「…………」
左腕をかざして、手首につけた端末で時間を確認する。
現在時刻は夜10時、これくらいの時間になれば何か特別用事がない限り大抵の人は寝ているだろう。
それを見計らって私はベッドから体を起こした。
メリィが帰るのを見送った後、特に何事もなく私は夕食を食べて自室に戻った。
まともに椅子に座って机に向かい食器で食事を摂るのも久しぶりの事だった。地下にいた頃はもっぱらヨアヒムに食べさせてもらっていたから。
一月ぶりに横たわる自室のベッドは不思議な感覚だった。シーツは体を預ければふわりと沈み込み、掛布団と枕からは日向と花の香りがする。
ここに客人として滞在していてすっかり慣れ親しんだはずなのに、随分と新鮮さと
地下牢のベッドの二人の体液と体臭が染みついたあの饐えた香りが、今もまだ私の脳裏に沁みついていた。
スイッチを弾くぱちん、という軽快な音と共に魔石式ランプに火が灯る。
私は無言で部屋をゆっくりと見渡してから、引き出しを幾つか開いていった。
部屋にあるものは私が最後に使っていたままに残してもらっているようだった。
服や化粧品の類はきちんと整理整頓されているのは解るが、図書室から借りてきた本も置いてあるのは少し可笑しかった。
どうせ借りものだったのだから戻しておいてもらっても良かったのだが、何だか申し訳なかった。
「…………」
そして私は――――少し逡巡してから、引き出しの中にあるものを一つ手に取り端末のアイテムボックス内に押し込んだ。
勿論、入れるものは選り分ける。何から何まで全部持っていけるわけではないのだから。
そもそもここにあるものは大体が私の為に買い与えられたもので……屋敷の人々の厚意なのはわかるが、ただただそれに甘えて全部懐に入れるのには罪悪感があった。
「……ごめんなさい、ひょっとして、起きてる?」
そうして
私がそれを意識したのは、コンコンコン、という控えめなノックの音と壁越しの聞き慣れた声が聞こえたときだった。
いきなり声をかけられたことに驚いて、肩が反射的にびくんと跳ねた。
その上で声が
そして悩んだ上でドアを開けることに決めた。
「……アンネ、さん」
「こんばんは、リオちゃん。ごめんね、部屋に明かりがついてるのが見えたから……」
そこにいたのはアンネだった。
あまり見たことがない私服の寝間着姿のまま、おずおずとドアの隙間から顔を出している。
なるほど、私の部屋の明かりが見えたというのなら何故ここに来たのかという疑問は解ける。
だが、それは同時に彼女がついさっきまで起きてこちらの部屋に視線を向けていたということを意味している。
……おそらくは、彼女も眠れなかったのだろうか。
そして彼女は扉と私の体越しに部屋の中に目を向けた。
その視線の先にあるのは、開け放たれた引き出しと手近な机の上に並べらえて分別されている途中の衣類や小物類だった。
それに気づいた彼女の眼が、微かに丸くなる。
「――――荷造り、かしら」
「……はい」
「
「…………はい」
「……入っても、いいかしら?」
彼女の言葉に対し、無言で戸を開いて招き入れることで答えた。
アンネはスリッパの音を小さく立てながら入り、静かな面持ちで部屋の中をきょろきょろと見回した。
掃除の前に部屋の中を目視で点検するような、そんなごく自然な様子だった。
その彼女を横目で見ながら私は消え入りたくなるような恥ずかしさを感じていた。穴があったら入りたいという気持ちだった。
――――彼女の言う通り、私は今夜ここを出立するつもりだった。
世話になったアンネにそのことを言わずに、勝手に出ていくことを決めたことに対する罪悪感は勿論ある。
……だが、それ以上に引き留められたらと思うと、その方が怖かった。
彼女に「行かないで」と訴えられた場合、それでも決意が鈍らずにいられるかという自信はなかった。
そして私は……これが卑怯な行いだということも理解している。
要は、彼女に相談するという行いから逃げたに過ぎない。
私が何も言わずに去った後に残された彼女がどう思うかだとか、そういうことを想像しなかったわけではないが、それでも――――それから逃げることを選んだのだ。
私は、卑怯な人間だった。
「手伝いましょうか」
「えっ……?」
「うん、
いたたまれない想いでアンネが何を言うのか、目を背けたくなるような苦しい気持ちで待っていた私だが、かけられた言葉は思いもよらないものだった。
てっきり叱られもするのだろうと思っていた矢先にそんなことを言われてぽかんとしてしまう。
アンネはいつものように日向のようにパッとした明るい笑みを浮かべると、それ以上は特に何も言わずに荷造りに協力してくれた。
厨房から持って来てくれた簡単な保存食一揃いと、風呂場から持ってきた入浴道具一式を手渡される。
他にも衣類を纏めて入れて管理しやすくなるように、トランクの類も用意してくれた。
「あの……」
「どうしたの?リオちゃん」
「怒っては、いないんですか」
「んー……怒ってるか怒ってないかで言えば、ちょっと怒ってるけど」
「……です、よね」
「でも、メリィさんとの話を少し聞いちゃったから……もう、私からはどうこう言わないわ」
「……」
いたたまれなくなって、服を畳みながら大きなカバンに丁寧に仕舞っていく彼女に声をかける。
勝手な真似をしたはずの私に対して、アンネはあくまでも穏やかな口調でそう答えた。
「ただ……今晩たまたまでも、間に合って良かったって思う」
「……」
「もしも最後に何も挨拶できなかったら、きっとずっと後悔してたもの。だってほら、
「……ごめんなさい。何も、言わなくて……」
「良いのよ。リオちゃんが気に病むようなことは何もないの」
そう言って彼女は――――少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
客人。確かに私のこの屋敷での待遇はそういうものだった。
だからいつの日にか、『客』がここを離れていくのは仕方のないことなのだと、彼女はそう言った。
それ以上、彼女は何も言うことは無かった。
その心遣いが、気遣いが、私にとっては有難く……結局最後まで彼女に甘えてしまった。
それからは多くを語ることはなく、私達は出立の準備を整えていった。
必要なものを端末のアイテムボックスに仕舞い終えて――――最後に残ったのは私自身の着替えだった。
この世界がゲームだった頃から使っていた装備一式、それらはきちんと手入れされた状態でクローゼットに納められていた。
それとここで暮らし始めてから揃えた下着や化粧品、整然と並べられたそれらを一つ一つ身に着けていく。
上下揃いのブラジャーとショーツ。控えめながらも華やかなレース飾りが女性的で綺麗な作りだった。
それと一緒にガーターベルトを腰に留め、ショーツの端から吊り紐を出してストッキングの上端を留める。
白いブラウスは糊が効いていてパリッとした手触りだった。襟元にリボンを巻いてタイにする。……締めるとき、意識的にきゅっと強く引っ張る。
スカートとジャケットは
黒い絹の手袋を嵌め、黒い革靴を履いて調子を確かめる。
服を着る一連の流れもアンネがずっと横で補佐してくれていた。
他人に裸を見られたり、着替えを介助されるなんて言うのは子供のころ以来だったはずなのだが、思えば随分と慣れてしまったものだった。
服に乱れがないことを確認してから私は椅子に座り、アンネに私の髪を任せた。
彼女の小さい手の中の櫛がゆっくりと私の髪を
一梳き一梳き丹念に櫛が通されていくその感触が心地よい。
しゅるり、しゅるり、と絹糸を解すような音だけ静かに響く。
腰まで届く金糸の髪を梳き終えた後は、化粧の時間だった。
睫毛を整え、
小さなランプの照明だけが灯る夜の部屋の中で施される一連の工程はある種の儀式のような趣があった。
……いや、これは実際に一つの儀式なのだろう。
私と彼女のための、別れの儀式。
「……うん、できたわ。鏡見て頂戴。変なところない?」
「はい……大丈夫です。ありがとうございます。いつも、ありがとうございます」
「ふふっ、いいのよ。――――この後、会う人がいるんでしょう?それじゃあ、ちゃんと綺麗なリオちゃんで会いに行かないと」
「……わかりますか」
「美容のためには夜更かしは推奨しないけどね?」
さっき使った化粧品を纏めたポーチを手渡しながら、アンネが悪戯気にウィンクする。
この後に私が何をする予定なのか、それを言い当てられたことに少し驚くと同時に、後ろ暗い思いが去来する。
隠していたことを知られたり、指摘されたり、何かしらの形で暴かれるのはどうしようもない羞恥を伴うものだった。
「さっきも言ったけれど、こうして最後にご奉仕できて本当に良かったわ。
これだけは覚えておいてリオちゃん。私はあなたに置いていかれるんじゃない。――――自分の意志で、胸を張って、あなたを送り出すのよ」
そう言って彼女は私の手を取って、椅子から立ち上らせた。
手袋の布越しに感じる彼女の手は私より一段と小さい。けれど……大きく温かいものに包まれているように、私は感じた。
罪悪感に胸を焼かれそうになりながら、私は顔を上げて何とか彼女と目を合わせた。
心が苦しいのは確かだけれど、感謝をしているのは本当だから。
ごめんなさい、ありがとう、とそんな言葉が胸の奥でぐるぐると渦巻いて視界が揺れていた。
私を目を真っ直ぐに見つめるアンネの明るい琥珀色の瞳は微かに潤んでいて、それでも確かな意思を持って微笑みを形作っていた。
「いってらっしゃい、リオちゃん。あなたの心からの幸福を、いつかきっと見つけられますように」
******
アンネに送り出された後、私は粛々と夜の屋敷の廊下を歩いていた。
既に初夏になる季節だが窓から差し込んでくる月明りは冷え冷えとした銀色で、どことなくひんやりとした質感を感じさせる。
静まり返った屋内には私の革靴がふわりとした絨毯を踏みしめる音だけが……いや、隠形スキルの恩恵でその音さえもしない。
音もなく気配もなく、誰に気付かれるようなこともなく歩く私は幽霊のようだ。
……本当に、そうなれれば良いのに。
霞のように誰にも気付かれずに消えてしまえればきっと楽なのに。
絨毯が柔らかすぎるのか、それとも思考が浮ついているのか、ふわふわとした足取りが自分の事だというのに何処か現実感が薄かった。
くっきりとした窓枠の影を床に落とす、月明りだけが私の世界で鮮明だった。
「…………」
ぼんやり、とどこか夢でも見ているような気分の中で私は目当ての部屋の前に辿り着いたのを理解した。
はぁ、と溜息を一つ吐く。
そんな鼓動の重さに肺の空気が押しやられたかのような、淀んだ溜息だった。
「……夜分遅くに失礼します」
ノックを数度してから、声をかけて中に入る。鍵は掛かっていなかった。
既に時刻は深夜だが中にいる人間が起きているのは扉越しに既にわかっていた。
あぁ、もしも寝ていたのなら、それを言い訳にして何も告げずに行けたのかもしれない。
だが、目が覚めているのなら、それを置いたまま行ってしまうのは躊躇われた。
話をしたいようで、したくないとも思える
けれど彼にだけは――――しなくてはならないのだろう。
お互いの、けじめとして。
「こんばんは、良い夜だな」
窓際に立って夜空を眺めていたヨアヒムが、私の方へとゆっくりと振り向いてそう答えた。
その光景に、
だが、あの日の晩と違うのは、暖炉に火が灯っていないことだ。
雲一つ見えない夜空を望む窓際から、青い銀色の月光がそのままヨアヒムの寝室に差し込んでいる。
人の手による光がない暗い部屋の中に佇む彼の姿は、明るい所で見るのとはまた違った神秘的な美しさを感じさせた。
すらりとした体躯が月明りの眩さの中に映えて神秘的で――――儚く、見えた。
「月見ですか」
「あぁ、眠れなくてな」
私は勝手知ったるという風に彼の近くにまで歩いていった。同じ窓辺、同じ月明かりの下へ。
見れば彼は寝巻に着替えてさえいなかった。最初から寝る気もなかったのだろう。
私がこうして訪ねなければ、一晩中起きていたのだろうか。
「「……」」
無言のうちに見つめ合う。空気が揺蕩う様が目に見えるような、奇妙な沈黙が下りる。
私はじぃっ、と彼の顔に視線を向けた。彫りの深い顔立ちに月光が複雑な陰影を描き出している。
こうして見ると少し痩せたかな、と思う。あまり健康的でない感じの痩せ方だった。
その
その様が痛ましくて、何とかしてあげたいな、という気持ちが込み上げてくる。
……だが、私にそのような資格はとうになかった。
だから私は彼を撫でるために手を伸ばすのではなく、その代わりに口を開いた。
「――――お別れを言いに来ました」
「……っ」
その言葉を聞いたヨアヒムが、一瞬肩を震わせて息を呑む。
痛みを感じたような……いや、ような、ではないだろう実際に傷を受けたという反応だった。
私は、彼を傷つける。傷つけている。
その事は逃れようのない事実だった。
胸が、痛い。
「……本当に、無理なのだろうか。考え直せるような余地は、何処にもないのだろうか」
傷の痛みに耐えるような渋い表情を作ってヨアヒムがそう問いかけてくる。
そして、彼の腕が私を抱くように伸ばされて――――、
「触らないでください」
「……っ」
「触られたら、きっと、決心が鈍りますから……」
――――私はその手を拒絶した。
振り払ったのは彼の事が嫌いになったからではない。
むしろ今でも好きだ。大好きだ。
叶うのなら彼の腕の中に飛び込んでいきたい。そのままぎゅうっ、と抱きしめて貰ってその胸板に顔を押し付けてその体の熱を感じたい。
キスして欲しいし、可愛いって言って欲しい。髪を撫でて、頬を撫でて、耳元で「愛してる」と囁いて欲しい。
そして叶うのならば――――いっそのこと服を脱ぎ捨てて裸になって、互いの体を貪るように抱き合って一つになりたい。
ぐちゃぐちゃになって、めちゃくちゃになって、どろどろに溶け合って、そのままずっとそうしていたい。
「ヨアヒムは私を抱きしめたら、そのままずっと離さないでしょう?……だから、余計に、駄目です」
「君は――――幸福であるよりも先に、自由でありたいと、そういう事なんだな」
「……あぁ、なるほど……。そう言われれば、確かにそういう事なのかもしれないですね:
私もヨアヒムの事を愛していて、ヨアヒムも私の事を愛してくれている。
その事に疑いはない。けれど……だからこそ、私達はきっと一緒にいたらダメになってしまう。
ヨアヒムは私をずっと手の中に置いておきたいと思っている。そう言う形でしか、彼が私に抱いている愛情と
でも、私はそれをいつまでも受け入れるようなことはできなかった。
彼が言うように、私は自由な生を諦めることができない。
私の自由は私自身が思うままに生きることだ、求めるままに生きることだ。
その中には当然、彼が私に絶対してほしくないと思っているようなこと――――戦うことや傷つくこと、殺したり、殺されたりすることも含まれているだろう。
だからヨアヒムは私の自由を容認できないし、私もヨアヒムの束縛を我慢できない。
そして私の我慢がいつの日か限界を迎えたときに待っているのは――――真っ赤な血で染まった、破滅だけだ。
「騙し騙し、っていうのも考えてみたんですけど……多分、それも駄目です。もう私の中でヨアヒムの事が好きだっていう気持ちと、閉じ込められるのが我慢できないっていう気持ちが、一緒くたになってて訳がわからないんです」
ヨアヒムの事を愛しているのは本当だ。
だが、あの地下室で愛し愛される関係を続けるために、自分の中に押し込め続けていた
愛情というピストンで、殺意という内容物を心の奥底に留め続けていた結果……二つはそのまま圧着されて不可分になってしまっていた。
好きな人を好きだという気持ちのまま、愛のままに殺してしまいたくなる。
今だって、愛おしいこの人の喉を食い千切ってしまえればどんなに爽快だろう、と頭の奥でそんなことを考えている自分がいる。
そんな発想に、そんな思考に――――心底ぞっとする。
「とにかく、確かなことは――――このままだといつの日にか、あなたの事を殺してしまいそうだっていうことくらいです。だから……」
「……そうか、わかった。辛いことを言わせたな。オレが悪かった」
「あなたのせいじゃ……」
「いや、オレのせいだ」
ヨアヒムは存外強い調子で私の声を遮った。
彼の顔を見れば、そこには強い後悔の念が渦巻いていた。
項垂れるようなその佇まいは、まるで罪状を自ら述べる裁判所の被告人のようだった。
「オレは……本当は、もっとお前と話すべきだった。話し合うべきだった。
「それを言うのなら私だって同じですよ……。私はもっと強く拒絶するべきだった。いや、
「それもお前のせいじゃないだろう。オレがお前に、自分の思いを押し付けた。お前に無理な我慢を強いた」
「違う……違うんです。あなたに愛されるのが嬉しくて、嬉しすぎて、それに甘えてしまったんです。このままじゃいけない、って本当は解っていたのに……それで、こんな取り返しがつかないところまで……っ」
私達は互いを庇うように、或いは自らを罵るように、言葉を出し合った。
口を突いて出るのは後悔ばかりだった。ああすればよかった、こうすればよかったなどと、もう過ぎ去ってしまった時点の話なのに、飽きもせずに。
私達は致命的に食い違っていて、掛け違ってしまっていた。
だが掛け違えていたとしても、深く深く結びついていたのは事実だった。
懺悔の言葉はその結びつきを無理矢理引き剥がしていくようだ。
ばりばり、と皮膚が破けて肉が千切れ、心が血を流すような錯覚がする。
その血の味は、何処までも苦かった。
胸が抉れるような、鉄錆のような苦さだった。
「でも、あぁ……そうですね。私達はお互いに……最初から本音を打ち明けるべきだったんです。恨むとか嫌いとか、そういうのじゃなくて……文句を言うべきなのはそこ、でしょうね……」
「あぁ……文句があるのなら、罵倒の言葉の一つでも言っておくれ。そうすればオレも心が軽くなる」
「――――うぅん、無理ですよ。流石にそういうのは言えません」
「どうしてだ?」
「だって、好きな人に酷いことは言えませんよ」
「……」
ヨアヒムは断罪を望んでいるようだった。彼も自分で自分の事を許せないのだろう。
確かに私が罵倒の一つでも飛ばしたら、彼は少しは楽になれるのかもしれない。
でも何かそういうことを言おうとしてもうまく舌は回らなかった。
私にも自分に非があるという負い目があるから、というのもある。
でもやっぱり、
丁度私が、ヨアヒムの喉に爪を突き立てて――――最後までそれを引き裂くことができなかったように。
「ヨアヒム。私はあなたの事が好きです、本当に大好きです。――――愛しています」
レースのカーテンに飾られた窓から差し込む月明りが、煌々と私達を照らしている。
窓辺に立ちながら、私はそれをとても綺麗だと思った。
月光を遮るような雲もない見事な月夜で……とても、
「あなたが私の事を好きでいてくれることを知っています、愛してくれていることを知っています。――――そして、その事が私にとってはこれ以上なく嬉しいことでした」
あぁ、本当にその通りだ。人を好きになること、人に好きになって貰うこと。
それがこれほどまでに、胸が張り裂けそうなほどに嬉しいことなのだというのは、あなたが私に教えてくれたことだった。
口を開くごとに思いが吹きこぼれそうになる。
胸の奥が甘酸っぱくて、喉が震えそうだった。
「でも私達は二人とも間違えてしまいました。あなたはもっと最初から胸の内を打ち明けるべきで、私はあなたに甘えるべきではありませんでした。あなたには酷なことだとは思っていますけど――――あなただけが悪いと言って、罪悪感を清算してあげることはできません
例え間違っていたとしても――――やっぱりあなたがそこまでして私を愛してくれたという事実が嬉しかったから」
ヨアヒムは沈痛な面持ちで私の言葉を聞いている。
確かに一思いに「あなただけが悪い」と言ってあげれば、いっそのこと楽になるのかもしれない。
そうやって自分一人で罪を背負い込んで罰を受けることが彼にとってはむしろ救いなのかもしれない。
でも、ああいう風に強引に迫られるのが私は本当は嫌ではなかった。最初はショックを受けたけれど、受け入れたのはやっぱり自分の意志だった。
体と心に刻み付けられた彼の愛の証はきっと消えないだろう。消えてくれるな、とさえ思う。
毒と蜜で全身を煮られるかのような、焦げ付くように熱く甘く狂おしい愛欲の日々は――――確かに私が、私達が望んだものだった。
「だからこそ……だからこそ、もう終わりにしないといけません。
私達――――いや、『私』はあなたと一緒にいることはできないのですから」
そこまで言って、ぽろりと涙が一滴頬を伝う感触がした。
ああ、嫌だな。折角、綺麗に化粧をしてもらったのに崩れやしないだろうか。
わかっていてもやっぱり、こうして別れを口に出すのは辛かった。
きしきし、と心が軋む音がする。泣きそうなほどに痛い。
ヨアヒムがその右手をそっと伸ばした、私の涙を拭うように。
だが結局、彼の手は行き場を失くして虚空を彷徨うばかりだった。
彼もわかっているのだろう。手を伸ばして触れたのなら、そのまま私の事を掴んで離さないだろうということは。
そうやって抱きしめて、抱きしめ合って解決する問題では最早ないということも。
「私はあなたの事が好きです、大好きです。愛しています。――――それだけは、本当の事なんですよ」
最初に言ったことを改めて繰り返す。そう、このことだけは本当なのだ。
例え、どれだけ間違った道に迷い込んでしまったとしても――――私がヨアヒムを好きになったこと、その事が間違いだとは思いたくはなかった。
私達が出会ったこと、愛し合ったこと――――その事は決して、間違いじゃないと思いたい。
だから私はせめて笑顔のままに、こう付け加えた。
「さようなら、そしてありがとう。
――――あなたが、私の初恋でした」
******
私は、窓から直接外へと出ていった。
屋根瓦を蹴って、壁を伝いながら直接庭へと降りる。
屋敷の周囲を囲うように一面に生え揃う芝生はよく手入れされており、革靴の下でさくりと新雪を踏むような音を立てた。
立ち上がって歩き出せば、夜の空気が肌を撫で、髪を靡かせていった。
鼻を鳴らすように息を吸えば濃い緑の香りを感じられた。青々と草が茂る夏が近づいているのだ。
屋外で感じる夜風には、ほんのりとした水気を感じられる。
春先よりも僅かに上がった湿度の手触りだ。
空気の感触とは裏腹に夜空に浮かぶ月は冴え冴えと輝き、その明かりは鋭さや冷たさを感じさせる。
なにも浮かぶものもない中天に佇むそれは、暗幕で覆われた空の真ん中に掲げられた特大の照明のようだった。
「……っ」
そんな煌々と灯る月の下、庭先を黙々と歩きながら私は幸福な夢を幻視した。
その夢が
ただ、それはきっと一つの幸せの形なのだろうということだけは解った。
燦燦と明るい太陽に照らされる庭先に、多くの人々が集まっているのが見えた。
人々は思い思いの整った服を纏い、その誰もが笑顔だった。
そんな人たちが笑顔を向ける先には一組の男女がいる――――私とヨアヒムだ。
私達が身を包んでいる衣装は雲のように白く、無垢のように白い……ウエディングドレスとタキシードだった。
純白のドレスに身を包んだ私ははにかむように、それでいて照れくさいような笑みを浮かべて、左手をヨアヒムに向かって差し出した。
私の薬指にヨアヒムが恭しく指輪を嵌め――――ヴェールを上げて私の唇にキスを落とした。
観衆の拍手と口笛が鳴る中、私はヨアヒムにお姫様抱っこされながら、ブーケを空高く放り投げる。
そして人々の歓声と鐘の音が響き渡る。輝かしい晴天の日の、
――――そんな夢を見た。
朧に見える幻視の中を、私は黙々と突っ切って歩いていった。
幻は幻、影は影、夢は夢に過ぎない。
私が踏み出せばその光景は煙か、はたまた砂のようにはらはらと消えていく。
現実にあるのは太陽ではなく月であり、私達を祝福する観衆は無く独りだった。
私の左手に指輪は無く、私が纏うのは純白のドレスではなく
私の隣にヨアヒムはおらず――――私の顔に笑顔はなく、ただ涙があった。
「――――あぁ、」
嗚咽も無く、私はただ涙を流していた。
熱いものが目元から零れて止め処ない。
胸が張り裂けそうな痛みがあった。
しかし、それは同時に私が私を縛るものを全て投げ捨てていったことの証だった。
心は、心だけが何処までも軽い。そしてその軽さが、ひたすらに寂しかった。
ぽっかりと空洞が開いた心の中に、風が吹き抜けていく
――――オレもお前を心から愛して
――――お前がいつか、お前の自由の先に幸福を見つけられますように。
私の最後の告白に、ヨアヒムはそう答えてくれた。愛して
もう終わったことなのだと、過ぎ去った話なのだと――――もう背負うことも気負うこともないのだと、そう言ってくれているように。
メリィも、アンネも、ヨアヒムも、皆が皆、最後には私の幸福を祈る言葉を贈ってくれた。
彼等を後に残していく私が、自分一人の旅路の果てにいつか
だから……だから、胸を張らないと。
私は皆を見捨てたのでも、皆から逃げるのでもない。
自分の意志で旅立ったのだと、祝福と共に送り出されたのだと。
そう――――誇りに、思わないと。
「あ……ああぁぁぁ――――――――――――――――――………っっっ!!」
だから、私は顔を上げて吠えた。未練がましい胸の痛みを振り払うように。
悲しみに詰まることも、痛みに震えることもなく、私の声は一直線に空に向かって伸び上がっていった。
楽器の細い弦を精妙に鳴らし続けるような甲高い音が辺りに響きわたり、遠く地平の山々に木霊する。
雲一つない月の夜空一杯に広がるように、私は長く長く声を上げ続けた。
「…………っ!!」
ひとしきり叫び終えた私は――――そこから走り出した。
決して背後を振り返らずに、何かを振り切るように。
もう迷うようなことはしなかった。
それだけが私がその手を握らなかった人たちに対してできる、最後の誠意だった。
それでも涙は止まらなかった。
ただ、涙が止まらなかった。
第二章、完結
その他、予定や告知に関しては活動報告を参照のこと