日本に来てから1週間になる。予想以上にブリタニアに対しての日本人の敵意は強かった。
罵倒されるのは当たり前。道を歩いていれば唾を吐きかけられ、ゴミを投げつけ、理不尽な理由で殴られるのも日常になっていた。
隙を見せた方が悪いのだと言わんばかりに容赦の無い暴行を加える日本の市民は、その行動が善か悪かは置いておいて、正視に耐えられない程に醜い。何をしていようとも、自身が絶対の正義だと思い込んでいる人間程に悍ましいものはない。それはとどのつまり他人への容赦が無く、自分本位であるだけなのだから。
そう考えると目の前の少年は以前に対面した時より随分とマシな容姿になった。
「ごめんなさい」
土蔵の前で貢物として持ってきた大量の野菜や調味料を前にスザクは正座していた。
その前にはルルーシュが仁王立ちで立ち塞がっている。
「は?申し訳ございませんスザク様。ブリタニア人は日本人と違ってあまり耳が良くないのです。もっと大きな声で言っていただかないと聞こえませんね」
「ごめんなさい!」
「ほう。腹を殴って地面に這いつくばらせた挙句蹴り飛ばしておいて、ごめんなさいの一言で済むと思っておられるとは。日本人はとても心優しい民族なのですね」
「ごめんなさい!反省しています!」
「言葉でごめんなさいと言うことはいくらでもできますよね。行動で誠意を見せて頂かないと。こちらも許したくとも建前がございますからね」
「じゃあどうすればいいんだよ!」
うがーと頭をかくスザクをルルーシュは鼻で笑った。
変わらず口は悪いが、知性の無い野蛮人から短絡的な野蛮人ぐらいにはランクアップしてやってもよい。
一度敵だと思った相手に謝罪するのは難しい。男であれば尚更だ。さらにスザクは名家の出身であり、自分の非を簡単に認めるような性格でないことは容易に分かる。
しかしスザクは1週間かけて、相手がブリタニア人であろうと一方的な暴行を加えたことは悪いことだったと判断し、悪いことをしたのならば謝らなくてはいけないと考え、実際に謝罪にきた。その勇気と行動力は評価しなくてはならない。
日本で1週間過ごすと、スザクのように「ブリタニア人だから」と暴力を揮う人間は少なくないことに嫌でも気づく。スザクは子供だ。それも自分のように社会に晒されていない、まっさらな子供でしかない。周囲の人間の影響を、大人では想像できない程に受けるのもしょうがないことだ。
しかしスザクは考え、周囲の影響を跳ねのけてこうして謝罪に来た。
ルルーシュはスザクに対しての怒りがやや鎮火するのを感じた。
「———許してほしければ、ここに毎日新聞を持って来て下さい」
「新聞?」
「そうです。あとラジオかテレビもあればいいですね」
「新聞はどうせ父さんが読んだら捨てちゃうし。ラジオなら使ってないのがあるけど」
「それでいいです」
満足気にルルーシュは頷き、貢物として献上された野菜に果物、調味料を眺める。両腕に抱えられない程段ボールに詰め込まれた大量の野菜を、さてどうやって持って入ろうかと悩む。
するとスザクがおずおずと口を開いた。
「あの、よかったら持とうか?」
「いえ大丈夫です」
「でも結構重いよ」
「この程度なら問題ないです」
野菜が入った段ボールを両腕に抱える。そのまま両足で踏ん張る。
段ボールは地面から3cmほど浮き、2秒後に落下した。そのままぷるぷると震える。筋肉が痛い。
「………やっぱり持とうか」
「煩い!」
「持つよ、ルルーシュ見るからに貧弱だもん」
貧弱。
面と向かって言われた言葉に衝撃を受けてルルーシュはそのまま地面に沈んだ。
「貧弱、貧弱だと……そりゃあビスマルクやジェレミアと比べれば筋力は無かったが、でもあれは大人と比べたからで、同年代と比べれは俺はそんなに貧弱ではない……筈だ。そうだこの野蛮人が規格外に逞しいだけで、俺は平均的な筈だ……」
「ちょ、野蛮人って何!?」
「聞き間違いでございます。お気になさらずスザク様。そしてそれを置いたらさっさとお帰りになって下さいませこんなところに入り浸ってはお父様も心配されますよさあさあさあ」
軽々と持ち上げた段ボールを土蔵に運び入れたスザクは、急き立てられるようにルルーシュから外へと引っ張りだされそうになった。
「何だよ!せっかく野菜とか果物とか調味料とか持ってきたのに!」
「それは本当に感謝しております」
これは本当だ。
ゴミ捨て場からフライパンや鍋、それに食器やガスコンロを拾うことはできたが、肝心の調味料が無ければ食べられるものは作れない。
多少の日本円を持ってきてはいるが、そもそもブリタニア人が日本人が営むスーパーで買い物をすること自体が困難を極める。店の入口に立った瞬間に金を盗られた挙句、石を投げつけられるのがオチだ。
森で山菜を取って食べてはいるが、このまま味が無いものを延々と食べ続けるのは精神的にも良くない。さらに塩分や糖分が安定して摂取できないのは死活問題だ。
スザクが台所からくすねた調味料は二人にとり貴重なものだった。
「お兄様、スザク様をあまり虐めないでください」
スザクにも聞き取りやすいようナナリーはゆっくりと一単語ずつ分けて喋った。
首を傾げるスザクが理解していないことを察してルルーシュが日本語に訳すと、突如としてスザクは得意げに胸を反らした。
「ほらナナリーもそう言ってるんだから!」
「ナナリーは優しいからそう言っているだけだ!スザク様は日本人らしく少しは謙虚になられてはいかがですか!?」
「だから謙虚に謝りに来たんじゃないか!」
「それは謙虚じゃない!当然の誠意だ!」
喧嘩のようなやりとりをする二人をナナリーはくすくす笑いながら見ていた。
これまで年上の貴族や兄弟に囲まれていたルルーシュが、こうして同年代の少年と対等に話しているところを見るのは初めてだった。それなりに仲良くしているのを見ると相性が悪いわけではないのだろう。
初対面はとても怖かったスザクだが、こうして話してみると元気いっぱいな優しい人だ。
やっぱりユフィ姉さまが言っていた通り、話し合えば人種に関係なく誰でも仲良くなれる。
話し合う機会さえ作れば、戦争なんて起こらないのだ。
ナナリーの仲裁でスザクを追い出すことを諦めたルルーシュは、段ボールから調味料だけを取り分けて料理するスペースに持って行く。
着々と土蔵に物を増やしているルルーシュにスザクはむくれて頬を膨らませた。
「なんだよ。毎日枢木の家でご飯を食べればいいのに。父さんもそうしていいって言ってたし」
「あまり枢木家に面倒をおかけするわけにも参りません。できる限りは自活していきたいと思っているのです」
「別にご飯ぐらい面倒でもないよ」
「———気分の問題です。お気になさらず」
「……他に何かやることある?」
「いえ、大丈夫です」
「いいよ。暇だし。やるよ」
「それよりスザク様はお勉強なされた方が良いと思いますが。特にブリタニア語を」
「なんだよ」
「ナナリーと話がしたいのなら、努力するべきではないかと申し上げたまでです」
日本語を流暢に話すルルーシュは、未だにナナリーとちゃんと話もできないスザクを鼻で笑った。
日本はブリタニア語の教育が進んでいないと聞いていたが、スザクのブリタニア語能力は予想以上の有様だった。もしかしたらスザクが日本人の平均より馬鹿なだけかもしれないが、それにしても日常会話レベルでさえまともに喋れない有様は首相の子供とは思えない程に酷い。
このままではスザクがブリタニア語を理解できるようになる前にナナリーが日本語をマスターする方が早いだろう。
「父さんみたいなこと言うなよ」
段ボールに詰めた野菜を一つ一つ取り出す。
足の速い野菜はすぐ裏の川に浸ける。塩漬けにできるものはすぐにしなければ、明日には腐ってしまうだろう。
野菜を切って、塩をまぶして保存する。今日食べられるものだけはすぐに調理した。
「何作るの?」
「野菜スープです」
「肉は?」
「スザク様がお肉を買って来て下されば、お肉を入れた料理を作りましょう」
オーブンどころかレンジもないここではレパートリーに限りがあるが、それでも成長期のナナリーにタンパク質は必要だ。3日に1度は枢木家の本邸に泊まっているため、その時にちゃんとした食事は摂取できているが、十分とは言えない。
ここで肉が調達できればいいのだが、野生の獣を捕獲するには罠が必要になる。道具を作るにしても時間がかかる。スザクが買って持って来てくれるのならばそれが最も効率が良い。
「スザク様、明日私の代わりに買い物に行っては下さりませんか。もちろんお金はお支払いします」
「ルルーシュが行けばいいだろ」
「ブリタニア人が日本人の前に顔を出すと面倒事が起きるでしょう。ナナリーを一人にしておくのも心配ですし。お釣りは差し上げますから」
「いいけど……条件がある」
スザクはルルーシュを睨みつけた。枢木スザクからの条件という言葉に野菜を切る手を止めて澄んだ翠眼を睨み返す。
短絡的な子供だからと調子に乗って要望を言い過ぎたか。小出しに少しずつ要求していくべきだった。
舌打ちをして立ち上がったスザクを見上げる。裏手で包丁を握り締めた。
スザクは突き刺すようにルルーシュを指さした。
「その口調、止めろ!」
「———その口調とは?」
「その偉そうな喋り方!」
胸を張って宣言したスザクに溜息を吐いた。
これまで周囲にこんなタイプの人間はいなかったため調子が狂う。スザクの行動は理解不能なスザクマイルールに則っているせいで全く予測できない。
「……偉そうとは心外な。私はあくまで枢木ゲンブ様のご子息である枢木スザク様に敬意を表して敬語を使っているまででございます」
慇懃無礼に頭を下げる。とりあえず馬鹿にされていることは理解したようでスザクはさらにむくれた。
「父さんは関係ないだろ!」
「私共は枢木ゲンブ様に保護されている立場ですので」
「じゃあ命令だ!敬語禁止!」
ふんぞり返るスザクに、面倒くさい男だなと評価を下す。
しかしこの程度で明日から買い出しに行ってくれるというのなら安いものだ。包丁を握り締めた手から力が抜けた。
「分かった、スザク」
「それでいいんだ!」
偉そうな態度に、こいつは謝罪にやってきたのではないかと首を傾げた。
夜になり、本邸でナナリーと食事をとる。スザク、ルルーシュ、ナナリー、そして枢木ゲンブと4人で食べる夕食は和気あいあいとまではいかないが、悪い雰囲気ではなかった。
枢木ゲンブは滅多に口を開かないが、ぽつぽつと仕事の話をしたり、他愛ない質問を子供たちにすることもある。
厳格な父の前ではスザクも大人しくなるようで、昼間のジャイアニズムは鳴りを潜め、できるだけ行儀よく食事をしようと姿勢を正して箸を使っている。
昼間のガキ大将ぶりを既に知っているルルーシュからしてみれば、頑張って食事の作法を守りつつ食事をする姿は父親に認めてもらおうと必死なのがあからさまで微笑ましい。
「ルルーシュとナナリーが来てから、父さんと食事をする回数が増えたんだ。これまでは仕事が忙しいからって一緒に食べられなくて」
楽し気に話すスザクにルルーシュは笑みを返した。
ゲンブは表情を変えずに黙って食事をするのみだったが、それでも会う回数自体が少ない父親とこうして会えるのはスザクにとり大切な機会なのだろう。
食事が終わり、スザクと一緒に枢木家本邸の一室にナナリーを送る。
スザクは小脇に絵本を挟みながら、既に慣れた手つきで車椅子を押した。
「お兄様。今日も枢木首相とお話ですか?」
「ああ。すまないなナナリー」
「いえ、私は大丈夫です。スザクさんが今日は日本の絵本を読んでくれるそうなので」
「……俺はブリタニア語の勉強ができるし、ナナリーは日本語の勉強ができるだろうから」
でも、とブリタニア語と日本語の絵本を脇に抱えたスザクは気に入らないという目つきでルルーシュを見やった。
「そうむくれるなスザク。ブリタニアの動向が日本に大きな影響を与えていることは知っているだろう。俺はブリタニアの皇子として、首相と話があるんだ」
「でも父さんは俺に仕事の話なんてしてくれないのに…」
「お前はまだ子供だからな」
「ルルーシュは俺と同い年だろ!」
「俺は9歳から軍務に携わっていた。さらにブリタニアにいたころ付いていた家庭教師から大学卒業レベル以上の学力はあると認定されている。お前はまだ義務教育期間内。成績は中の下。以上」
鼻で笑う。スザクはさらに顔をむくれさせた。
「ふん、いいさ!今日はナナリーとブリタニア語の勉強をするんだから!行くよナナリー」
「お願いしますスザクさん。お兄様、枢木首相に本日も泊めて下さったお礼をお伝えください」
「勿論伝えておくよナナリー。おやすみ」
「おやすみなさい、お兄様」
ドアが閉まる。
ルルーシュは一度深呼吸をした後、バスルームに向かった。
枢木邸内をふらふらとうろつく。事態の発覚を恐れたゲンブによって警備兵が退去されたため、ルルーシュを止める者はいない。
首相の住居たる枢木邸には強い外部からアクセス制限が敷かれている。しかし枢木邸内であればシステム介入は容易だ。端末が設置されている適当な部屋に入り、起動させた。光る画面を前にキーボードを叩く。
数分で到着したシステムの中心部にこっそりと入り込み、簡単な仕掛けを施した。本当に単純な仕掛けだ。
使う時が来るとは限らないが、しかし保険はある方が良い。
ルルーシュは端末から全ての証拠を抹消し、キーボードから扉まで全ての指紋を消して部屋を出た。
そのままの足でシャワールームに向かい、熱いシャワーを浴びる。全身を洗い流して汚れを全て落とした。最後に肌が白く見えるよう冷水を浴びて、バスルームから出てよく水分を拭きとる。
脱衣所の姿見の前に立つ。
まだ未成熟な裸体を映して、網膜に擦り付けるように眺めた。恥などない。
これは戦争だ。自分と枢木ゲンブの、1対1の戦争だ。であれば、結果が全ての筈だ。
最後に勝つために手段は選ぶ必要が無い。選ぶ気も無い。
どうすれば美しく見えるか。表情の変化、首の角度、腕の動かし方から歩き方までシュミレーションを繰り返す。
目の前に立つ女とも少女とも少年とも言い難い外見の生物が、どうやったらもっと美しく見えるだろうか思考の全てを使って考える。
そうやって考えていると体が物質のように思えてくる。つまり体は道具なのだ。拳銃と同じだ。
より無駄なく賢く使った方が勝つ。
「よしっ」
頬を両手で張り、気合を入れて枢木ゲンブの部屋に向かう。足取りはランウェイのように軽やかに。
これで3回目になる。慣れたとは言えないが、コツは掴んできた。
枢木家本邸の最も奥にある部屋はいつも薄暗い。扉をノックすると「入れ」と不機嫌そうな低い声がした。別に不機嫌な訳ではなく、この男は常時不機嫌そうな態度をしている。これでは部下も大変だろう。
扉を開けて中に入る。
部屋の中は本と煙草の匂いが籠っていて、あまり長居すると苔でも生えてきそうな程に古臭い。ゲンブはベッドに座っていた。手招きされて、薄いシャツとズボン一枚の恰好でその隣に腰を下ろす。上等なベッドは深く沈み込んだ。
「スザクがお前のことを友達だと言っていたな」
隣に座った瞬間に肩を抱かれた。馴れ馴れしい態度は生理的な不快感を齎す。
一度抱いた女は自分のものだと思っているのだろうか。いい年をして、閨の作法も知らないと見える。
首相というからにはそれなりの政治的手腕はあるのだろうが、女性の扱いに関しては下手なのだろう。経験が無いため比較対象がおらず、評価は難しいが、少なくとも女が好む男ではない。女を所有物のように軽々と扱う態度はいっそ呆れかえる程傲慢に過ぎる。
嘲笑みはそのままに、深々と頭を下げた。
「畏れ多いことにございます」
「お前を男だと思っているだろうに、随分と誑かしたものだ」
「私は今夜枢木ゲンブ様のためにここに来たと言うのに、随分な仰りようですね」
悲しいです。ゲンブの膝に倒れこむ。
単純なところは親子で似たらしい。殊勝な態度に気を良くしたゲンブは服を脱がせにかかった。シャツとズボンだけの服は簡単に脱げる。
そのまま下着も脱がされ、裸になったルルーシュは白磁の肌を薄暗い照明に晒して枢木ゲンブをゆったりと見上げた。その仕草はとても子供のものではなく、熟練の娼婦のように艶めかしい。しかし小さな胸や骨ばった肢体は女と形容するにはあまりに幼い。
大人でも子供でもなく、男でも女でもない。曖昧で、しかしとてつもなく美しい生き物が自分だけを視界に入れている感覚は圧倒的な征服感を枢木ゲンブに齎した。
思わずルルーシュに手を伸ばそうとする枢木ゲンブの額に、ルルーシュは指を押し当てた。
訝し気な顔をするゲンブにうっそりと微笑む。
「ゲンブ様、私、布団が欲しいんです」
「布団?」
「ええ。土蔵の床で寝るのは酷ですから」
「ならば毎晩ここで寝ればよかろう」
額から汗を落としながら枢木ゲンブは縋るようにルルーシュの腕を取った。しかしするりと逃げ出しベッドの端に腰をかける。
「毎晩なんて、飽きてしまうでしょう。私も飽きるかもしれませんし」
呆れたとばかりに視線をゲンブから逸らす。あらかさまに機嫌を損ねた様子にゲンブは焦った。
「飽きる?私に?そうなればお前も妹もどうなるかっ」
「飽きるものは飽きます。男が何をしようとも、女は飽きたらなんでも捨ててしまう冷たい生き物ですから」
すぐに女を脅かすような男は特に、ねえ?
視野の端に入ったかと思えば、すぐに興味なさげに視線が逃げる。慌てる中年男をくすくすと笑いながらルルーシュはベッドから飛び降りて素っ裸のままステップを踏んだ。
確固とした技術に裏打ちされたダンスの足取りでありながら、どことなくあどけない。
何も着ておらず、観客など一人しかいない薄暗く狭い部屋の中にあって、しかしルルーシュはどこまでも優雅だった。
音楽も無いというのに乱れることなくリズムを奏でるルルーシュを眺めていると、ゲンブは突如として不安に襲われた。
この生き物はもしかしたら自分を見捨てるかもしれない。
現状から考えると自分がルルーシュを見捨てることはできても、逆は絶対に不可能だと分かってはいる。
自分に見捨てられては日本にこの子供の味方などいない。逃げ出しても捕まえるのは容易だ。
子供がたった二人、それも一人は盲目で歩けない。車椅子を押しながら逃げ切ることなどできるわけがない。
見つけ次第殺してしまえば、当初の予定通り自分は貴族としてブリタニアに迎え入れられる。そうなればブリタニアの一貴族として老後は安泰に過ごせる。
その筈だ。しかし。
男性パートと女性パートを交互に踊るルルーシュを眺める。ゆったりとした足さばきは水遊びに興じる子供のようだが、足先が舐めるように床を滑る様子は男を誘っているように見えた。
たまに燃えるような熱い視線をこちらに向けて、しかし暫くすると熱は冷め、何ともなさげに逸れる。その視線の一つで年老い始めている体が若い頃のように沸騰したり、恐怖で死体のように冷えたりと落ち着かない。
もしこの生き物が自分を見捨てたとして、気に掛ける価値も無いゴミ屑だと判断したとして、二度とその瞳に映らなくなってしまったらどうしよう。
全身の血液が一気に流れ落ちる感覚がした。ルルーシュが躍るステップに合わせて床が鳴る音だけが鮮明に聞こえる。その想像は妻が死んだときよりも恐ろしかった。
ルルーシュは腕に抱いただけで艶めかしく動き、交わらなくとも零した吐息一つで男を満足させてしまう。
交わればつい先日まで処女だったとは思えない程に感じ入る。その情事は極上の娼婦にも負けない程に官能的。
しかし手酷く抱いて女を叩き込んだというのに、澄んだ瞳に幼い体躯は処女だった時と同じく清廉なままで、組み敷けば天使を犯しているような背徳感が支配欲を齎す。
あの子供を犯した情景を思い出す度に、体から活力が迸り生きる気力に満ちてくるのだから不思議だ。
そうすると、更に欲が蠢いて来る。
あの美しい生き物をどうしても自分のものにしたい。いや、あれは自分のモノでなくてはならない。
ゲンブはある種の義務感に駆られていた。それは性欲や征服欲に塗れた、つまりは私欲だったのだが、しかし枢木ゲンブにとっては道理に叶った感覚だった。
何故ならあの生き物はブリタニアから日本に送られた生贄であり、であればそれは自分の所有物であったのだ。それが他の男のモノになるなどあってはならないことだった。
その欲が叶うのならば些細な願い事ぐらい叶えてやっても良い。
そうだ。ブリタニアは戦争の切っ掛けにするために皇族を殺せと言ってきただけだ。ならばナナリーだけ殺しても問題は無い筈だ。
ルルーシュは自分の妻にしてやろう。ブリタニアの皇族の夫になればエリアの総督ぐらいは任せて貰えるかもしれない。そうすれば首相の役職名が総督になるだけで、実質的に何も変わらない。日本国民も、ブリタニアの支配圏に入ることになったとしても実生活が何も変わらなければ反発は少ないだろう。
反発が少なければ衛星エリアに格上げされるのも早い筈。そうすれば温和的な統治が可能になる。
日本にとってもブリタニアにとっても、それが一番良い選択だ。
そうだ。
私は間違っていないんだ。
ステップを緩やかに踏みながら、ルルーシュは弾むように喋り続けた。
「毛布も欲しいですね。柔らかくて手触りが良いものがいいです」
「分かった。送らせよう」
「それに服も欲しいです。こんな安物のシャツばかりでは、恥ずかしくて枢木首相の所に来られません」
「分かった。どんな服が欲しい?」
「ナナリーの分も欲しいです。あまりじゃらじゃらと飾りのついたものは好みじゃないので、シンプルなものが欲しいです」
「分かった。適当に見繕おう」
だからそれを着て、ここに来なさい。
命令形とは思えない程に情けない口調だった。
ルルーシュは笑みを深くして、返事代わりに枢木ゲンブに腕を伸ばした。
その瞬間から意識が遠のく。何も感じない。麻酔でもかけられたようだ。触られている感覚、舐められている感覚、噛まれている感覚はある。しかし現実と直結しない。空中に浮遊している自分が淡々と、ああレイプされているな、と判断している。
しかし何も感じないからどうでもいい。
俺は勝ったのだ。
これで布団が貰える。体力のないナナリーがあんなシーツも無いような場所で過ごすのは無理だ。布団があれば体が冷えるのも防げる。
衣服があれば感染症の罹患も防げる。衛生面はきちんとしておかないと夏場は怖い。手軽に抗菌薬も手に入れられないような現状では、免疫が弱いナナリーでは生死に関わる。
次は医薬品でもねだろう。そう思いながら自分の体の上で憐れに蠢く肉の塊を眺めた。
■ ■ ■
次の日、スザクは約束通り肉を買ってきた。
それもなぜか高いヒレ肉を。
調理台(段ボール箱&カセットコンロ)の前で仁王立ちになる。レジ袋を脇に置いてスザクはしょんぼりと俯いていた。ナナリーは今朝家に運び込まれた布団の上に転がって手触りを楽しんでいる。
「俺は100g98円の豚バラを買ってこいと言った筈だが」
「————この前テレビでサイコロステーキってやってたんだけど」
「それで?」
「それが食べたくて、つい」
顔面をグーで殴ろうとしたらひらりと躱された。無駄に身体能力だけは高い奴だ。
「ちっ、躱すなスザク」
「いやいきなり殴られたら普通避けるよ!」
「そうですよお兄様。せっかく買ってきてくれたのですから。まずは話し合いましょう?」
枢木邸で絵本の読み聞かせをしている内にスザクと仲良くなったらしいナナリーは、じゃれているようにも見える兄とスザクにくすくすと笑っていた。
ナナリーに懐かれ始めているスザクに苛立ちを増しながらも、ルルーシュは拳をおさめた。その代りに舌打ちを零す。
「全く。馬鹿かお前は」
「なんでだよ!」
「まずテレビで見たような店のサイコロステーキが豚肉な訳があるまい!ほぼ確実に牛肉だ!もし豚肉であったとしてもこんなスーパーで買えるような肉で作っている訳が無い!そしてソースはどうするんだ!グレイビーソースにするにしても赤ワインが無ければまず無理だ!何より!」
ブロック肉を段ボール箱に叩き付ける。
「こんな量ではナナリーの分しか作れないだろうがぁあ!!」
豚ヒレ肉 95g(398円/100g)
ちんまりとした量が調理台の上に載っている。あ、とスザクは口を抑えた。
「しまった、とにかく高い肉を買えば諦めて料理してもらえるとしか考えてなくて量を忘れてた!」
「ほんっとうに自己中心的な糞ガキだなお前!ある意味大物だよ!将来的に人の頭を踏みつけて土でも食べさせそうな奴だよ!」
「………それって褒めてる?」
「貶してるんだよ野蛮人!」
枢木ゲンブといい、どうして自分が出会う日本人は自分のことしか考えない馬鹿ばかりなのだろうか。
日本人は謙虚で協調性がある人々だと聞いていたのに、日本に来てから出会った人間が軒並み個人主義過ぎる。例外は枢木ゲンブの秘書の田中ぐらいだ。
そういえばここ数日、枢木邸で田中を見かける度に段々と横幅が狭まっているような気がする。最初会ったときはうまい棒くらいだったのに、最近はプリッツのようになってしまった。
原因はまあ、明らかだが。
ブリタニアの侵攻が現実味を帯び始めた今、日本首脳陣は緊張状態にある。
だというのに首相は敵国の皇子(ロリ)をレイプするのに忙しいという始末。ゲンブのスケジュールを全て管理し、さらに身辺護衛の管理も行っている田中はゲンブがルルーシュに何をしているのか知っていてもおかしくは無い。
何より最初を除いた2回、そして昨日の1回はルルーシュが枢木邸に泊まると言った瞬間に、田中は鬱々とした顔で警備兵を邸内から追い出していた。
そろそろ田中の胃は破裂するのではなかろうか。
一人分程度しかない肉を持ち上げ、パッケージを外して腐っていないことを確認する。夏の炎天下の中買ってきたのだろう。スザクは汗をかいていた。
文句はあるが、買って来て貰っている立場でこれ以上言うのは止めよう。叱られた犬のように見上げてくるスザクに溜息をついた。
「全く、次から注意しろよ」
「うん。分かった!」
「枢木本邸ならワインぐらいあるだろ。適当に調理場からワインを取ってこい。調理用と書かれているやつだ」
「すぐに取ってくる!」
駆け出したスザクの背中を見送り、料理を始める。
「ナナリー、ごめんな遅くなって。すぐに作るよ」
「いえ、いいのです。私も日本語の勉強になりますし」
スザクとルルーシュの会話は日本語なため、ナナリーは二人の会話を聞きながら日本語を学んでいたようだった。日常会話程度の日本語なら理解できるようになってきているのも、こうしてルルーシュとスザクの会話を熱心に聞いているからだろう。
肉が腐らないうちにと塩をまぶす。カセットコンロにフライパンを乗せて熱する。サラダ油を乗せて肉を焼く。
十分焼けた肉を皿に乗せ、残った肉汁はそのままに置いておく。付け合わせのサラダとスープを作りながらスザクを待つ。
数十分後、スザクは赤ワインを握り締めたまま土蔵に帰ってきた。
むっつりとした顔の藤堂に猫のように引きずられながら。
土蔵に姿を表した藤堂に、そういえば今日はスザクが合気道を習いに行く日だったと思い出す。
「これは、藤堂中佐ではないか」
初対面の軍人に恭しくルルーシュは深々と日本式に頭を下げた。
藤堂は初対面のブリタニアの皇子にあからさまな警戒を示しながらも、根が真面目なのだろう、律儀に礼を返した。
「お初にお目にかかる。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアだ」
「———私のことを知っているのか」
「貴君は日本軍における実力者とブリタニアでも有名だ。名前ぐらいは知っているさ」
勿論嘘だ。矮小な日本軍などブリタニアは歯牙にもかけていない。
しかしルルーシュは個人的に日本軍を調べた際に藤堂を知り、注目していた。日本軍の将軍位にある者の中で枢木ゲンブの息がかかっていないと分かっており、さらにブリタニアとの戦争を明らかに忌避している佐官以上の将は藤堂ぐらいしかいない。
ブリタニアと戦争すればほぼ間違いなく負けると察しており、徹底抗戦を掲げる枢木ゲンブを既に見限っている点は評価に値する。
「未だ戦場で何も成果を上げていない私に、過分な評価だな」
「日本を戦場にしたことのない手腕をブリタニアは高く評価しているんだよ」
自嘲する笑みを覗き込む。
日本人にしては彫りが深く、釣り上がった金壺眼が印象的な顔立ちはそれだけで圧迫感を与える。しかし黒い髪と瞳を備えた真面目そうな顔立ちは、ルルーシュに初めて日本人とまともに話したような感動を齎した。
何しろスザクもゲンブも配色が日本人らしくない。枢木一族の特徴なのだろう。緑の瞳など北ヨーロッパに遠征した時にしか見たことが無く、初めて見た時はアジア人にも緑眼がいるのかと驚いた。
田中は顔立ちが平凡過ぎて全く印象が無い。
藤堂は腰に日本軍の証である軍刀を差してはいるが、恰好は私服なのだろうシャツにスラックスという簡素な出で立ちだった。
「藤堂中佐、本日は仕事なのか?」
「いや。今日は合気道の道場の師範として来ている。仕事なら軍服で来るさ」
「ではなぜ軍刀を」
「これは日本軍の証のようなものだ。個人にもよるが、平時から身に着けている者も多い」
「ほう」
ブリタニアの剣とは違い、装飾を排除した機能美に溢れる日本刀を眺める。
柄には日本軍の紋章が掘られており、確かに日本軍を象徴するものなのだろう。
「それにしても、スザクは何をしたのですか?」
「調理場でアルコールを飲もうとしていた」
「違います!ルルーシュが料理のために赤ワインが必要だと言ったから、取ってこようとしただけで、」
「蓋を開けて飲もうとしてなかったか?」
藤堂に片手で持ち上げられながら、スザクはぷるぷると震えた。
あのガキ大将なスザクが妙にしおらしい。藤堂を見ると、またかという目でスザクを見下ろしていた。妙にスザクを叱るのに慣れている様子だ。藤堂はスザクの合気道の師だというから、やんちゃなスザクに日頃から手を焼いているのだろう。
「……だって!」
「日本人の飲酒可能年齢は20歳だぞスザク。アウトだ」
「でも料理に入れるならどうせ食べることになるじゃん!」
「料理に使うとアルコールは飛ぶから問題ない。どうせ興味本位で飲もうとしたんだろうが、油断が過ぎる。大人しく叱られて来い」
ひらひらと手を振る。
同時に土蔵に高い声が鳴り響いた。
「全くですわ!私の夫となる予定の方が、随分と情けない真似をなさること!」
入口に目を向けると、ナナリーと同年代だろう少女が仁王立ちになっていた。
小柄だというのに両手を腰に当てた仁王立ちがよく似合う。くりくりとした大きな瞳に日本人形のような長い髪が逆光のせいで眩しい。そして現代では珍しい、淡い暖色で固められた和服を完璧に着こなしている。
日本文化を勉強するために読んだ源氏物語の挿絵のような少女だ。完全無欠な紫の上より、聡明で誇り高い明石の君に近い。
すぐに誰かは分かった。日本の姫、皇神楽耶だ。
そしてその後ろにはキョウト六家の重鎮である桐原が立っていた。
桐原は神楽耶の背後で影の様に立っている。穏やかそうでいて、しかし全く表情の読めない枯れ木のような顔立ちは地蔵を思わせた。
桐原の姿を認めてルルーシュは眼を細めた。
神楽耶はスザクの許嫁であるため枢木家に出入りするのも分かる。しかし桐原はルルーシュに会いに来たのだろう。
できることなら戦争を回避したいという思惑のあるキョウト六家にとり、戦争の火種となり得るルルーシュとナナリーの扱いは厳重でなければならない。
自分たちが来日した時からキョウト六家が枢木家を監視していることは察していたが、直に会いに来るとは思わなかった。
深々と頭を下げる。
「神楽耶様に桐原公、このような所でお会いすることになるとは、」
「お初にお会いしますルルーシュ殿下。このような所にルルーシュ殿下を住まわせるなんてことに私は驚いていますわ。枢木ゲンブも愚かですこと」
ふん、と神楽耶は鼻息も荒く土蔵を見回す。
薄汚れた土蔵は、とても人が住めるような場所には見えない。まるで廃墟のようだ。古びたカセットコンロと所々欠けた食器、そして布団だけがここに人が住んでいることを証明していた。
「お兄様、誰か来ているのですか?」
聞きなれない足音が3つも増えて不安になったナナリーが床を這いずってルルーシュに近寄る。
ルルーシュはすぐにナナリーの手を握り、大丈夫だよと伝えた。
「日本の姫君の皇神楽耶様と、軍人の藤堂さん、それから……日本の貴族というのかな。キョウト六家の桐原という方が来られたんだよ」
「お初にお目にかかります、ナナリー殿下。お会いできて光栄ですわ」
鈴が鳴るような声で神楽耶は恭しくナナリーに声をかけた。自分と同い年位だろう幼い声にナナリーは笑みを零した。
ルルーシュから手を離し、その場にきちんと正座をする。
「初めまして、神楽耶様。ナナリー・ヴィ・ブリタニアと申します。こちらこそお会いできて光栄です」
差し出したナナリーの手を神楽耶は微笑みながら握り返した。
その隣でぶーたれているのはスザクだ。流暢なブリタニア語で会話する神楽耶とナナリーについていけていないらしい。
「………神楽耶ってブリタニア語喋れたんだ」
「喋れるに決まっているでしょう。私を誰だと思っているんです」
「悪戯好きなわがまま姫」
「張っ倒しますわよ」
本当に許嫁なのだろうか。確か神楽耶はスザクの従妹でもあった筈だが。
随分と険悪な表情で神楽耶はスザクを睨んだ。
「全く、枢木家の跡取りだというのにこの体たらく…申し訳ございませんルルーシュ殿下。この馬鹿が何か無礼な真似を働きませんでしたか?」
スザクの素行の悪さは周知の事実らしい。
ちらと桐原と藤堂を見やる。桐原は小さく頷いた。
藤堂は軍人らしく政治には関わらない。よく言えば忠誠心が強く、悪く言えば柔軟さが無い。込み入った話をするには少々頭が固すぎる。
「いえ、何も。初対面で罵られた挙句殴られて蹲ったところを蹴り飛ばされた位です」
笑いながら返す。
ルルーシュの言葉に神楽耶と藤堂、それに桐原は動きを止めた。
「……冗談ですわよね」
「いや、あの、ええと」
「おいスザク、本当か?」
「藤堂先生、ええと。あの………はい」
3人ともが顔を引き攣らせながら挙動不審になっているスザクと、苦笑するルルーシュを交互に見やった。
ルルーシュは服の上からでも分かる程に華奢な少年だった。少女と見紛うばかりの美貌に、細い手足は触るだけでも折れそうな程に儚い。
ワンパクガキ大将なスザクの一撃で骨が折れなかったことが不思議な程だ。
スザクの天才的な格闘センスを知っている藤堂はさらに頭が痛かった。無暗に暴力を振りかざすような教育をしていたとは。それも敵国の皇子に向かって。眩暈のあまりにその場で倒れそうになる。
「……スザク、お前は」
「馬鹿だ馬鹿だと思っていましたが、まさかここまで馬鹿とは」
「え、ちょ。待ってルルーシュ。ちゃんと謝ったでしょ!?どうして蒸し返すの!?」
「確かにお前はちゃんと謝った。だから俺はもう怒っていない。彼らには事実を伝えただけだ」
「少々失礼します、ルルーシュ殿下」
再度ひょいとスザクを掴み上げた藤堂は頭を抱えながらスザクを外に連れ出した。
スザクがいなくなった途端に神楽耶はその場で床に頭を擦り付けた。元々小柄な神楽耶が土下座をするとさらに小さく見える。よく見ると指先が微かに震えていた。
「大変、大変申し訳ございませんでしたルルーシュ殿下。まさか枢木の者がここまでお二人を蔑ろにするとは思ってもいませんでした。お怒りなのはごもっともです。しかしスザクについては子供の短慮が成したこと。どうか、どうかお許し下さいませ」
土下座を続ける神楽耶を見下ろす。
迷いなく敵国の皇子に頭を下げた器量は大したものだ。手触りの良さそうな黒髪がお世辞にも綺麗とは呼べない床に広がるのを見て、スザクより主君としての器は大きいかもしれないと判断を下す。
その隣で桐原も深く頭を下げていた。
「……日本とブリタニアが敵対関係にあるにしろ、あまりに非礼な行為の数々。申し訳ございません」
「頭を上げてください神楽耶様、それに桐原公。私は怒ってはいません。ただ憂いているだけです」
ルルーシュがそういっても中々頭を上げようとしない神楽耶に、ナナリーがそっと近寄った。
「確かに初めて会った時はスザクさんは怖かったですが、でもその後はとても優しくしてくれるんですよ。お野菜を持ってきたり、日本の絵本を読み聞かせてくれたり」
「ナナリー殿下、しかし……」
「よいのですよ、神楽耶様。先ほどあなたが仰ったように子供のしたことです。本人も反省しているようですし、これ以上蒸し返すつもりもありません。勿論本国に伝える気もありません」
伝えたところで何があるわけでもないが。
最早ブリタニアに見捨てられたルルーシュが日本でどう扱われていようと誰も気にしないだろう。寵妃だったマリアンヌに嫉妬していた者達が狂喜乱舞するぐらいだ。
その事実を薄々知ってはいるのだろうが、やはり皇子の身分はそうそう軽挙に扱えるものでもない。神楽耶はまだ戸惑っている様子だった。
「そうですね。では神楽耶様はナナリーの遊び相手になってはくれませんか?」
「私が、ナナリー殿下の?」
「ええ。ナナリーは日本に来てから年の近い友達が少ないのです。お忙しいとは思いますが、よろしければ今日は一緒に遊んでくれませんか?」
「そうしましょう神楽耶様!私、日本の遊びについてもっと知りたいのです」
屈託なく笑みを浮かべて神楽耶の手を取るナナリーに、神楽耶は少し戸惑いながらも笑みを浮かべた。
「畏れ多いですが、私で良ければ」
「ありがとうございます!では、お兄様も一緒に、」
「俺はいいよ。それより外のスザクを回収してあげてくれ」
「あんな馬鹿、放っておけばよろしいのです」
神楽耶は未だ怒り心頭のようで、スザクの居る方向を睨みつける。
確かに、あんな少年が自分の婚約者兼従妹だったらストレスで胃がねじ切れるだろう。むしろこれ以上の面倒事を起こす前に暗殺する。
しかし枢木ゲンブが現在進行形でしていることを考えれば、もう謝ったことだし、スザクのしたことは笑って済ませられる範囲内に過ぎない。
「神楽耶様、私達はスザクとも仲良くしたいと思っているのです。どうか許して差し上げてください」
「……ルルーシュ殿下がそう言われるのでしたら……」
むくれる神楽耶に微笑む。神楽耶の頬がぽっと薔薇色に染まった。
「え、あの、る、ルルーシュ殿下」
「神楽耶様」
「ああああの、は、はいっ」
「ナナリーをこれから車椅子に乗せますので、押して頂けますか?」
「…ああ、はい。分かりました」
少し残念そうな神楽耶に首を傾げながら、ルルーシュはナナリーを抱き上げて車椅子に乗せた。
「バランスを崩さないよう、ゆっくり押してくださいね」
「よろしくお願いします」
「ええ、任せてください!」
神楽耶は慣れない手つきながらもゆっくり車椅子を押し、明るい外へと押し出していった。
ルルーシュは振り返り、桐原を見やった。佇む桐原は枯れかけた巨木のようだ。
「———お茶でもお淹れしましょうか、桐原公」
「いえ、お気遣いなく」
その場に座り対面する。
写真より桐原は老けて見えた。深々と刻まれた皺は間違いなく最近の心労によるものだろう。
なにしろブリタニアとの戦争が近づいてきている。
桐原はまっすぐにルルーシュの瞳を見やった。値踏みしている視線に口角を釣り上げる。
「まさか枢木がお二人にこのような扱いをしているとは」
「何をおっしゃいます。最初から知っていらしたのでしょう?」
「———ええ」
「私は枢木もキョウト六家も恨んでなどおりませんよ」
ただ憐れなだけです。
外で遊ぶナナリーと神楽耶、それにスザク、そして藤堂を見やる。ブリタニア人と日本人が混じって遊ぶ光景は微笑ましい。そしてこれから先数十年において滅多に見られない光景となるだろう。
桐原は愛おしそうにナナリーを見守るルルーシュを見やった。甘さの残る顔立ちは子供らしく柔らかい曲線を描いている。確かに天使のように可愛らしい兄妹だ。
しかしこれはただの子供ではない。ヨーロッパではシュナイゼルの補佐として、あの宰相にも劣らぬ采配をしてのけた優れた軍師なのだ。
軍人ではないにしろ、桐原は世界有数のサクラダイト産出国である日本の政治家として、各国との戦争に関わったことがある。だからこそ分かる。ヨーロッパ戦線の司令官であったシュナイゼルはとんでもない化け物だ。そしてルルーシュも、あと数年もすれば化け物になるだろう。
そんな化け物が自身の駒になる幸運が偶然転がってきたというのに、枢木ゲンブのせいで手出しができない。
血管が千切れそうなほどに腹立たしいが、しかし手札が無い桐原には打つ手が無い。こうして粗末な家とも呼べない土蔵を訪れ、ブリタニアの皇子の心象悪化を防ぐために頭を下げる程度が精一杯だ。
しかしそれさえ遅きに失したかもしれない。
穏やかに微笑むルルーシュの体にいくつもの擦り傷がみられる。日本人から受けた暴行の跡だろう。
国民のブリタニアへの悪感情は既に閾値を振り切れている。この兄妹はその捌け口となり、いずれ日本人に殺される。ブリタニアが用意したのはそんなストーリーだ。そしてその通りになっている。
現状、日本はブリタニアという巨人の掌の上で転がっている小人でしかない。人材、物資、全てにおいて圧倒的な差がある日本は、せめて一致団結して物事に対処せねばならないというのに。
枢木ゲンブという人間がそれを阻む。
こんな子供に頼るわけにはいかないと知りながら、しかし桐原はルルーシュに問いかけた。
「……いつ頃になると思われますか」
「早くて2週間後。遅くても1か月以内には」
「———日本に勝ち目は」
「無いでしょう。KMFは無く、サクラダイト以外の資源はブリタニアが圧倒的に勝っている。さらにブリタニアにはシュナイゼルがいる」
「ルルーシュ殿下、日本で軍師をされませんか」
これが本題だったのだろう。唐突な申し出にルルーシュは苦笑した。
下手な冗談だ。
「誰が従うというのです、私に」
「誰か代役を立てて、ルルーシュ殿下の指示通りに動けば」
「確かにヨーロッパで戦場の指揮を執ったことはありますが、私はまだシュナイゼルより格下です。その程度の自覚ならありますよ」
最後のチェスを今でも思い出せる。
途中ジェレミアとナナリーの悲劇にトリップしたせいで記憶は曖昧だが、それでも自分は負けた。そして今勝負をしても勝てるとは言えない。
客観的に自身とシュナイゼルを比較すると、自分が勝っているところは圧倒的に少ない。
経験も判断能力もシュナイゼルの方が上。唯一勝てる点としては、絶対に負けない戦いしかしないシュナイゼルの行動は割合簡単に予測できるということぐらい。それも物量差が圧倒的である現状では意味を成さない。
日本軍全てが忠実にルルーシュの指揮通りに動くというのならば話は別だが、どこの誰が敵国の皇子に従って命懸けで戦うというのか。代役を立てると言っても、表立って活動するその人物がルルーシュと同等の能力を有していなければまともに指揮など振るえない。
そしてそんな器量のある人物は日本にいない。
スザクに説教を続けている藤堂を見やる。そこそこに実力はあるのだろうが、あの男は軍人止まりだ。政治屋にはなれない。
政治と軍事、両方を率いて迎え撃たなければブリタニアには勝てない。
あのシュナイゼルには勝てない。
「では我々は成すすべも無く死んでいくのみと」
桐原は自嘲の笑みを零した。
恐らく日本の首脳陣はほとんどが桐原と同じような心持だろう。例外はブリタニアと密通しているゲンブぐらいか。
「いえ、機会ならばあります」
「貴公ならどうする?」
「戦争が始まり次第、すぐに負けてやるんです」
思わずといった風に桐原はルルーシュを見やった。
見開いた桐原の眼を睨む。
枢木ゲンブはものの役にも立たない。神楽耶はそれなりに器量はあるのだろうが経験が無さ過ぎる。
日本の実質的な主導者はこれから桐原になる。
なればこそ、桐原は全ての悪名を背負う覚悟を決めなければならなかった。
「桐原公、負ける戦いなど長引かせる意味はございませんよ」
「臥薪嘗胆の日々を我々に送れと」
「ええ。生き延びるのです。一人でも多くの兵を、明日勝てると信じて耐えさせるのです」
「しかしブリタニアが日本を占領すれば最早勝ち目は無くなる」
「勝利とは戦争に勝つことでは無い。より多くの人々が生き残り、より多くの利益を得ることこそが日本の勝利になる。いずれ日本だけではなく他のエリアにも反乱の芽は育つ。そうなるまで待ち、そうなれば最早勝ちです」
その領土のほとんどがエリアで成り立っているブリタニアは、全エリアが一挙に反乱を起こせば必ず負ける。
問題は反乱を起こすエリアの規模だ。日本一つでは話にならない。
中国やインドが日本の味方をするには時期尚早に過ぎる。もっと中国がブリタニアの脅威を感じるようになれば、積極的にブリタニアと事を構える態度を見せてくれるようになるのだろうが、まだ無理だ。
今が“まだ”であるのならば、そうなるまで瀕死になりながらも生き延びるしかない。
日本の道は細く頼りない。華々しく切腹する方が幾分か楽だろう。
しかしそれを良しとするのならば桐原はルルーシュの元まで来たりはしない。
頭を抑えながら桐原は声を絞り出した。
「———貴公はハンニバルにはなってくれんのか」
「12歳の子供に頼るなどと、老獪で知られる桐原公とは思えませんな」
「いつまでも子供であるわけではなかろう」
「そうですね。時が来れば。そしてそれまで生きていれば。その時はブリタニアに勝って見せましょう。ハンニバルのように負けはしません」
にやりと笑う。
桐原は深々と頭を下げた。