セルペーという男は自身が天才であると信じていたし、事実そうであった。
彼の生まれは荒んだ
欲しいものがあるならば金や物を渡して交換するよりも、騙して奪うか力づくで奪うかという二択に限られる。そんな荒れに荒れた街でセルペーは生まれ、育った。
弱肉強食の論理が支配する、
喧嘩では負け知らず。ほんの小さな
流石に年嵩のいった大人たちや、徒党を組んだヤクザ者相手では正面からやりあうのは厳しかったが、セルペーはそういった者達からも危険視される一角の暴漢であった。
欲しい物は、奪うもの。
生きる糧は、奪うもの。
それがセルペーという男が物心ついた時から当然のように受け入れている価値観だった。
そして彼はそんな横暴が許される程度には力ある人間だった。
『暴力』――――他人を脅かす力。道理を無視して己の我儘を押し付ける力。
それを拠り所とする生き方は彼の内で何一つ変わっていない。薄汚れた貧民街の路地裏で道端に落ちていた角材を振るい、自分と同じような路上生活者を殴り殺して金品を巻き上げていたころから――――青白く輝く
セルペーは天才であり、紛れもなく強者である。
彼は自分がそうであることを自覚し、その上で獲物を殺して、生きる糧を奪う。
その生き方に是も非も無いのだが――――時折彼は
彼が剣を振るえば、当然のように人は死ぬ。一般の人間と彼との間にはそれだけの実力の開きがある。
だが、いつも簡単に殺せる雑魚ばかりを斬っていたのでは
だが、いくら退屈だからといって竜や巨人、あるいは特級クラスの冒険者のようなあまりに強すぎる存在を相手に回す気はなかった。彼は敗北を覚悟で強者に挑むような求道者でもないし自殺志願者でもないのだから。
山賊としては確実に殺せる相手を狙うのは間違った行為ではない。娯楽のためにやっているのではなく、生きる為にやっているのだから無駄なリスクを背負う必要はない。獲物が安全に殺せるのなら歓迎すべきことなのである。彼にもそれくらいは解っている。
セルペーの生き方の基本は弱肉強食である。生き残るのを許されるのは勝者だけであるという倫理観を幼いころから徹底している彼だからこそ、退屈しのぎの相手であっても負ける可能性のある相手に挑む気はなかった。
――――自分より強い相手に挑んで負けるのはごめん被るが、あまりに弱すぎる雑魚ばかり斬っていてもつまらない。
なので彼が求めている相手とは、「そこそこ歯ごたえがある程度に強くて、それでいて自分が最終的に勝てると保証されるくらいの実力差のある相手」なのである。
あまりにも身勝手。
あまりにも我が儘。
そのような都合の良い相手が現れる日を心待ちにしていたセルペーは、たまさか一人のプレイヤーに目を付けた。
因縁を吹っかけて一対一での殺し合いを始めたは良いものの、思いのほかあっさりと終わってしまったのは彼にとっては残念なことであった。だが、残念だとは思いつつも心の何処かで納得もしていた。
何度かプレイヤーには喧嘩をしかけたこともあるが、全員能力や見た目だけで――――
今回も同じこと。
今回もいつもと同じ。
そう、そう思っていたのだが――――、
「ひゃはハハハ……っ、ひゃああっハハハハハハハハハハァァァァ――――っっっ!!!」
セルペーは笑った。大いに笑った。
こんなに笑ったのはいつ以来振りかと思うほどに笑った。
獲物を飲む蛇のように、大口を開いて哄笑を張り上げる彼は笑いながら剣を振るった。
夜に落ちた森に剣の青白い閃きが走った瞬間――――轟音と共に矢が弾き飛ばされる。
弾かれた矢は明後日の方向へと飛んでいき、何処かで木の幹を深々と抉る音を立てた。
「いいねェ、いいねェ……!!本当に久しぶりだぜェ、活きの良い獲物ってのはやっぱし良いよなァ……っ!!!!」
先ほどの矢は防いでいなければ間違いなくセルペーの心臓を抉る軌道を通っていた。
威力も申し分ない。逸らすように弾くのではなく、正面から受けていれば腕ごと持っていかれたであろう、弓矢というよりは大砲染みた一撃だった。
絶殺と必殺の意志を込めて放たれる矢。
それを射ってきた相手の激情に満ち満ちた、灼けつくような視線を彼は今も明白に感じている。
故に笑う。
故に笑いながら――――『蛇面』のセルペーは愛刀を構えた。
両の脚は確りと大地を踏みしめ、体幹を固定。
それでいて刀を握る腕は限界まで脱力させながら緩やかに振りかぶる。
まるで、その腕を鎌首を擡げる大蛇に見立てるような――――セルペーが独学で磨いた我流の剣法。
「シャアァッ!!!!」
裂帛の気合いと共に斬撃が解き放たれる。
それは言うなれば剣というよりは
セルペーの腕の持つ類まれなる関節の柔軟さと瞬発力を駆使し、腕全体をしならせながら放つ奇形の斬撃。
斬るというよりは正確には叩きつける、という表現が近いだろうか。
単純に剣を振るよりも瞬間速度で圧倒的に秀でるが、常人が使えば確実に柄を取り落とし、狙いもブレるだろう不安定なそれを、極めて絶妙な力加減で完全に制御する彼以外には扱い得ない剣であった。
しかもそれが『連牙斬』の効果により連続で放たれ、『飛燕斬』の効果により間合いの外へと飛んでいく。
その斬撃の軌道を視認することが適うものであれば――――それはまるで突如出現した群れを成す蛇が、身をくねらせながら獲物へと襲い掛かるように見えたであろう。
そしてその蛇群はいつものことのように、哀れな獲物へと食らいつき微塵に切り刻む……かのように見えた。
「るるるぁぁ……っっっ!!!!」
小さな人影が暗中に跳ねる。
身を捻り、翻し、喰らいつく蛇の牙が如き斬撃の嵐を掻い潜る。
まだらに汚れた長い髪を斬撃が掠め、暗闇に細かな金糸が散る。
紙一重で致命の刃を避けきったその少女――――リオ・オーガスタは着地の勢いのままに深く深く体を地に沈めた。
さながら低く身を伏せ、今にも飛び掛かる山猫のように。
「るぅおおぉぉぉぉぁ゛ぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!」
ぎりりりりり……っ!!!!!と弓が軋むほどの音を立てて、彼女の腕の中で弦が引き絞られる。
空色の瞳を血走らせ、満身の殺意を込めて少女の視線がセルペーを射抜く。
咆哮と共に解き放たれた矢は四本。
『
複雑怪奇な軌道を宙に描きながら、四方より襲い掛かる矢をセルペーの
一矢、ニ矢、三矢、と軌道を逸らされた矢が地面や木に着弾して粉塵を吹き上げ夜の森を揺らした。
そして最後の四矢を躱したセルペーは――――次の瞬間、悪寒を感じて全力で飛び退いた。
「おォっ!!!?」
手甲に包まれた左腕を体幹に引きつけて胴体を守りながら、『縮地』でその場を動く。
その時左腕の手甲の表面を先ほどよりも一段と重い矢が掠めていき、彼の腕を痺れさせた。
体勢を立て直しながらセルペーは見た。四本の矢を放つと同時に自らも飛んだリオが、直線上にセルペーを捉えて渾身の一射を放っていたのだ。
無駄に軌道を変えていない一直線の矢の威力は囮の四本の比では無かった。飛び退いていなければセルペーは腕ごと心臓を串刺しにされていただろう。
「くひひ……っ!」
ちっ、と渾身の一射を防がれた少女の小さな舌打ちが暗闇の中で響いた。
その悔しそうな様を見てセルペーは喉が痙攣したような笑いを漏らす。
彼の背筋を
久しく出会えていなかった、斬り応えのある、殺し甲斐のある獲物に出会ったことへの随喜の震えだった。
「やってくれんじゃねェかやってくれんじゃねェかァ……っ!!」
リオというプレイヤーは先ほどまでは確かに、一方的に自分に嬲られるだけのただの雑魚も同然だった。
だがそれが今はどういうことだ。
容赦なく急所を狙う躊躇いのない射撃、今も周囲の空間を舐めまわすように感じる
きっかけは自分が殺した後にリオが蘇生してから。それが確実にあの少女の中で重要な箍を外したのである。
きっかけ一つで人間はこうも容易く化ける。
人から獣に、小娘から山猫に。
その事がたまらなくセルペーにとって愉快だった。
殺し合いとはそうでなくてはならない。
卯を狩るのも鼠を屠るのも飽いた。
血沸き肉躍る、肉食獣同士が牙を突き立て合う食らい合い。
剥き出しの命を奪い合う殺意の応酬。
セルペーは自分の求めていた
「さァ来いよプレイヤー!!面白おかしく殺し合おうぜェ!!そして最後には気持ちよくオレにオマエを殺させろォ!!」
宣言するかのように高らかにセルペーが嗤う。
それに呼応するように、木陰に身を伏せるリオは無言で目を細めた。
肉食獣さながらの形相で敵を見据える少女は何も語らない。
――――ただ、返事の代わりに、周囲を圧する彼女の殺意が膨れ上がる。
絶え間なく全てを監視する彼女の五感と六感に乗せられた怒りの念が、灼けつくような熱量で空間を満たす。
常人ならば吐き気を催すような殺意のその真ん中に晒されて、セルペーは怯むどころか笑いながら剣を構えた。
「シャアアァァッ!!!!」
「るぅぅおおぉぉぁぁぁぁっっ!!!」
奇声と共に斬撃が放たれ、
咆哮と共に強弓が弾ける。
両者の殺意がボルテージを上げ、戦闘が激化する。
******
宵闇の森の中に喧しい轟音が響き渡る。
蛇面の男が剣を振るえば飛翔する斬撃が木々と枝葉を薙ぎ払って烈風が走る。
金髪の少女が矢を放てば疾駆する矢玉が木の幹を抉り、地面に風穴を空ける。
森の木が倒壊し、木屑と土煙が辺りに飛び散り、土が削れ、空気が弾け飛ぶ。
たった二人の人間が剣と弓で相対しているだけとは思えない、さながら戦場のような有様。
その片隅で――――ガタガタと歯の根を震わせながら、身を縮こまらせている一人の男がいた。
その男、ヨアヒム・クラートフ伯爵はトレードマークとも言えるワインレッドの髪をぐしゃぐしゃに乱しながら、木の陰に隠れて荒い息を吐いていた。
屋外での荒事に備えて誂えた装備も夥しい血と土汚れに塗れて見るも無残だった。
何よりも痛ましいのはその顔色だった。
普段から屋敷のメイドや知己の婦人たちに持て囃される端整な顔立ちを冷や汗に濡らし、唇まで青くして怯え切った表情を浮かべていた。
片腕を切り落とされて大量に血を流したことも原因の一つだろう。
だが――――それ以上に彼の表情を歪めさせているのは、『恐怖』だった。
「うっ、うっ、うぅぅ…………っ!!」
リオとセルペーの戦いが始まってから、彼が勇気を奮い立たせることができたのは気絶しているアンネを自分と一緒に木陰に連れ込んで避難させるところまでだった。
その段階で既に彼はなけなしの精神力を使い切り、へたり込んでしまった。
荒い息を吐きながら蹲るヨアヒムの脳内では幾つものイメージが氾濫していた。
血まみれで地面に横たわるリオ。ガタガタと全身を震わせながら立ち上がるリオ。立ち上がって魔物のような絶叫を張り上げるリオ。そして、山賊達を虐殺してゲラゲラと笑い転げるリオ…………。
それはあまりにも彼の知っている彼女からかけ離れた……かけ離れすぎた姿だった。
だが、それは紛れもない現実であった。悪い夢よりも質の悪い、反吐の出るような現実だった。
そう、彼女は今も戦っている。獣さながらに吠えながら、吐き気を催すほどの殺意と激情を振りまいて。
「るるるるるるるるるううううううううぅぅぅぅぅおおおおおおおああぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!」
近くでその絶叫が響き渡った。
ヨアヒムはびくぅっ、と肩を大仰に震わせる。その様は虎に怯える兎のように弱々しく、いっそ哀れでさえあった。
その殺意を直接に向けられているのは自分ではないのに、余波だけでヨアヒムは気を失いそうだった。
まるで絶えず血肉に飢えた獅子が、間近から睨みつけ、鼻先で匂いを嗅ぎ、舌で肌を舐めているような錯覚に襲われる。
絶え間ないストレスが、伯爵の精神を凄まじい勢いでヤスリにでもかけるかのように擦り減らしていく。
(早く終わってくれ、早く……!!)
既に気絶しているアンネを羨ましくさえ思いながら、ヨアヒムは何度も何度も心の中でそう唱えた。
血に濡れた片腕で頭を抱え、木の陰に蹲る。せめて流れ弾が当たってこないように祈りながら。
そもそもの初めに、何を願ってここまでやってきたのかも忘れて。
******
「はあぁぁぁぁぁ…………っ!!」
リオの口端から息が漏れる。
喉奥から吐いた血でべっとりと汚れた桜色の愛らしい唇から、地獄の蒸気の如く息を吐く。
その身を獲物に飛び掛かる豹の如く低く伏せ、瞳を虎の如く爛々と光らせ、彼女の神経が限界まで張りつめる。
――――次の刹那、烈風と共に斬撃が宙を走る。
轟ッ!!!!と大気を裂いて走る、人喰いの大蛇の群れが如きそれがリオに襲い掛かる。
直接それに触れずとも、飛翔する斬撃が通りすがった木々の枝葉が弾けて四散する。
恐らくは亜音速にも達するだろう超速の斬撃は、常人には見ることはおろか認識することさえも困難だ。
先程のリオにとってもそうだった。
だがそれはあくまで、
「――――――――ッ!!!!」
言葉もなくリオが吠え――――その悉くを回避する。
絡みつく蛇のような刃を身を捻って躱し、跳躍して飛び越え、服の防御力にものを云わせて最小限の被害で抑え込む。
自らの肉体の皮一枚向こうを敵の攻撃が――――敵の殺意が擦過していく。
その事実が一層、リオの中に燃える敵意と殺意を燃え上がらせた。
少女の喉奥でまたもや獣のような唸り声が上がり始める。
……リオには敵の攻撃を見切ったという意識は無い。正確には何も
今の彼女にとって理性や思考といった、頭で考えるような行為は一切が無駄だった。
リオの頭の中に入っている思考形態は、平和な
だが、それでは
――――だから彼女は考えることを止めた。
この肉体――――『The Unlimied Horizon』というゲームの世界で戦うために作られ、戦うための技を修めた、リオ・オーガスタという生物の肉体に全てを委ねる。
思考は全て怒りと殺意で塗りつぶし、一切のブレーキを外してアクセルを踏み抜くことだけに費やす。
後は体の赴くままに、本能の赴くままに――――命の赴くままに、自分を脅かすものを殺すだけだ。
「あ゛あ゛あぁぁぁぁっっっ!!!!」
脚力に任せ、リオの矮躯が跳ねる。
革靴が大地を抉って土埃を巻き上げ、木々の隙間を縦横無尽に駆ける。
場合によっては木の幹をも足場に変えて、夜の森を黒い影となって走り抜けた。
「――――シィッ!!」
縦横に木々の隙間を縫うリオから、幾度も矢が放たれた。
大気を白く弾けさせながら飛ぶその射撃は正確に『蛇面』のセルペーを捉えている。
裂帛の気合いともに男は剣を振るい、その矢を叩き落としていく。
戦いが始まったときから変わらず酷薄な笑みを浮かべるセルペーだが、同時に心の内ではリオに対して明確な脅威を感じ始めていた。
リオ・オーガスタは
それが夜の森という絶好のフィールドを味方にしたことで、さらに効果が増幅されている。
純粋な速力を生かして絶えず位置を変えつつ、暗闇と木の陰に紛れながらの遠距離射撃。
セルペー自身の鋭い感覚をもってしても攻撃の瞬間を察知するのに僅かな
代わりにリオから濃密に発せられる殺意が常に針衾のように彼に向けられており、それのお陰で僅かばかり探知が容易になっているのが救いではあるが。
それが無ければ既に何度かセルペーは致命的な攻撃を受けていただろう。
「…………しゃらくせェ」
その想像が彼に火を付けた。
自分が殺すのは良いが、自分が殺されるのは真っ平御免――――そんな身勝手な怒りが彼の口に凶笑を浮かばせる。
「うおぉぉらああぁぁぁぁぁァァ!!!!」
セルペーは吠えながら、全力の斬撃を見舞った。
だが、その攻撃の対象はリオではなく――――周囲の
颶風の如く彼の右腕が走り、半径十メートル強の空間を幾多の斬撃が薙ぎ払う。
森の木々が細いも太いもなく十把一絡げに叩き切られ、木屑と土煙を撒き散らしながら倒壊する。
(……見えたッ!!)
砕けた枝と葉が舞い散る中、セルペーの研ぎ澄まされた感覚は自分のいる方から勢いよく逆方向へと退いていく気配を探知した。
敵の身を潜める場所を空間ごと薙ぎ払って燻し出すことに成功した彼は――――地面を勢いよく蹴立て全速で間合いを詰めた。
シィィィッ!!と蛇さながらの細い息を吐き、セルペーが剣を一閃させる。
鞭のようにしなる腕から『飛燕斬』が放たれる……その瞬間、彼はカッと目を見開いた。
彼が剣を構えると同時――――同じくしてリオも弓に矢を番えて正面を見据えていた。
両者の攻撃が走ったのは全くの同時。
彼我の距離十メートル余りを両者の斬撃と射撃が一瞬にして詰める。
刹那の交錯の中でセルペーはほくそ笑んだ。
弓はその性質上どうしても両腕を使わなくてはならないが、自分は片腕で剣を振っているためもう片方の手に余裕がある。
両者ともに攻撃の瞬間に攻撃されている以上回避は不可能。だが、セルペーは空いているもう片方の腕の手甲で防御することができる。
力を逸らすように受ければ防げることは先程証明済みである。よしんば受け損ねて腕が折れても構わない、その隙にリオに対して追撃を放ってトドメを――――――。
「ぐがァっ!?」
セルペーの思考は決して間違いではなかった。
受け方を間違えなければ確かに矢を受けることはできただろうが――――それはあくまで先ほどと同じ通常の矢だった場合の話。
あろうことか、セルペーが矢を受けるべく構えた左腕の手甲に矢が当たった瞬間――――鏃が
その爆発とそれに伴う爆風の威力は凄まじく、手甲諸共セルペーの体を背後へと大きく吹き飛ばした。
この矢は通常の矢ではなく――――『
スキルによって付与された効果で吹き飛ばされ地面に転がったセルペー。
だが、彼にその衝撃に対して頓着している暇はなかった。
追撃の矢が彼に突き刺さったからである。
「が、っはァ……!!」
ドズッ、ドズッ、と鈍い音を立てて肉が穿たれ、矢が深々と体に潜り込む。
痛み――――久しく忘れていた、自分の身が脅かされるという感覚に、セルペーは総毛立ちながら全力でその場から飛び退いた。
「テッ、メェ……ッ!!よくも、よくもオレにィ……!!!!」
胴体に刺さった矢は二本。それを引っこ抜きながらセルペーは毒づいた。
体に空いた穴からどくどくと血が流れ出すが、その程度で死ぬような
四白眼を血走らせながら歯ぎしりを鳴らして怒りに燃える彼だが、頭の隅で不可解なことを感じていた。
まず矢が自分の急所に当たっていないこと、そして追撃が二本だけで終わっていたことだ。
まさかこの期に及んで手加減などと殊勝な真似をしているのか、と考えたセルペーだが、目の前の敵を睨み据えて考えを改めた。
「は、はぁあ゛……っ!!げふっ……」
相対しているリオは、一方でセルペーにも劣らずダメージを負っていた。
彼女は攻撃を仕掛けられた瞬間、相打ち覚悟で自らも攻勢に出ることを選んだ。
結果として彼女はセルペーの『
体を両断されることは防具の恩恵により無かったものの、蛇の一刀は肋骨を数本まとめて圧し折っていった。
だがリオは激痛に朦朧としながら踏ん張って、吹き飛ばしたセルペーに不完全ながらも追撃を仕掛けたのである。
ただ、途中で矢筒の矢が切れたのだけが失敗だった。
「テメェ……」
「……っ」
その事実が限りなくセルペーの癪に障った。
それはつまり、矢玉が切れるというアクシデントが無ければ彼はあそこで死んでいた可能性が高いということなのだから。
自分が生きていたのはたまさか運が良かっただけだ、とそんな風に誰かに言われたような気がしてセルペーは――――嗤った。
どうやら己は怒れば怒るほどに良く笑う人間なのだと、セルペーは我が事ながら初めて知ったのであった。
セルペーの四白眼に睨まれながら、リオは淡々と空になった矢筒を捨て、端末から新しいものを取り出して背負う。
口の端に滲ませた血を服の袖で拭いながら、男とは対照的に彼女の表情は何処までも硬かった。
ぎりぎりぎり……、と歯が砕けるほどに顎を食いしばる彼女の面立ちからは火を絶え間なくくべられる溶鉱炉を連想させた。
溢れ出る激情は今も絶え間なく、獣の唸り声のようになって少女の喉奥から流れ出していた。
「「………………っっ」」
月光の下、二者二様に血に濡れた二人が視線を絡ませる。
男の右手には青白い刀身の
少女の左手には蒼穹の色を湛える弓、右手には矢。骨と内臓を痛めて、口の端には零れた血を拭った跡がある。
前者は口を釣り上げて嗤い、後者は歯を食いしばって唸った。
そして睨み合いの中、突如としてセルペーの右腕が跳ね、斬撃を放った。
リオはそれに反応する素振りは無い。自らを狙った攻撃ではないと直観的に判断したからだ。
事実、その斬撃はリオではなくその周囲の木々へと向けられた。
複数の斬撃が土を抉り、幾つもの木々を一斉に根こそぎにするように伐採した。
さながらリオの退路を断つように。
これによって見晴らしはとてもよくなった。
リオはこれで隠形によって木の陰に隠れつつ死角から狙うという戦法は取り辛くなっただろう。
だが――――彼女はそれを理解しつつも、内心ではどうでも良いことだと考えていた。
逃げも隠れもできないのなら、正面から撃つ。それだけの話だった。
「……ふぅぅ゛ぅぅうぅ…………っ!!!!」
威嚇する山猫のように唸りながら、リオは大地を踏みしめた。
敵に対して半身に構え、背筋を伸ばして重心を軽く落とし、緩やかに矢筈を弦に添える。
頭で考えるよりも自然に、彼女の体が無意識に取っているのは最も基本的な射法の構えだった。
葉月了ではなく、リオ・オーガスタだからこそよく理解している、相手を撃ち殺すための技。
それを見てセルペーも構えを取る。
ゆらりと腕を脱力させた、鞭のように剣を振るうための構え。
誰に倣うまでもなく彼が己の才覚だけで自然と身に着けた彼独自の殺人剣。
それが今、自分の命を脅かす
「「――――――――――ッッ!!!!」」
二人の視線と、怒りと、殺意が衝突し――――どちらともなくそれが始まった。
両者は示し合わせたかのように中間点にてぶつかり合い、火花を散らした。
一斬一射の一合で終わらない。
怒涛のように放たれる斬撃が身をくねらせる大蛇の群れの如く襲い掛かり――――それら悉くを精密にして強壮な幾条もの矢が叩き落す。
逸らされた斬撃が少女を掠め、周囲の地面に斬痕を幾つも刻む。
曲げられた射撃が男に迫り、背後の空間に消えて木々を抉り穿つ。
ぶつかり合う両者の攻撃が壮烈にして苛烈な不協和音を奏で、月夜の森に歪な協奏曲を響かせる。
「おォ……っ!!おおおおお゛ォォォっっっ!!」
セルペーが吠える――――苦悶の叫びと、それに耐えるための自噴の雄叫び。
彼の剣技は腕を鞭のようにしならせることによる瞬発力が最大の武器だ。
故に、何度も何度も絶え間なく――――それこそ息の吐く間もなく振るい続けていれば、何処かで限界がやってくる。
その瞬間に飛び込んできた矢が数発、彼の体に突き立った。
だが彼はそれで止まるような精神構造はしていない。
彼は極深の笑みにも激昂の憤怒にも見える形相を浮かべながら吠え立て――――疾駆した。
前へ、前へ出る。
飛燕斬の射程を加味した中~遠距離の撃ち合いでは不利と見たセルペーは距離を詰めることを選んだ。
剣先から斬撃が飛ぶタイムラグ、直接あたるわけではないことから生じる威力の低下、それらの僅かな誤差が実力伯仲の戦闘においては命取りになることを彼は学んだのだ。
迎え撃つリオにはそんな事情は知る由は無かった。
だが、敵が乾坤一擲の強襲を仕掛けてきたのは理解していた。
……故に彼女は退きながら撃つことではなく、正面から撃って殺すことを選んだ。
――――お前は此処で殺す。
二人の意志が、示し合わせたわけでもなく一致する。
「おおぉアァァァァァァッッ!!!!」
「るぅおおぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
セルペーが雄叫びを上げて突貫し、リオが咆哮して迎え撃った。
前へ前へと駆けるセルペーへと、流星の如く矢玉が殺到する。
その疾走はまるで逆風の中を駆け抜けるが如く。それもその風は肉を抉り、骨を砕く死の風だった。
蛇面の男は防御も回避も最小限を残し、躊躇いなくその中を突き進んだ。
半身に構えて右腕を死守し、既に用済みの手甲の破片が張り付いている左腕を盾にして。
「おおおぉぁァァァォォォアアァァアッッッ!!!!」
掠めた矢が肉を削ぎ落す。
刺さった矢が筋骨を抉る。
顔と胴を庇う左腕は瞬く間に貫かれ、感覚が消え失せる。
庇えない脇腹と脚にも容赦なく矢が刺さり――――それでも彼は止まらなかった。
酷薄な蛇面の男は口が裂けるほどに笑いながら吠え立てた。このままお前を殺さずしていられるか、と。
……それは必ず勝って必ず殺す戦いばかりをしてきた彼の中に、初めて生まれた感情だった。
――――負けたくない、という闘志だった。
「――――――ッッ!!!!」
そして――――それはリオの側も同じだった。
生まれて初めての殺意。誰かを殺したいという烈しい激情。
腹の底から叫ばずにはいられない――――怒りという熱情。
ありったけのそれらを叩きつけるように、幾度も弓を引き絞って矢を放った。
思考という過程をかっ飛ばした、肉体が赴くままに放つ連続の射撃のその合間。
刹那と刹那を繋ぐ一瞬を引き延ばすようにリオの時間の感覚が引き延ばされていく。
殺意で後押しされた極度の集中状態が感覚を研ぎ澄まし、その光景をスローモーションで再生している。
それはギリギリの一瞬だった。
体の至る所に風穴を開けられ、疾駆した跡に血煙をたなびかせるセルペーが――――まさに一足一刀の間合いにリオを捉えた、まさにその瞬間。
寸前まで半身に構えていたセルペーがリオを切り裂くべく
その一瞬をリオの知覚が凄まじい精度で切り取っていた。
脳が炸裂しそうなほどの集中状態で彼女は確かに捉えた。
剣を振りかぶるその瞬間……セルペーの胴体と右腕が無防備に目の前に晒されたのを。
(……死ね!!)
躊躇いは無い。
一切の呵責なく、歓喜すら込めてリオは正確に矢を放った。
同時に二本番えられたその矢は――――過つことなく、男の左胸部と右腕を串刺しにした。
――――だが、過失があるとすればそれが鮮やかに決まりすぎたことだろう。
特に左胸の矢は致命傷だった。正確に動脈と臓器を抉り抜いた手ごたえを感じた。
それにリオが
故に、彼女はそこで一瞬
致命傷を与えたということと、相手が死んだということは
「―――――――――……ッッ!!あ゛あ゛あァァァァァァッッ!!!!」
セルペーは――――勢いよく血反吐を吐きながらも、さらにそこで一歩を踏み込んだ。
串刺しにされた腕は筋肉が一斉に破断し、本来であれば剣の柄を握ることもできない。
にもかかわらず、彼は振りかぶった剣を全力で振り抜いた。
妄執染みた敵意と殺意を込めて放たれた一刀がリオに食い込む。
咄嗟に掲げた少女の左腕がメキメキと嫌な音を立て――――その矮躯が吹き飛ばされる。
左の腕で握っていた愛弓が手を離れて地面を転がる。防ぎきれなかった剣の切っ先が彼女の側頭部を抉っていた。
頭蓋骨を刃で削られた鈍痛と血管が裂けて溢れだした鮮血がリオの視界を歪ませる。
ぐらぐらと揺れて、半分赤く染まった視界の中で彼女は己の迂闊を呪った。
悪態を吐きたいのを脇に放って立ち上がろうとして――――それは果たされなかった。
「げぶぇぁっ!?」
セルペーからすれば吹き飛んだリオに対して追撃を加えない理由は無かった。
地面に転がった少女に対し、躊躇いなく全体重を載せた踏みつけを見舞った。
頑丈なブーツが少女の柔らかな腹部を、内臓ごと根こそぎにする勢いで踏み躙り地面に縫い付けにする。
血と胃液を口の端から吹いたリオには苦悶に身を捩る時間も与えられなかった。
彼女の上にマウントを取ったセルペーが、彼女の首を締めあげたからである。
「死ねっ!!!!死ねッ!!!!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねェェ…………ッッッ!!!!!」
「…………っ!!!!」
細身ながらも屈強な男が幼気な少女の上に馬乗りになり、頚椎を砕かんばかりに満身の力を込めてその首を絞めている。
四白眼を血走らせ、呪文のように「死ね」と唱え続けるセルペーだが、見れば彼も既に死に体だった。
体には何本も矢が突き立ってとめどなく血が流れ、特に左胸の矢は致命傷であり放っておけば死ぬのは確実だった。
リオの首を絞めている手には実は握力は殆どない。腕の筋肉には左右共にズタズタになっていて最早物を握れない。愛刀も先ほどの一撃とともに腕からすっぽ抜けてしまっていた。
だが、今やセルペーにとってそんなことは特に考慮に値する事情ではなかった。
ただ、目の前の敵を殺せればそれでよかった。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……………!!!!!!」
全身を苛んでいるはずの痛みも最早遠い。
彼にとって何よりも重要なのは、このリオ・オーガスタというプレイヤーを抹殺することだ。
彼のうちで殺意が歓喜と共に渦巻いていた。ここまで自分を追い詰め、追い込み、そして傷つけた仇敵をこの手で殺すという高揚感と
大量のアドレナリンが脳内でドバドバと迸り、男は血を吐きながらその口で笑みを形作った。
「…………っ!!―――――ッ!!!!」
彼が見下ろす下で、リオは口端から血と胃液の混じった泡を吹きながらもがいていた。
酸素と血の供給を奪われた脳が急速にその意識を闇に沈めていく。
朦朧とする意識の中でその手を宙に伸ばす。その様は溺れる者が水面に手を伸ばそうとする様によく似ていた。
それを見下ろしながらセルペーはほくそ笑んだ。
この小娘が、この仇敵が息絶える様を見たいと彼は眼を見開きながら少女の顔を覗き込んだ。
――――その瞬間、リオの手がセルペーの腕の袖を握りしめる。
「…………!?」
その力の籠め方は引きはがすためのそれではなかった。
むしろ自分の方へと引きつけるための力の籠め方だった。
さながら弓の弦を引くかの如く、少女の黒手袋に包まれた細指が、男の腕を掴んで引き留めているのだ。
まるで、相手を捕らえるかのように。
―――――― つ、か、ま、え、た。
リオの顔を覗き込んでいたセルペーは、確かに彼女の唇がそう動いたのを見た。
そして首を絞められてチアノーゼを起こした少女の顔、そこにある空色の瞳は――――この状況でも一切衰えない、殺意の火を確かに灯していた。
これは死んでいく人間の目ではない。
そう直感したセルペーだったが、その判断はもう遅かった。
既に彼はがっしりとリオの手に掴まれてそこから退くことはできなかったからだ。
――――そして、セルペーの首を
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「…………っ、がっ、は、ああぁぁぁっっ……!!!!」
恐ろしいほどの力を込めて自分を押さえつけていた男の手を払いのける。
喉に絡んだ唾液と血と胃液の混じった泡を吐き出しながら、存分に酸素を補給した。
空気が美味い。肺と横隔膜が勢いよく働いて酸素を取り入れるという行為自体が嬉しくて仕方がない。
そして……私の上に馬乗りになっていた男を力づくで投げ出すようにして私の上からどかした。
ひゅーっ、ひゅーっ、と我が事ながら心配になる呼吸音を響かせながら、ズキズキと痛む体に鞭打って起き上がる。
「……やって、やっ、て…………やったぞ、この糞野郎が…………っ」
頭に負った傷からだらだらと流れた血で片目が塞がっているが、私はふらつきながらも男を見下ろした。
左半身が針鼠になったように何本も矢が突き立ち、胸と首を矢が貫通している。これは確実に致命傷だ。
……なのに、いまだにピクピクと体を痙攣させながらどうにか動こうとしてもがいているのは驚きだった。
……本気で頭にくる。
急所を撃ったんだからさっさと死んでくれないものか。
「がっ、かはっ、ァっ」
驚愕に目を見開きながら首に刺さった矢を引き抜こうとしている男(そういえば名前を知らない)だが、無駄なあがきだった。
頚椎には多くの神経の根元があるので、そこが破損すれば破損部から下の神経が支配している筋肉も臓器もまとめて動かなくなる。
どれだけ
首を骨ごと砕かれたのなら、そこから下の全て――――それこそ両腕も心臓も肺も動かなくなる。この辺の知識はメリィからの受け売りだが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
……それでもまだかろうじて息があるのは驚きを通り越して気色悪いが。
この男の首を真後ろから貫いたのは『
先ほど何発も撃って応酬を重ねていた間に、わざと外して上空に待機させていた矢があった。
あくまで保険ではあったが……こうして役に立ってくれて何よりだった。
「…………げほっ……」
微かに咳き込みながら邪魔な血を拭いつつ辺りを見回す。
さっき吹き飛ばされたときに手から零れた愛弓……『ウィンドウォーカー』と矢を一本回収する。
そして――――矢を番えて、死に掛けの男を見下ろした。
「…………」
「――――」
男は既に観念したのか、口からとめどなく血を吐き零しながらこちらに目線を寄こした。
私とその名も知らぬ男の視線が交差して――――男は引きつったような笑みを浮かべた。
その男の笑みが何だか癪に触って、私はぎりっと奥歯を噛んだ。
あぁ、まったく。せめて悶絶して苦痛でのたうち回りながら死んでいってくれれば……もう少し留飲は下がるっていうのに。
……ただ、こいつの気持ちもわからなくもない。
だって――――殺し合うのは
今もまだどくんどくん、と激しく心臓が鼓動を打っている。
死が間近に迫るギリギリの一線を見極めながら、自分という命の性能を限界まで発揮するのは……たまらなく爽快だった。
言うならばランナーズハイならぬ、キリングハイ。
邪魔な思考の一切を投げ捨てて、ただ本能の赴くままに獣になる。
何もかも解き放たれた――――未だかつてない解放感。
……ひょっとして、コイツも似たような気持ちだったのだろうか?
こんな気持ちを味わいたくて私を殺しにかかってきたのだろうか?
既に何かを喋る余裕のないこの男に問いただすことはできないが……もしそうならば、その一点、互いに心の底から殺し合ったという一点で私とこいつは理解し合えたのかもしれない。
かといって、腹の底から煮えたぎる怒りは消えないし、殺された恨みは消えないが。
故に、私は容赦なく矢を弓に番えて限界まで引き絞る。
ぎちぎちぎち……、と音を立てて弓がしなりその威力を溜め込んでいく。
その手応えを感じながら、私は男の眼を正面から見据えた。
「――――――っ」
血走った四白眼を最後までこちらから逸らさず、男は血濡れの唇で深々と笑みを形作った。
「感謝する」
知らず、自分の口からはそんな言葉が出てきた。
何に対しての感謝だ?自分でもわからないが――――本当にごく自然に、それが相応しい言葉であるかのように、私はそう口にしていた。
そして、矢が男の脳天に突き立った。
放たれた矢の鏃が、皮膚を破り、頭蓋を砕き、脳味噌を抉り……頭を端から端まで貫通して地面まで一直線に串刺しにする。
その全てを私の眼は余すところなく見届けた。
その矢の手応えは私の手から離れていたはずなのにも関わらず、直接この手で捻じ込んだかのように鮮明な感触となって私の心に刻み込まれた。
――――私は、おそらくこの感覚を一生忘れることは無いだろう。
「………………っっ」
背筋を震えが駆け抜けた。
私が殺した。命を奪って死なせたという……
指先が震えている。
やっと殺せたという達成感のあまり手が震えて――――、
「あ、あれ……?」
気が付けば、全身が震えていた。
まるで……急に周囲が寒くなったようだった。突然に熱い所から寒い所へと放り出されたように、体中が震えている。
震えすぎて弓を握っているはずの手の感覚さえも失せているようだった。
……原因はすぐに分かった。
私の中にある熱が引いているからだ。
私という命を戦いの間、限界を超えて駆動させていた熱、それは殺意と怒りだった。
それが――――その怒りを叩きつけるべき相手を殺しきったことで、急速に冷えて醒めていったのだ。
あれほどまでに荒れ狂っていた熱が、吠えて吐き出さずにいられなかった熱が消え去ってしまって、後に残るのは急激な虚脱感だった。
温度差のあまり全身が震えている。
怒りの中で忘れていた痛みがぶり返してくる。
「……ぅっ、っ…………!!」
一度それを自覚し始めると――――もう駄目だった。
体が痛い、頭が痛い、喉が痛い。剣を叩きつけられた痛みが、頭から流れるのが止まらない血が、痣が残るほど締め付けられた首が痛い。
身を斬られる恐怖が、肉を裂かれる恐怖が、骨を割られる恐怖が――――激情の熱で満たされていたはずの私の心にどっと押し寄せてくる。
私は立ち尽くしてパニックに陥っていた。
弓を握り締めたまま冷や汗とも脂汗ともいえない嫌な汗が全身から噴き出している。
体が言うことをきかない。息をするのも難しい。
折角絞め殺されるのを逃れたのに――――無様なことに私は立ったまま呼吸困難で倒れそうだった。
「リオ」
ぐるぐると渦巻き始めた恐怖と苦痛に囚われて、酸欠に喘ぐ金魚のように陸上で溺れそうになっていた私の耳に――――とても懐かしい声が響いた。
それはギターの太い弦を優しく弾いた時のような、温かみと柔らかさのある声で……私がいつ聞いても心地よいと感じる声だった。
そして、その声は私のすぐ後ろから聞こえた。
「もういい……もういいんだ、リオ」
そして――――後ろから私は抱きしめられた。
少し細いけど意外に筋肉質な、男性的な腕と胸板。
その逞しさを感じる腕が、私の体の前にそっと回されて抱き寄せられる。
割れ物を扱うように恐る恐ると、それでいて確かな意思をもった抱擁だった。
人肌の温かさが私の体に染み入ってくる。
抱き寄せる腕と、背中に感じる男性の体が優しく包み込んでくれている。
――――気づけば震えは止まっていた。
「……ヨア、ヒム……?」
「……あぁ、オレだ……。……リオ、もう大丈夫だ」
大丈夫だ、と言い聞かせるような彼の声。
大丈夫だ、と何度も耳元でそう囁かれて――――少しずつ、体から強張りが抜けていく。
ゆっくりと体の動きを確かめるように後ろを振り向いた。
久しぶりに見るような彼の顔は、土汚れだらけな上にどこか疲れ切ったような酷いものだった。
綺麗な赤い髪だってぼさぼさで、とてもいつもの彼らしくは見えなかった。
「ヨアヒム……っ。……ヨアヒム……っ」
でも――――でも、なぜか彼の顔を見ると心が震えた。
口が勝手に彼の名前を何度も呼ぶ。その度に温かいものが体の中に満ちて――――胸がいっぱいになる。
それはそのまま喉の奥から溢れだした。
獣の咆哮のように熱く煮えたぎるものではない、喉の奥が酸っぱくてたまらない。
目の奥と鼻の奥がつんとして堪え切れない。
「うっ、っく、っ……!!……っっ、うっ、うぇぇぇ…………っっ!!」
私は泣いた。
胸の内から、温かいものが溢れだして止まらない。
堪えようとしても堪えきれなかった。
それも当然だ。私の心にあるブレーキは、私の意志で叩き壊してしまったのだから。
殺意も怒りも、全てを吐き出すように嗚咽が止まらない。
恐怖も痛みも、全てを流し尽くすように涙が止まらない。
「もう大丈夫……。もう大丈夫だ……」
生まれたての赤ん坊のようにひたすら泣き続ける私を、ヨアヒムはずっと抱きしめていた。
私の体に回された腕を私はいつしか抱きしめ返していた。
ボロボロに泣きじゃくりながら、私が感じていたのは安堵だった。
「この人の腕の中でなら泣いていい」と私はその時心からそう思った。
みっともなく人目を憚らず泣きわめく私の弱さを、彼に受け止めてほしいとそう思ったのだ。
私のそんな気持ちが伝わったのか定かではないけれど、ヨアヒムはずっと子供をあやすように優しく私を抱きしめてくれていた。
その体温の暖かさと、香りに包まれて、私は――――
戦いの熱とは違う、優しく穏やかで、それでいて熱くて甘い、桃色の火のような鼓動。
そして戦いの熱と同じ、私の命がここに生きていることの証明。
――――――あぁ、私は生きている。
身も心もヨアヒムに預けて泣きながら、私はその事実を胸に刻んだ。
青く輝く銀の月が、血まみれで抱き合う私達を煌々と照らし続けていた。