――――最初に感じたのは熱だった。
身体が熱いというわけではなかった。
むしろ体は全身を氷水に漬け込んだみたいに冷え切っている。
なのに、自分の中の……何処か
それは頭の奥であるようにも感じられたし、胸の奥であるかのようにも感じられたし、腹の奥であるようにも感じられた。
とにかく……
『私』という存在の内側から、熱い何かが立ち上り始めているのだ。
だが、私は体を指一本たりとも動かすことができない。
肉体を動かすための燃料のようなものが根こそぎ流れ出してしまったようだ。
全身は凍えるように冷たく、筋肉は冷えた鉛を流し込まれたように重たい。気怠さが私の肉体を完全に支配している。
だが……それでも。
それでも、立ち上がらなければならない、と私の内側に湧きあがる得体のしれない熱が囁いていた。
――――立て。
――――立ち上がれ。
――――立って、■■。
――――立って、■■。
私の内側から囁くその声に従うように、私は倦怠感で萎え切っている手足に力を籠めた。正確には籠めようとして――――力尽きた。
立ち上がろうとした瞬間、悍ましいほどの痛みが全身を貫いたからである。
まるで、内臓が抉れるような、
まるで、頭が割られるような、
さながら私という存在そのものが擦り潰されて引き裂かれるような――――
意識が白濁して、白熱して、白滅する。
叫んでのたうち回りたいのに、それすらもできない。
手足の末端から内臓に至るまでが鉛のように重たくて呻き声の一つさえも上げられないのである。
――――それでも、自分の奥に何かの熱を感じていた。
全身を痛みが走り抜ける度に、その熱は少しずつ勢いを増しているような気がした。
まるで風で空気を送られる度に炎がその勢いを煽られるように。
私の中に何か熱いものが渦を巻いている。それが、寒さと倦怠と激痛の波にさらわれる私という存在をギリギリのところで繋ぎとめていた。
体が寒い、手足が重い、意識が痛い。
それでもまだ私は『私』を手放すことができなかった。
その中で、沸々と湧いてきたのは――――「何故?」という疑問だった。
何故、自分は……こんなにも寒くて、気怠くて、痛くて、辛い思いをしているんだろうか?
自分は何かこんな目に遭うような謂れがあったか?
それだけの何かをしたか?
自分が何をしたのだ?
私の望みなんて、ささやかなものだ。
深い喜びも激しい悲しみも興味は無い、灰色の世界でも……生きていれば幸福だと、
そう思って――――いたのに、私の目の前に過ぎっていく景色はどこまでも色鮮やかな記憶だった。
春の木々が眩い新緑の葉を揺らし、吹き抜ける風に枝をそよがせ、花が爽やかな香りを振りまきながら散っていく。
暖かな茶色の木材で作られた橋は夕日に照らされて暖かく、水面は山吹色の日差しを照り返して鏡のように輝いている。
黒々とした深いシルエットを形作る山の稜線に目にも鮮やかな夕日が沈んでいく。
目が眩むような、鮮やかな世界。
私が目に焼き付けた、私の生きている世界。
あぁ、そして――――あの赤い人影が目の裏に焼き付いて離れない。
艶やかなワインレッドの髪と、
太い弦を弾いたかのような心落ち着く声と、少年のように悪戯気な表情。
芳しい香水の香り、少し骨ばっている細長い指先と……私に触れた唇の熱さ。
全部全部、覚えている。忘れられない。
貴方に出会った時から、戸惑いも、困惑も、安堵も、信頼も、友情も、羞恥も――――そしてこの胸の奥に灯り始めた、焦がれるような想いも。何もかも。
会いたい。貴方に会いたい。
貴方に会って、言葉を交わして、その指先に触れたい。
そして――――叶うのなら、抱きしめたい。抱きしめて欲しい。
『私』の奥底に燻る熱が、そう言っている。
ただ生きているだけでは
生きている証が必要なのだと。
だから……私は、私の命を邪魔するものを、
そうだ、私は生きていたい。死にたくない。
こんなにも鮮やかで、美しくて、焦がれるような記憶と感情を抱えて――――それを味わいつくす前に死ぬなんて、絶対に嫌だ!!
私は生きている。私は生きている!!この体に心臓を、この心に熱を抱いて、私は紛れもなく、今此処で生きている!!
だから、
だから私は、
私の命を脅かすものを、
絶対に許さない。
絶対に許さない。
絶対にだ。
絶対に――――
その時、
足りていない部品が見つかって、不揃いだった歯が噛み合って、正しくあるべき機構が組みあがって――――勢いよく全てが回り始める。
それは私という存在の奥底に宿る熱を生む運動だった。
もう迷いはなく、戸惑いはなく、停滞もない。
私のやるべきこと、やりたいことは極めて明瞭だった。
そうだ、殺す。殺すのだ。
私を殺した輩を殺す。
私を傷つけた奴を殺す。
私の邪魔をする者を殺す!!
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すブチ殺す…………!!!!!!
私の中に感じる熱の正体、それは『怒り』だ。
怒り。まるで火のように赤く、炎のように紅く、焔のように朱く、そして血のように真っ赤な、激情の塊だった。
それが私という存在の奥底から途方もない熱量で燃えている。
私の中に芽生えた『殺す』という強い意志――――『殺意』を燃料にして赫奕と燃え盛っている!!
「る、る、る、る、る、る…………っ!!!!」
気が付けば、萎えているはずの私の五体に力が戻り始めていた。
心臓が熱い。自分の中に燃える殺意と怒りが血の流れに乗って全身に巡っているような感覚。
それでいい。それがいい。私のこの激情が私を動かすのなら、それがこの感情の熱量の証明だ。これほどの怒りで体が動かせないなどということは在り得ない。
気が付けば私は唸っていた。
唸りたくて唸っているわけではない。
本当は叫びたいのに、喉の奥で何かが粘るように絡んでいてうまく声が出せないのだ。
声さえ思うようにならない、自分の邪魔をする何かがあるというだけで、怒りの火に油が注がれる思いだった。
「る、る、るる、るるるっる、るるるる………………っ!!!!!」
全身に力を籠め、手と足で地面をつき――――立ち上がる。
体中にこびりついている血が乾いて糊のようにへばりついている。
どこまでも煩わしいそれを、ガタガタと震える筋肉で引きはがすように体を起こす。
視界はまだ奇妙に霞みながらガクガクと揺れていた。
だが、視界以上に全ての感覚が、暗闇が晴れたように澄み渡っている。
音が、香りが、空気の流れが、周囲にあるものの全てがまるで掌の上にあるかのように克明に理解できる。
見えていないはずの真後ろの木々も、突っ伏していた地面の小石の粒の一つ一つも、大量にぶちまけられて池のようになっている血だまりも、うち捨てられるように転がっている見知らぬ死体の内臓の色も、こちらに視線を寄こしている煩わしい糞野郎どもの心臓の鼓動も、自分の周囲の何もかもがくっきりとわかる。
かつては大量に叩き込まれる情報の洪水に怯んでいたのが嘘のようだった。
今あるのは、全てを掌握して手中に収めたかのような、清々しいほどの全能感だった。
「るっ、るるるるるるっ、る゛る゛る゛る゛る゛るるるるるる……っっ!!!!」
ごぼぼっ、という気色の悪い音と共に、喉の奥に絡んでいたものが外れる。
どうやら内臓からせりあがってきた血反吐が喉奥で固まっていたらしかった。
口から粘ついた血塊を吐き出すと、喉が通って爽快な気分だった。
いや、正確には爽快というのは嘘だ。
むしろ最悪の部類だ。
未だに腹が抉れるように痛く、頭が割れるように痛い。
死ぬほどに痛い。
だから――――だから許せない。
殺したい。殺す。殺してやる。
際限のない殺意が、怒りという熱になって全身に血と共に巡る。
もう、遮るものは何もない。
私は腹の底から頭の天辺まで、私という存在の内から迸る熱のままに――――吠えた。
「る゛る゛る゛る゛るるるるるるるるううううううううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅうぅうっぅぅぅぅぅぅぅっぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅお゛お゛お゛おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
******
夜空の下で、少女が吠える。
東の空から昇った青白い月が辺りを煌々と照らす中、一人の少女が天を仰いで咆哮を上げていた。
愛らしい暗青色の衣も、艶やかな金糸の髪も、血と脳漿と泥で赤黒く染められている。
口の端から糊のように粘ついた血反吐を吐き散らしながら叫ぶその姿を何と言うべきか。
……それは獣か、はたまた魔物か。
いずれにせよ、凡そ人とは呼べぬ形相であった。
咆哮が夜の森を震わせる。木々がビリビリと振るえ、小鳥や野鼠がざわついて逃げ出した。
それは苦悶の果ての断末魔のようにも、生命の誕生を言祝ぐ産声のようにも聞こえる――――剥き出しの命の絶叫だった。
天に座す月を落とすための号砲のように、少女――――リオ・オーガスタは命の底からの声を張り上げた。
「…………っ」
それを目の当たりにしていた者達は一様に息を呑む。
リオが立ち上がることに喜びを見せていたアンネでさえ事の異常さに気付き、絶句していた。
「リオ、ちゃん……?」
アンネは驚愕に眼を見開きながら掠れる声で呟いた。
その光景はあまりに彼女の理解を絶していた。
姿形は紛れもなく彼女が良く知るリオという少女のそれである。
だが、全身を血と泥に汚しながら獣のような咆哮を張り上げる彼女の姿に――――アンネは明白な恐怖を覚えていた。
否、恐怖というのは真に正しい表現ではなかった。
恐怖よりもなお明確に、命の危機を煽られるという感覚。
アンネは、いつの間にか自分が猛獣の巣穴に迷い込んだような恐ろしい感覚に襲われていた。
「ひ、ぃぃっ」
リオという少女に対するある程度の
故に、普段から荒事慣れしており危機察知能力もある程度磨かれている山賊の男はアンネの比ではないほどの身の毛もよだつ悪寒に襲われていた。
リオが立ち上がり始めたときから周囲を満たしていた
それが今、極めて明瞭な形をもってリオを中心に放たれている。
(あいつは……
山賊の男は直観的にそう理解した。
雄叫びを上げるあの少女は、目も耳も鼻も皮膚も超えた――あるいはそれら全てを含めた――感覚で周囲を余すことなく観察しているのだと。
凄まじいほどの広範囲を、恐ろしいほどの精度でもって。
今も山賊達は自分をねっとりと舐めまわすように
それはさながら――――生きたまま解剖台の上で腑分けされているような、巨大な魔物の口の中で飴玉のように転がされているような。
「ひ、ひいぃぃ……!!ひぃぁぁぁぁぁっっ!!」
山賊の男達の一人が、声を上げた。
自らを奮い立たせるような勇躍の雄叫びではない、ただひたすらに恐怖に耐えきれなくなったが故の悲鳴であった。
いっそ哀れとさえ言える甲高い悲鳴を上げながら――――男は手に持っていた小型の弩弓をアンネに向けて構えた。
咄嗟の行動であったがためにその男には深い考えはなかった。
たまたまアンネが彼の近くにいたからであったとも言えるし、彼女がリオに対して人質として有効であることを脳裏で思い出したからであるとも言えた。
なんにせよ、男は直接リオに武器を向けることはしなかった。
「う、うごっ、動くなっ。このガキをぶぶぶぶっ、ぶっ殺すぞっ!」
呂律の回らない口を必死で回しながら、恐喝の言葉を吐く男。
弩弓の照準はカタカタと震え、人質にとったアンネに向けて撃っても当たりそうにはないことは明白だった。
彼の眼はかっと恐怖に見開かれながら、リオに向けて注がれていた。
「……………………」
そして――――当のリオ・オーガスタは一しきり叫び終えて満足したのか、空を仰いだまま沈黙していた。
だが、今も放たれる圧迫感、あるいは彼女の
周囲に存在する全ての生き物の心臓を指先で直接なぞるかのように、彼女の意志が周囲の空間を圧していた。
そして、その視線が一方向へと向けられる。
ぐりん、と壊れかけの人形を無理矢理動かしたかのような不自然な動きで、リオが先ほど声を張り上げた山賊の男の方へと向き直ったのだ。
山賊の男は喉の奥で「ひゅっ」と絞め殺されるような息を零した。
向けられたリオの、血と脳漿と泥で汚れ切った相貌の奥、影の奥から覗く瞳と目が合った。
大丈夫だ、と男はそれでも自らに言い聞かせる。祈るように。
アンネというメイドが人質として有効なことは証明されているし、リオというプレイヤーが人を殺す気がないということは解っていたからだ。
リオが上空に放って降り注がせた矢や、頭目のセルペーとの戦いに際して放った攻撃はいずれも急所を狙っていなかったのである。
つまり、他のプレイヤーと同じで
そのような手合いだと山賊の男は考えていた。
……その理解は確かに正しい。
否、
「て、てめぇっ、そこを動くなよ。動いたらそこの――――」
山賊の男は最後まで言葉を言い終わることはできなかった。
言葉を発するべき頭部が、途中で消し飛んだからである。
弩弓を構えたままの姿勢を維持しながら、男の体がゆっくりと傾いでいく。
どさっ、と重たいものが落ちる音と共にその胴体が地面に倒れ――――頭部があった場所からバケツをひっくり返したかのように夥しい血が溢れて流れ出す。
その男の頭部は何処に行ったのか?
単純な話である。砕けて四散したのである。
まるで瓜を大きな
そこで起こっていたことに注目していた全員、つまりこの場にいたもの全てが目撃していた。
人間の頭が丸ごと一つ、突如として爆散し――――血肉と骨と脳味噌が周囲に飛び散る様を。
あまりにもグロテスクなその光景を目に焼き付けることになったアンネは、自分が助かったということすら度外視して、自らの意識が朦朧としていくのを感じていた。
アンネはぐらぐらと歪む視界の中で、リオの方へと視線を向けた。
月明りの下に立つリオは――――その左手に弓を携えていた。
その弓に矢は番えられていない。もう既に放った後なのだ。
一切の躊躇なく人間一人の頭部を吹き飛ばして殺害したリオは、痙攣するかのように身を震わせていた。
足元に浮き出た月光の形作る少女の影が、カタカタと揺れるように踊る。
赤黒に染まったリオの前髪、その下に隠れた貌から空気が漏れ出るような音がしていた。
そう、リオ・オーガスタは笑っていた。
心の底から楽しそうに――――彼女は大口を開けて笑い出した。
「あ゛あ゛ああはははははははははははははははあああ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
血まみれで笑う。
凶器を構えたまま哂う。
死体を生み出しながら嗤う。
リオの喧しい哄笑が月下の森の中に響き渡る。
周囲を取り囲む山賊の男達は理解させられた。自分たちは今や虎口に放り込まれたのだと。
虎の舌の上で舐め転がされ、その身に牙を突き立てられて噛み砕かれる運命にあるのだと、
そしてその光景を目にしながら、アンネ・ニアンナは自らの意識が遠のいていくのを感じていた。
もう彼女にとって、目の前の光景は悪い夢のようであった。このまま意識が落ちて、目が覚めれば全てが『無かったこと』になっていてくれればと思わざるを得ないほどに。
……そうして意識を失えた分、アンネはまだ幸福だったかもしれない。少なくとも彼女は
その場の恐怖から解放され、これから先に起こることを見ることは無いのだから。
「…………っ……!!」
ヨアヒム・クラートフはその意識と正気を保ったまま、全てを見届けていた。
魔物の口の中に放り込まれたような吐き気を催す威圧感と、自分が守りたいと思っていった一人の少女の豹変。
眼前の全ての現実が彼の心と脳を擦り潰すように襲い掛かってくる中で、それでも彼は眼を離すことができなかった。
自分の腕を失った激痛さえも忘れ、彼は譫言の様に呟いた。
「リオ……お前はいったい何なんだ……?」
******
「あ゛あ゛ああはははははははははははははははあああ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
笑う。笑う。
腹の底から笑う。
実に愉快な気分だった。
こんなにも大声で笑ったのは生まれて初めてだと思うくらいに笑った。
それは例えるならば子供の頃に公園でやったことのある、無邪気な残虐の再現だった。
バッタの六本の脚を全て捥いで、カマキリの前に放り出して食われる様を観察していたときのような。
せっせと餌を運び込んでいく働きアリの後を追いかけて見つけたアリの巣を、ただの思い付きで小便をかけて水没させた時のような。
ナメクジに塩を振りかけて徐々に体が朽ちていく様を観察――――するのを途中で飽きて、石で原型を留めなくなるほどに擦り潰した時のような。
久しく忘れていた――――脆弱な生物を、一方的に蹂躙して殺すという優越感!
可笑しかった。最高に可笑しかった。
私が放った矢で、人間の頭が一つ『
背筋を
私はこの感覚を知っている。ずっと前から知っていた。
これは
他の生き物の生殺与奪の権利を私が握り、そして握り潰したという快感だ。
頭を失った男の胴体が、糸の切れた人形のように地面に倒れて辺りに血の匂いが立ち込める。
生臭くて、錆び臭くて、鉄臭い――――そして、なんと芳しい香りだろうか。
血の香りは命の香りだ。私が殺した命、そして私が殺す命の香りだ。
――――『
躊躇うことなく感覚スキルを発動して、全てを知覚の内に掌握する。
体調は最悪だが、頭だけは何処までも澄み渡っている。大量に頭に叩き込まれる情報の津波が、砂漠に注がれる水のように飲み込まれていくのを感じる。
半径数十メートルにわたる全てのモノを――――木々と枝葉のざわめき、風のそよぎ、地面の小石に至るまで掌握する。
そして、当然のように全ての
『
その目線の動きも、皮膚の発汗も、呼吸の頻度も、心臓の鼓動も、血管の脈拍も、筋肉の緊張も、重心の移動も、分泌物の変化も……全て全て、余すところなく、生きたまま腑分けするように、微に入り細を穿って――――その命を掌で転がすように、捕捉する。
「ひ、ぃぃっ」
そのうちの一人が嗚咽のような掠れた悲鳴を上げた。
内分泌の変化も、呼吸のリズムも、瞳孔の収縮も、心臓のペースも、全てが『恐怖』のサインを指し示している。
それはそうだろう。見えない手で全身を体の内側までまさぐられて、舌で舐めしゃぶられているような気分のはずだ。怯えて当然だろう。
だから、私は笑った。
笑って、笑って――――笑いながら弓を構えて矢を引き絞った。
「ぎちぎちぎちぎち……っ!!」と獣が歯ぎしりするような音を立てて弓がしなり、力を蓄えていく。
その音の、その感触の何と心地よいことだろうか。
これは紛れもなく私の力だった。
目一杯に引ききった弦を弾き、矢を解き放つ。
爽快なほどの速度で飛翔する矢は、『
大気を抉り抜くような勢いと急角度で飛ぶ矢が、私の獲物を……山賊の男達を数人纏めて殺害する。
ボウリングでストライクでも決めた気分だった。
ぱぁん、と軽快に血と肉と骨と内臓が飛び散ってバタバタと死体が倒れていく。
それを見て私はまたバカみたいに笑った。
人は死ぬ。私が殺す。
まるで指先でプリンを掬うかのようなあっけない手触り。
さっきまでゲラゲラと下卑た顔で、アンネが殴られるのを笑い、私が殺されるのを見て笑っていた奴らを、私はこうも簡単に殺してしまえるのだ!
あまりにも簡単すぎて笑ってしまう。
私は今まで、戦いの何を恐れていたというのだろう。
人間は簡単に殺せる。まるで虫の手足を捥ぐように簡単に。
弓を構えて矢を放ち、殺す。それだけで全てはこんなにも単純で明快だ。
他の生命の生殺与奪の権を握るという――――冒涜的な全能感に酔いしれる。
「あああああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあはははははっはあははははははははあははははははははははははははははぁぁぁぁっっっっっ!!!!!」
そして、私は笑いながら何度も矢を射った。
笑いながら撃ち、笑いながら殺した。
その度に面白いように敵が死んで、血飛沫をぶちまけて倒れていく。
その様を見て、私は大いに笑った。身が捩れるほどに笑った。
「ああぁ……っ、あああぁぁははは……っ」
気が付けば周囲は死体の山だった。
私の矢を食らって爆散した山賊達が周囲に
地面は血で真っ赤に染まり、ぬかるみの中に肉片が浮いて、木の枝には臓物が引っ掛かって垂れ下がっている。
その様が可笑しくて、私は笑いすぎて息を切らしていた。
だが、
だが――――それでも、最後まで気が晴れることは無かった。
原因は明白。私が作り出した血肉と臓物の森の中心、そこに今もなお立っている一人の男だ。
そいつは青白い刃を輝かせる
「おゥおゥ……、やりゃァできんじゃねェか、やりゃァよォ……」
その男は楽しそうに――――心底楽しそうに、薄ら笑いを浮かべながらブツブツと何かを呟いていた。
周囲の山賊を虐殺した私の矢。それらは勿論、何発もあいつに向かっても放たれていたが――――その全ては悉くその剣で弾き飛ばされていた。
結果としてあいつの周囲だけ、血塗りの森の中で取り残されたような空白が出来上がっている。
――――そのことが、たまらなくイライラする。
「るるるるるる…………っっ!!!!」
あいつの持つ
自分の命が奪い去られるという途方もない喪失感と絶望、そして苦痛。
――――それらを全て燃料にして、怒りと殺意が内側から沸き立つ。
マグマのように真っ赤に焼け付くその熱を、もう喉の奥で噛み殺すことはしない。
湧きあがってきたそれはまるで、獣の唸り声のようになって私の喉から漏れ出していく。
その一方で、左腕の端末から
ゲーム時代そうやっていたように、複雑に工程を思い返す必要も無い、反射的な行動だった。
目の前の蛇面の男を睨みつけながら、手を使うのも煩わしく、
最高級ポーションによって体から枯渇していた生命力が補充されていく感覚がする。
気力で立たせていた体から気怠さと冷たさが抜けていき、隅々にまで力が行き渡っていく充足感。
「……………………ブチ殺す」
言葉は魔法だ。形の無いものに形を与える魔法だ。
自分の中にある激情を『殺す』という言葉に当て嵌めた瞬間、やるべきこともやりたいことも、明白なビジョンになって方向性が与えられていく。
ブチ殺してやる。
私を殺したあの蛇面の男を殺し返してやる。
そこらに散らばる有象無象の雑魚共と同じように、血肉と内臓をぶちまけて殺してやる。
その想像だけで堪らない昂揚が背筋を
万全の体調を取り戻した体に、怒りと殺意という熱が隅々まで行き渡る。
感覚は何処までも鋭く明瞭で、意識は限界まで一方向に絞り込まれていく。
――――『
スキルで蛇面の男をロックした。獲物と見定めたあの男を完全に捕捉する。
全感覚に殺意を載せて叩きつけ、無言で宣戦を布告する。
「――――良いぜ、来いよ」
「るるるおぉぁぁぁぁぁ……っっ!!!」
そうすると男は笑いながら悠々と手招きをしてこちらを誘った。
その余裕に満ちた態度が尚更に癪に障る。その苛立ちを一切隠さずに私は吠えた。
私が殺そうとしているのに死んでいない。ただそれだけで万死に値する。
だから死ね。私が殺す。お前は私に殺されて此処で死ね……!!!!
全ての殺意を視線と矢に込めて、私は奴の顔面に向けてぶっ放した。