「ヨアヒム。私、あなたの事が好きです。
あなたに惚れました。付き合ってください」
……とまぁ、勢いに任せて私はド直球に告白をぶちかました。
駆け引きとかムードとかシチュエーションとか、そういう細かいものは自分にはよくわからない。
そんなまどろっこしいものを考えるのは面倒だ。故にストレート以外の選択肢はなかった。
いきなりそんなことを言われて頭が追い付いていないのか、ヨアヒムは鳩が豆鉄砲食らったような表情で目を白黒させていた。
そんな彼の表情を見るのは滅多にないので、ちょっと可愛いな、なんて思ってしまう。
そして今、ややあって再起動した彼にまずは椅子に座るように勧められた。
執務机の正面という他人行儀な距離ではなく、彼が座っている椅子のすぐ隣に小さめの椅子を出してもらって、そこに私は腰かけた。
「「…………」」
しばらくの間、お互いに無言の時間が流れる。
ヨアヒムは少し真剣な表情をして考え込んでいるような様子だったが、ややあってからにこり、とこちらに笑いかけてきた。
――――その笑顔を見た瞬間どきん、と心臓が跳ねる。
「……楽しそうだな、リオ。今のお前の笑顔はまるで砂糖菓子のようだ」
「えっ、そんなに笑ってます、私?」
「あぁ、本当に楽しそうだ」
そう言いながらヨアヒムがこちらに笑いかけてくる。
笑顔が砂糖菓子みたいだ、なんて言われても困る。
こっちからしてみれば、そっちの笑顔の方がよっぽど甘い。
そうやってあなたが笑いかけてくれるだけで、こっちが胸焼けしそうになってるのわかってるんだろうか?
でも……あぁ、でも本当にそうだ。
顔が勝手に笑ってしまうのを押さえられない。
勝手に、にやにやとへらへらと顔がだらしなく緩んでしまうのを止められない。
だって、『好き』って言ってしまったから。
『好き』ってどういうものなのかをわかってしまったから。
「……っ♡」
堪らなくなって胸元を押さえる。
やばい。『好き』っていう気持ちを自覚したら、それが溢れだして止まらない。
心の中でグルグルと渦を巻いていた形のない感情が、名前を付けられた瞬間に指向性をもって走り始める。
「……私、好きです。ヨアヒムの事が、好きです」
『好き』。その言葉を口の中で何度も転がす。
そして口に中で唱えるよりも何倍も何十倍もの回数、その言葉が胸の中でリフレインしている。
――――好き。
――――好き、好き。
――――好き好き好き好き好き好き好き好き、大好き……!!
「ありがとう。オレもリオの事は好きだ」
「……っ……!あ、ありがとうございます……っ」
そっちの『好き』はどういう意味での『好き』なんだ?と聞き返したい気分になったが、口には出せなかった。
どの意味の『好き』でも私は構わなかった。
ただ彼から私の事を『好き』だと言って貰えたという事実、ただそれだけが私の頭をぶち抜いて多幸感で満たした。
どんなに美味い酒を飲んでもこれほど酔わせてはくれないだろうというくらいに、多幸感に酔ってしまう。
そして……そっと彼の手が私の方へと伸びて、その掌が私の頭に触れる。
男性らしい大きくて少し節くれだっている、暖かな掌。
その感触が、温度が、うっとりするほどに心地よくて私は目を細めた。
「……覚えているか、最初に出会った日の事。オレはこうしてお前の頭を撫でたっけな」
「えぇ……覚えています。……あの時はもう少し乱暴だったような気がします。小さい子供にするような、そんな感じの撫で方でした」
「そうだったな。今にして思えば雑な対応だったな、
言いながら私の頭を撫でる彼の手つきはとても優しいものだった。まるで花弁の夜露を拭うような繊細さ。
私の髪を彼の指が梳っていく。視界の端で私の髪が金色の砂のように彼の指の間を流れ、甘酸っぱいベリーの香水がふわりと薫った。
……この屋敷で暮らすようになってからちょくちょくこういう風に彼が触れてくることがあったな、と思い出す。
こちらをからかうように髪に触れて、はにかむ彼の笑顔が脳裏に過ぎる。
あの頃の私は、正直触れられてもあまり嬉しくはなかった。男にちやほやされてもそれがどうしたという気持ちの方が先に立った。
多分、彼の方もそうした反応が楽しかったのではないだろうか。
「そうだな。……確かにそういう風に邪険に扱われるのが楽しかったというのは否めない。猫の尻尾に手を出して、するりと逃げられてもまた手を伸ばしたくなるだろう?」
「私は猫ですか?」
「…………。そうだな、可愛い子猫だよ」
私がその頃の事を茶化すと、彼がそんな風に言ってくる。
邪険に扱われるのが楽しいってそんな
それ以上に胸がときめいて私はにへら、と気の抜けた笑みを零すことしかできなかった。
可愛い子猫、なんて甘い台詞を愛おしむような表情で囁かれてちょっとどころではなく、頭が蕩けそうな気分だった。
私の髪を撫でる彼の手が下りて、私の頬に触れる。
私の顔が小さいからか、彼の掌に横顔がすっぽりと包まれる。
陶器を検分するようにゆっくりと私の頬を撫でる、その掌の大きさと感触が心地よくて――――本当に心地よかった。
彼の手の上に手を重ねて、もっとその感触を感じるように自分から頬を寄せる。彼の言う通り子猫のように。
そんな私を、ヨアヒムは静かな瞳で見つめていた。
緑がかった
私が彼を見つめて、彼が私を見つめ返してくれる。
ただそれだけのことがこれほどに胸を暖かくしてくれるなんて知りもしなかった。
……これが人を好きになるという事。
――これが人に恋をするということ。
「正直なところ……私はあなたに好きだって伝えて、それで何かしたいかどうなりたいか、っていうのは……よくわからないんです」
「…………欲がないんだな」
「いいえ、ただあなたを好きになって、今はただそれだけで幸せなんです」
偽らざる本心だった。
正直、自分が『好き』と言った時点で幸せがオーバーフローして、持て余しているような状況だった。
あまつさえ、こうして見つめ合って言葉を交わして触れてもらって……頭が現在進行形でふやけていくのがわかる。
あー、やばい。ちょっと視界が滲んできた。幸せすぎて泣きそう。
「別に私が『好き』って言ったのを受け止めて、どう返して欲しいとか、そう言うのも無いんです。今は考えている余裕もないくらいで……。だから、ただこっちの気持ちを一方的にあなたに投げつけてるだけで満足してしまってるんです」
「なるほど、欲はなくても我が儘だな」
「えぇ、そうです。本当に勝手で、我が儘だと思います」
そう言って二人でくすくすと笑った。
ヨアヒムの真剣な顔立ちが、くしゃりと崩れて子供のような笑みを形作る。
その笑顔が胸を締め付けるほどに素敵で、息もできないほどに見惚れてしまった。
……さっきも言ったように先の事はよくわからない。今はただ好きになっただけで幸せだから。
でも男女として恋仲になるのはどうなんだろう?ヨアヒムにも伯爵という立場があるし、結婚は難しいだろうか。
いやでも待て、ヨアヒムは結構女遊びが激しいタイプだし、愛人くらいなら……。
あ?うん?愛人なら、その、ヨアヒムに女として扱われるということであんなことやそんなことも……。
「ぐふっ」
「ど、どうした急に!?」
「いえ、すいません。ちょっと色々と暴発しそうになっただけで……」
名残惜しいがヨアヒムの手から一旦離れて深呼吸する。
顔が熱くなりすぎているのが自分でわかる。
具体的に言うと鼻から血を吹きそうになった。
流石にそんな醜態を好きになった人の前で晒したくはない。
「えー、こほん。それで、その……それと一緒に言っておかなくてはいけないことがあるんですけど……」
「あぁ、わかった。聞こう」
「私、冒険者として生活することに決めました」
私がそう言った瞬間――――ヨアヒムがピタリと停止した。
まるで凍結魔法でも食らったかのような見事な凍結だった。
ややあって、浮かんでいたにこやかな笑顔を徐々に驚きの表情に変えて……小さな声で問いかけてきた。
「………………どうしてだ?」
「私のしたいことが、わかったからです。――――あの晩、パーティの夜。バルコニーで話したことを覚えていますか?」
驚きの表情を浮かべたままであったが、ヨアヒムは私の問いに確かに頷いた。
パーティの夜。私とヨアヒムが互いに友人同士だと誓い合ったあの晩のことだ。
「私はやりたいことも欲しいこともわからないけど、外に出るのが怖かったと言ったと思います。でも、私はもう外が恐ろしいとは思いませんし――――何をやりたいのかもはっきりとわかりました」
「それで――――冒険者、なのか?」
「はい」
恐る恐る、という風に訊いてくるヨアヒムに、私ははっきりとそう肯いた。
「なら……リオ、お前のしたい事っていうのはなんだ?」
「
私がそう答えると、ヨアヒムはびくりと肩を震わせた。
彼がどういう表情をしているのかはちょっと見えなかった。私は自分の掌に視線を落としていたからだ。
細く、小さく、白い私の掌。それを何度も握り、開き、感触を確かめながら自分の中にあるものを言葉に伝えようと努力する。
「私があの頃外に出るのが怖かったのは……人を傷つけたときのことが怖かったからです。……いいや、違いますね。本当に恐ろしかったのは
今も思い出す、この世界に最初にやってきた時の事。
私は山賊の男の腕を自分の矢で吹き飛ばした。鏃が腕を捥ぎ取り、肉と骨が飛び散り、血が噴き出して、絶叫が響く。
あの時のことを今も忘れていない。
そして――――
今ならわかる。あれは
恐ろしいと思っていたのに夢に出るほどに何度も何度も脳裏で鮮明に思い返していたのは、その昂りを忘れられなかったから。
そして、その記憶に『恐怖』というレッテルを貼っていたのは――――自分がその興奮と向き合うことで変わってしまうことが恐ろしかったからだ。
だが、もうその恐ろしさはない。
私はそれと向き合ってしまった。
受け入れてしまった。
変わって、しまった。
……思い返すのはあの日の夜の殺戮と戦闘。
雑魚の山賊達を虫でも潰すように殺し、山賊の頭目に全身全霊で立ち向かって殺した。
命を踏みにじるという冒涜的な全能感と、自分という生命の持てる力を燃やし尽くす疾走感。
私はそういうものに興奮と昂揚を覚える人間なのだと理解してしまった。
そしてそれに忌避感がないというのが、尚更に質が悪かった。
我が事ながら、本当に質が悪くて――――拳を握り締めながら、私はくすくすと笑いを零した。
「でも、でも――――お前はあの時、泣いていたじゃないか」
「確かにそうですね。―――――でも、それも含めて、なんです」
ヨアヒムが掠れているような、震えているような声で私に問いただす。
……呆れられるのも無理はない。あの日の夜の戦いの後、泣き出してしまったのは事実だ。
――――けれど。
「傷つくことは痛かった、怖かった。それこそ泣いてしまうくらいに。でも、それが気にならなくなるくらい戦っている間は怒って怒って、憎くて憎くて殺したくて……。それも全部全部ひっくるめて、私は自分が生きているって、そう実感できたんです」
「…………生きているという、実感……」
「はい」
そう、結局はそれに行きつくのだ。
傷ついて苦しんで恐ろしくて泣いて、殺されて怒って憎んで殺して……私の中から生まれた途方もない感情の熱量。
そして、何より殺し合いの果てに
それらが身を震わすほどに鮮やかな、『生きている』という実感を私にくれた。
顔を上げると、ヨアヒムは口を丸く開けてぽかんとしていた。
その表情が何だかとても可笑しくて、私はまた笑った。
「そうです。私は自分がこの世界で生きているって確かめたいんです。その方法が、あの日の夜みたいに何かの命を奪うことでも全然構わない。それに――――――――、」
「ちょ、待てっ、リオ……っ!?」
後ろから呼び止められるのに、少し悪いと思いつつ――――私は椅子を立って窓の方へと駆けた。
執務室の大きな窓を開き、桟の上に飛び乗って、そこから躊躇なく外へと出た。
緋色の少し斜めに傾いだ屋根に足を掛ける。滑らせれば三階の高さから地上に落ちてしまうが恐怖心は全くなかった。
むしろ、気持ちは昂揚して晴れやかな気分だった。
「見てください、ヨアヒム。
私は屋根の上に立って両手を大きく広げた。
そして同時に、幾つものスキルを使って自分の感覚も周囲に広げる。
風が吹き抜けて私のドレスの裾と髪を靡かせていく。その中に幾つもの花弁が混じっていて、芳しい香りを辺りに振りまきながら通り過ぎていく。
『
見上げた空はどこまでも高く突き抜けるような青色で、綿のように白くふわふわとした雲がその表面に散らばるように泳いでいる。
銀色に輝いている太陽は青々とした空の中で、恵みを降らすように眩い日差しを注いでいる。
眼を前に向ければイルマートの街の風景が見える。
ヨアヒムが治める街、私達が何度も歩いた街だ。
煉瓦と木で作られた暖かい趣のある建物と、日差しを反射してきらきらと輝く川の水面が此処からでも見える。
視界が広がり、感覚が広がる。
以前は頭が痛くなるようなスキルで拡張された感覚も、今は完全に私の制御下にあった。
代わりにあるのは、今までずれていたピントがぴたりと合ったような解放感と、空も大地も自分の手の中に収めたような万能感だった。
巨大なドームのように広がる『
世界の全てを抱きしめるように。
「ヨアヒム、あなたが連れ出してくれたおかげでようやくわかったんです。世界はこんなにも色付いていて、鮮やかで、綺麗なんだって。生きていく価値のある場所なんだって」
振り返って部屋の方に目を向けると、ヨアヒムが窓からこっちを見ていた。
その表情がものすごく焦っているような顔だったので、心配しなくてもいい、という意味を込めて私は彼に笑いかけた。
「もっと色んなものを見たい、色んなものに触れたい、色んな所に行きたい。この世界で
広がる青空を背にして、青い風に吹かれながら、私は腕を広げて笑った。
本当の、本当に最初の気持ちを思い出す。
『
想像でしかないけれど……ゲームの開発者は
世界とは限りなく広がっていて、その中には恐ろしいものも苦しいものもあるのかもしれない。
けれどそれもひっくるめて世界は極彩の色に溢れていて、遊んで、拓いて、旅して、戦って――――生きる価値のあるものなのだと。
……せめて
実際にはそうでなかったとしても構いはしない。
そうかもしれないという私だけの予想で――――私にとってはそうだと決めた、私の答えだ。
この世界で自分が生きていると確かめたい、という私の選んだ私の生きる道。
「だからヨアヒム、あなたが私の帰る場所になってくれたら嬉しく思います。――――あの日の夜、私を抱きしめてくれたみたいに」
それは今話しているうちに、自然と湧きあがってきた結論だった。
そうだ。ヨアヒムには私の帰る場所になって欲しいのだ。
きっと自分はこれから色んな所に旅をすることになるだろう、色んな人や魔物と戦うことになるだろう。ならば、当然として道に迷うこともあるだろうし、傷つくこともあるだろう。
でも――――そんなときに帰るべき場所と、甘えさせてくれる人がいるならば、それはどれほど幸福なことだろうか。
そうして私を迎えて、抱きしめてくれる人が、私の好きになった人ならば――――それ以上に幸福なことは無いのではないだろうか。
「――――前にも言っただろう、いつでもオレはお前の力になるって。……お前を、守るって」
僅かな時間の沈黙を挟んで、ヨアヒムが口を開いた。
窓から部屋へと差し込んでくる光が作る影の方から、こちらへと歩み寄ってくるように。
窓のすぐ傍に立った彼が腕を広げる。窓の外の屋根に立っている私を見上げるその瞳は何処までも真剣で、どうしようもなく私はそれに惹きつけられた。
「いつでも頼ってくれ、いつでも帰ってきてくれ。オレは――――お前を離したくない」
「ヨアヒム……」
真っ直ぐに、何処までも真摯な眼差しでヨアヒムが私を見上げる。
今も、彼は両腕を広げて立っている。飛び込んで来い、と言っているかのように。
――――良いのだろうか?
――――本当に、良いのだろうか?
――――
そして、私の逡巡を見透かすように――――ヨアヒムがゆっくりと頷いた。
「ヨアヒム……っ」
……あぁ、駄目だ。もう我慢できない。
私は窓の桟を蹴って、部屋の中へ――――ヨアヒムの腕の中へと飛び込んだ。
一瞬の浮遊感と重力がなくなる心許なさ。ほんの刹那ほどのそんな感覚の後に、とても暖かくて確かな存在に体を包み込まれる。
服の上からでもわかる少しごつごつとした、逞しい男性の体と芳しい香水の香り。
私の体をぎゅうっ、と包み込む腕の感触。自分が抱きしめられているということ、大好きな人に受け入れられているという感触が、思わず目元が潤むほどに嬉しかった。
こちらからも彼の存在を確かめるように抱きしめ返す。
胸元に自分の頭を押し付けて甘えるのは、少し気恥しくて――――それ以上に胸の奥が満ち足りるようで心が安らいだ。
顔を上げればヨアヒムの顔が目の前にある。その瞳の中に頬を上気させた少女の、私の顔が映り込んでいた。
「……リオ。最初の告白の返事がまだだったな……オレも、お前と同じ気持ちだ」
「えっ……」
吐息交じりの声が耳元で囁かれる。
その艶のある声が耳朶を擽るのにぞくり、と背筋を粟立たせながら……彼の言葉の意味を咀嚼する。
わ、私と同じって、それってその……。
「オレもお前の事が大好きだ。……愛してる」
頭と心臓が、爆発するかと思った。いや、多分した。
桃色の火花が目の裏で炸裂して、一瞬意識が途切れた。
「あ、あああっ、愛……っ!?」
「そうだ。……駄目か?」
「そ、んなっ!そんなわけないですけどっ、でもっ……!!」
かぁぁっ、と凄まじい勢いで顔が火照っていくのがわかる。
嬉しいのか、恥ずかしいのか、信じられないのか、自分が何を感じているのかさえも判然としない程度には混乱の極致にあった。
ただ、今わかる事実はヨアヒムがこちらの顔を真っ直ぐ覗き込んでいてその眼から逃げられないというだけだ。
その眼差しは酷く真剣で、それでいて蕩けるように甘くて……嘘にも冗談にもその場しのぎにも見えないということは確かだった。
「それじゃあ、そうだな……手っ取り早く、証拠でも見せようか」
「あ……っ」
こちらから一切目を逸らさないままのヨアヒムはそんなことを言って、私の顎先に指を添えた。
くいっ、と
――――えっ、本当にするの?そんなに急に?本当に私のこと好きなの?いや、待てこの女たらしの事だし愛人によくやる手口なのかもしれないでもこいつと一緒にいられるのなら別に愛人でも構わないしそんなことよりこれファーストキスだしちょっとまって自分の口紅剥げてたりしない息臭くない大丈夫うわヤバイ顔が近い――――という思考がごくごく短い一瞬の中で脳内を駆け巡る。
そしてこちらに覆いかぶさるようにして近づいてくるヨアヒムの顔が私の視界一杯に映って……私も意を決して、目を閉じて受け入れた。
――――感じたのは、優しい温度と安らぐ感触。
ごくごく小さな、唇が唇に吸いつく音。
そして……胸の奥が焦げ付くほどに、高鳴る心臓の鼓動。
「「…………」」
私の眼前直ぐ近くにあった気配がゆっくりと離れていくのに合わせて目を開く。
知らずのうちに呼吸を止めていた私は「はぁ……っ」と深く息を吐いた。何故か自分の吐息が熱く、濡れているような感覚がした。
ヨアヒムの手はまだ私の顎に添えられていた。
彼の指の一つが、そっと私の唇をなぞる。その感触がこそばゆくて、じれったい。
ただ一度の触れるようなキスだった。それだけで触れ合いの心地よさを知った唇が、寂しさで疼くのを感じた。
「もう一度、するか?」
「…………っ……♡」
……それは、ずるい。
はい、と頷きたかったけれど、出来なかった。
だってこれ、多分ヤバい奴だ。もう一回、あと一回なんて言ってたら絶対止まらない自信がある。
たった一回、触れ合うようにするだけでこんなに頭も心もぞわぞわとしているのに何回もやったらそれこそおかしくなってしまう。
でも、
しかしそうこうしている間に、私の潤んだ視界の中でヨアヒムが微笑んだ。
その悪戯を思いついた少年のような笑顔を向けられて一層頬を熱くする私に――――彼は耳元でこう囁いたのだ。
「続きは今夜――――オレの寝室で」
言われた瞬間、私の頭は爆発した。
具体的に言うと、鼻血を吹いた。