もびくんびくん、と反らせながら絶頂を迎えていた。
「―――――――っ♡ ――――――――――――ッッ♡」
声のない嬌声を上げながら、リオの膣は僕を締めあげて精液のお代わりを催促するようだった。
当然僕は余すことなく自分の欲望を彼女の中に注ぎ込み続ける。
やがて僕のペニスが精液を吐き出し終えて、彼女の中で萎れ始めた。
それが過ぎ去っても僕らは荒い息を吐きながら、汗みずくのお互いの体をかき抱いて絶頂の余韻を味わい続けた。
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「うーん、なんというか………その、申し訳ありません。」
「いえ、リオさんが謝るようなことではないですよ。」
「………でも汚したのは私ですし。」
いそいそと情事の後片付けをしながら、リオさんはこちらを見て少しバツの悪そうな表情を見せた。何かと自由人な彼女のそういう表情は珍しい。
彼女の目線の先には僕のズボンがあった。
そして僕のズボンは彼女の愛液で股の辺りがぐっしょりと汚れていた。
「大丈夫ですよ。この工房には泊まる人用の宿直室もありますし、そこでやろうと思えば洗濯もできますし。」
「………………まぁ、貴方がそれで良ければ。」
僕がそう言うとリオは肩を竦めながら頷いた。
彼女は取り出したタオルで自分の汗を拭いながら「またお風呂に行かないといけませんね」と呟いていた。
また、ということはここに来る前にも一度お風呂に行っていたのだろう。
「リオさん、今日はもう帰られますか?」
「………流石にここに泊まるわけにはいかないでしょう。」
彼女はそう言ってくすりと笑った。
それもそうだ。明日の朝に出勤してきた職員に見られたらあまり良いことにはならないだろう。
でもそれでも、と脳裏を掠めることがあった。
でもそれでも今夜は一緒にいてください――――――、とそう頼めば彼女は一緒にいてくれるだろうか?
でも僕はそれを言い出すことができなかった。
それは彼女の決定を尊重したいのか、それとも僕が臆病なだけなのだろうか。
そんなことを考えながら別れ際の彼女と他愛もない雑談に興じる。
そしてリオは来た時と同じように窓を開いてそこから身を躍らせ―――――――――るその前にこちらに振り返って、こんなことを言った。
「ラストルさん。」
「何でしょうか、リオさん。」
「私に優しくしてくれるのは有難いですけど――――――たまには、奥さんにも優しくしてあげてくださいね。」
「…………………………。」
「それじゃ、また会いましょうっ」
リオはそう言い残すと窓の枠を蹴って二階から飛び降りていった。
窓の下の通りに目を向けると――――――その姿はもうどこにもなかった。影のように現れ、影のように消えていく、見事なものだった。
「………………。」
彼女が立ち去った執務室は再び夜の静寂に支配されていた。
まんじりともせず一定の明かりを放ち続けるランプに照らされた部屋は前よりもずっと広く感じられた。
無言のままに先ほどまで彼女と情事に耽っていた椅子に座り直す。ぎぃ、というどことなく不吉な軋み音は長年慣れ親しんだ友人のようですらあった。
「………。」
リオの最後の言葉を思い出す。
優しい、というのは果たしてどこまでが美徳なのだろうか。
優しさは人を傷つけないためにある。
でも、それは誰を傷つけないようにするための優しさなのだろう?
僕はリオの事が好きだ。
彼女に優しくしたいと、心からそう思う。
でもだからこそ――――――僕は彼女の特別にはなれない。彼女に自分を刻むようなことはできないのだろう。
だから、彼女が僕以外の男の話をしても、彼女の中に深く刻み込まれている誰かが僕以外の誰かだとしても―――――――――それに嫉妬する資格は、僕にはない。
ましてや妻以外の女性を抱いている、この僕が。
「………。」
一度深く息を吐いて、目を閉じる。
そして思考を巡らせる代わりに出しっぱなしのラム酒をグラスに注いで一息に飲む。
黒砂糖の味がするお酒は、さっきより少しだけ苦みが強く感じられた。
『ラストル・マルティネス』
フロラントの街で家具工房を経営する男性。本人に家具作りの技能はないが経営者としては有能な部類。
リオ・オーガスタとは依頼人であり、友人であり、愛人でもある、という関係。
妻帯者。しかし、妻とはうまくいっていない。
良くも悪くも『優しい』人間。
この後、夕飯を食べに行こうと思ったらズボンが濡れていることに気付いて悩む。
結局作業場の作業着(予備)を拝借して事なきを得た模様。