――――カン、カン、カン、と硬いものが打ち鳴らされる音が響く。
甲高いその音は否応なく人々の耳を傾けさせる、本能的な警戒感を煽るような音だった。
半鐘――警告用に設置されている小さい鉄製の鐘を金槌が叩く音がイルマートの街に響き渡る。
「これは……警報……?」
そう呟いたのは幼い少女である。
いや、幼いと言えば本人の憤慨を招くためここはあくまで『小柄である』という程度の表現にとどめておくべきだろう。
何せ実年齢でいえばこの世界での成人を既に迎えているのだから。
明るい青空が広がる川辺の街には、今まさに危機感を煽る半鐘の音が鳴り響いている。
怪訝な表情を浮かべて何事かと囁き合う市井の人々、アンネもまたその例に漏れず不安げな表情で半鐘の聞こえる方角へと目線を向けていた。
「警報、警報です!」
「つい先ほど川の上流にある水門が破損したとの情報がありました!川の中に魔物が流れ込んでくる可能性がありますので市民の皆さんは川に近づかないで下さい!!」
「ご安心ください!!現在水門には修理の専門家と冒険者が派遣され、問題の解決に努めています!!市民の皆様につきましては警報の解除までくれぐれも川に近づくことが無いようにお願いいたします!!」
街中を帯剣した衛兵たちが馬で走り抜けけていく。
蹄の音を石畳に鳴らしながら彼らが警告を発していくと市民もそれに倣った。
ざわざわ、と互いに囁き合いながら、とりあえずは川から離れた場所へと歩を進める。
街の上流にある水門は、主に街の中を流れる川に魔物が入り込まないようにするための防備である。
それが破損したということは確かに大事であるが……同時に水棲の魔物であれば陸地にまで上がって大きな被害を出すことは無いだろうというのも良く知られていた。
ただし川岸に屋台を出していたり、その近辺に住んでいる者にとっては無視できることではない。
そうした人々を避難させるために、衛兵や臨時で雇われた冒険者達が一丸となって事に当たることになる。
現に、街の各所から集められたと思われる腕利きの者達が装備もそこそこに、隊伍を組んで現場へと急ぐ姿が散見されていた。
アンネが現在いる場所は川から離れているため、さして心配するようなことは無い。
今もざわめきながら川とは逆方向に歩いていく群衆についていけば問題は無いだろう。
だが、彼女は童女めいた顔立ちに憮然とした表情を浮かべ、「うーむ」と声に出して悩んでいた。
買い物用の手提げ袋に伯爵家女中のメイド服。
この出で立ちからわかるように彼女は屋敷の仕事の一環で買い出しに来ていた。
伯爵家には買い出しなどの雑事に際して使用人が使うための一人乗り用の馬車があり、アンネも今日はそれを使っていた。
しかし……、
「――よォ、どうしたんだい?嬢ちゃん」
「うーん……。あたし、今日乗ってきた馬車を川向かいに停めてるのよね……。どうしましょう、今は川に近づいちゃダメって言われてるし……」
「あァ……それなら問題は無ェさ。向こうの方の橋で、衛兵が警護しながら人を渡らせてらァ。まァ、それ以外は通行止め見てェだがなァ……」
「あっ、そうなんですか?ありがとうございますっ!」
悩んでいるアンネを見かねた通りすがりの男が指をさす。
その方角にある橋ならばアンネにも覚えがある。少々遠回りになるかもしれないが、これで無事に屋敷に帰れるだろう。
安堵の息を吐いた彼女は振り返り、親切な誰かに向けて笑顔を返した。
「あァ……なんてことは無ェ、気にすんなよ。――――ところでこっちからも嬢ちゃんに聞きたいことがあるんだがよ」
「はい……何でしょうか?」
アンネが振り返った先、目の前にいたのは長身痩躯の男だった。
冒険者なのだろうか、左腕と左胸を金属製の籠手と胸当てで覆い、腰には
その男は蛇にも似たのっぺりとした顔立ちと爛々と光る眼で笑みを形作り、こう言ったのである。
「お前……青い薔薇の髪飾りを付けたプレイヤーを知ってるな?」
******
「わかった、オレも行く。馬車の用意をさせろ!!」
クラートフ伯爵家の屋敷に凛とした青年の声が響いた。言わずもがな、屋敷の主人であるヨアヒムのそれだ。
執務室で連絡を受けた彼は常に傍に控えているメイド長のテオドラに命令を出した。
細かく彼女にああしろこうしろ、と言う必要はない。テオドラは主人の一言で即座に準備に取り掛かった。
メイド長は優雅に一礼した後、裾を乱さぬように淑やかに退出し、手早く他の使用人たちに的確な指示を出していく。
「ヨアヒム……あの、何かあったんですか?」
外出……いや、
幼気な少女はその整った人形のような端正な顔立ちに怪訝な表情を浮かべ、恐る恐るといった体で屋敷の主人を呼び止めた。
ヨアヒムの鶴の一声から屋敷の中は俄かにざわついた雰囲気に包まれていた。少女が何かあったと察するのも無理のない事だろう。
そして何より、
「街の方から鐘のような音が響いてきています。……それ絡みですか?」
「――あぁ、そうだ。あれは警報だな。ついさっき伝令が来た」
「警報……!?」
リオの耳は屋敷から離れているはずの街の中心部からの警鐘の音を捉えていた。
そのことに驚きながらもヨアヒムは努めて冷静に事情を説明した。
「水門が壊れて街の中に魔物が流れ込んできているらしい。オレは現地に行って陣頭指揮を執る」
そう言いながらヨアヒムは使用人から手渡された防具を身に付けていく。
煌びやかな上着を羽織れば目立たなくなるような、あまり大きくない作りのそれだが、それは紛れもなく身を守るための装備だった。
そうしたものを身に帯びる必要がある。そういう事態なのだと思い至ったリオは咄嗟に口を開いていた。
「私も行きます。私だって、」
私だって戦えます、と言おうとした彼女の唇の前にすっと男の人差し指が立てられる。
何も言うな、というサイン。
そう示したヨアヒムの榛色の瞳は茶目っ気のある笑みを浮かべていた。
「心配すんな。別にオレが前に出てどうこうするわけじゃない。こういう時でも領主は領民を見捨てねーぞ、っていうアピールをしてくるだけだ。こんな無骨なもんを着ていくのは……念のためだ。念のため」
「……」
コンコン、と硬い胸当てを拳で叩いてそう言い聞かせるヨアヒムだが、リオは尚も不服そうな表情を浮かべていた。
秀麗な金色の眉の根を寄せた少女の空色の瞳が何かを言いたそうに彼を睨んでいる。
それを見て取った青年は心の中で仕方ないな、と呟いてから少女のこめかみ辺りから垂れる髪を一房手に取った。
白金色の光沢を見せる、金糸の艶やかさと絹糸の滑らかを備えた美しい髪。
その手触りを確かめるように、あるいは愛でるように青年の指が少女の髪を梳る。
いつものリオならため息ついでに悪態の一つでも吐いてヨアヒムの手を払いのけるのだろう。
だが今の彼女はその代わり、金縛りにでもあったように硬直し、頬を見る見るうちに紅潮させていった。
口は何かを言葉に出そうとして、しかして果たせず酸欠の金魚のように開閉を繰り返すばかりだった。
「お前の仕事は帰ってきたオレを出迎える事……じゃあダメか?」
少女の耳元に、そっと囁きかけられる彼の言葉。 耳朶を打つ声と鼻先に香る男の香水。
たったそれだけでリオの頭が完全に
かぁっ、と頬を赤く染めて、狼狽えるように目線が左右に泳ぐ。
彼女が再起動したのは、あろうことかヨアヒムが手で弄んでいた少女の髪に口づけを落とした時だった。
「〜〜〜〜〜〜ッ!?」
恥ずかしさ、または
頭の中で様々な感情が暴発した彼女は勢いよく後ろを向いてヨアヒムから目を逸らした。
図らずも彼女の長い後ろ髪に頰を引っ叩かれる事になった彼は、髪の房を梳っていた状態のままの手を宙空に彷徨わせて苦笑した。
「あぁ……もう、わかりましたわかりましたからっ!!私はここで留守番してますからヨアヒムは何処へなりとも行ってきてくださいっ!」
そっぽを向いてリオはそう捲し立てた。
金糸の髪からわずかに覗く耳たぶが朱色に染まっているのが、彼女に背を向けられているヨアヒムの側からはよく見えていた。
そんな少女の愛らしい様子に男が内心微笑んでいるのも知らず、リオは最後にこう付け足した。
「ただまぁ、その、心配しているのは事実なんで……体に気をつけて……早く、帰ってきてくださいね?」
「……あぁ、勿論だ」
ちらり、と肩越しに目を向けてそう言ったリオに対し、ヨアヒムは笑って答えた。
「ついでにアンネも拾って帰るさ。多分今頃、交通規制か何かで帰れなくなっているんだろうからな」
******
ヨアヒムを見送って一人屋敷に残る。
いや、厳密には一人というわけでもないのか。屋敷には使用人が大勢いるわけだし。
まぁいい。とにかく、彼を見送って屋敷に残る。
「……」
むにむに、と自分の頰を突っつく。或いは引っ張る。
そして――だらしなく自分の頰が緩んでいるのを自覚する。
気を抜くと、自分の口元がだらしなく緩むのを自分でもわかってしまうのだ。
「あぁ、まったくもう……」
何度か繰り返した悪態をあえてまた口に出す。
人の心配も知らないで、あんな調子のいいことを言って、からかうようなことをして、勝手に一人で行って……ヨアヒムに対してはいくらでも恨み節が言える。
……でも、それでもそんなのは口先だけだった。
わかっているのだ。そんなのはただの
――――楽しい。嬉しい。
ヨアヒムとああやって他愛のない会話をするだけでも楽しい。
ヨアヒムにああやって近くに寄ってもらって体に触れてもらえることが嬉しい。
心が弾んで、心が浮き立つ。
彼の表情を目で追って、彼の声に耳を傾けて、彼に言葉を掛けて……ただのそれだけで。
今も、あんな僅かなやり取りを反芻するだけでにやけ面が収まらない始末。
……でも、心配しているのは事実だし、置いていかれた事に腹が立つのも確かだった。
落ち着かなくて、そわそわする。
嬉しさと憂いと、ほんのわずかな腹立たしさと、そんな自分の心の動きに覚える気恥ずかしさ。
心の中でぐるぐると色々なものが渦を巻いているようで思考が纏まらない。
気がつけば私は屋敷の廊下の窓際からまんじりともせずに外を眺めていた。
もう既にヨアヒムの馬車が走り去っていった屋敷前の石畳の道を見つめている。
冷静に考えればわかることだが、彼はついさっき出ていったばかりだ。すぐに帰ってくるようなことはないだろう。
なのに、私は彼の帰りを今か今かと期待しているのを感じていた。
願わくば彼が無事であってくれればと、そして彼が早く帰って来てくれればと、そう思わずにはいられなかった。
――――胸の奥が締め付けられるような気持ちがする。
「……」
ああいやだ。本当に落ち着かない。ここ最近はずっとそうだ。
ヨアヒムが絡むといつものように。彼のことを考えると私はいつもの私ではなくなってしまう。
その動きがたまらなく私を不安にさせる。
それは間違いなく私を変えていくものだ。
私を根底的に、そして致命的に変えてしまうであろう『何か』が動き始めている音なのだ。
だから、私は努めてそれから目を逸らす。
認識して、観測して、理解してしまえば……
今はただ――――そのことが恐ろしい。
「……っ」
いつのまにか自分の腕を固く握りしめていた事に気付いて、息を吐いた。
手袋を嵌めた自分の指先がジャケットの二の腕に食い込んでいるようだった。
ぎゅうっ、と握りしめられて少し皺になっていた部分を軽く手で叩けば生地は元どおりになった。
……あぁ、まったく落ち着かない。本当に駄目だな。
こういう時は何かで気を紛らわせたいのに、こんな時に限ってなんだか自分の周りは静かだ。
そういえば今日は午後からアンネが不在だった。
確か屋敷の備品の買い出し当番だったか?
もうそろそろ夕方だし、いい加減に帰ってきてもいい時間のはずだが遅いものだ。
十中八九、街の方で起きている騒ぎのせいなのだろうけれど……。
カン、カン、カン、と未だに遠い場所で鐘が鳴っている。
是も非も無く人の警戒心を掻き立てるような、甲高くて耳に残る音。
時刻は少しずつ日暮れ時へと近づいているようだった。
茜色に染まっていく外の風景は半鐘の警報と相まって、火に巻かれる街を幻視してしまいそうだ。
いや、それはあくまで錯覚。そう思ってしまうというだけだ。
――――でも、何故だろうか。妙な胸騒ぎが消えてくれないのは。
「…………」
どれほどの時間をそうして過ごしていたのだろうか。
ひたすらにじぃっ、と窓の外を眺め続けていた私の耳に、何か音が届いた。
勿論半鐘の音ではない。すぐ近く、同じ屋敷の廊下。衣擦れとカーペットを踏む靴の音……。
誰かがこちらに来ているようだ。多分気配からして……。
「こちらにおいででしたか、リオ様」
「……テオドラさん」
廊下の角から姿を現して声をかけてきたのはメイド長のテオドラだった。
相変わらずの黒曜石のように無機質な光を宿した瞳が、眼鏡の奥からこちらを覗いている。
不意にその眼差しで見つめられると、何か咎められているような気がして私は苦手だったりする。本人に他意はないのだろうが……。
でも、彼女もヨアヒムに抱かれるときはその目を潤ませて蕩けた顔をするのだと思うと、なんとも言えない。
あぁ、あの時の彼女の表情は何とも
「……っ」
「どうかされましたか?」
「いえ、なんでも……。そういえばテオドラさんはヨアヒムに同行しなかったんですね」
「はい、屋敷の留守を任されておりますので」
不意に頭をよぎった
怪訝な表情をする彼女に取り敢えず適当な質問を振って余計な追及をかわした。
そして何か用なのかと問いかけてみれば、彼女は封筒を一つ差し出した。
「お手紙が届いております」
「……私に?誰からでしょう」
「わかりかねますが、不審物が混入されている形跡はなさそうです」
中身までは開けていないので内容はわかりませんが、と言うテオドラから封筒を受け取る。
光に透かしても便箋が入っているようにしか見えないし、全体を触っても不自然な感触は無い。香りを嗅いでも妙な匂いもしないし……実際にただの手紙のようだ。
危ない所はなさそうである。
話を聞くと郵便受けに直接投函されていたもので、先程ヨアヒムを送り出した時には入っていたという。
一礼して去っていく彼女を見送ってから、改めて封筒を眺める。
宛名にはただ「リオ・オーガスタへ」と書いてあるのみで、誰から来たのかはさっぱりである。
ついでに言えば筆跡にも見覚えがない。とにかく走り書きしたような荒い字だ。
私に手紙を寄こすような輩と言えば……メリィくらいしか覚えはないが、彼女でもなさそうだ。
まぁ、いい。とりあえずは開けて中身を検めないことには話は始まらない。
そう思って封筒を開いた瞬間、中からはらはらと何かが零れ出て床に落ちた。
なんだなんだ、と思ってカーペットの上に屈んでそれを摘まみ上げた。
その瞬間、頭が真っ白になる。
それは赤茶色の糸のようだった。
それは赤い煉瓦色の、少し癖のかかった髪の毛のようだった。
それからはいつも近くにいた誰かの、馴染みのある香りが微かにした。
それは――――わたしのお付きのメイドであるアンネ・ニアンナの髪の毛だった。
「…………っ……」
指先で摘まんだ数本の髪。
それが視界の中で微かに揺れる。
いや、揺れているのは視界ではなく私の指先か。
震える手で、封筒から便箋を取り出して目を走らせる。
そこにはやはり封筒と同じ走り書きの字で「人質を預かった。誰にも言うな。夜になったら来い」と、極めて簡潔にそう書いてあった。
添付してあるもう一枚の紙には簡素な手書きの地図が書き記してあった。
端末からマップ機能を呼び出して確認するまでも無い、おおよその位置はそれだけで分かる。
私とヨアヒムが、初めて出会った森から左程離れていない場所だ。
「ふざけ、やがっ、て…………っ!!!!」
ぐしゃり、と手の中で封筒と便箋が握り潰される。
掌に指先が食い込むほどに握り締めて、歯が砕けそうなほどに顎を食いしばる。ギリギリと音がして骨が軋むようだがそれすら気にならない。
そうでもしなければどうにかなってしまいそうだった。心の底から、腹の底から溶岩のように煮えたぎる
真っ白になって痺れていた頭の奥が、今は真っ赤に染まって焼け付きそうだ。
るるる……っ、と獣の唸り声のような音がどこかで聞こえると思ったら、それは自分の喉の奥で声を押し殺している音だった。
「ふぅぅぅっ……!!…………――っっ……!!!!」
屈んで背を丸めた体勢のまま、荒い息を吐く。息を吐く。
体の内側が煮えるように熱くておかしくなりそうだった。
熱い。熱い。そして、
春の陽気が寒いと感じるほどに、自分の内側から熱さが止まらない。
「………っっ……!!」
よろめきながら、窓の外に目を向ける。
茜色に染まる空はやはり何処までも赤く色鮮やかだった。
橙色の日差しと赤い空に、黒い建物の影が深い陰影を刻んでいる。
私はそんな光景が見える窓を、無言で引き開けた。
涼やかな春の風が窓の外から吹き込んで、芳しい草木と花の香りが微かに鼻孔を擽る。
ただ、今はそれをゆっくりと堪能していられるような心の余裕はない。
――――夜まで待つなんて悠長なことは言っていられない。
今すぐにでも行ってやる。
私は握りつぶされてぐしゃぐしゃになった封筒と手紙を廊下に投げ捨てた。
これに関しては誰にも言うつもりはない。向こうもそういう風に指定してきている。
……なので、
「……どこの誰だが知らないが、落とし前は付けてもらう」
窓枠に掛けた手で体を引っ張り、足を引っかけて窓から外に出る。
場所は屋敷の二階。屋根の上。普通に落ちれば怪我の一つや二つはしそうな高さだが、恐怖のようなものは全くなかった。
眼下の風景を見下ろしてから一度深く息を吸って吐き――――私はそのまま屋根を蹴り、音もなく駆けだした。