俺、滝和也はアメリカ東海岸、ボストンで生まれ育った。
両親は共に生粋の日本人だが、夫婦揃ってハーバード大学に留学して、そのままアメリカで職に就いたと言う口だ。だから、俺はアメリカ国籍を持っている。
まあ、そんな両親は俺が十歳の時に蒸発してしまったが。
誤解しないでほしい、別にSHOCKERの前身組織がどうとかじゃなくて、南極の無名都市を目指して、これから冬になるって言う南アメリカの港から出航してそのまま帰って来ないのだ。
大慌てで探しに言った人間が見たものは、もぬけの殻になった船と、「後から来てね」って言うメモだけだったとか。
因みに、先程のメモは叔父――父の義理の兄弟で、血の繋がりは無い――宛てで、それを呼んだ叔父は当然ながら頭を抱えていた。
当たり前だ、目的地もへったくれも書かれて無いメモで、どう追い掛けろと言うのか。
……さらに言うと、うちの両親は昔からこういう馬鹿旅行に出ていた。その時には、半ば誘拐するように叔父を同行させて。
ここだけの話だが、叔父はある種の勘持ちで、どんな歪んだ異空間に迷い込んだとしても、まるでアリアドネの糸を辿るように脱出出来てしまう――但し、その間ほぼ飲まず食わずで脱出口を探す叔父は帰還後数日寝込んでしまうが――。
恐らく、両親はその異能で追い掛けて来てと言っているのだろうと十五歳くらいの頃に悟ったが、同時に馬鹿だと思った。
叔父は、出口は判っても、異界に入って好き勝手動いてる人間を見付けるスキルなんぞ持ち合わせが無いのだ。
叔父の能力におんぶにだっこで馬鹿を重ねた両親は、どうやらすっかりその辺を忘れたらしい。ああなるまいと、俺は思っている。
閑話休題。
両親の事は一旦おいて、とにかく叔父は、独身の身空で俺を育ててくれた。
で、そんなこんなで大学生になった俺は、早く卒業して就職するべく、平日は講座とレポート提出とボランティアに明け暮れていた。――もちろん、早く収入を得て、叔父に学費その他を返す為だ。
特に、他の連中がボランティアに乗り出す長期休暇はバイクレースに参加していたので、学期中の週末にボランティアに出るようにしていた。
そんなボランティア募集の中に、とある劇場の再建の為の清掃ボランティアがあった。
時間的に何とかなりそうだったので、参加しようとした俺に、学科仲間のトニー――三回生の先輩が声を掛けた。
「カズ、それ止めた方が良いぜ。何かすっごく、変な様子らしいぜ?」
「え?」
トニー曰く、来週末の再開場のために焦っているのか、怪我人が出たのを公にせずボランティアを募っているのだそうだ。……尤も、そう言う事は隠しても勝手に巷間に流れるものだが。
確かに不穏だ。
だからこそ気になり、俺は事務所で書類を貰ってその募集に申し込んだ。
その劇場は、『パラダイス座』と言うらしい。
十年前に閉鎖した、この近隣一番の娯楽の殿堂だったとか。
最初はボードビルショー主体の劇場として、映画が隆盛して来てからは映画館として、そして禁酒法が締め付けた頃はモグリ酒場として、この地域の社交の中心だった。と言うのが、『パラダイス座百年史』と言う冊子に書かれていた。
劇場再生の責任者だと言うクラリスは、ポチャッとした印象の白人の二十代後半の朗らかで社交的だが、かなり独善的で押しの強い女性だった。
ボランティアとしてきた俺と握手するや、「現場の責任者に聞いて動いてくれ」と言ってそのまま走って行ってしまった。
責任者の仕事があるのは判るが、これは現場を把握しているか微妙だなと思った。
取り敢えず、現場責任者に会いに行ったら、そこにいたのは知り合いだった。
キーンと呼ばれる黒髪に琥珀色の瞳――但し、角度によっては金色に見える――の青年と、ボッシュと呼ばれている坊主頭の東洋人二人組。
二人は、俺が子供の頃世話になった育児院にボランティアに来ていた女性の、義理の甥とその友人だった。
因みに、キーンの正式名は『恭一郎』、ボッシュの正式名は『公大(きみまさ)』で、正確に発音出来ない欧米人向けにそれぞれ「キーン」「ボッシュ」を通り名にしたのだとか。
「お、お前も来たのか?」
「進級したばかりなのに、頑張るねえ」
キーンは明るく、ボッシュさんはほのぼのと挨拶してきたが、俺は二人に違和感を感じた。
普段、ボッシュの方がはきはきしていて、キーンの方がほけほけしているのだが――尤も、それをボッシュに話すと、「お前は恭一郎に騙されない口か」と、頭を撫でられたが。
事件は、程なく起きた。
作業していた誰かに請われて、俺は足場に登って天井裏の配線を確認するべく天窓を覗き込んだ、筈、だった。
天窓の向こうは、一面に広がる客席だった。
思わず、俺は窓枠に縋り付く事で落ちる事を免れた。……上にも、下にも。
足場から蹴り落としたバケツの音に気付いて、周囲の人間が集まって来た。
バケツを退けて人々に下がって貰い、俺は斜め前の通路へと飛び降りた。
元々体術には自信があったし、高さも高さだったので、自分の脚で着地する方が安全だったし、同じ事を判断したキーン達の指示で降りたのだ。
多少はしびれたが、捻挫もなく俺は床に足を付けた。
そして、変な事を言われた。
「何で天井を見たんだ?」
キーンの問いに俺はボランティアに言われた事を答えたが、集まっていた面子は皆怪訝な顔になった。
そして俺も、声を掛けた相手の顔を思い出せない事に気付いた。
「きっとロバートね」
俺が声の主を思い出そうとしていると、誰かがそう言って、そう言う事かと皆散って行った。
残されたのは俺と、渋い顔をしたキーンと天窓を睨み続けるボッシュだけだった。
そして俺は、とある事に気付いてぞっとした。
天窓から見上げた客席は、周囲のような清掃具も何もなく、まるで観劇前、客が入っていない劇場そのままの光景だったって事に。
自宅として借りたマンションに、酒とつまみを抱えて飛び込んで来た一文字隼人は、俺に向かって話し掛ける。
「それ、どう言う事態よ?」
「俺が聞きたいぞ。事情は、まあ後から判るから、今は待て」
俺の言葉に、「へーい」と気の無い返事をしつつ、一文字は早速一升瓶を空け始めた。
その後、俺は二人に誘われ夕食を取る事にした。
二人から、俺と同じように脚立から落ちて怪我したボランティアの女性と、同じくボランティア活動中に倒れた病人が近くの病院に入院しているのだと聞いた。
そして、二人はお師匠――キーンの叔父で俺の護身術の先生だ――から命じられて、あの劇場――パラダイス座の調査の為に来ているのだと答えた。
今だから判るが、この話を始めた時点で、キーンは俺を捜査に引き込む気満々だったのだろう。
「劇場の立て直しをしているメトロアーツって集団は真っ当な組織だ。叔父さん達の太鼓判がある。只、あの劇場自体がなあ」
どう言う事だろう?
怪訝そうに首を捻った俺に、溜息交じりにボッシュが答える。
「禁酒法時代の秘密クラブがあったとかで、結構違法改装されてるんだ。現に、あちこちに図面に無い小部屋とか、柱の大きさにばらつきとかがあるからな」
つまり、役所に残っている見取り図にはない秘密部屋って奴が、建物に造られているらしい。
「第一、お前が覗き込んでた天井な、あそこ、本来天窓なんかないんだよ」
え?
クラムチャウダーを啜りつつ、ボッシュは言葉を続ける。
「それだけじゃない。どうにも、劇場の創設者ってのが如何わしいんだ。何か、宗教団体に名前を連ねてたらしくてな」
宗教と言われて、俺は判り易く顔を顰めていた。
そう、両親が色々やらかした結果、ダゴン秘密教団やらその他狂信者に追い回された過去がある身としては。
「後、今回の出資者と言うのが、いい加減奇妙なんだ」
ロブスターを解体しつつ、キーンはぼやく。
どうも、元々甲殻類が得意じゃないらしい彼は、無駄にばらけさせて、溜息を吐いたボッシュにほぐし直して貰っていた。
「一代で不動産で財を成した人物なんだが、過去に孤児院で育ったって記録以外が見付からないんだよ。で、その孤児院の創設者が」
「劇場の創設者の孫なんだ」
その言葉だけで、不信を持ってはいけないのだろうが、俺は顔も知らない出資者に言いようのない不安を抱いた。
……その不信が、両親に付き纏っていたものと同じだと気付いたのは、事件も大詰めになった時だったが。
「クラムチャウダーにロブスター?」
「ボストンの名物だよ。まあ、二人が奢ってくれたから食ったようなもんだ」
そんなに珍しいものかねと思いつつ、俺もコップに入れた日本酒を舐めた。
「その、えっとキーンとボッシュって人、どう言う人なの?」
「だから、俺に合気道とかの基礎を教えてくれた人の甥で、ボランティアやってた社長夫人の義理の甥なのが恭一郎さんで、その従兄弟だか再従兄弟だかが公大さん。
二人ともすっごい童顔だから、誰も二人が四捨五入で三〇歳だって、周囲の連中知らなかったぐらいだし」
「え? そうなの?」
「うん、公大さん二歳になる息子さん居たし、恭一郎さんも結婚してたし」
ボランティア初日の突端から、曰く付きの片鱗を見る事になった俺は、翌日講義の後現場に来て眉を顰めた。
劇場内に、映画黎明期の古い音楽が流れている。それも、陰鬱な曲ばかり延々と。
他のボランティアに話すと、皆首を傾げ、
「ロバートがカセットを聞いてんじゃない?」
と言って、気にも留めなかった。
またロバートだ。
その後で顔を合わせたキーン達に聞くと、二人も眉を顰めた。
二人曰く、ボランティア名簿には確かに名前はある。が、二人も一度も会った事が無いのだそうだ。
何時の間にか来て、何かしら仕事しているらしいが、気が付くと帰ってしまったりしているらしい。
何より不可解なのは、責任者のクラリスを始め、現場の誰も――キーンとボッシュ以外――その事におかしいと思っていないのだ。
現場に疑念を深めた俺は、その後また怪異に行き当たった。
ここの舞台の奥に、完全封鎖された大扉がある。
元々は、大道具用の搬入口だったらしいが、映画館として改装した際に光が入らないよう、外から板とペンキで潰され、内側は南京錠で封じられている。
その扉から、光が差しているのに気付いた俺は、壁を覆うカーテンに近付いた。
奥でちらちらする光に近付こうとして、俺は固いつるつるしたものにぶつかった。それは鏡だった。
練習用の姿見がそこにあったのだ。
だが、俺はある事に気付いて息を呑んだ。
俺が鏡を認識するまで、そこに俺の姿は写ってなかった事。その鏡面の世界では、扉が薄く開いていた事。
そして、カーテンの向こうにあった以上、鏡に光源が入る筈が無かった事実だ。
俺がカーテンから離れる時、誰かの舌打ちが聞こえたのは気の所為では無いと思う。
「え、何それ怖い」
「そうだよ、俺だって怖かったんだ」
一人で、一升瓶半分を飲んでいる一文字は、口調はおどけているが目はめっきりマジだった。
俺としても、人気の無い所で響いた舌打ちは、物凄く怖かったのだ。
今思い出すと、腹が立つのが先に来るのだが。
その帰り、俺はクラリスとキーンとボッシュ、その他ボランティア達と共に怪我をしたボランティアの見舞いに行く事になった。
作業中の怪我人に会いに行くにしては、さばさばとした風情のクラリスの言動に、複雑な思いをしつつ見舞いに行った病室には、二十歳ぐらいの白人のお嬢さんと、四十代の黒人男性がいた。どうやら、二人は同じボランティアと言う事で、同室にされたらしい。但し、男性の方が重篤な様子で、ベッドの周囲には色々機材があった。
クラリスからの、チョコボンボンの見舞いに特に感想が無い様子で、彼女はサイドテーブルの上に箱を載せた。
周囲の声に無関心な彼女の視線の先には、白黒TVがあった。テーブルに乗るポータブルな奴ではなく、旧式だがそこそこの大きさの奴だ。
バレエ中継が映っているそれは、俺が視線を向けると急に上下に画像が乱れた。あっと思っていたら、それに合わせるように男性も苦しみ出した。
慌ててクラリスとキーンが看護婦を呼びに走り出し、残った面子は男性の様子にオロオロしていて、ボッシュが彼らに騒がないよう声掛けしていた。
ただ、そんな騒ぎの中、俺はとある呟きを拾った。
「私、上に落ちたの」
振り返るとお嬢さんと目が合った。
だから、俺は彼女に聞こえるように囁いた。
「俺は、上に落ちそうになったから天窓にしがみ付いたよ」
俺の言葉に、彼女はじっと俺を見た。
驚いたような、それでいて安堵したような目を向けていた。
次の瞬間、一瞬だけ病室の中を映し出したTVは、ブラウン管に大きく罅を入れ、火を噴いた。
そしてそれが合図のように、機器は全て0を指し、男性が絶命した事を告げた。
俺達は、そのまま看護婦の手で病室から押し出され、そこで解散となった。
その別れ際、ボッシュから嫌な事を聞いた。
TVに映ったあの映像。彼女の枕元に何者かが立ち、彼女の頭を叩いていたそうだ。
勿論、俺はそんな人間は見ていないし現実にはいなかった。
だが、それを見たボッシュは持ち歩いてる護身刀で、そいつの首の辺りを取り敢えず薙いでおいたそうだ。取り敢えずで、そんな行動を取った相手に、絶句するしかないのだが。
……後で聞いたところ、ボッシュの実家は千年近く続く所謂地方豪族の菩提寺なんだそうだ。で、その豪族の末裔がキーンで、キーンの実家には刀狩りも廃刀令も掻い潜って残った刀剣が何本かあるんだとか。今回、たまたま持って来ていたその中の一本を使ったそうだ。
どうやって持ち込んだと思ったが、見せて貰った短刀とやらはぱっと見只のサバイバルナイフにしか見えなかった。
元は大薙刀だったらしいがまっ二つになったものを打ち直し、両方短刀に仕立て直したんだとか。
入院した彼女は、その後とある病院に転院し、元気になったと数か月後に手紙が来た。
どうやら、師匠の手回しで、知り合いの大病院に移したそうだ。
「えーっと、それって、どう言う事よ?」
「あの劇場の近くだと、悪影響が彼女にまた及ぶ事になるからって、お師匠が物理的に離す事を提案したんだって」
ふうんと返事する一文字は、三枚目の当たり目をあぶり始めた。
焦げるから強火で炙ろうとすんなよ、勿体ない。
「にしても、凄いねえ、千年も続くって、どんな名家よ?」
「お師匠は、単に古くから山奥に隠れ住んで、時の帝とか幕府から逃げ回ってただって言ってたけどな。
でも、その所為か、神社とかお寺とかに物凄くコネがあるらしいけどな」
この辺は、俺も詳しく聞いた訳じゃないので良く判らないが。
劇場の怪事件は未だ起こっていた。
それから二日ほど過ぎた、曇天で薄暗かった日の事だ。
俺はたまたま、二階席に上がる為の階段を上がっていた。二階席の掃除の為に道具を運んでいたのだ。一息ついて、踊り場で階下を見下ろして気が付いたのだ。
ホール一面に敷かれたカーペットの幾何学模様が、何だかくんずほぐれつしている裸体の塊のように見えるのだ。その事にあっと思った、その時だ。
まだ電力会社と契約出来てないとかで、機材用に持ち込んだ発電機の不調で、仮設の電灯が瞬いたと思うと、裸体の群れが一斉にこちらを見た、そんな気がした。
怖気立つ俺の背後で、のんびりした声が響いた。
「誰か、ロバートに機械見て貰って―」
……またか!
俺は、本気でここが恐ろしくなった。
この劇場に集まっている人間込みで。
その晩、俺は二人からあの劇場に纏わるを聞かされた。
キーンセレクトのそこは、値段に見合った美味い肉と、適度な騒々しさとで、俺達の会話が他人の耳は入ることはなさそうだった。
二人が見付けた話の一つは、かつて劇場の下にあった潜り酒場を集会所としていた集団の事だった。
表向きは所謂会員制クラブだったが、とどのつまりは秘密結社、否新興宗教だったらしい。
『真実の光』と称したそのクラブは、その後組織員の老化と新規会員を得られなかった事で閉鎖に追い込まれたらしい。そして、そこの会員の最も若手だったのが、今回の再興の出資者なんだとか。
そして、その団体が元気だった頃、すなわち禁酒法最盛期の時期に、一人の女性が行方不明になったらしい。
但し、クラブ側はそんな女性はいなかったと証言し、その事を警察に告げたゲスト客だったと言う人物は騒ぎの一月後にひき逃げされたらしい。
「取り敢えず気を付けなきゃだな」
「あの爺さんの事もあるしね」
チロッとキーンに流し目で睨まれ、ボッシュは何とも言えない顔で眼を逸らした。
話を聞くと、ボッシュは今日午前中に、とある人物に会いに行ったのだと言う。
それも、『真実の光』の元関係者だと言う。所謂老年性痴呆の為に、養老院に居たそうだ。
「うん、光だ。映画は光が無きゃ成り立たない。だから我らは気に入ったよ。真実の光。そう、光は真実に導いてくれる。
そう言えば、あいつが言ったんだ、パラダイスが戻って来るって。嬉しいねえ、私の席は確保してある、後は行くだけだ、何て待ち遠しい」
最初はこんな風に、取り留めのない事を呟いたその老人は、突然ボッシュに飛び掛かったそうだ。
「異教徒め、おいぼれから秘密を盗む気か!」
そう叫んで、物凄い力で首を絞めようとしたそうだ。
周囲にいた職員が加勢して、なんとかボッシュは無事だったらしいが、老人の方はそのまま倒れたとの話だ。
……そう言う危険行為のペナルティと言う事で、ここの食事はボッシュの奢りだった。
そして、ロバートと言う名前にキーンは当たりを付けたと言った。
バラダイス座の創設者の名前が、『ロバート・ロイス』だったそうだ。
因みに、彼の子孫が創った『ロイス財団』と言う組織は今も存在し、近在の慈善事業にそれなりの寄付を続けているらしい。
偶然の一致、ではないのだろう。
出資者リチャード・ロビンソンはロイス家の作った孤児院の出身だと言う。何かが引っ掛かる。
「おいおい、『真実の光』って」
「そう、あの騒ぎに関わった魔導書の出所さ」
俺がそう言うと、一文字はバリバリと頭を掻きむしる。
おいおい、改造人間だからって、そこまで掻いたら禿げるぞ?
取り敢えず、作っておいた竹輪キュウリ――何、竹輪の穴にスティック状に切ったキュウリを通して一口大に刻んだものにマヨネーズを添えたものだ――を放り込んでおいた。
翌日。俺は、かつて秘密酒場だったと言う地下の空間の清掃に参加した。
尤も、話に聞いた規模からするとやたらと狭いと思うのは俺だけだろうか。
そんな事を思いつつ、ガス式の暖炉に近付いたその時だった。
俺は、目の前でのたうつ火達磨の人間を幻視した。あっと思った時には、そいつは火達磨のまま暖炉の中に飛び込み、消えた。
思わず暖炉に手を付け、俺はその熱さに一瞬手を引いた。
だが、改めて触った時、それはただの煉瓦の感触しかなかった。よくよく考えれば暖炉の外郭だ、火事で直接炎に曝されたならともかく、本来熱くなる筈の無い場所だ。
その代わりと言っては何だが、暖炉の中は見た目より広く、奥に続く扉があった。
どうやら、こちらが例の新興宗教の集会場だった秘密酒場だったようだ。
俺が周囲に伝えると、何人かが責任者と現場監督を呼びに走った。……どうやら、ここの事はまだ誰も知らなかったようだ。
奥の部屋は、天井が濃紺(ミッドナイトブルー)――尤も、経年劣化ですっかり色が褪せていたが――に塗られ、星図表よろしく白い点が配置されていた。
その下側、壁に掛かったカーテンには、誰が設置したのか判らない旧式の映写機によって、黒仮面を付けた人物が、延々立ってこちらを見ていると言う映像が流れていた。
何時から流されていたかは判らないが、圧迫感を感じる映像だった。
後から入って来たらしいボランティアの一人が、不思議がりつつ電源を落とした時だった。
嫌に長く映像は流れ続け、映像消える寸前、人々が仮面を外そうとしたところで終わった。
だが、ループしているフィルムに、そんな映像は無かった事が、後で判った。
地下から上がっていくと、クラリスと他の面子が掲示板に写真を貼っているところに行き会った。
この『パラダイス座』の歴史を伝えるべく、劇場の倉庫に残っていた写真をロビーに展示するのだと言っていた。
華やかだった頃の劇場を背景に、名士と思しい男達が笑顔で写っている写真ばかりだ。……おそらく、彼らが『真実の光』のメンバーなのだろう。
『日本支部にて、歓迎』と言う横断幕付きの写真に眉を顰めた俺は、とある事に気付いた。
ロイス家の当主が写っている写真の構図に、何処かで見たような気がする。
ロイス家当主が、何処か高みから、劇場内の客席を見下ろしている。
上の方、と言う事でボックス席かとも思ったが、違うと感じた。そもそも、ここにはボックス席は無い。
暫く見ていて気が付いた。
あの、天井の天窓から見た『上側』の光景だと。
気付いた事を、キーン達に知らせようとしたが、何故か二人と連絡が付か無かった。
他のボランティアに問うと、急用で二、三日休む事になったのだと言うが、そんな筈は無い。
さり気なくクラリスにイベント開催日を代えられないかと聞いたら、馬鹿を見る目で「無理」と言い切られた。
俺は、どうしてもイベントを阻止したいと思ってた。
地下の天井の星図を書き写し、大学の天文マニアに見せたら、「もうすぐ似た並びになる」と言われた。
それは、丁度再開イベント当日の、夜八時。
今、消息不明のお袋の言葉が蘇る。
「星辰の並びが良い感じだから、南極で面白い事があるの」
俺が十歳の年に、そう言ってお袋は親父と一緒に南極の無名都市があるって言う狂気山脈へと出掛けて行って、未だに帰って来てない。
と言う事は、似たような馬鹿の為に、きっと今度のイベントは仕組まれたって事になる。
「あんたの両親、何があったの!?」
「何かがあったらしいが、俺は知らん」
俺の言葉に一文字は不服そうだったが、実際問題として判らないんだから仕方がない。
ただ、どうも時間の歪みを通り抜けるついでに、自宅――と言っても両親が買った家じゃなく、叔父と二人で暮らしたフラットの方だ――に誰もいない時に帰っては、勝手に備蓄食を食い散らして「早く来てね」と言うメモを残しているので、元気なのだろう、一応。
……因みに、俺が日本に任務に向かう前日の話だ。
叔父の様子だと、居なくなって以来度々 やらかしていたっぽいので、それから両親の心配を完全に止めた俺がいる。
そして、セレモニー当日の晩。
俺は、何も出来ないまま他のボランティアと共に前の方の座席に座っていた。
俺は取り敢えずすぐ動けるよう、通路側の席に着いた。
そして、白黒映画が始まって三〇分ばかり過ぎたところで、異変は始まった。
映写機がガタガタと上下に動き、映像も上下にずれる。
老人の声が何度か、「焦点!」と叫ぶが、映像の揺れは止まらない。
やがて、それは映像ばかりか建物自体も揺れ始め、物音で振り返った俺の視線の先で、後方の座席が陥没し、そこから何かがうねうねと這い上がって来た。
それは、フイルムの触手だった。どうやら隠し部屋のさらに奥の、もう一つあった隠し部屋に溜まってた廃棄フィルム――それも、燃え易い事で悪名高いナイトレートフィルムが、生き物のように這い登って来たのだ。
程なく、摩擦熱か静電気かの為に、フィルムは燃え上がり始めた。
観客は逃げ惑っている。触手は逃げようとする人々を捕らえ、己の中へと取り込もうとしている。
「非常口が開かない!」
誰かの悲鳴に、よりパニックが進むかと思われたその時。
閉じられていた出入り口が開いた。
――いや、刃物で切り捨てられたと言うのが正しい。そこから、青年の声が呼ばわった。
「こっちだ!」
「順番に、外に出れます!」
ボッシュと、キーンの二人の声に、無事だった観客が出口に向かう。
そして俺に、キーンが銃を投げ渡した。
銃を受け止め、反射的に振り返った俺が見たものは、フィルムの触手に抱き抱えられたリチャード・ロビンソンが、恍惚の笑みを浮かべ、その腕に開かれた一冊の大きな本を抱え、そのまま天井に開いた窓に向かって、宙を登ろうとしている瞬間だった。
それを見た瞬間、俺は耳元で叔父の
「駄目だ!」
と、言う声を聞いたと思った。
だからそれは、本当に反射的な動きだった。
安全装置を外し、動く的の軌道を予測して、撃った。
叔父に頼んで、通った射撃場で磨いた射撃は、半ばフィルムの触手と同化しつつあったロビンソンの腕の中の冊子の真ん中を穿ち、彼の胸も確実に貫いた。
但し、使った銃は45口径で、初めてぶっ放した俺は衝撃で暫く肩が動かなかったが。
男は、笑顔のまま燃え上がるフィルムの海に沈んだ。
炎は意外なほどあっさりと消え、そしてそこには燃え残ったフィルム以外何も無かった。
遺体も、そして紙の一枚すらも。
「……それで、どうなったんだ?」
最後の当たり目のげそを齧りつつ、こちらを窺う一文字の顔は青い。
まあ、これまで行き当たったあちら側の事件と似たような事を、俺は学生時代に纏めて体験した訳だし。
「どうなったと言われてもなあ。
まあ、そんな騒ぎになったから、当然ながらイベントはそこで中止。
その後、警察の捜査が入って、フィルムが捨てられてた部屋が原因で、劇場全体の耐震精度が著しく低いって事が判って、劇場は取り壊されたよ。確か、集団住宅か何かになったんじゃ無かったかな?」
「その、劇場直してたボランティア団体とか、その『ロイス財団』とかは?」
あ、やっぱりそこが気になるか。
友人のマスコミ関係者故の視点に肩を竦めつつ、俺はあの後聞いた事を思い出した。
「うーん、『メトロアーツ』は依頼を受けて活動していた事、寧ろ内実を知りつつ『メトロアーツ』側に伏せていた出資者のリチャード・ロビンソンの怠慢が問題だろうって事で、解散にまでは至ってないよ。まあ、結構知名度的には痛手を負ったけど。
『ロイス財団』は、地元が庇ったって感じだったな。ロビンソンの事も、今回の騒ぎも一切関わりないって言い切ったのを、地元メディアと有権者の老人達が支持した所為で、一切調査出来なかったらしいよ」
「何それ、納得出来ない」
「俺もそうさ」
そう、だから俺は、当初の志望をFBIに切り替えたのだ。
ICPOより密接に捜査に関与出来る、そして都市警察より権限の大きな、より広い範囲で捜査が出来るFBIに。
因みに、『メトロアーツ』を救ったのは、お師匠の関係者が雇った弁護士だったらしい。
さもなければ、あの事件における責任その他を全部引っ被らされて、賠償金その他で叩き潰された恐れがある。
それから、恭一郎と公大とは、リチャード・ロビンソンの手のものらしい連中によって、郊外の廃屋に監禁されていたそうだ。
尤も、隠し持っていたナイフ――例の薙刀を打ち直したと言うあれだ――で拘束を破り、口封じに来た連中を叩きのめして、連中が乗って来た自動車でこちらに直行したのだそうだ。
「……でもさあ、滝さんや。あんた決して俺よりああいうのと縁が無いって訳じゃないんでしょ?
なのに何で今、ああ言うのに弾かれるようになったのかな?」
「うーん、……一つだけ、思い当たるような、思い当たらないような」
あの事件の後、痛めた肩を診る為に、お師匠が来たのだ。
軽く整体をしてくれた師匠は、俺の額にデコピンして、頭を撫で回しつつこう言った。
「お前、厄介な星の下に生まれたな。そうじゃなくても波瀾万丈だってえのに」
そして、たっぷり夕食――所謂日本魔改造料理こと、洋食のフルコースだ――を作って食わせてくれた。
それ以来だ。
大学でも時折感じていた、ある種の殺気交じりの視線が消えて、狂信者達の気配は半減した。その何だ、所謂ダゴン教団とかは寄って来なくなり、両親を追い掛けてる連中だけになったって事だ。
理屈は判らないが、非常に生活し易くなったのは事実だ。
「お前のお師匠様って、どんな人なの?」
「うーん、どんなって言われてもなあ。ああ、年齢不詳のワンマンアーミー?
一遍マフィアの抗争にぶつかって、一人で全員叩きのめした人だから」
「……あんたの周囲は、無茶しいしかいないのか」
ぼそっとそう言った友人に、空になった一升瓶や空き袋を片付けつつ言ってやる。
これぐらいは、良い筈だろう。
「一文字、良い事を言ってやろう」
「何よ」
「日本のことわざ。『類は友を呼ぶ』って言うんだと。
お前の無茶も大概だからな。……って、寝てんのかよ、お前」
あっと言う間に寝落ちた相手に溜息を吐きつつ、俺は予備の毛布を出してきた。
これで、俺の思い出話はおしまい。
明日から、またSHOCKERを追い掛ける日々に戻るのだ。
200X年、何処かの縁側にて。
「お前の弟子、大したもんだねえ。あの若造の精神操作を跳ねのけるわ、あの暇神に受けて立つわ」
「言ってやってくれるな。気力に関しては、あいつの苦労の結果、暇神はあいつの未だに遊び歩いてる親の因果、あいつ自身は迷惑してるんだから」
愛用のキセルに煙草を詰める、背広にパナマ帽の男の仕草に、故服で胡坐をかく男は苦笑いをする。
「何だ、兄貴の遺品もすっかり板についたじゃねえか」
「そりゃあ、二十年も使えば身に着くさ。まあ、だからあの若造観てると、兄貴殺したメンヘラクソガキ思い出して縊り殺してやりたくなるんだが」
十歳で生き別れになった年子の兄貴と、年に何回かしか付き合いがなかった筈なのに立派にブラコン拗らせた従兄弟の姿に、彼と十五違いの男は苦笑いしか浮かばない。
「止めろよ、お前の養子先は表向き神社だが、霊験確かな山岳信仰の拠点の一つだってえのは知ってるからな、お前に護摩焚かれたら、白人一人くらい簡単に死んじまうだろうが。そんな事になったらお前の孫泣くぞ、曾孫と一緒に」
「だあ!」
そう言って吠える従弟の頭を軽く小突くと、男は立ち上がった。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ」
「何だ、早いじゃねえか」
「博士に無理言って、お前が来るのに合わせて貰ったからな。お前も、もう少し時期併せて来い、時季外れはコスト掛かるんだから」
「俺にだって都合はあるんだ、無茶言うな。今回は孫の事があったから、礼を言いに来たんだから」
そうぼやく従弟に笑い、男はまるで砂が崩れるように姿を消した。
男は手付かずだった従兄のお茶を飲み干すと、帽子を脱ぎながら座敷に上がって仏壇の前に正座した。
「あんたが死んで十年。あの馬鹿との決着がついて五年か。
時間ってなあ、あっという間だな」
そう言って、パナマ帽を被り直した男は、鏑木・T・虎徹そっくりな顔で少しだけ泣いた。