かしん、と手の中で音を立てて錠が回る。
その手応えの、音の軽さが、酷く悲しい。
……あぁ、こんなにも呆気ないだなんて。
留め具を外された首輪と鎖が重力に従ってベッドの上に落ちた。
ぐしゃぐしゃに汚れたシーツの上に投げ出された首輪。
よく考えてみれば私がこれを直接目で見るのは初めてだったのかもしれない。
いつもずっと首元に巻かれていて視界には入らなかったから。
指先でそっとその表面をなぞる。
革で作られたそれは長い間に私の汗を吸って特有の艶を獲得していた。
しかし金具が外されて一本の長細い帯に戻されたそれは、『輪』という本来あるべき形を剥奪されてしまったような、そんな空しい存在に見えてしまった。
二度とあるべき形には帰らない、首輪の死体だ。
無意識のうちに首元を撫でていた。
首の周りに空気が通る感触が、頼りなくて、空疎で――――寂しかった。
「――――ここまでです」
私の口はそう動いて、そう言葉を放った。
その事実を私の意識はどこか壁を一枚隔てたような所から見ていた。
モニタ越しにアバターが動いているのを見ているかのような乖離感、
……だが、それも結局は現実逃避の為の心の動きだ。気持ちを麻痺させて、少しでも傷つきたくないと思う防御反応。
でも――――それでも、私の言葉だった。
私の意志で紡いだ言葉であり、私の意志で決めた行動だった。
「……………………………………………………………………いつから?」
短いような、長いような沈黙を挟んでヨアヒムは口を開いた。
表情は硬く、冷たい。まるで仮面のようだ。
私を招くように差し出した手。もう片方の手には……白金の指輪。
その状態で固まったまま口を開く様は、音声を吐き出す機能が付いた彫像のようだ。
「……もう、随分前から」
私は視線を落として右手の中にあるものを転がした。
小指ほどもない、小さな小さな木屑。文字通りの木っ端。
これが私の『鍵』だった。
――――杵柄現象、杵柄効果、などと呼ばれるものが存在する。
この世界がゲームから現実へと変化した後に確認された現象の一つで、それは現実化の瞬間に
例えば、私は『
現実化後は
私が『
そして
「……暇な時間は多かったですからね、構造を理解するのには、十分でした」
多分、最初の一週間くらい――時間間隔があやふやなので多分それくらいだろう――で既に錠を開ける算段は付いていた。
鍵代わりの木屑は床の隅の暗がりに落ちていた。おそらくは木馬や拘束椅子などの整備中に零れ落ちたものだろう。
……整備と掃除をやっていたテオドラを責めてもあまり意味はない。
この地下牢には大した光源がない上に色々と物が置かれていて死角が多く、どうしても見落としは発生する。
私が気付いたのは
あとは暇な時を見つけて、鎖や壁に擦り付けて成型するだけでいい。それで鍵の完成だ
「外そうと思えば……いつでも外せた?」
「……はい」
「そうか……」
確認するようにそう呟いたヨアヒムの声は震えているようだった。
私が肯定すると、彼は力を抜いて項垂れた。伸ばされていた両手も虚脱したかのようにベッドの上に落ちる。
彼の手の中にはそれでも指輪が握られていた。
美しい金属の光沢の表面に映り込む蝋燭の火がいつか見た夕日のように綺麗で、胸の奥が痛むのを感じた。
項垂れながらこちらに視線を向けるヨアヒムの眼はか弱く、乾いていた。
何日も砂漠を彷徨って見つけたオアシスが蜃気楼だと分かったときの旅人のような瞳だ。
生気に満ちた、キラキラとした燐光のような輝きはそこには見えない。道に迷って疲れ果てたような眼差しは酷く弱々しい。
彼を慰められたなら、と強く思う。
……そして、私にその資格は、もうなかった。
「――――全部、茶番だったのか?」
「そんなわけないでしょうっっっ!!!!!」
彼の言葉を、私は真っ先に否定した。
大きな声が出た。こんなに大きな声で、強く人の意見を否定したのは初めてだというくらいに。
ヨアヒムの肩がびくっ、と震える。そこに込められた私の感情が直接伝わってしまったように。
「茶番だなんて……そんなわけ、ないでしょう……っ!!!!」
ぎゅう、とシーツを握りしめる。掌の中でぎしぎしと布が軋む音さえも聞こえるようだ。
――――私は怒っていた。
――――私は悲しかった。
茶番なんて、そんなことを言って欲しくなかった。
嘘だなんて、そんなふうに思って欲しくなかった。
例え言葉の弾みでも――――貴方にだけは決して。
「そうですよ!!!!逃げようとも思えばいつでも逃げられましたよ!!!!出ようと思えばいつでも出られましたよ!!!!
でも、でも……っ!!!!でもっ!!!!!それでもっ!!!!!
私は言葉を吐いた。怒鳴った。
胸の内側から泥を吐くような思いだった。
重いものを吐き出すような爽快感――――はなかった。
本当に、反吐を吐くような気分だった。
腹の奥が、胸の奥が酸っぱくて――――辛い。
「だって、だって、だって――――ヨアヒムがいるから。
ヨアヒムがずっと一緒にいてくれるのが、嬉しかったから……っ!!!!」
そこまで言い切った瞬間、目の端から何か熱いものが零れ落ちた。
ぽろり、と涙が一滴、頬を伝って落ちる感触がする。
目の奥が熱くて、鼻の奥がつんとする。
「えっ、えぅっ……っ、ふぅっ、ぅっ、えぐっ……!!」
そこからはもう駄目だった。一滴の雫で堰が壊れてしまったようにとめどなく、後から後から涙が溢れて止まらない。
必死で抑えようとしても、掌に掬った砂が零れ落ちていくようだ。どうやって留めればいいのかわからない。
今まですっとすっと、溜め込んでいたものが熱い水の形になって私の中から垂れ流されて、その止め方がわからない。
ヨアヒムの前では泣いていいと、そう思っていた私だけど――――こんな涙は流したくなかった。
腹立たしくて、そして悲しかった。ヨアヒムが私の事をわかってくれていなかったのだと、そう思うと濁流のように怒りと悲しみが湧いてきた。
「ヨアヒム、言ってましたよね。自分の事を恨んでくれて構わないって」
「……あぁ、言ったとも。恨んでくれていい、憎んでくれていい、嫌ってくれていい。それでもオレは――――」
「えぇ……結局、無理な話でした。私は最初から最後までずっと――――あなたの事が大好きなままでした」
目線の先で、ヨアヒムが軽くぐらつく。
側頭部をがん、と殴られたように。
ここに最初に監禁されたとき、私は彼にそう言われた。
嫌ってくれても構わない、それでもお前をオレのモノにする、と。
彼には自覚があったのだろう、これは相手に一生恨まれても仕方のないことだと。
普通ならそうだ。裸にひん剥いて、首輪をつけて、排泄も食事も管理して、いやらしいことをたくさんして、頭がバカになってしまうくらいに調教して……。
でも、それでも――――私には無理だった。
私は彼を嫌いになることはできなかった。
「私は――――私は、本当は嬉しかったんです。ヨアヒムがそこまでして私を求めてくれることが、こんなに激しく私を求めてくれることが……。
愛されるのが、嬉しかった。愛してくれるのが、嬉しかった……っ!!」
それが、その事が私にとっての真実だった。
好きな人が私を好きでいてくれること。
愛している人が私を愛してくれること。
情熱的に、熱狂的に、狂気的に、
檻に閉じ込めて、鎖を架けて、
縛って、躾けて、壊してでも。
そこまでして私を求めてくれることが――――この上なく嬉しかった。
……だから、つい私は甘えてしまったのだ。
いつでもこれを終わらせることができる手段を持っていながら、
いつまでもこんな関係を続けるわけにはいかないと思っていながら、
あと一日、もう一日と、ずるずると、だらだらと、先延ばしをして。
この甘ったるい
「だから、お願いです……。これだけは、疑わないでください。私が貴方を好きだっていうことだけは、それだけは、それだけは信じて下さい……」
だからこそ、茶番だなんて言って欲しくはなかった。
ヨアヒムは私を壊そうとしていて……私は壊れなかったどころか、いつでも彼を出し抜けた。
それだけ見ればとんだ茶番だったのかもしれないけれど……それでも。
それでも、嘘ではない。嘘ではないのだ。
私が自分の意志で貴方と一緒に堕落することを選んだ日々は――――嘘ではないのだ。
たとえそれがどうしようもない私の罪科だったとしても、私がそうすることを選んだのは事実だから。
だからヨアヒムの言葉が腹立たしかったし、悲しかった。
私の想いが、否定されたようで。
私の思いが、
「なら――――それなら、
「――――っ」
その言葉に、今度は私が肩を震わせる番だった。
飾り気のないシンプルなデザインだが、そこに込められた意味は誤魔化しようもないほどに明確だ。
……結婚指輪。
幸福と未来への片道切符のようなそれを、しかし、私は手に取ることができなかった。
「ヨアヒム……。それは、それだけは無理なんですよ。ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
「なんでだ。どうして……」
「これ以上は――――これ以上私達が一緒にいたら、私はきっと貴方を
「な――――、」
彼の眼が見開かれる。
驚愕と緊張で瞳孔が散大する様も、ほんの僅かに脈拍が早くなるのも、肌に汗が滲むのも――――その全ての変化を私の五感は克明に捉えていた。
……感覚が肥大する。感覚が拡大する。
意識が刃を研ぐように鋭くなっていくと同時に、認識が自分のいる空間を丸ごと掌に納めるように広がっていくのがわかる。
もう既に
その動きはなんとも言えない心地良いものだった。
「……本当は少し、期待していたところもあったんです。ここでずっとヨアヒムに監禁されて、調教されて、飼育されて……貴方の事しか考えられない雌奴隷、
それは事実だ。
愛されるのは嬉しかった。愛に溺れるのは心地よかった。
ここにはヨアヒムがいて、私がいて、二人が愛し合っているのなら何の不都合があるんだろうかと、そう思ったのは確かだ。
これがずっと続くのなら――――そのままで、それでいいんじゃないだろうか、とそう思ったのも事実だ。
そして、それはほとんどうまくいきかけていたのだ。
そう、
「でも、それでも駄目でした。貴方のこと以外考えられない、貴方に愛されること以外考えられない。そこまで頭がバカになっても――――そこまで自分自身を削ぎ落しても、まだ消せないものが残っていたんです。」
顔を上げて、ヨアヒムのことを正面から見据える。
地下牢に落ちる埃の一粒さえ見分けられそうに鋭く、広がっていた私の感覚が――――彼に向って集中する。
彼の体がびくん、と跳ねるのが見えた。
その際の筋肉の不随意な動きも、その動きを齎した神経のパルスも、内分泌の変化も、早まる脈搏と血管の広がりも、酸素を取り入れるために活発化する肺の運動も――――全部全部、私には手に取るようにわかった。
今の彼はどんな気分だ?
解剖台に乗せられて生きたまま腑分けされている蛙の気分か?
虎の口の中に丸のみにされて舌の上で転がされている鼠の気分か?
彼の全身が示している『恐怖』の
「私は、私は……っ。結局のところ、そういう人間だったみたいです。
それはあの月の夜に、山賊の男と殺し合った時に産まれた自覚だった。
ただあの時は、「自分を殺したものを殺し返さずにはいられない」という激烈な怒りと復讐心から生まれたものだった、と思っていた。
……本質は違う。違っていた。
私が本当に怒っていたのは「私が生きることに対しての邪魔」という概念だった。
私が生きること、つまりは私自身の選択、私自身の自由を侵害するものを私は生かしてはおけないというのがその本質だ。
あの時は、『生きる』というシンプルな権利を侵害されたからあそこまで激昂していたのが本当の所だった。
そして、今は。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。貴方は前に言ったみたいに、……私が勝手にどこかに行って、どこかで戦って、どこかで誰かを殺して……そういうのをしてほしくないんでしたよね」
「――――ぁ、あぁ」
微かに恐怖に震えながらもヨアヒムはそう首肯した。
私に傷ついて欲しくない、私に誰も傷つけて欲しくないと彼は言っていた。
彼に無断で出て行って、そこで死体を晒したのは私だ。そこには責任を感じている。
……ただ、それでも。
「ごめんなさい。それでも私はやっぱり……これ以上
――――例えそれが貴方のものでも」
私は、ベッドの上に四肢を這わせて彼の方へとにじり寄った。
シーツが擦れる衣擦れの音さえ立たなかった。
そうやって静かに
……結局、それが私の本質だった。私はどうやってもあの日の夜に感じた昂揚を忘れられない。
命を一方的に踏み躙って殺し尽くす冒涜的な全能感、強大な敵を相手に自分という命を全霊で燃やし尽くす疾走感。
構えた弓に矢を番えて弦を弾く。肉が弾けて血が飛沫き、臓物が飛び散る。
そんな戦いの興奮が私という人間の奥底にこびりついて離れない。
快楽と官能の中で、自分自身の人間性を削ぎ落して、削り落として、切り落として――――そうやって出てきた地金に残っていたのは、そんな真っ赤な死と殺戮のイメージだった。
「勝手なことを言っていると思います。自分でも無茶苦茶なことを言っていると思います。……でも、ごめんなさい。そろそろ私、
そして、閉じ込めてきた私のそんな暴力的な衝動はもう限界だった。
地下牢。岩盤の天井。首輪。鎖。拘束。束縛。
草木。鳥獣。虫。消えた緑と灰色のコンクリートがフラッシュバックする。
埋め立てられる前に殺せ、と頭の奥で声が聞こえる。
「る、る、るっ、る……っ!!」
喉の奥から音がする。
くぐもった、潰れるような声。
獣のような、唸り声。
吠えろ、吠えろ、と本能が囁いている。
「――――――――かひゅ……っ!!」
――――私はヨアヒムの首を絞めた。
彼の口から掠れた声が漏れる。
私の片手が、彼の喉笛を握りしめていた。いや、握り締めているというよりは食い込んでいた。
私の五本の指の、その先の爪が彼の首の皮を引き裂くかのようにギリギリと食い込んでいるのだ。
指と爪は気道と動脈をかろうじて外していた。
だがこれは慈悲でもなんでもない。気道を塞げば窒息で死ぬが、血管を圧迫すれば血流を遮られた脳が勝手に意識を失う。
そんな死なせ方は
私は血が見たいのだ。この男の喉笛から血が吹き出る様が見たいのだ。真っ赤な、真っ赤な、真っ赤な血が噴き出すところを見て、その噎せ返るような鉄の匂いに包まれて、命を奪ったことを実感したいのだ。
「――――――――――――っ!!…………っ!!!!」
だから爪を立てる。皮膚を裂いてその下の頸動脈を引き裂くように爪を立てる。
音速でかっ飛ぶ矢を放つ、そんな弓を手繰る私の手の握力は相応に高い。
大して防御力の高くない一般人の皮膚と血管なんて、その気になれば
鑑定スキルと感覚スキルでもそれがわかる。私の手はこの男の命を容易く奪い去ることができるのだ。容易く殺すことができるのだ。
そうだ殺す。殺す、殺す、殺す。
誰も殺して欲しくないし殺されたくないなんて悲痛な顔で頼み込んでくるから殺すのを我慢してきたけどいい加減にもう我慢の限界なのだ。血が見たい、暴れたい、駆けまわりたい、戦いたい、殺したい。それを邪魔するというのならやはりは猶更のこと殺さなくてはいけない。私は生きているし生きているからには生き続けたいし、生きていると実感するからには自分の意志で生きていないと意味がない。だから邪魔をする者は殺すのだ。殺したいと思ったら殺す。殺すのを我慢しろというのならやっぱり殺さないといけない。
ほら、簡単だ。赤子の手を捻るように簡単だ。
今、爪を立てているこの手に力を込めて、
力を、込めて――――、
「――――――うっ、うっ、うっ、ぅ゛、うっ゛……っぅぅぅぅぅ…………!!!!」
力を、込められなかった。
私の手は、彼の首元の皮膚の上に食い込んだまま……震えながらも、動かなかった。
代わりに別の所からメキメキメキ、という嫌な音が聞こえた。視線を動かなくともわかる。自分の事だ。
もう片方の手がシーツを握り締めている音だ。いや、より正確にはシーツではなく、その下のベッドそのものに指が食い込んで、その部分を握りつぶしているのだ。
「……………………リ、オ……っ!!」
「――――あっ……」
ヨアヒムの声で我に返って、手を離す。
本当に「我に返る」、という言葉が正しかった。
私は、まさしく自分自身を見失っていた。
「は、ぁ……っ、はぁっ、はぁ……っ!!」
荒い呼吸はどちらのものだったか。私もヨアヒムも、先ほどまで呼吸すら忘れていた。
吸い損なっていた酸素を補うように、私たち二人の肺が激しく動いて空気を取り込む音が木霊する。
私は息を繰り返しながら、自分自身の手を見下ろした。
小さな掌と細い指――――彼の首を締めあげていた感触の残る、私の手。
それは誤魔化しようのない手触りだった。皮膚一枚隔てた所にある、爪の先に当たる頸動脈の感触、柔らかいとさえ言える肉の手ごたえ――――それらが、忘れようもなく、掌の中に残っている。
いつでも殺せたぞ。思うように殺せたぞ。どうして殺さなかった。
あまりにも
――――
「……………………リオ、お前は……お前は……っ」
「……ヨアヒム」
ヨアヒムの方へと向き直る。
私を見つめる彼の瞳には恐怖の色が――――怯えの色があった。
はぁ、はぁ、と息を吐きながら冷えた汗に体を濡らし、心臓を痛いほどに脈打たせているのがわかる。
まるで、虎に睨まれた小動物のような怯えぶりだった。
そして、それを見て
私は、私が思っているよりもずっと
「ヨアヒム、わかりましたか?私、こういう人間だったみたいですよ」
自虐のあまり、思わず頬が緩む。
戦いたい、殺したい、この世界で自由に思うがままに――――などと、その言葉の本当の意味を私は全然わかっていなかった。
自由にするというのは私という
私は当たり前のように人を殺すことを嗜好するし、それを妨げるものも当然殺す。
――――そして、その対象はどうやら
なんていう悍ましい生き物だ。
これなら、彼に怯えられるのも、無理はない。
「だから、ヨアヒムごめんなさい。指輪は受け取れないです。これ以上一緒にいたら私、貴方を殺してしまいそうなんです。
私は、貴方の事を殺したくないです。――――愛しているから」
それは私に残った最後の欠片だった。
余計なものを、人間性を削ぎ落し続けた結果残った最後の二つ。
つまりは殺意と愛情。リオ・オーガスタを形作るモノの、一番深い底にある互いに反発し合うもの。
愛してるけど、殺したい。
殺したいけど、愛してる。
――――だから、殺さない。
――――今はまだ、そういう選択ができる。
――――そうだ。今は、まだ。
「オレもだ――――お前を、愛している」
「えぇ、ありがとうございます。私も、大好きです」
好き、大好き、愛している。
きっと今まで何回何十回、何百回何千回と言ってきただろう睦言。
甘くて、甘酸っぱくて、胸の内が張り裂けそうに切なくて、それでいて幸せになれるはずの魔法の言葉。
でも今は何処か、伽藍の堂に響き渡る木霊のような、空しい虚ろな印象が拭えなかった。
きっとそれはヨアヒムの表情から恐怖の表情が拭い切れていないからかもしれないし、私の頬にどこか冷えた笑みと涙の痕が張り付いているからかもしれない。
……私達はお互いに掛け違って、すれ違ってしまった。
それでも掛け違えたまま、すれ違ったまま、いつかどこかで帳尻を合わせることができるんじゃないかなんて、そんなことを夢見ていた。
でもそんな甘い奇跡は起こらず、食い違った違和感はそのまま大きくなり続けて広がり続け、当然のように深い溝が……或いは断層が生まれてしまっていた。
噛み合わずに擦れ合い続ける
「だから終わりにしましょう、私達」
間違えたままでは幸せにはなれない。
それを放置し続けた
根底に存在する戦いたい、暴れたい、殺したいという殺意が一つ目。
自分の行動を阻害する者を殺し返すという殺意が二つ目。
『殺すな』という禁止行為は殺意のトリガーを二重で引くことになる。
血の味を覚えた虎を檻に戻して躾け直しても、無垢な子猫には戻れない。