つるりとした質感のコーヒーソーサーの上、ティースプーンが奏でる音。
未使用であることを主張するように汚れのない金色の小さな匙が、封を切られていないままに置かれた砂糖と
スプーンの持ち手の尻を指先で弄ぶ彼の考え込む顔を私はじぃっと見つめていた。
そんなに難しい質問をしてしまっただろうか、とそんな考えが頭に過ぎる。
たっぷり数秒どころか、既に何分も彼は押し黙ったままそうやって手元でティースプーンを弄っている。
無意識の動作なのだろうそれが、絶え間なく
さながら、慎重に歯車の噛み合わせを確かめている新米の機械技師のよう。
「……そうだな」
長い沈黙を経て、彼がようやく口を開いた。
自分の内面を覗き込んでいた彼の瞳が焦点を合わせてこちらをすっと正面から捉え直す。
眼鏡の奥のその瞳は彼の手元のカップに注がれたコーヒーのように、黒い光沢を揺蕩わせていた。
「――――俺は多分、動物になりたかったんだと思う」
******
「んー……今日はこの辺りにしておこうかなぁ……」
ぐぅっと両手を組んで上に伸ばし、椅子の背もたれに背中を預けながら体を反らす。
凝り固まった肩甲骨周辺の筋肉と、知らず知らずに前のめりになっていた背骨を逆方向にストレッチして解す。あっ、バキバキって音がした。
硬直していた筋肉の間に潰されていた血管が開いて血が巡る感覚を味わいながら、私はちょっと温くなったコーヒーを口に含んだ。
『お仕事お疲れさまでした
「ありがと、
『あまりお勧めできませんね。あなたの作業パフォーマンスで精度を維持できるのは1-21倍までですので、それ以上は却ってロスに繋がります』
「となると残業かな?」
『その可能性が少なくなるように効率的な作業フローをこちらで作成いたします。今日は心配なさらずデートを楽しんでいらしてください』
「デートじゃないんだけど!?」
『存じております。私もたまにはあなたをからかってみたかったのです。――――それではお疲れさまでした』
「はいはい、お疲れー」
私がそう言うと同時に、視界に映り込んでいた各種ウィンドウが閉じられる。
コンタクトレンズ上に画像を投影する
画像共有でもやっていない限りは私の作業風景は何もない机の上で独り言を呟いたり、なにも無い空中に指を振っているようなシュールな光景に見えるのだが、
今日は午後を少し回ったくらいの時間帯で、一日の間にやるべき仕事はまだすべて片付いていない。
だが元々本日は早めに切り上げることにしていたのでそれも予定通りの話だ。
作業
「さーて、何着て行こうっかなー……っ♪」
前世紀の頃と違って現在では多くの仕事で
私も御多分に漏れず自宅で仕事をしているので、切り上げてすぐにクローゼットに手を伸ばせるのであった。
「んー……」
私の独り言を聞いたARデバイスが勝手に反応して、視界の上に各種データを並べ立て始める。
私個人の体形と容姿、今日の天気、今日会う人の好み、それと勿論クローゼットの中身との兼ね合いも加味しての
余程奇抜な提案が着たら没るのだが流石にそうそう尖ったものが来るわけでもなく、AIからの提示案は私としても納得のいくものだった。
……私が何にイエスと言うかまでデータに入っているのだからそれも当然なのだが。
ついでに視界の隅にポップアップしてきた『今月の新作!春のレディース!』という広告を「しっしっ」と弾き出しつつ、部屋着から外行きの服装に着替える。
それと化粧もパパっと済ませる。すっぴんで会うにも抵抗のない相手なのだが、最低限はやっておかないと落ち着かない。こういうのは気分だ、気分。
AIもその辺りは解っているようでお化粧の提案もかなり軽めの内容だった。
それはそれとして一部塗りとか整え方が変になってるところはやんわりと指摘してくる。
自分じゃわからない部分も有るのでこれは素直に助かる。
「
「うん、いってらっしゃい。今日はデートだったかい?」
「デートじゃないって昨日も言ったじゃん!」
「あっはっは、なんなら彼の分も夕ご飯作っとこうか?」
「だーかーらぁー、そういう関係じゃないんだってば―」
「ごめんごめん」
部屋を出がけに声をかけるとそんな風にからかわれた。
いや、本当にからかっているだけなのかどうか結構微妙な
そういう関係じゃない、と私が言ってもおそらくは照れ隠しくらいの感覚だと思っているんじゃなかろうか。
そろそろ孫の顔が見たいねぇ、などとそのうち言い出しそうで困る。
こういう機微に関してはAIよりも人間の方が融通が利かない。人間は思い込みに縛られがちだからだ。
人間が恋愛感情を覚えたときに発する生理的な変化は統計に基づいて体系化されている。
目線の向く頻度、瞳孔の収縮、脈拍の変化、神経パルスの活性、内分泌の変化……そういうモノを観測すれば人間の感情は読み取ることができる。
AIは予断と偏見に左右されずにそういう
私の
人間との会話はそう言う意味では難しい。
冗談と本気、建前と本音が複雑に入り混じっている。
しかも言っている当人が無自覚だったりするので
「……まぁ、そういう面倒も
特に今日会う相手はそういう
本人にも傍から見ている私にもよくわからないものを腹に抱えて生きている、そんな彼との付き合いも結構長くなったものだと思い返す。
味、という私の発言に反応してポップアップしてきた料理屋さんとレシピの広告を視界の外に追いやりながら、私はマンションのドアを開けて出ていくのだった。
******
私の住んでいる地域はマンションが多い。
正確には今の日本にはマンションが多い、と言うべきだろうか。
第三次世界大戦の過程で人が住むのに適さなくなった土地はそのまま放棄されて、結果として残りの土地の人口密度は上昇した。
半世紀くらい前の話ではあるが、今もその頃の名残で狭い土地を有効活用するためにマンションやアパートメントが住居の基本になっている。
自宅である30階からエレベーターで20階まで降りる。
1階まで降りずともこの階から直接道路に出ることができるからだ。
高層建築が増えすぎた結果として「地上階まで降りるの手間じゃない?」と思った人は多いようで、ビルとビルとの間を縫って繋ぐように幾つもの空中道路が張り巡らされている。
定刻通りに運航されている無人バス(有人バスというモノも昔はあったらしい)に乗り込んで座席に腰かけた。
ふぃーん……、と気の抜けた音と共にバスが発進する。窓の外を地上70mの景色が流れていくのを私はぼんやりと眺めていた。
100mを超える大きなマンションが群れを成すようにそそり立つ住宅街は壮観だ。
コンクリートとガラスでできた森の中を駆けていくようにバスは走り抜けていく。
今日の天気は腫れということだったが、上に目を向けると空は薄ぼんやりとした鼠色に近い色合いだった。
建物の隙間から見える太陽は大気の屈折が作る
大気中に今も粉塵が舞っているせいだろう。気象は専門ではないが風に乗って大陸の方から灰や砂礫が吹いてきているらしい。
我が両親の故郷ながら良い迷惑である。私達の世代はちゃんとした青空というものを
私の目線を感知したARデバイスが起動する。
空を眺めているところから気象予報や太陽をテーマにした天文についての情報を探し出してくれたらしい。
その中から偏西風に関する記事を斜め読みしながら私はバスが目的地に着くまでの時間を潰すのだった。
目当てのバス停で停車してもらい、昇降口で指紋認証に指先をかざす。
口座から直接運賃が引き落とされたのを確認して、降りた先は繁華街だ。
正確に言うと繁華街に相当するお店がぎっしり詰まっている150m規模のビルが幾つも並んでいる、というそんなエリアだ。
一応今日は土曜日ということもあって流石に人も多い。
遊びに来た人をよっぽど取り込みたいのだろう、ARデバイスを対象にした広告があちこちの店から発信されて視界に降り積もっていくようだ。
特に目的もなくぶらつく分にはウィンドウショッピングの参考になるのかもしれないが、今日は最初から行くところを決めているので全部まとめて放り出す。しっしっ。
「おっ、いたいた」
代わりに店舗マップを起動すると、施設内の一角に人名付きのアイコンが点滅している。
私の待ち合わせ相手は既に現場に到着しているようだった。
というか、彼はどこかで待ち合わせるとなったら約束の1時間前くらいには現場にいないと落ち着かない
初めてあった頃はどうかと思っていたものだったが、今はもう慣れた。
少し癖のある黒髪、黒縁のAR
灰色のパーカー、紺色のジーンズに黒のバッグ。
見渡せばその辺りにダース単位でいそうな、ごくごく普通の青年に向けて私はひらひらと手を振った。
「ごめーん、待ったー?」
「いや、別に待ってない」
「今日はどれくらい前からいたの?」
「今日?今日は30分くらいか」
「そんなに早く来なくても、早々電車が遅れたりなんてしないでしょ?」
「世の中何があるかわからないからな。それに自分が待つのは苦にならない、相手を待たせる方がよっぽど気に病む」
「やだもう♪紳士だねぇ~、了くんってば」
「別に美鈴にだけ優しくしてるわけじゃないんだけどな」
「知ってる知ってる。誰にでもそうできるのが優しいって言ってんの。
「やめろって美鈴。髪の毛が乱れる」
「別に気にするほどセットに時間かけてるわけでもあるまいし。……それとなんだけどさ」
「なんだよ」
「私は
「これは失礼しました
「
「それはマジで勘弁。すまんかった」
「わかればよろしい」
待ち合わせ場所で合流した彼――――葉月了くんは私の名前をネタにしてからかってくるが、これは気心の知れた間柄だからできることなので特に気にはしていない。
気にするどころか、会う度にこんなやりとりをしているのでむしろ無い方が落ち着かないくらいの定番の掛け合いになってしまっている。
了くんとは大学時代にバイト先の同僚として知り合って、そのままずるずると友人関係が続いている。
もう付き合いは6、7年くらいになると思うのだが浮いた話は特にない。弟のような相手だ。
「ところでさぁ、髪型もそうだけど服装も地味じゃなーい?ついでだしこの後なにか見繕ってあげようか?」
「いいよ別に。まだどこも破れてないし」
「いやぁ、服買うのってそういうもんじゃないと思うよ。服ってのは
「へぇ」
「うっわ露骨に興味なさそう。ゲームの方だとめちゃくちゃ着飾ってるのに」
「あっちは
見たらわかるように了くんは自分の外見にあまり頓着していない。
服は破れたら買い替えるもので髪は伸びたら切るものとしか認識していないレベルだ。
オンラインゲームで使っているアバターは滅茶苦茶作り込んで可愛い服を着せてるのに、その労力の100分の1でも
勿体ない。磨いても光らないタイプではないと思うのだけど。
「……せっかくだし了くんも可愛くしてみる?」
「やめれ」
眉間に皺を寄せての却下だった。
残念。重ねて勿体ない。
私は頭の中で了くんを着せ替えするならどうしようかなどと益体のない妄想を繰り広げながら、適当な雑談に花を咲かせるのであった。
******
「かんぱーい」
「乾杯。……今日なんかの記念日だっけ?」
「いや、別に何もないけど?」
「そうだよな。何に乾杯したんだろうと思ってさ」
「いや、それは……ノリで」
「そうか……ノリなら仕方ないな」
「仕方ないね」
そう言いながら私は手元のコーヒーを一口啜る。乾杯などと言いつつアルコールではないのであった。
別に苦いのも嫌いではないのだが、私は本質的には甘党だ。
たっぷりと入れた砂糖とミルクでココア色になったコーヒーを、火傷しないようにゆっくりと口に含んで飲み下す。
豊かで厚みのある甘さと苦み、ふくよかな香りに「ほぅ」と一息つく。
コーヒーは自分で淹れることもできるし自販機で買うこともできるが、やはりこういうお店でプロが淹れてくれたものが一番おいしい。
私達が今いるのはビルの上の方の階にある喫茶店だった。
敢えて薄暗くした店内に橙色の温かな照明。BGMは周りの喧騒を中和するように奏でられる穏やかなジャズ。
椅子やテーブルは艶のある木目調で統一されていて落ち着いた造りだ。
カーテンを開くと見える窓の外の風景も中々に見晴らしがよい。私の自宅と同じくらいの高さのはずなのだが、その辺りは立地の違いだろう。
そういうわけでここは私にとっては中々にお気に入りの店で、こうして時々お茶をしに来るのだった。
「思うんだけど、美鈴って甘党だよな」
「普段からそうではあるんだけど、今日はさっきまで仕事してたからってのもあるかな。了くんは甘党じゃないのに付き合わせて悪いね」
「別にいいよ。コーヒーのお茶請けくらいなら特に問題は無いし」
「どうせならちょっと交換しない?」
「……そうだな。じゃあ一口分くらい」
私のお茶請けはフレンチトーストで了くんのはジェラートだ。
こっちから一切れ、彼の方から一掬い、お互いのお菓子をちょろっと交換する。
バニラ味のアイスのひんやりとした食感が熱々のフレンチトーストで温まった口に優しい。
「ところで今日ってなにか話でもあるのか?」
「いいや、別に?……あぁ、今日呼んだ理由?」
「そういえば聞いてなかったなって」
「別にないよ。なんとなく。理由がないとお茶しちゃダメかな」
「いいや、無いなら無いで別にいいよ」
「強いて言うなら……了くんの顔が見たかったからかな」
「なるほど」
これに関してはマジな話で、今日彼を誘って遊びに来たのはあんまり特別な理由は無い。
ただ単に話すだけなら電話でもいいし、顔を見たいだけならビデオ通話でも構わない。
それどころか今ならVRチャットルームを使ってある程度の五感を再現した状態で顔を突き合わせて話すこともできる。
ただそれは便利ではあるものの本当の意味で『会ってる』という感覚には程遠い。
世の中のVR機器は人体への悪影響や危険な使用法を抑制する意味を込めて意図的に五感の再現性を落としているからだ。
直接目で見て、耳で聞くこと。デジタル処理されたデータではなく、生身の体でアナログの揺らぎまで含めた感覚で情報を受け取ることも時には大事だ。
「あとVR空間だとご飯食べてもお腹が膨れないからね」
「あぁ、わかるわかる。ゲームでも食事アイテム取ってたら腹減ってきてさぁ。中断して
「あるでしょーっ。なぁんでゲームの中であんなに美味そうにご飯のグラフィック作り込むかなって思ったこと私何回もあるし!」
「嗅覚とか味覚とかカットされてて良かったと思うよ。それだけあって腹の足しにならないとなると悲惨だからな」
「了くん、『アンホラ』だとセプテモールにいることが多いんだっけ?あの辺ローマがモチーフだからさぁ、イタリア料理食べたくならない?」
「まぁなぁ。……実は空腹に負けて何か月かに一回はピザの出前を取る……。そっちボーミアだっけ?元ネタは……」
「チェコ辺り。かなり西寄りだからアイゼンブルートの国境が近いし……文化的にはそっちの元ネタのドイツの色が近い気もする」
「ドイツかぁ。黒ビールかな、やっぱり。カリッカリに焼いた
「やめてよ。お腹減ってきたじゃん」
「追加でなんか頼む?」
「今カロリー警告が出た」
「先手を打たれたか……」
二人でテーブル越しに顔を突き合わせて、くだらない雑談が弾む。
カップの端に口を付けてコーヒーを含む彼の表情はどことなく憮然として見えるが、別に話すことを嫌がっているわけではない。
了くんは割と愛想が良くなくて笑うことが少ないので、常々不機嫌だと誤解されがちだ。
ただ実際のところは表情が硬いだけで普通に会話はしてくれるし、根は気立てが良くてむしろ優しい子だと思う。
一人でいるのが好きなだけだから愛想よくする必要を感じないだけだよ、と本人はそう言っている。
それも本心の一端ではあるのだろう。
ただ私に言わせれば……彼は自分の顔立ちが少し強面だと思われることを知っているから、そんな人間にニコニコ笑いかけられても不気味だろう、だなんて余計な気遣いをしているのだろうと思う。
だって時々表情が緩みそうになると、そこを意識して引き締めようとするように顔の筋肉が動いているのが解るからだ。
……丁度今みたいに。
「……どうした。ボーっとして」
「いやぁ。了くんももっと笑えば可愛いのになぁ、なんて」
「やめてくれよ。男は大抵、可愛いなんて言われると舐められてるって思うもんだぜ」
「硬派だねぇ。ゲームじゃあんなに可愛いアバター使ってるのに」
「あれは俺じゃないからいいんだよ」
「残念」
可愛い、という評価はお気に召さないようだ。
眼鏡越しに眉間の辺りに皺が寄るのが見える。
おっと、真面目に不機嫌かもしれない。
「可愛い、というのは相手の外見や行動に対してだけに使われる比喩というわけでもないと思うんだよね……。こう、『可愛い』って『愛す
「……書くなぁ」
「私の場合はあれだよ
「はぁ、そうですか」
「うっわ、興味なさそう」
「俺一人っ子だしなぁ。上も下も兄弟姉妹はいないからよくわからんね」
「私もだよ。だから小さい頃はお姉ちゃんか弟が欲しかったなぁ。今は了くんで満足してるけど」
「オレは……まぁ、別にそういうのは無かったな。小さい頃は一人遊びで満足してたように思う」
「えーと何だっけ……。動物が好きなんだったよね?」
「そうそう」
彼の言葉を聞いて思い返す。前にも確か聞いた覚えがあった。
了くんは小さい頃は動物図鑑を熱心に読んでたり、公園で虫とか探したりして遊んだりしていたんだったっけ。
……だから、この質問は本当に話のついでだった。
特に何も考えることなく口にした、雑談の流れの延長線上でしかなかった。
「――――どうして小さいころ、そんなに動物が好きだったの?」
私がこの質問をした瞬間、明確に了くんは固まってしまった。
彼の手がコーヒーカップを口元に持っていこうとしたままの状態でぴたりと立ち止まる。
そのまましばらく制止していたが、やがて重みに耐えかねたようにゆっくりとその手が下りていき、皿の上にカップが戻る「かちゃん」という音が響く。
「………………」
彼は無言だった。
一つも口を開くことなく、ずっと何かを考え込んでいる。
彼の眼鏡の奥の瞳は目の前の私ではなく、今しがた机の上に戻ったコーヒーの上に注がれている。
いや、正確にはそこすら見ていないのだろう。
自分自身の内面を覗き込んでいるように、焦点の合わないぼんやりとした目線だった。
「…………」
私は声をかけたいのをぐっと堪えた。
バツの悪い、居心地の悪さ。
場の持たない沈黙をどうにか破りたくなるが、それ以上に彼が深く深く思索にふけっているのを感じてしまったからだ。
きっとこれを邪魔するのはいけないことなのだろうと、そう思えば私は何も言えなかった。
つるりとした質感のコーヒーソーサーの上、ティースプーンが奏でる音。
その小さな音だけがやけに大きい。店にかかっているジャズミュージックもどこか遠くに聞こえるようだった。
未使用であることを主張するように汚れのない金色の小さな匙が、封を切られていないままに置かれた砂糖と
スプーンの持ち手の尻を指先で弄ぶ彼の考え込む顔を私はじぃっと見つめていた。
そんなに難しい質問をしてしまっただろうか、とそんな考えが頭に過ぎる。
たっぷり数秒どころか、既に何分も彼は押し黙ったままそうやって手元でティースプーンを弄っている。
無意識の動作なのだろうそれが、絶え間なく
さながら、慎重に歯車の噛み合わせを確かめている新米の機械技師のよう。
「……そうだな」
長い沈黙を経て、彼がようやく口を開いた。
自分の内面を覗き込んでいた彼の瞳が焦点を合わせてこちらをすっと正面から捉え直す。
眼鏡の奥のその瞳は彼の手元のカップに注がれたコーヒーのように、黒い光沢を揺蕩わせていた。
「――――俺は多分、動物になりたかったんだと思う」
深い水の底から汲み上げてきたような言葉だった。
私は茶化すこともせず、誤魔化すこともせず、ただ目線でその先を促した。
「……動物は、なんていうのかな
――――その
「羨ましい?」
「そうだな」
彼は指先でジェラートの皿を小突いた。
ガラスの器の中には乳白色の液体が浅く揺蕩っている。
食べられてしまったバニラアイスの僅かな残滓。
「例えば猫だったなら
……そういう風に生存とは無関係なしがらみが、人間には多すぎる。
全ての行動がただ生きるためにある、……っていうそんな
彼はため息交じりにそう言った。その視線は窓の外に向けられている。
鼠色の空の下の灰色のビルの森を、彼はどんな気持ちで眺めているのだろう。
「けれど、そういう『生存とは無関係なしがらみ』が発展してきたのは、逆に言うと人間が
「……まぁな。理屈では俺もわかるよ。生きるか死ぬか、なんていう事しか考えられない生き方っていうのはつまり余裕がないってことだからな」
「うん」
人間の世界は面倒が多いというのは解る。
ご飯を食べるのだって、何を食べるのだとか、どう料理するのだとか、栄養はどうだとか考えることが多い。
そもそも食材を揃えるにせよ料理をするにせよお金はかかる。お金がかかるということはお金を確保する手段が必要だし、お金を確保するには仕事をする必要があるし、仕事をするには世の中にたくさんある仕事から自分に合うものを見つけたり、自分の技能を磨かなかったりしないといけなくなって……。
そう考えれば、ただ目の前のモノを狩って口に放り込むだけの動物的な生活のなんてシンプルで分かりやすいことだろうか。
……だけどそうやって食事にありつける者だけが飢えを満たせる世界というのは余裕がないことの証明でもある。
ごくごくシンプルな狩猟採集型社会はその生活の中で飢えて死ぬもの、適応できなかった者たちの夥しい屍の上に成り立っている。
自然そのままの世界は適者生存が基本で、付いてこれないものはただ死んで肥やしになるだけの過酷な世界だ。
人間は農耕と畜産を始めたことにより自力で食料を生産可能になり、多くの人口を養うことができるようになった。
その中には当然、従来の狩猟採集型社会では切り捨てられていったような、いわゆる弱者に相当するような人々だって含まれている。
適者生存が自然界のルールなら、人間という生き物は今までは生き残れなかったような固体でさえも生き永らえさせることで総体としての遺伝子の
例えばスティーブン・ホーキンス博士なんかはアフリカのサバンナでは生きられる体ではなかったが、人類の歴史には大きな貢献を果たした。
人間の世界は複雑で面倒だが、その複雑性こそが文明という鎧となって私たち一人一人を守っている。
……まぁ、でもこれは所詮は理屈だ。
理屈と感情は違うものだし、矛盾することだってあるだろう。
「理屈ではわかってるけどさ。――――でも俺は、草原を走って狩りをするライオンとかを見て、綺麗だなって……
「……うん。そういうのなら、ちょっとわかるかな」
理屈では色々と理由を捏ねることもできるのだろうけど、根っこの、感情の本音はきっとそういうモノなのだろう。
きっと彼は
その美しさを彼は懸命に生きる自然の世界の動物たちに見出したのだろうと、そう思う。
私もちょっと気持ちがわかったので頷いた。
「私も疲れてるときは子猫の動画とか見て『あぁ゛~いっそのことわたしもねこちゃんになりたいぃ゛~』とか言ってるし」
「まぁ、似たようなものかもしれないけどさぁ……。大丈夫か?最近は疲れてないか?」
「うわぁ、なんかめっちゃ憐れまれてるんですけどぉ!?今は大丈夫だって。こうやって息抜きもしてるし」
「なら良いんだけどさ……」
「ところでさぁ、そんなに動物好きなんだったらなんで『アンホラ』のアバター、
「あぁ、実はギリギリまで悩んだんだけどな。適性で言うと
「じゃあ
「試しに作ってみたんだけどアバターがペドペドしすぎてな……」
「こだわるんだねぇ、そういうの」
「ペドとロリータには結構な差があるぞ」
「よし、この話止めよう。深堀りしたらダメな話題とみた!」
性癖の話は誰のどのようなものであれ深淵である。
深みを覗き込んだら逆に覗き込まれる、という
弟分の性的な興味の対象とかあまり聞きたくはないしね!
それから私達はあまり真剣な話をすることなく、本当にただの雑談に終始した。
最近身の回りであったこととか、忘れていたような昔話とか、好きなお酒の飲み方だとか、ゲームの話とか、そういう話。
途中でコーヒーが冷めてしまって、二杯目をおかわりするくらいは長々と話し込んでしまった。
そんな他愛のない話だけをして終わったお茶会は何よりも楽しいものだった。
――――私はこの日の事を
私達が再開するのは
2121年4月、それなりに晴れた土曜日の、なんてことのない日の思い出だ。
閑章シリーズはこの辺でおしまい
三章まではちょっと待っててね♡