イルマートの街も初夏の季節を迎えていた。
強さを増し始めた日の光は眩く、それに応じるように空の青さも一段と濃さを増している。
若干の暑さを感じさせる日向の下では吹き抜けていく風が心地よく、街路の木々と繁みがそれに合わせて揺れていた。
春の花々は少しずつ散っていき、陽に透けるような色合いの新緑の葉がそれにとって代わる。
普段から庭師たちによってよく手入れされている伯爵家の庭園も同じく、初夏の日差しに青々と緑が映えていた。
何なら客人でも招いて茶会でも開けば歓談も弾むだろう。
……だが、ここ数週間ほどのクラートフ伯爵家はどうにもそういった四季の
余裕。あるいはおおらかさや、良い意味での緩やかさ……そういったモノが今の屋敷には欠けていた。
守衛に運転手、庭師に料理人、執事に
それが邸内にピリピリとした緊張感をもたらしているのである。まるで冬場の空気に蟠る静電気のように。
そして――――その奇妙な緊張感の原因は間違いなく、屋敷の主であるヨアヒム・クラートフその人にある。
そのように、メリィ・アイリンは看破した。
目の前の男を睨み据えながら。
「――――説明して欲しいにゃ」
「……何を、だ?」
伯爵の執務室。窓の外から鮮やかな初夏の日差しが入り込み、穏やかな薫風がカーテンを揺らすその部屋に威圧的な視線が交錯した。
ここまで案内した運転手の老人の制止も聞かず、肩で風を切って廊下を進み扉を開け放ったメリィは開口一番、率直な疑問をヨアヒムにぶつけた。
それに対してヨアヒムはいかにも億劫そうな態度で書類から顔を上げたのだった。
「言わなくても、わかってるはずにゃ」
「……持って回ったような言い回しは嫌いじゃないが、そういうのは根回しが前提だぞ」
メリィの
しかし睨まれている当の伯爵はそれに何も頓着することは無いと言わんばかりの鷹揚な態度を貫くばかりだった。
「第一、人を訪ねるのなら最初にアポイントを取っておくべきだ。オレだってあまり暇な身分ではないんだ。……確認しておくが会う予定はなかったはずだな?」
「はい、そのような予定はございませんでした」
ちらり、とヨアヒムが背後に目線を送る。
壁際に影と一体化しているような静けさで控えていたテオドラは、そういった機能の機械であるかのように平坦な声で主人に返答した。
「……よくもまぁ、いけしゃあしゃあと……」
いかにも自分に非はございません、と言わんばかりの二人の態度はメリィの癪に障った。
予定がないのも当たり前である。何せこれまでに何通も送った訪問打診の手紙は悉く空振りだったからである。
手紙越しでは埒が明かないならば直談判しかない、とそう思って彼女は乗り込んできたのである。
「手紙には、『現在立て込んでいるので続報は追って伝える』と書いておいた筈だが?」
「何をやってるんだが知らないけど、いくら立て込んでるって言ってもさぁ……
「…………」
部屋の空気が張りつめる。
メリィ・アイリンとしての
「了く……リオちゃんを何処にやったのよ。答えなさい」
「………………はぁ」
これはリオの居場所をただ問うているのではない。
明確に目の前にいる人間が下手人であると確信した上での問いかけだった。
それに対してヨアヒムは溜息を吐いて、露骨に呆れたような態度を取った。
「随分な言いがかりだ。それではまるでオレがリオを何処かに連れ去ったとでも言いたげだな」
「言いたげ、じゃなくてそうだって言ってんのよ」
「証拠がないだろう」
「……私もあの子の行方を調べたけど、手掛かりは
「証拠が集めきれてないだけの可能性も――――、」
「何年私とあの子が
「――――貴女は、」
「……構わない、テオドラ」
「……はっ」
その言葉は非常に挑発的なものだった。ともすれば貴族に対する暴言、罵倒と取られかねない。
そうでなくとも普段の取引先に対して取るような態度ではないだろう。
ヨアヒムが制止しなければ、事実テオドラがその辺りを非難していた。
……だが、彼女を止めたヨアヒムにせよあまり良い顔はしていなかった。
まるで
「――――それで、リオちゃんが行方不明になったにしてはあんたの反応も対応も淡白すぎる。それこそあんたが犯人だとでも考えないと説明がつかないくらいに」
「それも推測でしかないのでは?こうしている間にも秘密裏に調査を進めているという可能性は?」
「リオちゃんが攫われたって聞いて自分で山賊に殴り込みかけた伯爵様が?今更何言ってんの?」
「…………」
「ていうかさ――――女の子の行方が分からなくなってる状況で必死にならないような薄情な奴に、私の親友が惚れたなんて思いたくはないのよ」
「……感情論だな」
「感情の話をしてるのよ、私は」
ヨアヒムは何かを考えるようにほんの数秒目を瞑り、書類仕事用に握っていた万年筆を専用の台の上に戻した。
目を見開いた後。ヨアヒムは美鈴に向き直った。彼が腰かける革張りの椅子がきぃ、と泣くように軋む音がした。
彼と改めて目線を合わせた美鈴は、その端整な顔立ちに
赤い前髪の奥、目の下の瞼、頬骨の曲線。その表情には以前にはなかった陰のような物がある。
それでいて榛色の瞳の奥にはこちらを睨み据えるような光があった。研ぎすぎた刃のような、あるいは飢えた獣のような。
それに気圧されることなく、どころか正面から打ち払うかのように強い意志を込めて美鈴はその眼を見返した。
「もう一度聞くわよ。あの子は何処に行ったの?」
「答えられない」
「本気で言ってるの?自白剤飲ませるわよ」
「それは流石に看過できかねます。メリィ様」
「そう。……ところでテオドラさんは知ってるの?」
「伯爵様が仰らないようであれば私からも答えかねます」
「……」
テオドラの瞳はあくまで冷ややかなままだった。
窓の外は麗らかな初夏の陽気だというのに、執務室の中は此処だけが冬になったかのような冷たく乾いた空気が流れる。
そんな中でヨアヒムは苦悩を漏らすような沈痛な色を浮かべて呟いた。
「ただ……できるのならば、待って欲しい」
「待つって何を?どれくらい?」
「リオを
「――――そういうこと」
説得。その
わざわざ『説得』するからにはリオには何かヨアヒムに対して不都合な行動をする余地があり、彼はそれを彼女に対してやめさせようとしているということになる。
リオがこの世界で目覚めてからこの屋敷で生活していた期間でそのような不都合は互いになかっただろう。
それでも今現在そうせざるを得なくなっているということは、直近でリオが何か行動を変えるような意志を表明したということであり――――。
「最後に会った日、リオちゃんは冒険者として生きていきたいって言ってた。それのこと?」
「……っ、そうだ。その通りだ」
ヨアヒムは一瞬肩を震わせた。背筋に寒気が走ったように。
ただそれはごく僅かな瞬間の事であり美鈴もそこまで注視はしていなかった。
だが、敢えて言うならばその反応は――――
「それの何がいけないのよ。みんながみんなそうってわけじゃないけど、
その直前にあった山賊との戦闘で血塗れになっていたところを救助されたと聞いた時には心の底から心配していた。
だが、どれほど傷だらけになったとしてもリオはその世界に踏み込んで行くことを決めたのだ。
その時の何かを吹っ切ったような晴れやかな表情を、美鈴は忘れていない。
この世界でリオ・オーガスタとして生きると決めた彼、或いは彼女のその選択をこそ、美鈴は尊重したかった。
そして何より、
「あの子は……リオちゃんは、あんたの事が好きなんだよ!?私はあんたにならリオちゃんを任せられるって信じてたのに……っ!!」
ギリリ、と拳が握られる音がする。腕がぶるぶるとおこりのように震えている。
叶うのならば握り締めた
じわりと潤むものを滲ませながら、
美鈴は悔しかった。
葉月了――――リオ・オーガスタは彼女にとって家族のように大切な人だった。
その
それを心から応援して、その背中を押した結果がこの始末だということが悲しかった。
「……そうか」
目の前で悔しさと悲しさに震える馴染みの薬師の姿を見てヨアヒムは溜息を吐いた。
指を組んだ手の上に額を押し当てて、心の底から沈痛そうな表情で。
前髪がかかって深い影をその顔に落とす。よく手入れされている小綺麗な執務室だというのに、彼が座るそこだけが廃墟にでもすり替わったかのような、重く暗い静寂が漂う。
その態度もまた美鈴の癪に障った。
リオを裏切ったのはそっちだろうにまるで被害者みたいな顔をしないで欲しい、とそう思った。
そんな思いを直接言葉にして吐き出そうとした瞬間――――何か違和感があることに気が付いた。
「――――ねぇ、何でそんなに
「……君は、リオとは付き合いが長いと言ったな」
美鈴がよくよく見てみれば、ヨアヒムの手は小刻みに震えていた。
まるで真冬に手袋も無しで放り出されて、かじかんでいるかのように震えていたのだ。
投げかけられた言葉に後悔を覚え己の罪深さに打ち震えているだとか、そういうのではない。
まるで寝ても覚めても獣に襲われる
「なぁ、彼女は――――
「――――は?」
ヨアヒムの口が開いて飛んできたその質問はあまりにも美鈴にとって理解不能な問いかけだった。
音声として入ってきた言葉が、言語に結びつかず、情報に結びつかない。何を問われたのかわからない。
その質問の仕方はまるで――――
「――――――――そうか、わかった。もういい。今の質問は忘れてくれ。変なことを言って、悪かった」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ。今の質問はどういうことなの!?」
「いや、良いんだ。もう、いい。忘れてくれ……」
だが、ヨアヒムは美鈴の表情を見ただけで答えがわかってしまった。故に話を打ち切った。
目の前の
間違っても、友人の過去の蛮行を隠そうとしてしらばっくれるような反応ではなかった。
その事実がヨアヒムの心により深い影を落とす。
――――自分に共感してくれる人間は誰もいない。
――――誰もだ。
「山賊達の、例の事件のこと?」
「……」
「あそこで何があったの?教えて」
美鈴は美鈴でヨアヒムの奇妙な態度と言動に心当たりがあった。
この伯爵が、リオが人を殺す瞬間を見たというのであればその時以外にあり得ないだろう。
彼女は内心で舌打ちした。
もっとずっと早く、このことに心を巡らせるべきだったのだ。
あの事件の直後に概要を聞いたとき、思い当っておくべきであった。
何人もの山賊が討ち取られてごく数名が生け捕りにされた――――ならば、他ならぬ
戦いがあるということは、血が流れるということなのだ。
ひやり、と冷たいものが彼女の背筋に触れたような気がした。
自分が肯定して後押しした
「…………アンネは、覚えていなかった。ショックが大きすぎたからだ。むしろ彼女は幸運だった。
ヨアヒムの言葉は情報を開示するようでいて、同時に自分自身に向けて話かけているかのようだった。
実際美鈴の問いに対する答えとは微妙にずれていたが、彼女はそれを黙って聞いていた。
アンネは現在、伯爵からの指示で謹慎中だった。
謹慎とは言うが彼女は住み込みで働いているため、自室に軟禁中というのが正確なところだろうか。
当然、リオが現在どうなっているかを嗅ぎ回らせないための措置だった。
ただその直前にヨアヒムはアンネと直に会って話し、彼女が『あの夜』の記憶を忘却していることを知って――――
「今でもな、眠ると夢に出るんだ。赤い血だまり、青白い月。血と臓物と肉の臭い、倒れる木と捲りあがる土。――――あの絶叫と、笑い声」
ぶつぶつと呟く様はまるでそういった病気を患っているかのようだった。
額には暑さによるものではない汗が滲み、指先は小刻みに震える。
息は荒く、目は脳裏に刻まれてしまった悪夢のような光景に釘付けになっていた。
そしてヨアヒムにはこの苦しみを、恐怖を共有してくれる誰かはいない。
アンネは忘却している。リオの友人である
生き残った山賊はあの時気絶していた者だけだ。同行した冒険者達に至っては死んでいた。
自分だけだ。自分だけしかあの光景を覚えている者はいない。
誰にもその時に感じた恐怖を真に理解してくれる人間はいないのである。
むしろ細かく説明すればするほど、否定の言葉を紡ぐだろう。
――――悪い夢でも見たのでは?と。
……あの夜のリオはそれほどまでに狂っていた。
見ていない人間は信じられないほどに、見た人間も信じたくないほどに。
「………………そう」
長い沈黙を経て美鈴はただ一言呟いてから、息を吐いた。
握りしめていた拳も今は解かれている。
その機会があればその右手がヨアヒムに叩き込まれていたかもしれないが、もうそのような想いも彼女の意識を掠めることは無かった。
ただ彼女は――――彼を憐れに思い、少しだけ哀しんだ。
消せない記憶に怯えて震える男と、それをどうにもしてやれない自分の無力さを。
「わかったようで、わかってないような気はするけど。……これ以上の詮索は、しない」
沈鬱とした声音で美鈴はそう言葉を零した。
彼女は確かに
だがそれは彼女が傷つくことに関しての心配であり――――彼女が人を殺すことへの心配ではなかった。
それは……冒険者になれば場合によっては人を傷つけることもあるだろうし、殺すこともあるだろう。
だが、ヨアヒムの呟きから拾えた情報はそんな「止むを得ない」というような状況を想像させるものではなかった。
ならば、と最後に会った日の茶会を思い出す。
ならばあの時、確かな意思に目を輝かせながら生きる道を
でも、
それでも、
「ただ、これだけは言わせてほしい。リオちゃんがどういう何をしたって、私はあの子の味方だから」
だからこそ
それだけは、その事だけは彼女が絶対に死守すべき最後の一線だった。
ヨアヒムの様子を見る限り、
それでも――――それを目撃することになったのが自分だっとしても、自分は絶対に彼女を否定はすまい、とそう
それが友達というものだった。
それが親友というものだと、彼女は信じている。
「――――……そうか」
そう宣言した彼女に向ってヨアヒムは眼を細めてそう零した。
まるで、眩いものを見るかのように。
眩いものに目を焼かれるかのように。
「だからここは……出直してくる。あんたとリオちゃんとの間には私にはわからない何かがあって、多分、あの夜あの場にいなかった私には口出しはできないんだと思う」
だけど、と彼女は続けた。
「だけどあの子は私の大切な……妹分なんだ。お願い、あの子を幸せにしてあげて。……それはきっと、あの子が好きになったあんたにしかできないことだから」
そう言って美鈴は踵を返した。
振り返らずに執務室の大扉を開いて振り返ることなく外へと出ていく。
その後ろ姿を、ヨアヒムは黙したまま礼も見せずに茫洋とした面持ちで見送っていた。
「またのお見えをお待ちしております」
出直す、という彼女の言葉を律儀に拾ったテオドラの見送りの言葉と共に観音開きの扉が大きな音を立て、ヨアヒムの眼前で閉まった。
******
「『どういう何をしたって、私はあの子の味方』……か。羨ましいな」
静寂の音さえ聞こえてきそうなほどの長い沈黙の後、ヨアヒムはそう呟いた。
皮肉ではない、心からの感想――――あるいは称賛だった。
何があっても信じられるというその覚悟が、彼にはどこまでも眩かった。
仮にも貴族である彼が女性に対する見送りの言葉の一つも言えなくなってしまったほどに。
「そういう意味では、覚悟が足りなかったのはオレの方なのだろうな……」
疲れ果てたような声でそう独り呟く。
社交界でも一際多くの婦人方から熱い視線を投げかけられる若い伯爵の貌はここ数週間で随分と老け込んだように見える。
彼はデスクの一番下の段に入れっぱなしにしている酒瓶を取り出し、ショットグラスに注いで飲み干す。
瓶を片付けてから彼はおもむろに立ち上がった。
「テオドラ、しばらく下に行く」
「本日のお仕事の残りは」
「後でする。……今はリオに会いたい」
「かしこまりました」
伯爵にそう申し付けられたメイド長のテオドラは微かに
伯爵が処理している書類仕事の中でも急を要するものは優先的に始末されているので時間に多少の余裕はある。
別件が入ってもそれはその時に呼びつければよいのだし――――だとするならば主人のメンタルケアの方が優先事項である。
メイド長の清潔な白い手袋に包まれた手が、執務机の背後にある本棚の棚を動かす。
スライドさせることで何層かに分かれている棚を使い分けられる構造になっている大きな棚の中から数冊の本を抜き出すと、その奥にレバーが見えた。
それを駆動させると、本棚横の壁からカコン、という小さな音がする。
動作を確認したヨアヒムがそこを押すと、壁が人一人が入れる程度の押し戸となって開いた。
予め備え付けてあった燭台に火を付けて彼はその奥にある下へと続く階段を降りていった。
背後ではテオドラが何を言うことも無く戸を閉じるパタンという音が聞こえた。
(――――本当は、わかっているんだ。オレが最も罪深い)
地下へと長く続く階段は何処までも暗い。
かつん、かつん、という自身の足音だけを道連れに暗闇を降りていく道程は、さながら自身の思考の中へと落ちていくかのようだった。
先ほどの問答――と言っていいだけのやり取りだったのかは定かではないが――の内容がヨアヒムの思考の中をぐるぐると回っている。
さながら毒のように。
本当に大切に思っている相手の為であれば、相手が何をしようがそれを肯定して、貴方の味方だ、と言うのが正しいのだろう。
そして
それは覚悟の差というやつだったのではないだろうか、と彼はそう思わざるを得なかった。
拾った子猫のような、愛らしい――――庇護すべき存在。
そんな風に思っていた相手が、本当はそうではなかった。
本当はもっと……悍ましく、恐ろしい
その事実が不意の狙撃のようにヨアヒムの心臓を痛烈に撃ち抜いていた。
もしも、あの場にいたのが
庇護すべき存在ではなく、対等の友人として見ていたのならば――――また何か違った答えを。
……言うなればヨアヒムには最初に会った時の第一印象に囚われすぎていた。
彼がリオを見る目の中にはいつも、初めて会った時の山賊に襲われて震えながら弓を握っていた少女の姿があった。或いはパーティの夜のバルコニーで細い肩を震わせていた姿か。
それが彼女の本質からすればほんの一部分……正確にはゲームの世界が現実になったという異常事態故のイレギュラーな姿であると分かっていれば、何か変わっていたかもしれない。
ただ、あまりにも彼が知っていたリオとあの夜のリオの間には深いギャップがあったというのは今や覆せない事実だった。
いっそ、悪い夢であってくれればと思うほどに
(…………そうだ。
だからヨアヒムはリオを檻に入れた。首輪をかけて、鎖でつないで、
彼女は可愛い子猫なのだと、愛らしい少女なのだと、そう改めて定義づけるように。
そうでなくては、あの夜の彼女がまた現れそうで恐ろしいのだ。
獅子の眼を、虎の爪を、豹の鼻先を、山猫の舌を持つあの恐ろしいモノが月の下で吠える幻を塗りつぶさなくてはならないのだ。
(――――吐き気がする)
そこまで考えてヨアヒムは自己嫌悪に顔を顰めた。
先ほど飲んだ
先ほど何処までも眩く正しい友情の在り方を見せつけられたせいで自覚するのは自分自身のあまりの醜さだった。
何せヨアヒムは今、他ならぬ自らの父と同じ事をしている。
婦女子から全てを取り上げて、ただ自分の都合を押し付けるだけの道具にしている。
その事実が堪らなく不愉快であり、それを自覚しながら順調に同じ
(蛙の子は蛙、か)
そこまで自己分析しておきながらヨアヒムは来た道を引き返すことはできなかった。
それは諦念なのか、暗い色の決意なのか。判別はつかない。
……だが、たった一つ確かなことがある。
ヨアヒムはリオを完全に掌中に収めなければ安寧を得られないということだけだ。
「……リオ」
かつん、と大きな音を立ててヨアヒムの靴が最後の段差を降りる。
階段の底、地の底とも言えそうな深い場所にその地下牢はあった。
彼は燭台を階段脇に立てかけてから、鉄格子の前に立って呼び掛けた。
檻の前の備え付けの蝋燭が鉄柵を縫うように光を投げかけ、奥にあるベッドの上を照らしている。
「ヨアヒム……」
「旦那様、だろう」
「ぁ、ごめんなさい…………旦那様……♡」
ベッドの上で少女が身を起こす。
絹糸の滑らかさと金糸の光沢を併せ持つ長い髪がシーツの上にさらりと流れる。
赤子のように無垢で柔らかく、白磁のように
そして少女の細い首にかけた首輪と、両手足に嵌めた枷の鎖がじゃらり、と音を鳴らした。
「――――良い子にしていたか?」
鎖が外れていないことを意識の隅で確認してから、ヨアヒムは鍵を取り出して檻を開いき自らも中に立ち入っていった。
自身の頬が歪んでいるように緩んでいるのを感じながら。
スラックスの内側で股座が痛いほどにいきり立っているのを感じながら。