※この作品はR-18です。

The Unlimited Horizon   作:白臼

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ep.2 Vertical Limit

 

 

 

 ――――――世界は疲れていた。

       疲れ果てていた。

       倦み疲れていた。

 

 

 

 発端は東方の超大国の破綻だった。

 その国が元々危険な状態だったのは誰の眼にも明らかだった。年に10%の経済成長率を維持し続けなければ(・・・・・・・・・)立ちいかないという、火の車のような自転車操業だったのだ。

 あまりにも多くの人と富を載せすぎた浮島は、沈んだ端から増築しなければ海の底に沈む。そんな有様だった。

 サイクルが破綻したとき、その国家は盛大に弾け飛び、余波は世界中に飛び火した。

 

 世界の富の数割を担う国が息絶えたことで、連鎖的な大不況が世界中の経済を打ちのめした。まるで爆弾の爆発に吹き飛ばされるようでもあり、沈む浮島の作る渦潮に引きずり込まれていくようでもあった。

 元々その某国は多民族国家だったこともあり、政府の崩壊に際して多くの民族が独立を宣言して自らの国を建国した。

 だが、これを拒否したのは国家を破綻させた側の政府、正確にはその生き残りだった。彼らに言わせれば『国家体制はいまだ破綻しておらず、独立国家を僭称する者たちはこの統一を脅かす不穏分子たちである』とのことだった。

 そしてこの対立に一枚噛もうと介入してきたのは二つの別の大国だった。

 

 元統一政府を支援するのは北方の大国。

 独立国家群を支援するのは西方の大国。

 北と西の大国は実に百年来に渡って互いを仮想敵国と見なしてきた仲であり、今回の事も(・・・・・)彼らの間ではよくある(・・・・・・・・・・)代理戦争だった(・・・・・・・)。

 

 ただ――――――今回の代理戦争はあまりにも規模が大きすぎた。

 なにせ破綻した東方の大国は人口だけで全人類の五分の一を占めていたのだ。

 動員される兵士が、犠牲者の数が、発生する難民の数が――――――その全てが人類史において類を見ない規模だった。

 

 特に難民の受け入れ問題は深刻だった。隣接する国家へと次々に流れ込んでくる難民の総計は数億にも及んだ。

 例え国際社会が人道危機を声高に訴えても、それほどの人数を受け入れるだけの余地は何処の国にもなかった。

 ましてや全世界規模での経済恐慌が起こっている途中では猶更だった。

 

 それでも、僅かながら(・・・・・)受け入れることはできた。できはしたものの、その先では更なる問題が勃発した。

 異なる文化的価値観同士の摩擦、難民キャンプの周辺での治安の急速な悪化、職を求める難民たちによって単純労働の場も奪われる現地の低所得者層、難民支援に費やされる多額の国家予算………………。

 それらは急速に周辺各国の人々の不満となって蓄積していった。

 

 これらの不満や経済恐慌からくる怖れをうまく利用したのが右翼政治家だった。

 彼らは人々の不満や恐怖を上手く煽り、『民衆の代弁者』としての自分を演出していった。

 そうした政治家たちが幾つもの国で政権を握り、世界は急速に国家主義(ナショナリズム)に傾いていった。

 

 国家主義者にとって優先するべきは自国の利益と自国の民の安全のみだった。それ以外は全て敵とみなされた。

 彼らは大いに使命感に燃えていた。内憂外患の祖国を救うためには国内から不穏分子を排除し、国外の敵対勢力を積極的に牽制することが必要だと考えた。

 結果的に世界中の国々は積極的な軍拡を押し進め、互いに銃を眉間に突き付けあって威嚇し合い――――――当たり前のように戦争に発展した。

 

 元々東方の大国(今ではその跡地だが)で北方の大国と西方の大国が代理戦争をしていた時代だった。

 二つの大国は戦局を有利に進めるために同盟国に援助を求めていた。同じように相手が同盟国と手を組んで勢力を拡大するのを嫌がっていた。

 双方の大国は相手の国とその同盟国に高圧的な威嚇を繰り返しており、各国の国家主義者(ナショナリスト)たちは愛国的な使命感からこの不当な圧力に対して徹底抗戦を選んだ。

 

 

 結果として第三次世界大戦が勃発した。

 

 

 世界中のあらゆる国々で男は徴兵され、女は軍需工場で働くことになった。子供たちは狙われにくい田舎に疎開されて、如何にして自国が偉大な存在であり、どのようにして愛する祖国を護るのかを教育された。

 娯楽や文化には積極的な国家権力の検閲が入り、『反国家的である』、『公序良俗に反する』と見なされたものは『訂正』を求められた。

 

 抑圧された人々はその反動であるかのように過激な思想に救いを求めた。中東圏の過激派宗教を筆頭に、世界中にテロリストたちが蔓延した。

 過激派テロリストを撲滅するために、国家権力は更に過激な統制で対抗した。

 誰も文句を言うものはいなかった。文句を言うものは何も言えないようにされたからである。

 戦時下という特殊な状況下で様々な改革が推し進められ、戦争に必要のないもの、戦争の妨げになるものは、法律や憲法であっても時の政府によって『国民の積極的な支持の下』で改案されていった。

 

 多くの犠牲があり、多くの破壊があり、多くの弾圧があった。

 海の向こう、国境の向こうでは終わりの見えない戦火が拡大していく。行く当てのない難民が掃いて捨てるほど生まれ、同じくらいの死体が瓦礫の下に埋もれていた。

 自分たちの国の中では過激な思想家と宗教家が声を荒げ、反戦を掲げながらテロで多くの人々を殺した。政府はあらゆる手段で民衆から不穏分子を探し出して、疑わしきものを吊るしあげた。

 

 テレビもラジオも新聞もネットも、毎日のように戦場の様子とテロの脅威とプロパガンダを垂れ流した。

 明るい話題なんて誰も口にしなかった。そんな話題は一遍の需要もないとみなされた。

 気が滅入るようなニュースが人々の疑心暗鬼を煽り立て、猜疑心が敵愾心になり、排除と疎外と偏見と暴力を助長し続けた。

 

 

 ――――――疲れていた。

       誰もが疲れ果てていた。

 

 

 そんな戦争の時代は比較的あっさりと終結した。

 

 何のことは無い。

 核兵器が地球の空を何度か飛び交い、地球の人口を数割ほど吹き飛ばしたからだ。

 ただでさえ大不況が戦争と併発していた時代に、これは大きすぎる痛手となった

 大都市が幾つも更地になって人口が急激に減少し、国々の経済力は加速度的に傾いた。放射能の土壌汚染が生き残った人々を追い立てて更なる国内難民を生み出した。

 

 結果として――――――軍事に人と金をつぎ込むだけの余裕がなくなってきた。

 その事実に目を向けた国々は少しずつ軍縮を進め、穏やかに戦争から手を引いていった。

 国の内外の危機感を煽ることで権力を維持してきた政治家たちも人気がなくなり、民主的に政治の場から退場していった。

 それでも居座ろうとした面々が治める国々はそのまま独裁国家として安定を図ったり、国内で革命を起こされたりと様々な末路を辿った。

 

 二十一世紀後半という暗黒の時代。第三次世界大戦はこうして世界中が共倒れになる寸前で幕を閉じた。

 後に残されたのは瓦礫の街と、焼け野原と、死体の山と、無数の難民と、疲弊しつくした一般市民だった。

 

 

――――――誰もが疲れ果てていた。

      倦み疲れていた。

 

 

 そこから先は穏やかな復興の時代だった。

 経済的には世界中がズタズタになっていたが、それでも希望はあった。

 (皮肉にも)戦争中に発展したロボット工学と電子工学である。

 量子コンピュータによって編まれたAIを搭載する高度なロボットが人々の労働を補助・代行することで世界の復興は緩やかに進んでいった。

 

 経済的にはともかく、政治的には何処も安定していた。大胆な主張や積極的な改革、そういったことを掲げる政治家は受けが悪かったからだ。

 そんなものは大戦中に耳にタコができるほど聞いた。皆、イデオロギーというものに辟易していた。

 世界主義(グローバリズム)は負債を分配し、国家主義(ナショナリズム)は分断を撒いた。

 資本主義は貧困を生み出し、共産主義は意欲を奪った。民主主義は大衆化を招き、社会主義は自由を奪い、独裁主義は自滅した。

 

 「もうたくさんだ」と人々は口を揃えた。

 誰もが安心と安定と――――――何よりも安寧を求めていた。

 隣人を疑って銃を突きつけるのも、富を守るために他人を追い落とすのも、主張を通すために声を枯らして叫ぶのも、もううんざりしていた。

 

 ただ、細やかな普通の生活を送るのが何よりの美徳だと、人々はそう考えるようになった。

 

 ――――――世界は疲れていた。

       疲れ果てていた。

       倦み疲れていた。

 

 そんな穏やかな、灰色の復興を続けながら、人類は二十二世紀を迎えた。

 

 

******

 

 

 「それじゃあ、チーフ。俺はあがりますんで、後はよろしくお願いします。」

 『おう、お疲れさん。また来週な。』

 

 「はい、また来週」、と返事をして画面のスイッチを切る。職場支給の作業用ARゴーグル越しに上司に挨拶してから、俺は作業場を後にした。

 指紋認証式のロッカーの鍵を開けてゴーグルを片付けてから、作業着を脱いで私服に着替える。

 

 鞄から眼鏡ケースを取り出して、中の私物の拡張現実眼鏡(ARグラス)をかけた。

 コンタクトレンズ型のARレンズというのもあるにはあるが、個人的にはそういうのは苦手だ。

 瞼の内側に物を入れるのには拒否感がある。

 

 忘れ物がないかどうか確認してから職場を後にする。

 ………建物の外に出たら雨が降っていた。シャワーの蛇口を捻ったみたいな勢いのある雨が生ぬるい風を吹かしながらざぁざぁと降り注いでいる。

 

 「………こればっかりはなぁ………。」

 

 ARグラスを弄ってアプリを起動させて、天気を確認する。

 現在時刻・現在地は『雨』になっていた。昨日の天気予報では晴れだったと思うのだが、突然のスコールは偶にこうして外れる。

 こればっかりはこまめに確認しておかなかった自分のせいか。はたまた亜熱帯気候の日本のせいか………。

 

 文句を言っても仕方がないので上着のフード部分を被って顔を伏せながらなるべく屋根の多い場所を選んで走りつつ、駅を目指した。

 駅の近所まで行けば屋根付きの歩道があるのでスコールをやり過ごせる。

 

 俺が駅の近くに着くと雨宿りをしているらしき人々が他にもいた。天気予報を過信して傘を持ってきていなかった人々だろう。

 ただ、確認し直すとあと数分もしないうちに雨は上がるようだった。………自分も職場の前で待つべきだったかもしれない。

 

 そんなことをしながら掌紋認証式の改札口を通って駅のホームへと入っていく。

 改札に手をかざした瞬間、ARグラスにポップアップが表示される。電車の運賃は、降りたときに駅の出口改札に連動している口座から直接引き落とされる仕組みになっている。

 同時に駅情報も視界の端に表示されている。それによるとちょうど目的の電車がホームに入ってくるタイミングのようだ。

 ちょっと小走りで階段を駆け下りて、ちょうどホームに入ってきた電車に飛び乗った。

 自分が踏み込んだ直後にぷしゅー、と暢気な音を立てながら電車のドアが閉まり、発射した。

 

 電車の適当な空いている席に座って一息つく。職場を出てから何だか走ってばかりな気がする。

 はぁ、と溜息を吐いてから鞄の中に入れっぱなしのミネラルウォーターで口を湿らせる。

 静かに動き始めた電車の窓でバタバタと雨粒が打ち付けられる激しい音が響いていた。

 

 それを煩わしいな、と思いながらARグラスの画面上にインターフェースを表示させて操作する。

 傍から見ていると何もない空中を指で撫でているように見えるが、この時代では一般的な光景なので変な目で見られる心配はない。

 ………さすがにリズムゲームとかやっていたら怪しまれるが。

 

 「………………。」

 

 インターネットブラウザを開いて適当なニュースサイトを巡っていると印象的な見出しと写真が目に入ったので開いてみることにした。

 頂上部分を何かで叩き折られたかのような巨大な塔の画像が載っている。記事には『前世紀の遺物―――現代のバベルの塔』と書かれている。

 まぁ、何のことは無い。二十年ほど前の二十一世紀末に倒壊した軌道エレベーターの顛末についての記事だった。

 

 第三次世界大戦が終わってからしばらくして、少し余裕の出てきた国々が協力し合って軌道エレベーターと国際宇宙センターの建造に着手した。

 しかし、第三次世界大戦に暗躍した過激思想家の残党が爆破テロを仕掛けて建設途中の軌道エレベーターを叩き折り、以降計画は再開の目途が立っていないという話だ。

 

 ふぅん、と記事を斜め読みしてウィンドウを閉じる。大体が学生時代に授業で習ったことと変わっていないようだった。

 ………事件で犠牲になった人々には不謹慎と思うが、計画が頓挫してよかったんじゃないかと思う。そんなに大金と人材と時間をつぎ込んで宇宙に行って何になるというのだろうか。

 人工衛星の回収とかがしやすくなるのだろうか?そういうのだったら役に立つと思うが。

 今どきはテラフォーミングだって流行らないのだし………。

 

 「………………。」

 

 ニュースサイトを閉じてから、個人メールボックスを開いて中身を検める。

 大体が通販サイトからのダイレクトメールだった。この手のサイトは一度使うとしつこくチラシを入れてくるから面倒だ。

 こちらの好みの商品をAIが無駄に正確に察して選んでくるのが余計に腹立たしい。ちょっと見てみようかなー、という誘惑ごとゴミ箱にメールを投げ捨てていく。

 お金は生活をしていく分と多少の遊興費があればそれで事足りると思っているので、バンバン買い物をするつもりはないのだ。

 

 二十二世紀という現代ではAIとロボットが産業のほとんどを代替しているので、社会を回すための仕事を人間がする必要が殆どなくなっている。というか、下手に人間が仕事をすると能率が悪くなる。

 端的に言って人間に働く場所(及び意味と必要)があんまりないので、国から支給されるベーシックインカムが大抵の人間の収入の基本だ。

 ただそれだけだと本当に必要最小限なので、+αで収入が欲しい人は自分の様にどこかで働く先を見繕うことになる。

 大抵の会社では、法律で人間を何人か雇うように定められているので、数は多くないが働き口はある。

 

 俺の仕事は工場での作業用ロボットの監視だった。

 管理はAIがほぼ全自動でやってくれるのだが、AIには自己決定権が存在しないので最終的には人間が現場で作業のゴーサインを出すことになる。

 普段はやることがなくて暇な割には何かトラブルが起こったときには責任を負うことになるという、そんな役どころである。

 

 「おっ……………。」

 

 メールを処分し終わってからチカチカと点灯するアイコンに気が付いた。

 マークを見るに自分が登録しているオンラインゲームのアカウントになにか連絡が届いているのだろう。

 

 アイコンに触れてゲームのアカウントリストを表示。

 すると案の定、『The Unlimited Horizon』からだった。

 連絡を開くかどうか逡巡する。どうせ家に帰ったらログインする予定だったからだ。

 今使っているARグラスは自宅のVRゲーム端末とゲームアカウントの情報を繋いでいるので、情報を見ることができる………が、プレイはできない。

 何か急を要するような案件(クエストを手伝ってくれ、とか)でも電車にガタゴト揺られている現状で、できることは無いのだ。

 

 まぁ、別段悩むことではないのでさっさと開くが。

 急用だったとしても断りの連絡くらいは早めに入れて置いて損はない。

 

 「………。」

 

 メッセージを確認するとフレンドからの依頼だった。

 作りたいアイテムの素材を検めていたところ足りない素材があることに気が付いたので取ってきて欲しい、とのことだった。

 

 ………差出人と素材を見比べる。

 確か、あいつの拠点の比較的近くで採れるような素材だったはずである。

 あいつは現実(リアル)だけでなくゲーム内でも出不精のようだ。

 まぁ、生産専門でほとんど戦闘力がないのでそうした採集も一苦労なのはわかっているのだが………。

 

 まったく、と心中で溜息を吐きながら了解の意を示したメッセージを送り返しておく。

 ゲームの中でも引きこもっているようだと豚になっちまうぞ、美鈴。

 

 「………………。」

 

 メッセージを送信した後、特に考えることもなく自分のマイページ内をぐるぐると巡る。

 プレイそのものはできなくともこうして情報の確認や編集くらいはできる。

 画面の右上には自分の本名とプレイヤーとしての名前が同時に表示されている。

 

 

 USER NAME: 葉月(はづき) 了(りょう)

 PLAYER NAME: リオ オーガスタ

 

 

 そして視界の真ん中にいるのは金色の長い髪の少女――――――ゲーム内の俺のアバターだった。

 白金色にも見えるブロンドの髪とアイスブルーの冷ややかな瞳。小さくて可愛らしい体躯にフリルをあしらった暗青色の服。

 側頭部には青い薔薇の髪飾りを付けて、背中に矢筒と弓を背負っている。

 ARグラスの視界の中に映るその姿はさながら良くできたフィギュアのようだった。

 

 画面を動かして様々な角度から見直して、何処か手を加えるようなところがないか確認してから――――――特にないな、と確信する。

 これは俺の趣味やら執念やら煩悩やらを結集させて作り出した最高傑作なので是非もないのだが………。

 ふっ、思えば完璧とは罪深いものなのかもしれない。何か手を加えたいと衝動的に思っても、それは完璧な調和を崩すだけ。より良いものを目指したいという健全な意欲を拒絶してしまうものなのだ………。

 

 「………………んんっ」

 

 自分の視界にしか映っていないのをいいことに美少女の全身を舐めまわすように観察している自分をちょっと客観的に意識して冷静さを取り戻す。

 オーケイ、クールになれクールに。

 

 ………俺は男だが、女性のアバターを使うのに特に抵抗はない。

 むしろせっかくゲームの中なのだから、現実では特に縁の無い華を求めても罰は当たるまい。

 どうせ長い付き合いとなる分身なのだから、毎日目に入れても痛くないくらいに可愛いものを作った方が良いに決まっている。

 

 長い付き合い………。そう長い付き合いだ。

 思えば『UH』もプレイを始めてもう四年くらいになるか。

 就職を機に一人暮らしを始めて、その時記念にVRゲーム端末を買って、その時以来だからそれくらいになるはずだ。

 当時サービス開始一周年記念で広告をたくさん出していて、それに興味を惹かれてなんとなく初めて………随分長い付き合いになるものだった。

 

 「………………。」

 

 ARグラス越しに自分の手を見下ろす。

 二十数年慣れ親しんだ、血の通った自分の手がそこにある。大きく広くて少し野太い、男の掌だ。

 ただ、やろうと思えばその上に、小さく細く柔らかい少女の掌を幻視することができた。

 『私(・)』にとってリオ・オーガスタというゲーム上の分身(アバター)は、既に分かち難い自分の一部になっていた。

 

 「………ふぅ」

 

 小さく頭(かぶり)を振って、ページを閉じていく。

 残念ながら今の俺は二十二世紀(現代)日本のごく普通の一般的工場職員、葉月了である。

 リオとしての自分を意識するのは自宅に帰って、ゲームの世界に入ってからでいい。

 

 ARグラスの表示を一通り確認して電源を切ると、視界に映る物はなくなりARグラスはただの眼鏡に戻った。

 ガタン、ゴトン、と無機質な音を立てる、いつもの殺風景な電車がそこにある。

 

 ふと気が付けば窓の外の雨はやんでいた。

 薄く雲のかかった灰色の空と、雨上がりの灰色のビル街が電車の窓の外を流れていく。

 ………灰色に見えるビルも元々は白かったのだろうが、そのせいで酸性雨やら何やらにやられて色合いが煤けているのがよくわかる。

 設計した時になまじ小綺麗なデザインにしようとした分、劣化しているところがよくわかるというのは何とも見ていて哀れを誘うものだった。

 

 「はぁ、」

 

 何はともあれ、俺はそうした外の風景に目を閉ざした。

 座席の肘掛部分に頬杖をついてあくびを一つ漏らす。

 自宅の最寄り駅に着く前にひと眠りするくらいの時間はあるはずだ。

 

 瞼を閉じて、静かに揺れる電車の音を子守唄代わりにゆっくりと眠気に身を任せていく。

 

 どうせ明日から週末で休みだ。じっくりとゲームを遊ぼう。

 やっている途中で寝落ちしないように、今は眠って英気を養うことを俺は選んだ。

 

 

 

 




了→りょう→Ryo→リオ
葉月→八月→August→August + a(女性形)→オーガスタ
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