ルルーシュは聡い子供だった。
それは知的好奇心が旺盛だとか、子供にしては察しが良いという程度を超えて、ともすれば他者に薄ら寒い印象を与えかねない賢さだった。
記憶力や直観力だけではなく、未来予知とも思えるような察しの良さに何より優れていた。
それは自身の願望や常識を傍に置き、純粋な客観性を持って事態を俯瞰する技術が生まれながらに長けていたことによる。
その察しの良さにより、ルルーシュは自分の立場の危うさや、自分の責務、罪の重さを既に9歳にして理解していた。
そして自分が普通の子供と比較して聡いということにさえ気づいていた。気づいていながら表向きには何も分かっていない子供のふりをして、多くの危険を無知さと幼さから回避する術を知っていた。
もはや痛々しいまでの賢さを理解しているのは、選任騎士候補のジェレミアだけだった。
だがそれだけ聡い子供であったルルーシュも、目が覚めた光景をすぐに理解することはできなかった。
目覚めたらそこは母の膝の上だった。それだけならまだ驚きはすれど混乱はしない。
ルルーシュが横たわっている場所は非常に狭く、見回すと銀色の機材に四方を囲まれている。
真上を見上げると、二児の母とは思えない薔薇のような美貌を誇るマリアンヌが自分を見下ろしていた。
「おはようルルーシュ」
いつ見ても怖い程に美しい顔だと思う。女の持つ可愛らしさを極限までそぎ落とした、純粋な美しさだけを残した顔だ。掘りの深い顔は迫力があり、黒い瞳で見据えられると一歩後ろに下がりたくなる威圧感がある。
艶然とした微笑みを向けられ、ルルーシュはそこに苦い毒を感じ取った。あまりに美しいものは等しく危険なものだとよく分かる顔立ちだと思った。
起き上がって辺りを見ると細々とした計器が所狭しと並んでいる。KMFのコックピットだ。見覚えがある機体で、以前母に乗せてもらった母専用のKMF、ガニメデなのだと分かった。
あの時はただ静かな駆動音を鳴らせていたガニメデは、今は唸り声を上げてカメラを真っ赤に光らせている。後部カメラには人だった残骸がぽつぽつと落ちている光景が映っていた。非現実的な光景に自分の頭から血の気が引く音を聞いた。
喚きだしたい衝動を、子供ながらに持ち合わせたプライドの高さで押し殺し、できるだけ抑え込んだ声色で母に問い質した。
「ここはどこですか?」
「EUの第6駐屯地近くよ。ほら、ちゃんと外見ておきなさい。いつ何時も情報収集は大切よ」
KMFの正面カメラ画像を見た。死屍累々が積まれていた。
恐らくはEUの街中なのだと思う。右のカメラにはスーパーが見え、左カメラには植木が立ち並んだ大通りが見える。立ち並びだけなら普通の商店街だ。だがその様相は、日常生活を思い起こすことは不可能な程に荒廃していた。
看板や壁、アスファルトの地面、電柱、全てに無数の弾痕が残っている。そして地面に落ちている軍服を着た死体。人形かと思うほどあちこちに無造作に落ちている。死斑も無く、数時間以内に死んだのだろう。見ているだけで硝煙と血の臭いを感じる。
その中をまっすぐに行進するガニメデの足元。そしてその足元にはブリタニアの軍服を着た兵が直立不動で立っていた。
ライフルの銃口を前と横に向けて、ブリタニア兵はKMFの陰に隠れて行進している。彼らもKMFも、足元に転がるEU兵の死体を無造作に踏みながら歩いていた。ガニメデが死体を踏むたびに後部カメラに真っ赤な血の池が映る。赤黒い血溜まりに白い骨と黄色い脂肪が水玉模様のように浮き出ていた。
数歩進む度に、ガニメデは足にこびりついた血と千切れた内臓を振り払った。水を被った犬が体を震わせるような愛嬌のある仕草はかえって恐ろしかった。
「おぇ゛っ」
吐き戻しそうになる口を両手で覆い、カメラを食い入るように見上げる。今すぐ視線を逸らせとルルーシュに命じる理性を好奇心が嬲り殺しにする。
ルルーシュを膝に乗せたマリアンヌも、それに付き従う兵も日常茶飯事のように表情一つ変えず進軍を続ける。ガニメデは死体を踏み台にして黙々と進む。殉教者のような一団の行進は整然と押し進み、何もかもを飲み込んでいく。
人の命さえ、道端に転がる石ころと同じように。
ここは戦場の最前線。命の価値が世界で最も軽い場所。
吐瀉物の生暖かい感触を手のひらに感じて涙目になりながら、ルルーシュは頭をぐるぐると巡らせた。
なぜマリアンヌはこんなところに自分を連れてきたのだろう。軍務が課せられるには早すぎる9歳の皇子に戦場経験は必要ないだろうに。
胃の内容物を全て吐き戻しそうになるのを抑えて声を絞り出した。
「お母様、何で私を、こんなところに」
「それはどういう意味かしら?」
首を可愛らしく傾げるマリアンヌにルルーシュは声を荒げた。
普段年齢に見合わぬ冷静さを誇るルルーシュだが、幼い精神は目の前の情景に耐えきれず軋み始めていた。
「未だ軍務に就いていない私を、こんなところに連れてきて!何の用だと聞いているんです!」
「ああそうね。そろそろルルーシュも軍務に就任するころかしらと思って連れてきたのよ。シュナイゼルも確か初任務は12歳だったから、早すぎるってことはないでしょう?」
「幼年の皇族に課せられた軍務は形式上のものでしょう!?」
「そんなぶっとんだ頭脳しておいて何が幼年よ。単純な頭脳だけならもう成人男性とそう変わりないわ。皇族だというなら義務を果たしなさい、ルルーシュ」
何を言っているのだこの女は。
目の前の、自分を生んだ女が生まれて初めて人とは違う異物のように見えた。
まだ自分は9歳だ。そのことに焦れる気持ちはあるし、既に軍師として名を馳せているシュナイゼルに劣っていることへの苛立ちもある。だがそれは、いずれ来る戦場で返上して見せるという気持ちがあった上での感情だった。
まだルルーシュは自分を子供だと認識していた。それは正しい自己認識だった。ルルーシュは自分が子供でないと粋がる幼稚さは持ち合わせておらず、大人と同じように働けると自信を持つ程に傲慢ではなかった。
ルルーシュが言葉を失っている間に、突如画面に現れた数値を見てマリアンヌは唇を吊り上げて笑った。
「ここから第8駐屯地まで行くわよ。第6駐屯地あたりの兵はすでに掃討済みだけど第7周辺がひどいわね。第8はそもそも敵兵が少なかったおかげで被害はそれほどないらしいけど、トップがしっぽ巻いて逃げちゃったからやばいわねえ」
言い終わると同時に、正面カメラに映るビルの陰から銃口と手だけが出てきた。手にはライフルを持っている。カメラがその人物を拡大する。ぴたりとこちらに銃口を向けていた。それが奇妙にゆっくり見えた。
「ひっ」
カメラ越しとはいえ、銃口を初めて向けられた。自分の頭蓋に突き付けられている感覚がした。
死ぬ。怖い。嫌だ。死にたくない。いろんな思いが脳髄を走る。叫びだしたくともそんな余裕さえ無い。コックピットがこんなに狭くなければ手足をめちゃくちゃに振り回しながら喚いたと思う。銃口はすぐに火を噴いた。
前方から銃弾が装甲にぶち当たる音がけたたましく響く。これまで聞いたことがない類の音だった。怖かった。
マリアンヌは心底楽しそうに笑い始めた。
「量産型ならともかくオーダーメイドのKMFの装甲がM16程度で傷つくわけがないでしょう?いちいち怯えていたら心臓がびっくりして止まっちゃうわよ、ルルーシュ」
マリアンヌは血管が浮かび上がる程に両の手を湧き立たせ、KMFの操縦桿を握りしめた。閃光で一瞬画面が真っ白になって見えなくなった。次の瞬間には、ビルの端ごと吹き飛ばされた敵兵の上半身が、道路の真ん中まで吹き飛んでいた。
それから30分、ガニメデはただ破壊の限りを尽くした。
第7駐屯地は敵兵が多く、アサルトライフルだけでなくRPGや対戦車ミサイルを持った敵兵に囲まれたが、ガニメデにはほとんど傷がつかなかった。戦争ではなくマリアンヌによる一方的な虐殺であり蹂躙であった。
ルルーシュは母の膝の上で丸まっていた。
こうして安全な場所で安穏としている自身の身が情けない。
EU兵を殺しているのはブリタニア兵で、正しくはクロヴィスの直轄だが、広義ではルルーシュの部下だ。だが自分は何も知らず、何も知ろうとしなかった。部下が大量に人を殺しているというのに。これはブリタニア皇族たる自分の責任の上であることなのに。
生きているだけで責任がある。何かに対して。それは誰でもそうだ。
何かを食べたり、飲んだり、行動したり、買ったりすることへの責任。それは生きることであったり、金を払うことであったり、職務を遂行したりすることで果たすことができる。ブリタニアの皇子として生きることに対して、自分は何らかの責任を果たさなければならない。
だがそれは、いずれどこぞのエリアを治めることで果たせると思っていた。だが違う。断じて違う。
そんなことをして根本的な責任を果たせたとは言えない。一体何人これまで死んで、自分は何人殺してきたのだろう。
「そろそろかしらね」
随分と時間が経った気がする。しかし計器の一つに視線を向けると、まだ1時間も経っていなかった。体感的には既に数日間、この狭いガニメデに閉じ込められていたような気がした。
KMFが停止したのは大きな道路のど真ん中だった。辺りにはブリタニア兵しかいない。マリアンヌはコックピットを開けた。視界が一気に広がった。硝煙の臭いが鼻を突いた。
マリアンヌはルルーシュを抱えたまま飛び降りて地面に降ろした。長いこと地面に足をつけていなかったせいで力が入らず、すぐによろけて地面に座り込んだ。
ここらは襲撃の被害に遭わなかったのかあまり死体が無い。ただ空襲があったのかコンクリートの大きな破片がそこかしこに落ちていた。
もう立ち上がる気力が無いルルーシュは地面に這いつくばって、仁王立ちで立ち塞がるマリアンヌを見上げた。
母は微笑みながらルルーシュを見下ろした。
「もう察してると思うけど、ここはEUのブリタニア第7駐屯地よ。約6時間前、ブリタニア第7駐屯地を中心にEUに存在するブリタニアの駐屯地が空爆されて応援要請が下ったの。それで私は平和に眠りこけてる貴方を担いでここまで飛んできたってわけ」
「———何故ラウンズではなくお母さんが出撃しなければならなかったのですか」
「みんな出払ってたのよ。同時多発的に他の駐屯地も襲撃されちゃって。計画的な爆撃だったみたいねえ。それでルルーシュ、どうして爆撃は成功しちゃったのかしら?どう思う?」
はしゃぐマリアンヌを呆けた目で見上げながらルルーシュはゆるゆると口を開いた。
脳みその半分が死んでいるようで全身が怠い。しかしそれと同時に、全身が痛いほど冷めていた。
「ここは最前線ではありません。前線からここまで発見されることなく飛行してくる爆撃機があるとは予想されていなかったのでしょう」
「そうね。でもブリタニアは空襲に対してレーダーも対空砲も準備していたわ。でも空襲は成功してしまった。それは何故?」
「……対空砲の自動追尾機能は起動していたんですか?」
「起動していなかったのよねー、これが。それは何故?」
「レーダー誘導に不備がありましたか?」
「あったわ」
「いつから不備があったのですか?」
「いつからかしらね。でも配備した時にはちゃんと起動していたわよ」
「セキュリティに問題は」
「無かったわ。ハッキングの可能性はゼロ。もしあれをハッキングするような技術があったら、とっくにガニメデもハックされているでしょうね」
「スパイか裏切りでしょうか。自動追尾機能は本部から操作可能ですから、内部犯が協力者であれば同時多発的に爆撃のタイミングを計ることも可能でしょう。EUは本国から離れている戦場ですから、外部の人間が紛れ込みやすい下地もあります」
「正解よ」
マリアンヌはベルトに挟んでいた銃をおもちゃでも渡すかのような動作でルルーシュへ放り投げた。
受け止めると、思ったよりも軽い。女子供でも撃てる小型の拳銃だった。マリアンヌには似合わない。きっと自分に渡すために持ってきたんだろう。
マリアンヌが手で合図すると、ブリタニア兵が1人の男を引きずってきた。散々に破れた軍服をなんとか被っているような、みすぼらしい男だ。埃と泥に塗れて薄汚れている。
男は目の焦点が合っておらず、涎を口角から垂らし、既に正気の埒外のようだった。
「ブリタニア第7駐屯地第3部隊の部隊長。階級は大尉。この大尉一人の裏切りによって民間人含めて80人が死んだわ。こいつはどうするべきだと思う?」
「軍法会議で裁くべきでしょう」
当然だ、とルルーシュは思う。緊急事態を除き、誰にだって裁判を受ける権利はある。
人権は保護されなければならない。それは人のためでなく、自分のために。
他者の人権を擁護するよう最大限の努力をすることは皇族にとって、後からの責任追及を避けるための最低限度の義務だ。
しかしマリアンヌは不満げに眉根を顰めた。
「こいつのせいでたくさんの人が死んだのに、こいつだけのうのうと裁判なんて受けさせてあげるの?」
「どうせ銃殺刑になります。温情というわけではありません。それよりもこの事態の詳細を暴くべきです」
「むかつくほどの正論ねえ。じゃあこいつがジェレミアを殺していてもそう思う?」
ルルーシュは目を剥いてマリアンヌを見た。マリアンヌは変わらず艶然と微笑んだ。
本当なのか嘘なのか分からなかった。しかし脳裏にジェレミアの姿が浮かんで、脳の半分が沸騰した。
ジェレミアは一昨日EUに送られた。そのことは本人から聞いている。
どこに配属された?
フランス第8駐屯地。襲撃された基地のひとつ。
このたった6時間の間に死んだ可能性は十分ある。
でも、まさか。まさかあいつに限って。
勇名をはせるゴットバルト家嫡男らしく、騎士然とした微笑みを浮かべながらルルーシュの歩幅に合わせて歩く姿が思い浮かぶ。
ジェレミア・ゴットバルトという人間は、家族以外で唯一自分を気にかけてくれる貴重な友人であり、部下であり、騎士候補だった。
異様な速度で成長するルルーシュの頭脳に怯えず、庶民の出と嘲る事もなく、緩やかで温かい敬意と親愛を向けてくれる。
畏れ多いという態度をとりながらも、ルルーシュの頭を撫でてくれる唯一の人だった。
だがその手はすでに無いのか。
視界が鈍く黒ずむ。
急速に色を無くしていく視界の中で、みすぼらしい軍服を着た男だけが明瞭な輪郭を持ち、白黒の世界の中心に君臨している。その男を視界に映すだけで鈍くなっていた思考回路が動き出す。自分が何をしたいのかが分かっていく。バレッタのグリップを握りしめる。
ルルーシュはこの瞬間、これまで生きてきた世界が崩落したことに気づいた。なんて生温い世界に自分は生きていたのだろうか。
いやらしく唇を震わせながらマリアンヌは零れるように話し続けた。
「ねえ、どうなの?やっぱりこいつは軍事裁判にかけるべき?罪の大きさは一緒よ、何も変わらないわ。こいつが殺した80人の中の一人が自分の大事な人だったっていうだけで対応が変わるのはおかしいわよね?それは間違っています!罪の過多を計量するのに私情をまじえてはいけません!自分が巻き込まれていなくて、武力を持っていなかったら誰だってそう言えるし、それが正しいわ、ルルーシュ」
マリアンヌの手がルルーシュのそれに重なる。マリアンヌの手は撃鉄を起こし、ルルーシュの手の平の上からセイフティーを押し込んだ。指先が引き金にかかった。
「裁判所では罪の過多を客観的に量るべきとされる。でも客観って何?自分の眼から見るものはすべて主観的なものよ。ならこの世に客観的なんてものは存在しないわ。あるのはあなたと私。私と私以外のもの。世界は主観で成り立っているの。私に関係ないものはどうでもいいけど、私に関係あるものは絶対に許せない。誰でも人間そうなのよ。客観なんてものは、自分にとってあんまり重要じゃないことっていう意味合い以上のものを含まないわ」
「ジェレミアは」
「さあ、どうでしょうね」
マリアンヌはルルーシュの腕をつかんで立たせた。不思議と自然に立ち上がることができた。マリアンヌの手がなくなっても、手は痛いほど銃のグリップを握りしめていた。
目の奥が痛い。脳の奥が沸騰する。血液が燃えている。
自分の感情と、肉体と、理性が一つの塊となってここにある。視界はあまりに鮮やかで、肉体の感覚は研ぎ澄まされていた。
ルルーシュはこの瞬間に自分の輪郭を悟った。肉体は感情の器であり、触手のように伸びる感覚は感情の支配圏にある。
感情のために生きるのだ。感情のために肉体があり、理性がある。
今、自分はここに生きている。
「そいつを解放しなさい」
命令されたブリタニア兵は少し逡巡した後に男から離れた。男は地面に突っ伏した体勢のまま犬のように唸り、震える腕で上半身を起こした。途切れ途切れに聞こえる言葉は酷い吃音のせいであまり聞き取れなかったが、悪態ばかりをついていた。
マリアンヌは自身が持っていた銃を男に投げた。銃は男の顔面にぶつかって地面に落ちた。慌てる兵をマリアンヌは押しとどめ、男が緩慢に銃を構えるのを見ていた。
「ねえルルーシュ、私はあなたに期待しているの。ナナリーに対してとは全く違う期待だけど、それも一つの大事な可能性だわ。私とシャルルが諦めてしまったものを、あなたはやり遂げてみせるんじゃないかなって思うの。人間はどうしたって主観的な生き物だから、他の人間を本当に理解することはできないけど、でもそれでも他者との理解に一つの結果を出せるんじゃないかって思うのよ。あのお兄様は絶対に認めようとはしないでしょうけどね」
男と目があった。淀んだ目は小さな仕立ての良いスーツに身を包んだルルーシュを見て何を思ったのか、銃口を向けてきた。
ルルーシュは引き金を引いた。弾は男の手首に命中し、手首が半分ちぎれた。銃が男の手から離れる。
続けてもう一発発砲した。肩に当たった。血が吹き出る。男はのけぞって地面に倒れた。
近寄ると、男は眼球だけを動かしてこちらを見た。陸にうち上げられた魚のようにぱくぱくと口を開閉しながら、同じ単語を何度も繰り返していた。聞き取りにくかったが、死にたくない、と言っていたように思う。
発砲する。眉間に命中した。男は動かなくなった。
地面に座り込んだ。手のひらが痛い。発砲の反動はほとんど無かったが、グリップを握り締め過ぎて筋肉が悲鳴を上げている。空気が冷たく感じられた。喉が乾燥して痛い。
今ならなんでもできると思った。体が随分と軽い。空はこれまでよりもっと高くなり、地平線はどこまでも続いているような気がした。
これが戦うということなのだろう。
マリアンヌは拳銃を構えたまま動く様子のないルルーシュの肩を叩いた。
「さっき連絡したから、ジェレミアはあとちょっとでここに来るわよ」
銃を取り落とした。手のひらの痛みがどこかに消えた。
思わずマリアンヌを振り返る。マリアンヌは庭で紅茶を飲んでいるときと同じ、しかし今となっては毒草のように見える笑みを浮かべていた。
「生きているんですか?」
「一言もジェレミアは死んだなんて言ってないわよ?」
飄々とマリアンヌは首を傾げた。
この女狐と罵りたくなる衝動が煮えたぎった。しかしもっと膨大な感情がルルーシュに湧き上がった。
生きている。
ジェレミアはこの世界でまだ呼吸をしている。
この命がどこまでも軽い戦場で、まだジェレミアは地面にしっかり足をつけて生きているのだ。
脱力してぺたりと地面に座り込んだ。
頭を殴りつけるような安堵に、いつの間にか止まっていた呼吸が再開した。瞼が熱い。
呼吸が熱い。ああ、ああ。ルルーシュは意味にならない音を口から出した。
「よかったあぁ」
しゃくりあげながら溢れる涙を拭う。
鮮明になった視界の中心に、血をまき散らしながら地面に倒れた男が映った。
そういえば自分はこの男を殺したのか。だが浮かんでくるべき憐れみは無く、大事な人が生きていた安堵感だけが胸を占めていた。
そこいらに落ちるコンクリートの破片。死体。鉄の臭い。腐った肉の臭い。自分が殺した男の死体。
先ほどまで身を苛んでいた吐き気はいつの間にか無くなっていた。
■ ■ ■
空を見上げ、瞬きもしないルルーシュに駆け寄る。体中が血塗れで、いつも淡いバラ色をしている顔は蒼白だった。
「ルルーシュ様、ご無事で!?」
「ああ、無事だよジェレミア」
唇の端だけで笑ったルルーシュは、しかしあまりに様子がおかしかった。いくら聡明でもルルーシュはまだ子供だ。虫に怖がり、屋根に上っては怯え、ビスマルク卿に叱られては涙目になったりした。
だが目の前のルルーシュは子供には見えなかった。うっすらと細めた瞳は周囲を睥睨し、圧倒する迫力を漂わせている。全身から立ち上る気迫はシュナイゼルと似通っていた。
だが初夏の風のようなシュナイゼルが纏う空気と、ルルーシュの雰囲気はまるで違う。ルルーシュが発する圧力は嵐のように重苦しく、近寄るだけで体が凍えた。
ジェレミアは傍に立っていたマリアンヌに詰問した。
「マリアンヌ様、ルルーシュ殿下になにを、」
「ジェレミア、その子を第8駐屯地の司令官に任ずるわ。私は帰るから残党処理はその子にさせてね」
「は!?」
この女は何を言っているんだろうか。
ジェレミアは敬愛しているマリアンヌの正気を生まれて初めて疑った。
マリアンヌは道路の真ん中に立ち塞がっていたガニメデに乗り込み、何事も無かったかのように立ち去ろうとした。
「お、お待ちくださいマリアンヌ様!まだ残党は残っておりますし、それに今回はあくまで奇襲です!この機に乗じてEU兵が前線を押し上げてこようとしてくるのは明白、第6,7駐屯地の司令は既に戦死しており、」
「その子なら大丈夫よ。もう平和馬鹿も治ったでしょ?ルルーシュ」
「ええ」
ルルーシュはふらつきながらも立ち上がった。顔は真っ青だったが、見る限りで負傷は無い。
しかし身体的な負傷以上に、こんな大量の死体を見て9歳の子供の精神が無事である筈が無い。そんな子供に人を殺す仕事をさせるとは、もはや虐待を超えた何か、悍ましい行為だ。
一刻も早くアリエス宮に戻り、メンタルケアを受けさせるべきだとジェレミアの理性は訴えていた。だが一方で、あまりにも冷静に過ぎるルルーシュの態度に背筋が凍るような違和感を感じた。
確かにルルーシュは人より聡い子供だ。しかしその性格は悪戯好きでひねくれているが、決して冷酷ではなく、むしろ優しい心遣いができる少年だった。
少なくとも今の様に、酷薄な表情を浮かべて鼻で笑うようなことはできなかった。
「やってみせましょう。お母様は他の戦線の補助を」
「ルルーシュ様!?」
「ジェレミア、お前には私の補助を任ずる。状況の説明を」
「しかし!」
「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが命じる」
うっすらと細められた瞳にジェレミアの体が止まった。いつものルルーシュのおふざけとは全く違う、薄ら寒い威圧感があった。一昨日まみえた、子供らしい顔つきをした悪戯好きの皇子はそこにはいなかった。
そこにいたのは王様だった。その王様はジェレミアの顔を見上げ、大きな目を見開いてジェレミアを一心に見据えていた。
「ジェレミア、俺を信じてくれ」
狡い、とジェレミアは思った。
ジェレミアは目を伏せ、地面に跪いて首を垂れた。
「イエス、ユアハイネス」
その返事にルルーシュは満足気に頷いた。
「よし、拠点に案内しろ」
「は、すぐに」
去っていくガニメデに目もくれず、ルルーシュはジェレミアを伴って煙が立ち上る建物へと向かっていった。