「この前の事件で拘留されてた山賊が、拘置所で殺されたって聞いたかにゃ?」
「あーっ、聞きました、聞きました。怖いですよねー。近頃はそんなのなかったのに、物騒ですよねー……」
「…………本当のところは?」
「はい、リオちゃんを襲ったんだから死んでも止む無しかとっ!!」
「ぶれないにゃー」
「………………」
……………………。
「でも、仮にも拘置所内の殺人だっていうことで衛兵のメンツは丸つぶれにゃ。今のところ街の方は厳戒態勢で犯人を追跡中だにゃ」
「うーん、確かに物騒ですよね。あたしの買い出し当番の日までに捕まってくれればいいんですけど……。お屋敷でも警護の人達がピリピリしてますしね……」
「ここだけの話なんだけど、あたし現場の検視にも立ち会ったんだにゃ」
「えぇっ、そうなんですかっ!」
「………………」
……………………。
「窓の鉄格子も被害者の首も、刃物の一撃でスッパリ。遺留物の
「うえぇぇ……グロいです……」
「おっと、ごめんごめん。お茶会の時にする話じゃなかったかにゃー。
「………………」
……………………。
「リーオーちゃーんっ!!!!」
「うぅわっ!?」
びくぅっ、と背筋が跳ねる。思わず口から変な叫びが漏れた。
突然耳元で大きな声を出されれば誰でもそうなるだろう。
私は背後にいるメリィを思わず睨みつけた。
「いきなり叫ばないでくださいよ!びっくりしたじゃないですか!」
「しょうがないにゃー。人の話を全然聞いてないリオちゃんが悪いにゃー」
「き、聞いてましたし」
「じゃあ、さっきまで何の話をしてたか言ってみるにゃ」
「フェ、フェレンゲルシュターデン現象について……」
「息をするように誤魔化すにゃ。聞いてないなら聞いてないって素直に言うにゃ」
ふんす、と鼻息荒く怒りを表明しながら、メリィが指で私の頬をグニグニと突っついてくる。
おいこらやめろ。私の頬っぺたで遊ぶな、化粧が崩れたらどうしてくれる。
何とかその指を払いのけ、息を一つ吐いてからテーブルの上の紅茶を手に取って口に含む。
鼻まで抜けていくような優しい
「……というかリオちゃん、今日はずっと上の空な感じがするにゃ。折角友達が遊びに来てあげたんだから無視するのは酷いにゃー」
「別に無視してるわけじゃないんですけど……」
メリィは憮然とした表情だ。わざとらしく頬を膨らませてぶーぶー、と不満を文字通り口に出しているその態度は随分子供っぽい。
もう三十路も過ぎているのだからいい加減そういうのはやめた方が良いんじゃないかとも思うが、まぁ、これもこいつらしさか。
「うーん。でもですね、リオちゃんがどことなくそわそわしているのは今日だけではないんですよ。実は割とここ最近はずっと…………」
そう言って口を挟んでくるのはアンネだ。
我々がいる中庭の
なんというのか……客人相手なので押さえるべきと弁えているが、それでも抑えきれない何かが表情筋の下から滲み出ているような、そんな表情である。
「んんー……っ?どういうこったにゃ?そんなに強盗に襲われたのが尾を引いている感じかにゃ?」
眉毛をハの字にして怪訝な表情を見せるメリィだが、自分の推測が違うというのはなんとなく気が付いたようだった。
少なくとも深刻な理由であればアンネがそういう半笑いの表情を浮かべるようなことにはならないだろうからだ。
「ねぇー、アンネちゃん。何か知ってるんだったらちょっと教えて……」
「ではっ!!プレイヤーの方々同士でしかできない話もあると思いますので私はこれで失礼させていただきいますっ!!」
「あっ、ちょっ」
問いただそうとしたメリィを尻目にアンネは脱兎の如き速度でその場を離脱していった。
メイド的に優雅なお辞儀とメイド的にスカートの裾を乱さない、見事なメイド的逃走だった。ドップラー効果で「おっほほほほほ……」という奇声を後に残しながらでなければテオドラさんも満点をくれたのではないだろうか。
後に残されたのはポカンとした表情のメリィとティーカップを片手に黙って見送った私であった。
「なんていうか……アンネちゃんはいつも楽しそうだにゃ」
「ですね。それには同意します」
問いただしてみると、アンネとメリィはそこそこ付き合いがあるらしい。
アンネが屋敷の備品や常備薬を買い出しに行くときにちょくちょくメリィの工房に出入りすることがあるらとのことだ。
あと二人とも性格的にも相性がいいんじゃないかと個人的に思っている。どっちもお調子者属性だ。
「ところで了くんちゃん、了くんちゃん」
「何ですかその呼び方」
「アンネちゃんも言ってたけど、最近様子がおかしいんだって?」
「そうなんですかね。…………というか……いい加減に髪の毛弄るのやめてくれません?」
「それはやだ」
「ダメですか」
「ダメですね」
……そうなのだ。茶会が始まってからずっと
ポニーテールやらツインテールやらサイドテールやらハーフアップやらツーサイドアップやらサニーサイドアップやら三つ編みやら編み込みやらなんやらかんやらと飽きもせずに(一部変なのがあったが)。
私がメイドさんたちに玩具にされるのに慣れていなかったら叛逆を起こして実力行使に踏み切っていただろう。
「ぬふふー」
「なんですかその変な笑い方」
「いやいや、ごめんね。私、実は妹が欲しくって。妹ができたらこんなふうに髪の毛弄って遊ぶのが夢だったんだよ」
「私が妹の代わりですか」
「そうだね。…………ねぇ、了くん」
メリィの指先が私の髪の毛をすぅっ、と梳る。
その指の動きはとても細やかで優し気で、とても大切に割れ物に触れるような――――いうなれば愛おしむような、繊細なものだった。
「本当は昔っからずっと思っていたことなんだけど、私にとって了くんは弟みたいなものなんだ」
「…………」
「だから、困ったことがあったら何でも相談してね。
そう言って彼女はそっと私の頭を撫でる。
細い女性の手だった。昔、自分が男性
きっと私が小さくなったからだろうか。
椅子に座る私の背後に立っている彼女の表情は窺い知ることはできない。
だがきっと、優しく笑っているのだろうなということはわかった。
「……………………姉というには如何せん、尊敬し辛くなる程度にはだらしない所も見てきましたけどね」
「きょ、距離感が近い……気の置けない関係ということで……」
私がそう言うと、
どうにも締まらないが、それも彼女らしさである。
その変わらない、どこか抜けた感じが昔と変わらなくて安心する……というのは敢えて口には出さなかった。
……別に気恥ずかしいわけじゃない。わざとだ、わざと。
「――――最近、なんだか変なんです」
でもまぁ、彼女が姉ぶりたいというのであれば乗ってあげてもいいだろう。
そういうわけで私は、少し躊躇いながらも自分の中からここ数日の間離れないモヤモヤとした感覚について打ち明けることにした。
その感覚はとても奇異なもので、終日終わらない胸のざわめきのような様なものだった。
心臓の奥の方が
そして、その感覚が強くなるタイミングというのが殊更不可解で――――――――、
******
クラートフ伯爵家の屋敷の廊下に静かな足音が響く。
足音の主である少女のストッキングに包まれた細い足に履かれた室内用の靴の踵は、本来なら大理石の床に硬質な音を鳴らすのであろうが、床面に敷かれたふんわりとしたカーペットがそれを受け止めていた。
少女が歩くに合わせて桜色のワンピースドレスの裾が翻り、靡く金色の髪から吹き掛けられた香水の仄かなベリーの香りが散る。
クリーム色の上着と合わせて春らしい装いの麗しい少女のその姿は思わず目に留めずにはいられないだろうが――――生憎と彼女を目線で追うものは周囲にいなかった。
御付きのメイドも放ったらかして廊下を行く少女――リオ・オーガスタの表情は憮然とした、あるいは困惑に満ちたような悩ましい表情だった。
春めいた衣装の華やかで愛らしい出で立ちに不似合いな眉根を寄せた険しい顔つきで、彼女は無意識のうちに自らの頬を撫でる。
白魚のようなその指先が触れた彼女の愛らしい丸みを帯びた頬は――――頬紅に由来するものではない朱色に仄かに色付いていた。
指先にも感じる自分の頬の熱を自覚したリオは、一層その眉間に皺を深め心中で深々と溜息を吐いた。
(熱い……)
頬を指先で撫でるのは、ここ最近よく無意識で行っている仕草の一つだった。
……本当はこの仕草が身についてしまった理由を彼女自身も気付いている。
だが、努めてそれを意識しないようにしていたのだ。
そして彼女が今、不機嫌そうにしているのはその理由を本人が想像もしていなかったような形で旧友に突き付けられたからであった。
「――――最近、変なんです」とそういう語り出しと共にリオは友人であるメリィに自分の最近の悩みを打ち明けた。
胸の内にある奇怪な煩悶。それと同時に湧きあがる甘く、切なささえ感じる疼痛。
――――そして、それが強くなるのは決まってヨアヒムの事を考えているときだということ。
そう口にしたリオは溢れそうになる感情を、懸命に言葉を選びながら吐露した。
具体的にその胸のざわめきが始まったのは以前ヨアヒムと出かけて、頬にキスをされたときからだった。
その日から妙に彼の事をぼんやりと考えることが多くなった。また、彼に対して意識を向けることが多くなった。
気が付けば彼と交わした、取るに足らない会話を思い返していたり、屋敷の中にいるであろう彼の気配を探ったり、彼の事を目で追っていたり、そんなことが増えたのだ。
そして――――その度に胸の奥がざわつく。
理由のわからない、説明のつかないその情動は酷くリオを落ち着かない気分にさせた。
「上の空になっていることが多い」という他人からの指摘は確かにその通りなのだろう。
それに対してメリィはうんうんと頷きながら話に聴き入り、その上で極めて簡潔にリオの持て余している『その感情』の正体について指摘した。
もう少しもったいぶるか、あるいは繊細な問題であることを考慮してある程度答えを選ぶべきだったのかもしれない。
しかし悲しいかなメリィ・アイリン、あるいは
彼女はリオに単刀直入にこう言ったのだ。
「それって、リオちゃんさ――――ヨアヒムさんのこと好きなんじゃないの?」
リオは数秒の
遠距離専門とはいえ仮にもリオは戦闘職。完全生産職であるメリィに対して彼女の打撃は甚大なダメージを齎した。
一通り悶絶してから自らに回復薬を処方して復帰した旧友に対してリオは吐き捨てた。
「す、すすす、好きとか、そんなのあるわけないじゃないですかっ!!」
「じゃあ嫌い?」
「そういうわけじゃないですっ。その…………友人としてなら、その……す、好きだと思っています。友人としてなら」
「それはつまり……男と男の友情、ってこと?」
「……そうです」
だって私は中身は男なんですから、とリオは言った。
小さな手でドレスの胸元を握り締めながら語られるその言葉はまるで何かに言い聞かせるようであった。
そんな
「…………………………でも、了くんちゃんさ。
私は
その言葉の意味を聞いて、理解して――――
以前から『メリィ』が『
そうしてかつてと同じように会話をすることで、一時自分が『リオ・オーガスタ』であることを忘れ、『葉月了』あることを思い出すかのように。
それがどうだろう、つい先ほど指摘されるまで終始『リオ』として話していたことに気が付かなかったのである。
その事がリオには恐ろしかった。
まるで『自分』という人間の内から『葉月了』が消えていくような気がしたからだ。
気が付けば『私』ではなく、『俺』という一人称を使うことに酷い違和感を覚えている。
その事がどうしようもなく焦燥感を掻き立てる。
この世界にやってきてほんの一月も経っていない。
にもかかわらず『自分』が
(まるで――――
気が付けば、リオは廊下の途中で立ち止まっていた。
外の庭に面した廊下の窓からは麗らかな春の日差しが差し込んでおり、目を向ければ花を咲かせる木々が涼やかな春風に揺られて枝葉を鳴らしていた。
暖かな春の日差しに照らされながらリオは朱色に色付いた自らの頬に指先を添えていた。
頭の中でグルグルと様々な思いが渦巻いていた。
そのいずれもが言葉にできないまま……いいや、
ただそれでも、
それでも、沈めきれないで浮かび上がってくる想いの形があった。
それはいつもの胸の奥のざわめきと同じように、一人の人物の名前として像を結ぶ。
「ヨアヒム……」
リオの桜色の唇が彼の名を呟いた。
声に出して名前を呼んでみるだけで、くすぐったいような、それでいて温かいような心地が胸の中に湧いてくる。
――――この感情に名前を付けてはいけない。
――――この感情の正体を考えてはいけない。
衝動的にリオはそう結論付けた。
その答えを明確なものにしてしまうことが、自分を
もう決して後戻りのできない、致命的な何かがその先に待っていると感じてしまった。
彼女はそうして自分の内側にあるモノにずっと目を凝らしていた。
だから――すぐそばに近づいていたその存在に気付くことができなかった。
「呼んだか、オレの事」
「えっ、あっ…………」
彼女が長い髪を翻しながら振り向くと、そこにはヨアヒム・クラートフ伯爵の姿があった。
理想的な美男子像を求めた画家が注意深く筆を執って描き出したかのような均整の取れた顔立ちに、悪戯好きな少年のような稚気に溢れた笑みを浮かべるいつもの姿。
比較的ラフな休日姿の伯爵は艶のあるワインレッドの髪を撫でつけながら客人の少女の下へと歩み寄ってきた。
「どうしたんだ。なんだか鳩が豆鉄砲食らったような顔をして」
「な……なんでも、ないです」
友人に声をかけるようにあくまで気さくに話しかけてくるヨアヒムに対して、リオはどことなく居心地悪そうに応えた。
彼女の視線は適切に収まるべき場所を探して、結局何処に行くこともできずにそっぽを向くような形になってしまった。
(……顔を見れない)
リオは心中で歯噛みした。
視界に入れたくない、というような嫌悪感からくるものではなかった。
むしろ逆だ。一度注意を向け始めたら絶えず隅々まで見つめてしまいそうで、歯止めが利かなくなりそうなのが怖かったのだ。
そして――――何よりも怖いのは、そんなに熱を込めて見つめている理由を尋ねられて、返事に窮することだった。
自分の意識が彼にこんなに向いているということを知られるのが、なぜか恥ずかしくてたまらない。
「この時間は中庭で茶でも飲んでいるかと思ったんだがな。メリィはどうした?」
「彼女ならつい先ほど帰りましたよ。今月分の常備薬も一緒に置いていって、代金の支払いも済ませたようです。アンネが今頃倉庫にしまいに行ってるところでしょう」
「そうか……どうせならついでに挨拶もしておきたかったがな」
「そういうあなたはどうしたんですか。お仕事は?」
「ちょうど一区切りついたんで休憩だ。前みたいにテオドラに叱られることは無いさ。……心配してくれたのか?ありがとう」
「あ…………っ」
いつものように適当な雑談を交わす二人。
その合間に感謝の意を表するために(あるいは純粋にちょっかいをかけるのが楽しいので)ヨアヒムがリオの髪を撫でるのも二人の間ではよくある光景だった。
そして、呆れ顔のリオがすげなく彼の手を払ったり皮肉や毒舌であしらったりするのがいつもの流れだった。
だが、
「今日の髪型も似合っているな。華やかで、可愛らしい」
「…………そ、そうですかっ。今日のは、その、メリィにやられたやつでして……」
「ははっ、いいじゃないか。オレも一度お前の髪を結ってみるのも面白いかもしれないな」
「そ、それは……っ」
前頭部の髪をカチューシャの様に編み込んでから、ピンクローズをイメージして桃と緑のリボンで飾られた頭をヨアヒムの手がゆっくりと撫でる。
いつもなら憮然とした表情で「子ども扱いしないでください」とでも返すはずのリオは、今日に限っては異様に大人しかった。
ただ、しどろもどろになりながらも青年の掌を受け入れるばかりだった。
彼女の内面では名状しがたい感情がせめぎ合っている。
つまり、触れられるのが嬉しい、と。
そして、触れられるのが恥しい、と。
彼に「可愛い」と髪型を褒められた瞬間、不意に心臓の鼓動が大きくなった。
こうして頭を撫でられているのが面映ゆくて、彼が自分の髪を結んでくれるのを少し想像して頬が熱くなる。
そして、それらすべての自分の心の中の揺れ動きが、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかった。
そして、その羞恥から早まる心臓の鼓動が、胸の奥を締め付けるような甘い痛みを生んでいるのにも気づいて、また一段と混乱が深まり頭が真っ白になる。
「―――――なぁ、リオ。少し顔を良く見せてくれないか」
「……ひゃ、ひゃいっ!?」
自分の心の内面に困惑しているリオに対し、何を思ったのかヨアヒムはそんなことを言ってきた。
言葉の意味が咄嗟に飲み込めずにさらに当惑する彼女に対し――――彼は、指先を顎に添えて上向かせた。
「あっ……」
少女の細い
思わずリオの桜色の唇から零れるような吐息が漏れた。いつもであればそのような扱いを受ければ出るであろう悪態の一つも無く。
呆れるような表情の代わりに、リオは怯えるように、あるいは困ったように目を伏せた。
自分の表情を、注意深く美術品を品定めする鑑定士の様に、間近で覗き込んでくるヨアヒムの顔を見返すことができなかったからだ。
だがそれでも長い睫毛に彩られた瞼の奥、彼女のアイスブルーの瞳は彼と目を合わせようとして――――結局できずに視線を逸らす。そんなことを何度も繰り返す羽目になった。
惑うようにあちらこちらへと泳ぐ少女の瞳。良く磨かれたアクアマリンのようなそれが、瞼が瞬く度に潤んでいくようだった。
「…………っ……」
ぎゅうっ、と胸元でリオは自分の手を握り締めた。さながら自分の鼓動を抑え込もうとするように。
こんなに近くに寄られて恥ずかしいのに、彼女は自らの意識がヨアヒムの方へと向いてしまうのを感じていた
肌に触れる指の感触、自分より一回り以上に大きい男らしい体躯とその温度、間近で薫る男性物の香水の香り…………。
そうしたものを近くで感じることにかつてのような鬱陶しさを覚えない。
むしろ安心するような、それでいて気が逸るような、そんな不可思議な気持ちを抱いてしまう。
それらすべての、自らにとって不可解な感覚が羞恥心という形を取って、リオの心臓の鼓動をより一層早く熱くした。
「顔が赤いな」
「…………っ……!!」
呟かれるヨアヒムの言葉。
それに何かを咎められたような気がして、リオは口の奥で歯を噛み締めた。
その癖、耳元で囁かれる彼の声に、自分の中にある何かが喜んでいることに彼女は当惑する。
「――――少し熱でもあるのかもしれないな。体に気を付けて休んでくれ」
そう言ってヨアヒムはリオから手を離した。
その時の彼の表情は何かを注意深く思案するようであり、少なくともいつもの女性をからかう時のような気軽な様子のそれではなかった。
ただし、リオは彼のその様子に気付くことは無かった。
それは自身を覗き込んでいた彼の顔が遠ざかったことに
せめてものおまじないだ、と言ってヨアヒムはリオの手を取り、そこに口づけを落としたのである。
奇しくも(いや、あるいは
ちゅっ、と男の唇が少女の白く華奢な手の甲に口づける音が、二人以外には人のいない廊下に響く。
その瞬間、リオは自分の心臓がウサギの様に跳ねたのを感じた。
胸の内から生じたその衝撃に呆気に取られたままに彼女は、微笑みを一つ残して立ち去っていく伯爵の後ろ姿を沈黙したまま見送る他になかった。
「………………」
心臓から湧きあがるような熱が溢れ、零れそうな気がしてたまらずリオは片手で胸を押さえた。
吐き出す息はどこまでも熱を帯びて、甘ったるい感じがした。
リオはもう片方の手が異様なほどに熱を持っている感覚に襲われた。
そこは先程ヨアヒムが唇を押し当てていった場所だった。
彼の口づけの痕が痺れるような微熱を持っていて、その時の一瞬の感触が何度も彼女の脳内で再生されていた。
「…………ん……っ」
そしてリオは彼がそうしたように――――自分の唇をそこに押し付けた。
まるでそこに残る、彼の熱と温もりを探し求めるように。
(…………『好き』だなんて、違う……。そんなわけ、ない……。……私は、違う……。そんなわけ……)
頭の中で、胸の奥で、幾つもの想いと感情と言葉が彼女の中で渦を巻く。
喜楽、羞恥、困惑、焦燥、否定。
その激流に耐えかねたように、リオは廊下の壁に寄り掛かってずるずるとその場に崩れ落ちた。
止まない微熱が宿る手の甲から、唇を離せないままに。
リオ・オーガスタを悩ます感情の奔流。
当人にとっては名状しがたきその情動であったが、傍から見ればその名前は明らかであった。
夢見るように潤んだ瞳、リンゴの様に赤い頬、熱を帯びた吐息、高鳴る鼓動。
それは誰がどう見ても――――恋する乙女の姿だった。