夢を見る、夢に見る。
夢に見る、夢を見る。
青い空の夢、白い雲の夢。
黒い夜の夢、赤い血の夢。
青い空を見上げれば、天は何処までも高く広い。
この小さく細い手は悠然と浮かぶ雲には届かない。
けれど、伸ばして延ばして掲げれば指先が触れそうで。
その距離を自分なら埋められるのではないかと、
そんな期待で胸が膨らんで弾けそうで高鳴る。
黒い夜の中天に煌々と光る月を見上げた。
その怪しい光に惹かれて空を仰いで声を上げる。
踏みしめる大地は真っ赤な血に塗れて地獄のよう。
その様が愉快で痛快で私は大きな声で笑う。
叫んで笑ってこの胸が悦びで張り裂けそう。
あのどこまでも突き抜けるような青い空も、あのどこまでも血に塗れた黒い夜も、私の中では優劣などなかった。
どちらも私の胸の内にあるものを解き放つような
生きているという実感。生きていたいという祈願。この胸に宿っている心臓が熱く脈打ち、この体に血を巡らせているという確信……。
それを私に与えてくれたものならば、それが
青い空と黒い夜が、白い雲と赤い血が、矛盾せずに絡まり合いながら同時に私の眼前で色彩を描き出している。
混然となって混沌としているのにありのままに並立している奇妙な光景。
それを疑問なく受け入れているのはこれが夢なのだからだろうか。
そんな色彩の中で、ふと振り返れば私の後ろに立っている人がいた。
黒々と深い陰影を描く山の稜線の向こうから差し込む橙色の西日に照らされた河と橋の上、その赤い髪の人影がこちらに手を差し伸べている。
その榛色の瞳と目を合わせた瞬間、自分の胸が熱く高鳴るのを感じた。
切なく、狂おしく、それでいて甘酸っぱくて、甘ったるい。血が流れ出そうなほどに痛いのにその痛みは病みつきになってしまうほどに甘美だった。
こちらに差し出された手を私はそっと……あるいはぎゅっと握り返した。
そしてその胸の中に飛び込んで、彼の胸元に頭を押し付けて猫のように甘える。
恥ずかしい気持ちはなく、ただひたすらに自分の全てを預けられる安心感に身を浸らせた。
抱きしめて返してくれる彼の腕の大きさと温かい体温が泣きたくなるほどに嬉しかった。
顔を上げればうっとりするほど甘い微笑みと、焦げるように熱い彼の眼が私を捉える。
それを見つめ返していると、
気が付けば私達はお互いが一糸纏わない裸を晒していた。
生まれた姿のまま抱き合い互いの顔に顔を寄せて、どちらからともなく何度も口づけを交わす。
呼吸が熱く、濡れていく。頭の奥が蕩けるように、痺れていく。
熱に浮かされるかのように私は彼に向って思いの丈を吐き出した。
「ヨアヒム……。私、あなたの事が好きです。大好きです。あなたを好きになれて良かった。あなたを好きになれて幸せです。人を好きになるっていうことがこんなにも自分を幸せにしてくれるんだってわかったのはあなたのお陰なんです。
だからこれからもずっとあなたの事を好きでいさせてください。もしも叶うなら、あなたも私の事を好きでいてください。
私はこれからきっと
その時は、いつものように子供っぽく笑って、私の頭を撫でてください。抱きしめてください。キスしてください。
……そして、できるなら……
私の言葉も夢の中に沈むように消えていく。
夢の色彩が色を変えていく。揺れる炎を灯す暖炉の明かり、蝋燭の明かり。垂れ下がるカーテンと薄い影。ピンクの花弁、白いシーツ。
唇に熱く甘い唇の感触。押し潰されるような体の重み。硬く握られた掌。汗の香り。逞しい腕。疼く胸と胸の先。快感、弾ける火花のような。
恥ずかしさ。気持ちよさ。心地よさ。槍のようにそそり立つ肉の棒。掌の熱さ。饐えたような、蠱惑的な香り。
体の中心を割開かれる衝撃。圧迫感。拡張感。達成感。一体感。抱きしめた体。抱きしめ合う体。溶ける。蕩ける。爆ぜる。崩れる。弾け飛ぶ。
幸せ。幸せ。しあわせ。
だいすき。ありがとう。あいしてる。
あしたも、あさっても、きっと、
ふたりで、しあわせになろう――――。
******
「……んん……っ」
――――幸福な夢をみた、ような気がする。
良い夢を見たときというのは得てしてその直後の目覚めも良いものであることが多い。
よく眠れたという実感は快調な寝覚めを約束してくれるものだ。
ましてや、昨晩
ぼんやりと眠気に滲む私の頭の奥ではいまだに昨日の晩に味わった、どうしようもないほどの幸せが残り続けて……なんというかぽわぽわとした、浮ついた気分が続いている。
言うならば、幸福の二日酔い。
未だに二重の意味での夢見心地のまま、私はベッドから体を起こした。
今日も一日、良いことが何かありそうな予感を感じて――――、
「……あっ、れ……?」
いや、正確には体を起こそうとした。
半身を起こして寝起きの背伸びでもしようとしたのだが、私の両腕は
予想だにしない動きに対する妨害のせいでバランスを崩した私は、ベッドの上でごろんと無様に転がる羽目になった。
そして、それと共にじゃらん、と鎖が擦れる音がして――――、
……鎖?
「…………なっ……!?」
転がった私の視界の中、ベッドの白いシーツの上に投げ出されているのは確かに鎖だった。
その鎖の行く先を目線で辿っていくと、その先端は煉瓦造りの壁に楔で縫い付けられており、ちょっとやそっとでは外れそうになかった。
そしてそのもう片方の先端は――――私の方へと、私の首元へと伸びている。
そこでようやく私は自分の首周りに何かゴツゴツとしたものが触れている感触に気が付いた。
――――首輪だ。首に首輪を嵌められて、鎖で繋がれている。
更には、咄嗟に首元に手をやろうとして……それもできなかった。
がしゃん、という硬質な音がして腕の動きが阻まれる。
……私の両手首に革と鎖の手枷が付けられていて、後ろ手に戒められていた。
両足首にも同じようなものが巻かれ、まともに動かすのも不自由する有様だった。
ついでに言うと服は着ておらず裸のままだった。いや、昨日の晩は服も着ないで寝落ちしたからそのままというだけか。
「なん、ですか、これ……」
呟いた自分の声が掠れているのがわかる。
どっ、どっ、どっ、と耳の奥で喧しく血管が音を立てている。
周囲が急に寒くなったような気がする――――私の体が汗をかいているのか。
意味不明な、あまりにも理解不能な不条理感。
パニックに陥った自分の思考が芯の部分から白くなって、頭が痺れていくような気分がする。
そもそもここは何処だ?
私が寝かされていたベッドは、兎に角頑丈さを優先したと言わんばかりの武骨な代物。
少なくとも私が昨晩、彼と一緒に眠ったベッドであるはずがない。
周囲は薄暗く、空気はどことなく淀んでいる。
壁は煉瓦造りで、天井はそれほど高くなさそうだ。
なんとなく地下室を連想させる造りだった。
……いや、待て。
薄暗い、だけで済んでいるということは何処かに光源があるわけで……、
―――――と、そこまで考えが及んだ瞬間、声が聞こえた。
「――――起きたか、リオ」
「……ヨアヒム…………?」
声がした方へと振り向く。手枷と足枷が邪魔で芋虫のように体を捩るくらいしかできないのがもどかしい。じゃらじゃら、と音を立てる鎖が煩わしい。
ヨアヒムの声は私の耳に馴染む、最早慣れ親しんだと言えるような響きがあった。
こんな非常事態でも、その声を聞くだけでどこか胸の内がほっとしたような気分になるのを自覚する。
振り向いた先にあったのは武骨な鉄格子だった。
鉄格子の向こう側にはシンプルな蝋燭を立てかけた燭台があり、それがこの薄暗い空間の数少ない光源だった。
その蝋燭灯りが逆光になる中、ヨアヒムはポケットから取り出した鍵を使って鉄格子を開き、こちらへと歩み寄ってきた。
彼の顔は、逆光の陰になってよく見えない。
「……おはよう、よく眠れたか。リオ」
「え、えぇ……まぁ。よく眠れました」
問われて返した返事に、「寝起きは最悪でしたけどね」と茶化して付け加える。……正確には茶化そうとした。
ははは、と笑って見せようとした自分の頬が冷えたように強張っているのが、自分でもわかる。
ヨアヒムの声を聞いて、彼が傍にいてくれて、それだけで心が安らぐ。
……そのはずだ。そのはずなのに、違和感が拭えない。
今、私の身に何が起こっているんだ?ヨアヒムは此処で何をしているんだ?
「あのう、それで……その……これ解くの手伝ってもらっていいですか?起きたらいきなりこうなってて何が何だかよくわからなくて……」
「…………」
私は縛られている両手をガチャガチャと鳴らしてアピールした。
後ろに縛られている体勢というのはどうにも不自由でいけない。
仰向けに転がったら腰の下敷きになって邪魔だし、何よりヨアヒムに抱き着けないじゃないか。
……しかし、ヨアヒムはベッドの横で私を見下ろしたまま微動だにせず、返事もしなかった。まるで立ち竦んでいるかのように。
ちりちり、と緊張感で空気が張りつめていくような気がする。
その空気感に、何だか私はとても嫌なものを感じた。
ヨアヒムの表情は、逆光になって良く見えない。
「――――昨日の夜、良く寝ていてくれてよかった」
沈黙を破ったのはヨアヒムの言葉だった。
私の訴えに答えるようなそれではなく、どうにも脈絡が読めない突然の言葉。
彼の声音からはいつもの太い弦を弾いたような艶のある響きがなく、ひりつくような渇きがあった。
私はただ困惑した。耳の奥でどくんどくん、と心臓の音がうるさい。
「寝顔が可愛くて、いつまでも見ていたくなるくらいだった……っていうのもあるが……。何より、この地下室に連れ込む間に起きなくてよかった」
「ヨアヒム」
知らず、唾を飲み込んだ。喉がひりつくように乾いている。口の中が粘つくようだ。
じっとりとした汗が不快だ。空気は淀んでいるのにひやりとしていて、体が寒い。ぶるり、と悪寒で背が震える。
ヨアヒムの言っている言葉の意味がわからない/わかりたくない。
「ヨアヒム、これを、外してください」
口に出した声が震えている。自分の喉から出した声のはずなのにどこか遠くの壁越しに聞こえているような空虚感すら感じる。
耳の奥で血管の音がうるさい。今やガン、ガン、ガン、と頭蓋骨を内側から拳で叩かれているような気さえしてくる。
ヨアヒムの手が、そっと伸ばされて私の髪を撫でる。
大きな掌が頭にそっと添えられて、指先がすぅっと絹糸のような髪を梳っていく。
その手と指先の温もりが泣きたくなるほど優しくて、直観的に昨夜私と肌を重ねた愛しい人だというのがわかる。
……なのに、何で、こんなに胸騒ぎが止まらない?
ヨアヒムの表情は、逆光で影になって見えない。
「
その言葉は
何か決定的なものの断絶を示すように、私の心に深々とその宣言が食い込んで刎ねる。
私は二の句を告げることができなかった。頭の何処か奥深い所では既に状況を理解している。
でも理性も感情も、そのどちらもその意味を理解することを拒んでいた。理解したくなかった。
「…………リオ、お前はオレの事を恨んでいいし、憎んでいいし、嫌いになってもいい。それだけのことをしでかしていると思うし、これからもすることになる」
「何言ってるんですかヨアヒム……。さっさとこれを外してくださいって言ってるじゃないですか、今ならまだ冗談で済みますから!」
良いから私の言っていることに耳を貸して欲しい。ちゃんと返事をしてほしい。
ていうか、恨んでいいとか憎んでいいとか嫌いになっていいとか、そんなことを言わないで欲しい。
昨日の晩、あれだけ「愛してる」って、「大好きだ」って言い合って、体も重ねて、幸せな気持ちにしてもらって、それで私が貴方の事を嫌いになるなんてなるわけないでしょう!
でもヨアヒムは何も答えてくれない。彼の
私の言葉には何も言わず、彼は私の頭を撫でていた手を動かして……指先でそっと私の首元に触れた。
そこにあるのは囚人か、あるいは
彼の指先がそこから伸びている鎖に触れて、ちゃりん、という鈴のように涼やかでどこか滑稽な音を立てる。
「ひぅっ……!」
そして、彼は鎖を握り込むとぐいっ、とそれを引っ張った。必然的に私の首はそれに引きずられて――――引き上げられる。
純粋に首にかかる革の痛み、そして自分の意に添わずに体を勝手に動かされる不快感に喉から絞られるような声が漏れた。
そして何より、他でもないヨアヒムにそんな乱暴な扱いをされるのが傷ついた。
その事実だけで泣きたくなる気分だったが、状況は待ったをかけてくれなかった。
無理矢理ベッドの上に膝立ちにさせられた私はヨアヒムに正面から顔を覗き込まれていた。
ふわりと薫る整髪料と香水の匂い。いつもの彼の香りに条件反射として胸の奥のつかえがとれるような安らいだ気持ちが襲ってくる。愛おしさが込み上げてくる。
生理的な反応のように湧きあがってくる幸福感と、今の異様な状況に感じている警鐘のような危機感が頭の中でぶつかり合って気分がわるい。あたまがいたい。
「お前はここから出さない。ここから、ずっと」
「…………っ!」
息を呑もうとして、それさえもできなかった。喉の粘膜が糊のように張り付いて動かない。
私を覗き込むヨアヒムの眼は乾いていた。緑がかった
ただ、乾いてはいても熱っぽい光だけは失われていなかった。いや、熱はあるのに乾いているというのが正しいのだろうか。
カラカラと干からびるような渇きと、ジリジリと私を焼くような熱が彼の瞳の中に混在している。
まるで砂漠のような眼だ、と私は思った。
「なんで、ですか……っ。どうしてこんなこと……」
彼の瞳に灼かれたようにひりつく喉。それを何とか動かして疑問を口にする。
……何故?本当に何故、としか言いようがない。なんで、どうして、と困惑ばかりが私の頭の中を支配している。
どうして私はこんなところに連れ込まれている?どうして首輪に手枷まで付けられて厳重に縛られている?
どうして――――ヨアヒムが私にそんなことをする?
もしかして、
「私、あなたに嫌われるようなことをしましたか……っ?」
そんなことを口にしてしまう。
もしそうだとしたら耐えられない、と心から思った。
つい昨日までは彼の事を好きになっただけで幸せだった。自分から彼に向ける感情だけが溢れて止まらなくて、それを垂れ流して彼に向けるだけでよかった。
……今はもう駄目だ。私は彼に愛されることの悦びを知ってしまった。自分が好きな人が自分を好きでいてくれているという事実がどれほどの、泣きたくなるほどの幸せなのかを知ってしまった。
もしもその上で、ヨアヒムから嫌われてしまったのだとしたら、私は耐えられない。
想像だけで体と心が引き千切れてしまいそうだ。
そして、何より。
「昨日の事は、全部嘘だったんですか……っ?」
その可能性が一番嫌だった。
大好きだって、愛してるって、何度も言って、言ってくれて。
彼に抱かれて、女にしてもらって、その事が身も心も蕩けるほどに幸福で。
明日の事も、その先のことも、私たち二人は幸せにやっていけるって、そう思ってたのに。
そう思って眠りについて、夢にまで見たのに。
「えっ、えぅっ……ぅっ、……ぇぐっ…………っ!!」
そう思って、思ったことは口にはできなかった。
喉の奥からこみ上げてきた熱のせいで喉が動かない。
嗚咽に潰されて言葉が出ない。気が付けばポロポロと涙がこぼれていた。
あぁ、嫌だ。ヨアヒムの前では泣いてもいいとは思っていたけど、こんな気持ちで泣きたくはなかった。
「……そんなことはない、それだけはない。お前を愛していると言ったことに、嘘偽りは決してない。例えお前がオレを嫌うようなことになったとしても、その事だけは絶対に本当の事だ……」
そんな言葉と共にヨアヒムに抱きしめられる。
細身なのにどことなく逞しい腕と胸板の感触。私を包むほんのりとした汗の香り。耳朶を打つ優しい声。
そんなところばかりがいつもの彼で、私は一層泣きたい気持ちになった。
彼のシャツの胸元に私の涙が染みを作る。
やめてほしい。そんなことは言わないで欲しい。
どうして私がヨアヒムの事を嫌いになるようなことを前提で話すんだ?
私が貴方を好きだっていうことがそんなに信用できないのか?
こうしていきなり地下室に閉じ込められて、それだけで私が愛想をつかすとでも思ってるんだろうか?
それは無理だよ、ヨアヒム。
私は自分の好きだという気持ちが無くなるところが想像できない。
貴方の事を嫌いになんてなってしまったら自分で自分に耐えられない。
「だったら、何で……」
「………………」
ヨアヒムは私を抱きしめたまま押し黙る。
ただ無言のうちに、抱きしめる腕の力が強くなる。
そしてその腕は――――こころなしか、震えていた。
「――――
短くも長い、長くて短い沈黙の後にヨアヒムはそう言った。
彼の声音には錆びついて擦り切れた車輪を無理矢理に動かすような重苦しい響きがあった。
彼の体がまた少し震える。それに耐えるようにぎゅうっ、と私を抱きしめる腕に力が籠る。
私はただ、黙って彼の腕の中に抱かれ、言葉の続きを待った。
「そうだ、お前の事が怖いんだ。お前がどこかに行くのが怖い……。お前が傷つけられるのが怖い……。お前が誰かを傷つけるのが怖い……」
ヨアヒムの声は絞り出すようだった。
本来なら言葉にできないような、言葉にすれば自分が擦り切れてしまいそうな、そんな
私はそれに対して震える声でどうにか反駁した。
「何言ってるんですか……言ったじゃないですか、私は何処に行っても貴方の所に帰ってくるって。だから、貴方には私の帰る場所になって欲しいって、貴方だってそう思ってくれてるって、私は……っ」
声が嗚咽の中で震える。
口を開けば開くだけ、涙が零れてしまいそうで悲しい。
……そうだ。私は今、悲しいんだ。
多分、私とヨアヒムの間には何か大きな擦れ違いがある。
その事が、私達が解り合えていなかったという事実があまりにも悲しい。
「そうだ。確かにオレはそう言った。でもな、リオ。オレには忘れられないんだ。
あの日、あの夜――――血塗れで地面に倒れ込んでいたお前の事が……っ。オレの手の届かないところで死んでいたお前の事がっ、今でもっ!!思い出すだけで吐きそうな気分なんだ……っ!!」
ヨアヒムの腕に力が籠る。ギリギリと締め付けてくる腕の力には、こちらが動けないことに対する遠慮というものが感じられなかった。
他ならぬヨアヒムがそんな配慮もできないくらい彼は追い詰められていた。彼自身の記憶に。
私を掻き抱く腕はまるで縋りつくようでさえあった。
「どうしてっ、どうしてお前はそれでまた『戦いたい』なんて言えるんだ!?あの晩、お前は泣いていたじゃないか……っ、戦いが終わった後にオレの腕の中で泣いていたのは怖かったからじゃないのか!?
『生きている実感』だって!?一度死んで、殺されて、そんな恐ろしい目に遭って……お前はなんで、お前はなんで……っ、」
――――お前は何で、笑いながら同じように人を殺せるんだ!?
それはさながら血を吐くような詰問だった。
今の今まで、その疑問を胸の内に仕舞い込んでいて……彼はどんな気分だったのだろう。
私にはわからない。見たことのない彼の激情に晒されて、私もうまく頭が回らない。
ただ……一つだけよく分かったことがある。
私は、ヨアヒムを怖がらせていたのか。
「オレは怖い……。お前の事が怖いんだ。お前が死ぬのも、お前が誰かを殺すのも。お前がその事に何の躊躇も恐怖も無く、笑いながら話しているのが怖い……っ」
「ヨア、ヒム……」
……頭をガツン、と殴られたような想いだった。
自分の思考が白く染まっていき、どう答えたらいいのかわからない。
昨日の晩、私を抱きしめて、キスして、笑って、愛してくれて……その裏で、私の事をそんな風に思っていたのだろうか。
身勝手な話だけど……そっちの方こそわからない。
愛していると言いながら、心の中では私を怖がっていたのか?
私の事を抱きしめながら、本当は恐ろしさで震えていたのか?
「お前の事が怖い。だから、放したくない。どこにも行かせたくない……」
怖い、とそう何度も言いながらヨアヒムは私を決して離そうとしない。
むしろその言葉の通り、一層強く、私を何処にも行かせないと言わんばかりに抱きしめてくる。
体と体が強く密着する。彼の心臓が早鐘を打つのが聞こえる。
「お前が何処かに行って、またオレの知らないところで死んで……そして、笑いながら誰かを殺して……そうなることが恐ろしいんだ。
だからお願いだ……何処にも行かないでくれ、オレの手の届くところにいてくれ、オレの目の届くところにいてくれ……」
もう、その言葉は嗚咽のようでさえあった。
聞くだけで胸がキリキリ痛むような、そんな苦しみに満ちた声。
でもその苦しみをどう和らげてあげればいいのだろう。彼が苦しんでいる元凶は他ならぬ私なのに。
「………………ねぇ、ヨアヒム。これを解いてはくれませんか……?」
かちゃん、と私は鎖を鳴らした。
私の両腕を後ろ手に縛り付ける、彼が私に施した手枷。
その戒めが、不自由さが、そのまま私をここに縛り付けようとしているヨアヒムの心を表しているようだった。
「…………駄目だ」
ずっと私を抱きしめていた腕を離し、ヨアヒムは私の顔を正面から見据えて――――首を横に振った。
彼の瞳にはもう砂漠のような渇きも、震えるような恐怖も無かった。
私を真っ直ぐ見つめるその眼には、どこか仄暗い決意の色が宿っていた。
「お前をオレの
外の世界だとか、戦いだとか、生きている実感だとか、そんなの全部オレで埋め尽くしてやる。
オレの事を恨んでいいし、憎んでいいし、嫌いになっていい。お前の
それは宣言だった。
私という人間の全てを、ヨアヒムが自分の手で塗りつぶすという一方的な宣言。
未来も、世界も、幸福も、この腕の中で全部完結させてやろうという傲慢で、身勝手で、私の気持ちなんて全部無視した――――悲壮な決意だった。
「……愛してます、ヨアヒム」
だから、私はただそう言うことしかできなかった。
でもわかっている。私がそう口にするだけでは彼はきっと満ち足りない、止まれない。
私が真実、ヨアヒム以外の全部を忘れてしまうまで彼は私の事を信じない。
「オレも愛してる……リオ」
愛してる。その言葉は心臓が溺れるほどに幸福なのに。
それなのにどうしてこうまですれ違って、掛け違ってしまったのだろう。
ヨアヒムが私の顔に唇を寄せてくる。
甘く優しいはずの口付けは、酷く塩辛い、涙の味がした。
拾った子猫が人喰いの虎だったら、あなたはどうする?