中庭には暖かな午後の日差しが差し込んでいる。
吹き抜ける風は芝生や植木をさわさわと柔らかく揺らしながら爽やかに駆け抜けていく。
風が髪の毛を靡かせるように吹き抜けていき、俺は乱れそうな髪を押さえた。
せっかくアンネ達がセットしてくれたのになー、なんて一瞬ちらりと思ってしまう。
……少し女性らしい感性に毒され始めているのかもしれない。
「……女の体も大変だな」
「うん?今更気付いたかな、了くん?」
俺の向かいに座って菓子をパクついている
そんな友人に睨み返しながら、俺はテーブルの上の菓子の内どれを摘まもうかと思案した。
「まー、私も男の子の体のことは良く知らないんだけど、女の子には女の子なりの大変さがあるんだよねー……。あ、でも
「マジか」
「あれ、さっき言ってなかったっけ……プロゲステロンとエストロゲンの作用に関して……」
「いや、言ってないから」
しばらく悩んでから苺と生クリームのデザートサンドを選んで咀嚼する。……意外に悪くない。
以前のままなら少し甘すぎると感じていたかもしれないが、少し味覚も変わったのかもしれない。
「私達プレイヤーの体は基本造形から外れないっていうのはさっきも話したよね。そのせいか妊娠もしないんだけど……そのおかげで生理も無し、お肌や髪の毛も劣化しないからトリートメントの手間も省けてるんだよねー」
「ふーむ。なんというか、男の身分ではいまいち遠い話だ」
「でもさー、やっぱりおざなりにしてたら女子力に関わるっていうのかな?了くんも少しはやっといた方が良いと思うよ?メイクとかネイルとかコーディネートとかその辺。……まぁ、放っといてもここのメイドさんが色々やってくれると思うんだけどさ」
「うへぇ」
美鈴のその言葉に思わず呻いてしまう。ありありとその光景が想像できてしまうからだ。
今朝方のような勢いで毎日あれこれと弄られるのであれば精神が摩耗してしまう。擦り切れて砂になってしまうぞ!
「『うへぇ』じゃないでしょ『うへぇ』じゃ!折角そんな可愛い女の子になってるんだから、ここは一念発起して女子力向上に努めるべきだと思いまーす!」
「勘弁してくれよ。今の自分の意識は
「うん?……なるほどねー。了くんって、やっぱりロールプレイするときはきっちり自分の中で線を引くタイプなんだ」
「まぁな。…………あー、実は今もこの『リオ』の体と声で、『了』の口調で喋るのにすごい違和感がある」
俺は確かに『The Unlimited Horizon』をプレイするにあたって『リオ』という理想の美少女像のアバターを作って、それを動かしていた。
ただ……そこにあったのは「女の子になって遊びたい」というような欲ではなくて、「女の子で遊びたい」という欲だったように思う。
このゲームは一人称視点だから、プレイヤーとアバターの体は同一のものだ。ただ、俺はその関係を何処か俯瞰的な……客観的な視点から見ていたように思える。
『リオ・オーガスタ』はゲームの中の自分の分身。
本当の自分は現実にいる『葉月了』。
この辺りの線引きは自分の中で明確にできていたように思える。
ただ――――それも今までは、という注釈が付くが。
「違和感があるんだったら、別にリオちゃんの口調で喋ってもいいんじゃないの?」
「…………いや、いい。しばらくは……お前と話している間くらいは『了』でいさせてくれ。このままだと最悪自分が男だってことを忘れかねん」
サンドイッチの最後のひとかけらを飲み込んで、そう呟く。
今も話しながら自分の耳に響く、自分の声。さらさらと揺れる長い髪。履きなれないスカートとタイツの感触。
今まで二十数年生きてきた
そしてその感覚が、パッシブスキルのせいだろうかいやにありありと感じられて――――現実よりも現実味を感じるのが、なんだか妙な気分にさせられる。
「そういうお前はどうなんだよ。『
「う別にそうでも無いかなー。こんなの口調の違いでしかないし……了くん程、
「もう七年にもなるからにゃー。『
「……自分は自分、と」
「そういうことだにゃ」
そう締めくくってから、彼女はいつものような猫らしい笑みを浮かべた。
既に折り合いをつけて、割り切って、自分の立ち位置を見定めた人間の表情だった。
……いつか自分もそういう風に達観できるのだろうか?
今の自分は性別すら、一人称ですら定まっていないのに。
だから、だろうか。
こんな思い切った質問をしてしまうのは
「なぁ、一つ聞いておきたいんだけど」
「うん、何かにゃ?」
「……ログアウトできるっていう話は……聞いたことがあるか?」
俺の質問を聞いた彼女は、笑みを消した真剣な表情になった。
そしてそのまましばらくこちらを見据えて――――首を横に振った。
「残念ながら、あたしの知る限りこの世界からログアウトできたプレイヤーは一人もいないにゃ」
「…………そうか……」
我知らず、深いため息を吐いた。椅子に寄り掛かると背もたれがぎしり、と哭くような音を立てる。
……
あぁ、何だか腹の奥にずん、と重たさを感じる。あるいは、胸の奥に穴が開くような空虚感を。
「……ねえ、了くん。私、ちょっと今から薄情なこと言うけど、怒らないで欲しい。」
「………。」
「私さ、いつか帰れる機会が来たとしても――――多分、
「……そうか」
「うん」
美鈴は手元のティーカップの中に視線を落としながら、そう言った。
彼女の目に移っているのはカップの中の少し冷えた紅茶だ。
だが、彼女の意識はその湯面を通して何か別のものを覗き込んでいるようにも見えた。
「……例え、ここが現実じゃないとしても?」
「私にとってはもう現実だよ。ここで七年暮らしてきた生活があって、その実感がある。
――――もう話したと思うけどさ、こっちで私、工房を持ってるんだ」
落としていた視線がこちらに向けられる。
美鈴の――――いや、メリィの青い瞳が柔らかくも強い決意を秘めた、優しい光を湛えて俺を見据えている。
「私ってほら、自分でいうのもなんだけど面倒くさがりで引きこもりだからさ、接客とかは雇ってるおばあさんに任せてるの。そのおばあさんがマチルダって人なんだけどね。家事が上手で特に掃除が得意でさ。私の作業スペース回りも手を付けちゃうもんだから……時々勝手に片付けられちゃって。雑なように見えるけどそういう風に置いているだけだから、って言っても聞いてくれないの。
私はあんまり売り場には顔を出さないけど、偶に店頭に並べてるのをチェックするついでにお客さんと話をすることもあるし、自分で買い手のところに持ち込むこともあるよ。近所のおばさんたちからは洗剤を売ってくれってよく言われるし、ついでに自分の作った香水とか化粧品とか紹介してあげるとすごい喜ばれるんだ。冒険者ギルドには
くすくす、と微笑みながらメリィは立て板に水といった勢いでこの街での生活と、その思い出話を続ける。
従業員からのお小言や、常連客との些細な雑談、売れ筋から見る生活事情、お得意先の事情、昔に比べて値段が変わった素材や今手に入りやすい素材、様々な薬品作成の試行錯誤、調味料を再現しようとしての失敗談、etc、etc……。
話題はとにかく尽きることは無かった。
微笑を浮かべながらそんな他愛のない話を続ける彼女を見て、俺は思わざるを得なかった。
あぁ、なるほど――――彼女は確かに、この世界で生きているのだと。
「…………うん、それで……何が言いたいかって言うと、さ。」
ひとしきり話を終えて、既に冷めていると思しき紅茶で喉を潤してからメリィは締めくくった。
「何だかんだで、こっちの生活が楽しくなってきちゃって……」
「……まぁ、見ればわかるさ」
語ることが尽きない。それだけの思い出がこちら側の世界にあるのはもう十分に分かった。
こちら側での生活があり、生業があり……そしてなにより
自分が生きている実感というものを見つけてしまったのなら――――あぁ、確かに、
――――いや、そもそも
こちらの世界にある俺たちの体は、少し勝手が違うとはいえ、現実と同じように食べ物を飲み食いして、景色を見て匂いを嗅いで物に触れて――――心臓が鼓動を打っている。
元は
「ただ一つだけ心残りがあるとすれば……親を向こうに残してきたことかなー……。あっちの私が今どうなっているのかわからないけど、ちょっと親不孝かもしれない」
「……別に、そればっかりはしょうがないだろ。子供はいつか親元を離れて独り立ちするもんだし」
「……うん、ありがと」
一抹の寂しさを覗かせながらそう呟く彼女に対して俺が言えるのはそれくらいの慰めの言葉だった。
本当に気休め程度で、そんな事しか言えない自分が少々腹立たしい。
美鈴の家の事情は少々複雑だ。……いや、複雑と言っても割とありふれている事情なのだが。
彼女の両親は第三次大戦時に移住してきた中華系移民で、正式な日本国籍を所有していない。
当時の移民への日本全体の反感もあって、決して楽な生活ではなかったと聞いている。
そんな中で生まれた一人娘の美鈴は、とても大事に育てられたらしい。
特に両親は日本国籍を持っていないためベーシックインカムの給付を受けられないこともあり、将来的に自分たちの面倒を見てくれることを娘に期待していたとのことだ。
……そんな大切に育てた娘が、突如異世界に放り込まれて帰ってこれなくなったとして、彼らはどう思うのだろうか。
想像すると胸が痛む思いだった。俺は多少なりとも面識があるので猶更に。
当事者である美鈴がどう思っているのか、「気持はわかる」なんて軽率な言葉は口が裂けても言えなかった。
「…………」
いや、状況は自分も同じか。
自分だって家族や友人、仕事に生活……向こう側のものを全部放り出している状態なのだ。
あまり美鈴の心配ばかりしてもいられない。それでも彼女は既にこちらで骨を埋める覚悟を決めているようだった。
――――なら自分はどうするべきなのか。
――――今は『ない』と知りながら現実に帰る手段を模索するのか、こちら側で生きる術を見つけて腰を落ち着けるのか。
――――葉月了の人生と、リオ・オーガスタの人生の、どちらを取るのか。
「…………っ……」
胸の奥に太い刃物を突きいれられたような、猛烈な不快感。
思い出すのはこちら側で初めて目を覚ました直後の事。
藪から飛び出してきた山賊の濁声。
飛び散る血と肉と、つんざく悲鳴……。
「了くん?」
「大丈夫。何でも、ない……」
自分は余程、酷い顔をしていたのだろうか。
美鈴が心配げな表情でこちらを覗き込んでくる。
俺はそれを誤魔化すように紅茶を舐める程度に口に含んだ。
……何故だろうか。
その事を思いだすと、背筋に
酷く、気分が悪い。
「……了くんがどういう道を選ぶにせよ、だけど」
俺の沈黙をどう解釈したのかはわからないが美鈴がこちらに声をかけてくる。
彼女の声音は柔らかく、こちらを気遣うような、あるいは見守るようなものがあった。
「あんまり焦るような必要はないと思う。まだこっちに来てすぐなんだからさ。ゆっくりと考えて決めればいいんじゃないかな」
「自分の選ぶ道、か……」
奇しくも彼女の意見は昨夜ヨアヒムが言っていたそれと同じだった。
確かに言うとおりだ。俺はまだこちらの世界に来て二日と経っていない。
それで身の振り方をすぐ決めろ、と言われても無茶な話だ。
だから、今はまだ猶予の時間であり、情報を集めて整理する必要のある時間だった。
ただ――――ただそれでも、いつかは決めなくてはいけないのだろう。
自分がこの世界でどう生きるのか、何を目指して生きるのか。
「なぁ、美鈴」
「どうしたの?」
「さっきの話の続きしてくれないか?こっちでの暮らしの話」
だから俺は他愛のない雑談に専念することにした。
現実の事もこの世界の事も、今は深く考えたくはなかった。
そして俺は聞き役に徹して、話に相槌を打ちながら時間が流れるに身を任せた。
伯爵の屋敷の中庭にまたふわりと風が吹いて、俺の髪を靡かせていく。
草の香りを運ぶ春の風は、
眩くも穏やかな春の日差しの中に、色彩豊かな青々とした芝生と緑の植木が生えている。
「…………っ」
その麗らかな風景に一瞬、赤く生臭い血の匂いを幻視して――――俺は頭を振って雑談に専念した。
――――今はまだ、取るべき道を選べない。
あの流血と怖気が、這い寄るように俺に纏わりついているうちは。