中庭に風が吹いている。
さわさわ、と芝生や植え込みの木々の枝葉を優しく揺らす優しい風だ。
その中に混じる草木の青く爽やかな香りが私の鼻を擽る。
風が一陣、さぁっと強く流れて私の髪を靡かせた。
自分の髪をそっと撫でつけた私は、ティーカップに口を付けた。
紅茶を口に含み、
カップの淵に薄いピンクの口紅の後が付いているのが何だか可笑しくて、私は少し笑った。
「……何笑ってるにゃ、リオちゃん」
「いえ……何ででしょうね」
わざとらしく頬を膨らませているその仕草は存外に子供っぽい。
いい加減に三十も半ばなんだがなぁ、と心の中で思いながら私は苦笑した。
「ただ……最近はなんだか、些細なことでも楽しいと感じてまして」
「…………」
私がそう言うと、彼女は表情を崩さないまま砂糖をまぶして焼いたラスクを口元に運んだ。
無言のままにラスクをザクザクと音を立てて咀嚼して飲み込んでから、ようやく彼女は口を開いた。
「これでもあたし、すっごい心配したんだにゃ」
「……はぁ」
「すっっっっっっっごい心配したんだにゃー…………」
「…………」
「……何か言うことは?」
「……ご心配をおかけしました。大変申し訳ない……」
「うん、それでいいにゃ」
私が素直に頭を下げると、メリィは鷹揚に頷いてから――――はぁ、と大きく溜息を吐いた。
「なんにせよ……無事に帰ってきてくれてよかったにゃ」
「えーと……た、ただいま」
そう言うと彼女はそこでようやく口元を綻ばせて笑顔を見せてくれた。
……厳密に言うと誰一人として
代わりに、それを誤魔化すように私はまた一口紅茶を口に含んだ。
******
さて、
あの事件の後、現場には後詰の冒険者や街の衛兵たちがやってきて大騒ぎになった。
合計の死者は二十名弱でほぼ全員が
森の一区画が私と山賊の頭との戦闘で、巨人の手が薙ぎ払ったかのように滅茶苦茶になっていた。
私とアンネとヨアヒムの三人はちゃんと保護されたが、無事とは言い難かった。
最も身分が高い伯爵であるヨアヒムは右腕切断の重傷。私は私で全身至る所に打撲と裂傷。
一番被害が軽いのは気絶していたアンネだった(その彼女でも歯を何本か折っていた)。
ただ……結論から言うとそれほど尾を引くような事態にはならなかった。
私がアイテムボックスの中に仕舞い込んでいた最高級の治療アイテムを無造作にばら撒いたからである。
そのおかげでヨアヒムと同行していた冒険者五名はギリギリ蘇生に成功したし、私やヨアヒムの負傷も無事に治療された。
現在の世界の価格に直せば億単位の額のアイテムが飛んでいったが、まぁ私としては後悔はない。
この世界は既に
私が蘇生させた冒険者の一団は平身低頭の様で私に頭を下げてきた。
何でもこの借りは一生かかってでも返すとの事で、リハビリを終えてから早速鍛錬に精を出しているらしい。
なんともタフな人たちだと思う。
それと、他には私を襲った山賊について。
山賊の中には生き残った者が二名いた。私が来る前に仲間割れで叩きのめされた奴と私が死んでいる間に頭に投石を受けて気絶していた奴だ。
その二名からの聴取をもとに山賊達の素性の洗い出しやアジトの捜索などが進められている。
その辺りの進捗について私がどうこうということは無いのだが、一つだけ関係があるとしたら――――あの山賊の頭目がかなりの大物だったらしいということか。
男の名前は『蛇面』のセルペー。何でもこれまで何人もの冒険者や国の兵士が捉えようとして返り討ちにあった懸賞首だそうだ。
後日報奨金が私に送られるらしい。嬉しくないと言えば嘘になるが、蘇生アイテムの代金と差し引けば赤字なので気分は微妙だ。
多少補填できたと考えれば幸いか。
そういった話をつらつらと
その間、彼女はふんふんと神妙な表情で相槌を打ちながらこちらの話に聴き入っていた。
……いつのまにか、彼女は私の隣に椅子を持ってきて私の髪を弄って遊んでいたが。
まぁ、いいか。その辺も想定の上で今日は髪を下ろしてきたし。
「……それで、ヨアヒムさんとアンネは今はどうしてるの?」
「あぁ、今日の出迎えはアンネじゃ無かったんでしたっけ。……二人は、後遺症がないかどうか検査していまして」
ちなみに検査の類は私も受けたが、特に問題は無し。
それについてはヨアヒムとアンネも同じだ。
ただ、一応あんなことがあった直後というわけでしばらくアンネは暇を与えられている。
ヨアヒムはヨアヒムで事件のあれこれについて報告書を書いたり、目を通さないといけないので今日から仕事を始めている。
……結局、あの事件の日から今日までバタバタしていて、彼とはあまり話す機会が無くて残念だった。
「…………」
ヨアヒムの事を考えながら、そっと目を閉じる。
彼の事を頭の中で過ぎらせると、それだけで胸の奥が
でも浮ついたような感覚がむしろ心地よくて、私は胸の奥で揺れる心音に目を閉じて耳を傾けた。
「……了くん」
あの日の夜、
プレイヤーの体はアバターを設定した時のデザインから変わらない――傷跡も含めて――というのはどうやら真実らしかった。
「了くん、私心配したんだからね。又聞きではあるんだけど……見つかったときには全身血塗れだったって……」
「えぇ、まぁ、そうでしたね」
頭頂部の猫耳をぺたんとへたらせて彼女は酷く落ち込んだ様子だった。
そんな表情をさせていることに些か以上の罪悪感を覚える。
なので私は努めて茶化すような口ぶりで、何でもないようなことのように口を開いた。
「特に服の汚れがひどい有様でした。洗濯しようにもメイドさんが手に取ったときに卒倒したのでテオドラさんが直々に洗わないといけない羽目になりました」
「それってそれだけの重傷だったってことでしょーっ」
「痛たたたたっ、頬っぺた引っ張らないでください!」
「あー、了くんの癖に頬っぺたぷにぷに……。生意気な、生意気な……っ」
「ちょっとちょっと、ぐにぐにするのはやめてくださいよ。
「何を一丁前に女子っぽいことをっ!」
むすっ、とした表情の
ひとしきり(あえて)玩具にされたところで解放された私は、ひりひりと痛む頬を押さえながら言葉を掛けた。
「心配をかけて悪いとは思っているんですよ。えぇ、本当に」
「にしては全然反省の色が見えないように見えるのは気のせいかなー」
「…………多分、そうかもしれません。なんせ、これからも多分心配をかけることが多くなると思うので」
「……」
私がそう言うとメリィは押し黙った。
おそらく、私が言った言葉の意味を噛み砕いて、その意味を咀嚼しているのだろう。
ややあって、彼女は溜息を一つ吐いてから口を開いた。
「はぁ…………そっかぁ、了くんは
「えぇ――――私はこの世界で、冒険者として生きようと思います」
それはあの日の夜以来、ずっと考えていたことだった。
その決定はこうして実際に言葉で口にしてみる、とても明瞭な形をもって私の胸の中に落ち着いた。
この世界にやってきた次の日に、この中庭で彼女と話したことを思い出す。
ここで生きる為の生業を見つけて、思い出を語り、この世界で生きることを決めた
そして、同じように自分自身もどう生きるのかを考えた事。
「……怖くは、ないの?」
それから目を逸らすことなく私は正直なところを告白した。
「確かに怖いこともあります。でも……」
正直、怖くないと言えば嘘になる。
今も
腹を抉られる痛み、頭を叩き割られる痛み、血がとめどなく流れる喪失感と絶望感。
それを思い出すだけで、今でも体が震える。
でも、それでも――――。
「それでもですね、
私がそう言うと
以前
だが、私の言っていることはそれよりも一層、輪をかけて酷薄だ。
そして……私のそんな告白を聴いた上で彼女は、どこか納得したような様子だった。
「この際だから白状するけど……。
「言葉は選ばなくていいですよ。あの頃の自分は――――言ってみればただ
目を閉じれば思い出すのは、灰色の空と灰色のコンクリートで彩られた灰色の生活だった。
ただ単に生きるだけなら何不自由ない環境で、僅かばかりの娯楽に使うための賃金を稼ぐために職場と自宅を往復する生活。
あの頃は……別にそれに不自由も不足も不満も感じることは無かった。
大それた望みのような物は持っていなかった。ただ普通に暮らしていられればそれでよかった。
まるで小さな煉瓦を積んでいくように、昨日と同じ今日を、今日と同じ明日を過ごすだけで、それで満足していられたのだ。
――――あの頃は。
「今はきっと駄目です。あの頃の自分には……もう戻れない」
掌に視線を落として、呟いた。
女の子の小さな掌だ。
今の私の――――リオ・オーガスタの手だ。
弓を握り、矢を番えて、弦を引く。そういう技を修めた私の手。
……命を奪われる痛みも、命を奪う快感も、命を奪い合う興奮も、私は知ってしまった。
今も脳裏に鮮やかに蘇る血の赤色。その錆のような、むせ返る臭い。
それを思い返すと背筋に走る
恐怖はある。そして――――それと表裏一体になった、誤魔化せない昂揚。
「
……これが私の決めたことだった。
その二つを遠慮忌憚なく比べて、比べて――――私は『私』を選ぶことにした。
果たして
特に、今のように
自分の胸元に手を置く。
心臓が脈を打つ感触がそこから伝わってくる。
そして
――――あの感覚は、きっと
葉月了として生きてきた二十数年が、リオ・オーガスタとしての一月に価値で劣ったという事実を受け入れるのには、正直かなりの抵抗があった。
だが、抵抗はあったものの――――受け入れてしまえばとても……楽な気分だった。
この世界で生きる自分の立ち位置が明確になって、
「…………そうか。……そうかぁ……」
しばらくそうした後、彼女は紅茶を飲んで口を湿らせてからこう言った。
「つまり……女の子としての生活が楽しくなってきた、と」
「い、いや、そのそういうわけではなくて」
「なーに言ってんのよー。今日だってしっかりめかし込んじゃって、すっかり順応してるじゃない」
そんな風に指摘された私の服装は、艶やかな青色を基調にしたワンピースドレスの上にレース生地の上着を合わせたものだった。
最近は日中も暖かい季節になってきたので少し肌を見せるデザインでも行けるんじゃないか、とメイドさんたちに勧められた奴だった。
いつものようにシャツで胸元や首周りを隠していないので少し心許ないが、可愛らしさと色気をうまいこと両立していい感じだと思うのだが。
「どうでしょう、似合ってますか?」
「うーん、悔しいけど超かわいい。凄い似合ってる」
「でしょう?」
「……可愛いって言われて嬉しそうな辺り、もう感性もそっち寄りかぁ……」
うん、確かにその通りだ。
ゲーム時代からよく「可愛い」とは言われてきたが、それは自分が作ったアバターを褒められているという感じで、感じるのは作った側としての誇らしさだった。
でも、今「可愛い」と言われて感じているのは、
気恥ずかしくて、くすぐったくて……それでも確かに嬉しいという、そんな感覚。
それは『私』と『リオ・オーガスタ』という存在が、分かち難く結びついて一つになったという事実だった。
「………………でもさぁ、
「でも……なんでしょう?」
私が少し照れくさい気分になっていると、
一応聞いているような人間は周囲にはいないのだからそんなことをしなくてもいいのだろうが、雰囲気だろう。
それに乗るようにしてこちらも聞き耳を立ててあげると、その言葉をそっと囁かれた。
「でもさぁ――――リオちゃんが可愛いって言ってもらいたい相手って、私以外にちゃーんといるでしょう?」
その言葉の意味を理解した瞬間――――頬がかぁっと赤くなるのを感じた。
……いる。いるのだ。私の事を可愛いと言って欲しい人が確かにいる。
思いっきり図星を突かれて、心臓が胸の奥で
その衝撃が何とも甘酸っぱくて、面映ゆくて、私は胸元を押さえて少し俯いた。
想像が脳裏をよぎる。
きっと口がうまくて女性の扱いに定評のある
可愛いとも言ってくれるだろうし、綺麗とも言ってくれるだろう。社交辞令か、本心かは多分わからない。
それでも――――彼の言葉ならきっと私は何だって嬉しい。嬉しくなってしまう。
そして……出来れば、そう、彼自身の手で私に触れてほしい。
指先で髪を梳いて、掌で頭を撫でる感触が明瞭に思い返すことができる。彼によくやられていることだからだ。
その感触を思い返すだけで、頬が熱くなるのを自覚する。
あぁ――――頬といえば、思い出すのは彼の口付けだ。
いつかの日に私が怪我をしたところの上から『おまじない』なんて言って彼の唇が此処に…………。
「……リオちゃーん」
「…………」
「……リーオーちゃーんっ」
「――――はっ」
気が付けば自分の思考に没頭していたようだった。
頬をつんつんと指先で突かれて
「なんですか、そんなにニヤニヤして」
「気付いてないのかにゃー、ニヤニヤしてるのはリオちゃんの方でしょう?」
「…………うっ……」
そう言われて自分の口元に指を這わせて、そこでようやく自分が笑っていることを自覚した。
その通りだ。
……あぁ、くそう。相当参っているな、自分。
「……そっかぁ、了くんにも春が来たかぁ……。あぁ……いや、リオちゃんで統一した方が良いのかな……?」
私を尻目に
彼女は腕を組んで一しきり悩んで、考えて――――不意に私に抱き着いてきた。
「うわふっ」
雑多な薬品の香りが入り混じった香りと女性の柔らかい体温が私を包む。
しかしながら対格差と体勢の問題でちょうど彼女の胸が顔に当たっているのには面食らった。
ほぼ身内も同然の彼女だが、
「メ、
「……うん、私の事はそっちの名前で呼んでくれるけど……
「…………」
…………その言葉で、納得した。
少し顔を上げて、彼女の表情を覗く。
はにかんでいるような、その裏で何かを隠しているような、複雑そうな彼女の表情が目に入る。
だから、
「悪いとは思ってる。……でも、これは俺なりのケジメみたいなものなんだ。『リオ』として生きることを決めた、自分としての」
「……了くん」
「ぶっちゃけた話、
多分、これから先の人生で自分が葉月了と名乗ることは無いだろう。
自分はリオ・オーガスタとして生きること決めたのだから。
……それでも消すことのできない事実がある。それは、リオ・オーガスタという『私』を生んだのは、葉月了という『俺』であること。
「大丈夫だ、美鈴。
「――――うん、リオちゃんがリオちゃんでも……私は了くんのこと忘れない。私の友達の了くんの事は絶対に忘れない」
「……あぁ、ありがとう」
俺はそっと宥めるように美鈴の背中に腕を回して、あやすようにして背中を叩いた。
代わりに美鈴はぎゅっと腕に力を込めて俺を抱きしめてきた。俺の存在を確かめようとするかのように。
きっと、美鈴は不安だったのだろう。俺が葉月了としての人生を捨てると結論付けたときに――――
「美鈴には感謝してるんだ、本当に。お前が俺の事を覚えていてくれるから――――
「うん……わかった。あと、さっきから私のこと
「わかってるよ、
「うん、確信犯という意味での『わかってる』だよね、それ」
いつものからかうようなやり取りをして、二人でけらけらと笑った。
懐かしい気分に浸る一方で、こちらもそろそろ限界だった。
今では葉月了としての口調で喋るのに猛烈な違和感があって、もの凄く負担がかかるのだ。
……けれど、おそらくはこうして喋るのは最後なのだろうけれど。
そう考えている
ただ、
彼女の青い瞳は微かに濡れていた。その意味は私にもわかっているが――――それでも彼女は明るい笑みを浮かべて、私の頭をくしゃりと撫でた。
「幸せになってね、リオちゃん」
******
少し踵の高いミュールを履いて歩を進めると、脚の動きに合わせてドレスの裾が揺れる。鮮やかな青い色が揺らめく様は自分でも飽きない。青は私の好きな色だ。
そっとこめかみに手をやると、指先に青い薔薇のコサージュが触れた。
この『奇跡の青薔薇』の髪飾りは基本的に使い捨てなので、あの日の夜に使用したものは既に散ってしまった。
今付けているのはあらかじめ幾つか用意している予備のものの一つだ。
ついでに
「……」
手鏡をアイテムボックスから取り出して中を覗き込む。
白金色にも見える金糸の髪を青い薔薇とリボンで飾った可愛らしい少女がこちらを見返している。
長い睫毛に縁どられた瞳は透き通った空色で、陶器のように白くて滑らかな肌はほんのりと桃色に色付いている。
私が見つめている中、桜色に艶めいている唇が綻ぶように笑った。
――――これが、私だ。
――――今の私、リオ・オーガスタの姿。
その事を改めて認識し直してから、手鏡を元に仕舞う。
もう、正直なところ――――かつての『俺』がどういう顔をしていたのかも朧気だった。
二十数年、毎日鏡で見ていた筈の自分の顔なのに
少し前ならぞっとするようなそんな自己認識。だが今はさして抵抗もなく受け入れられる。
ただ前の自分の顔は忘れても、今の自分の顔を忘れることはないだろう。
何せこんなに可愛い、自分の理想の美少女像なわけだから。
――――彼も、そういう風に思ってくれればいいのだけど。
「……っ」
そう思った瞬間、胸が高鳴った。
甘く甘く、心臓を締め付けるような痛みが走る。
けれどもそれは全く苦痛を伴うような物ではなくて、むしろ胸の内を満たすような熱く暖かく、幸福な痛み。
我知らず、脚が早くなる。
擬音を付けるのなら『うきうき』とでも付きそうな、浮かれ具合。
なんならスキップでも踏もうか、なんてバカみたいな考えが頭をよぎる。
「ふふふ……っ」
あぁ、笑っている。
どうしようもなく笑ってしまう。
頬がにやついてしまうのを止められない。
今の自分が
今まで名前を付けるのも憚られた
できるようになってしまった。
自覚できるようになってから後は坂を転がり落ちるようだった。
形のない不明瞭な感情の渦に名前が付いた時、その名前が示す方向に向かって私自身が急激に引っ張られていくのを感じたのだ。
そして――――自覚してしまったからには、受け入れてしまったからにはもう止まらない。
胸の奥からその感情がドバドバと流れ出して止まらないのがよくわかる。
相手に拒絶されるんじゃないかなんて言う不安は僅かにも無かった。
正確にはそんなのを考えるだけの余裕が私にはなかった。
何せ、彼の事を思うだけで幸せな気持ちが溢れ出てそれ以外の事が頭に過ぎる余地がないのだから。
会いたい。
貴方に会いたい。
貴方に会って、貴方の姿を目に収めて、言葉に耳を傾けて、薫る香水を嗅いで、その手を握って、他愛ないことを喋って、叶うことならその唇で――――、
「~~~っ♡」
頭の中で
交わした言葉のやりとり、こちらに触れた手の感触や温かさ、自分に向ける眼差しや間近で感じる体温。
この世界で暮らし始めてから僅か一月の間で摘みあげた、彼との記憶が一層鮮やかになって私の中で踊った。
私は鼻歌でも歌いかねないほどに上機嫌に屋敷の廊下を進んだ。行先はもうとっくに決まっている。
この数日ごたごたしていて中々会いに行く機会がなかったが、今日から執務室で通常業務に戻っているとは聞いている。
だから――――だから、もう待つつもりは無いし辛抱するつもりもない。
私の中にあるブレーキはあの日の夜、自分の意志でぶち壊してしまった。
だから、早い所この胸の中にある気持ちをぶちまけてしまわないとどうにかなってしまうそうだ。
いや、もう実際どうにかなってしまっているのかもしれない。
少なくとも、以前の自分なら
だから、この気持ちは『葉月了』のものではない、『リオ・オーガスタ』の気持ち。
そうこうしているうちに、何度か見た観音開きの木製の扉の前に辿り着く。
漆を塗った光沢と渋みのある大きな扉の前で、何度か深呼吸をして――――駄目だ、落ち着かない。
心臓がバクバクと音を立てている。緊張でも恐怖でもなく、嬉しさのあまり脈が速くなるのが止まらない。
……せめて、顔がだらしなく緩むのを引き締めてなるべく格好の悪い表情にならないように努力する。
逸る気持ちを押さえて、扉にノックをする。
コンコン、と温かみのあるくぐもった音の後、男性の声が応えてくる。
「どうぞ、入ってくれ」
扉を一枚隔てたところからでもわかる、聞きなれた声。
それを聴くだけで相好が緩むのを、口の中の肉を噛んで堪えながら――――勢いよく扉を開けて中に踏み込んだ。
柔らかな絨毯張りの床、壁際には幾つもの本棚。
全体的に重厚で落ち着いた雰囲気の執務室だが、窓が大きく作られていて開放感のある作りになっていた。
外の水色に鮮やかな空が見える窓。そこから光が差し込んでくる明るい部屋の奥の机に腰かける青年がいる。
艶のあるワインレッドの髪と榛色の瞳。
少し疲労がたまっているのかその表情はどこか陰影が深く見えた。
ただ手元の書類からこちらに向けられた流し目気味の視線と相まって、そんな影のある雰囲気すらも色っぽく見えてしまった。
「…………」
「どうしたんだ、リオ?突っ立っていないで椅子にでも座ったらいいんじゃないか」
飲みかけでもいいんならコーヒーも出そう、と彼が言った。
机の上に置かれていたポットを小突いて、こちらに目元を綻ばせるような笑顔を向けてくる。
そんな些細な表情の変化さえ、私はしっかりと目に焼き付けてしまう。
どうした?なんて言われても、「貴方に見惚れていました」なんて返したら、この男はどんな表情をするのだろうか。
そう言ってやりたい衝動にも駆られたが、それは努めて沈めておき、本題を切り出すことにする。
この言葉を云わないとまずは何も始まらないし、この言葉以外の事は実際全て些末なことである。
私は高鳴る胸を押さえながらこう言った。
「ヨアヒム。私、あなたの事が好きです。
あなたに惚れました。付き合ってください」