囚われのトワ 〜調教の果てに〜 作:Washi
エレボニア帝国の帝都、ヘイムダル。見事な赤レンガで染められた、ゼムリア大陸最大の都市だ。同時に、トワの実家である『ハーシェル雑貨店』の所在地でもある。
帝都の中心を貫くヴァンクール大通りでは、おびただしい数の導力車が長い列を作り、多くの人々が忙しそうに街中を行き交っている。生憎今日は大雨だが、それでも人の行き来はそれほど減っていない。みんな傘を差し、雨で濡れた道路を歩いている。
その大通りの百貨店の中の喫茶スペースに、トワは居た。珍しく、髪を下ろしている。トワは頬杖をつきながら、窓際の席でぼーっと外を眺めていた。コーヒーを注文していたが、全く手をつけていない。淹れたてだった筈なのに、湯気は立っていなかった。
「……はぁ」
トワは今日何度目になるかも分からない溜め息をつく。いや、今日だけではない。実家に戻ってからは、ずっとこの調子だった。
気分転換にお茶でもしようと考えて外に出てきたつもりが、天気も相まって気持ちは沈むばかりだった。
(もう、1週間も経つんだ。時間って、残酷だなぁ……)
トワは空いている方の手をそっと自身の腹部に添える。思い出されるのは、2ヶ月以上に渡って続いた悪夢のような日々のこと。自分が自分でなかったような、異常な経験の数々。
そう……トワがダニエルの手によって監禁から解放されてから、すでに1週間が経過していた。
トワが解放されたのは、監禁から実に86日が経過してからのことだった。思いの外あっさりと解放されたが、理由は不明だった。
残念ながら、解放された直後の記憶は曖昧だった。別れを惜しんでいたような気はしていたが、定かではない。意識がはっきりしたころには、海都オルディスの宿のベッドの上だった。
監禁のストレスから解放され、媚薬の効果が抜けきったことで、トワはようやく正気に戻った。まるで、夢から醒めたような気分だった。そのときようやく、空白の1ヶ月の間に密かに媚薬を盛られていたことに気づいたが、もう手遅れだった。
原因はどうあれ、トワが自ら抱かれることを望んでしまったことに変わりはない。あの監禁という特殊な状況下に限れば、トワは間違いなく快楽の奴隷へと堕ちていた。身が裂けるような罪悪感が、トワを苛んだ。
また、自由になったトワはダニエルに対してどう対処するべきか悩んだ。ダニエルを告発すべきか、しないべきかに。
告発すること自体は、そう難しいことでもない。元々、トワは帝国政府のあらゆる組織から勧誘を受けるほどの優秀な人材だ。隠蔽されているとはいえ、ダニエルの犯した罪の証拠を見つけ出すことは決して不可能ではない。
そして、トワの個人的なコネクションの中には、グリフ伯爵家すら凌ぐ力を持つ者たちがいる。例えば、親友のアンゼリカ・ログナー。あるいは、後輩のユーシス・アルバレア。いずれも、帝国貴族の頂点に立つ四大名門の出身だ。
他にも、帝国全土の治安維持を担う鉄道憲兵隊がある。トワは彼らからスカウトを受けている上、そこに所属するクレア・リーヴェルトとも親しくしている。
その誰にでもいいから、トワが証拠を掴んでそれを渡せば、それで全てが終わる。グリフ伯爵家は帝国の歴史から抹殺されるだろう。人質のことも、狙われると分かっていれば対処は容易い。
トワは今でもダニエルのことを信じたい気持ちはあるし、彼を狂わせたことに責任を感じていることも本心だ。しかし、どう取り繕ったところで彼が罪を犯したのはれっきとした事実だ。本来なら、きちんと法で裁かれるべきだ。そのことはトワもちゃんと理解している。
そのことを理解した上でなお、トワはそれを躊躇してしまう理由があった。そして、その理由こそがトワを憂鬱にさせていた。それに気づいたのは、実家に戻ってすぐのことだった。
解放された直後、すぐにNGO巡りを再開する気になれなかったトワは、一旦実家に戻った。家族には、あまりに多忙だったので一息入れることにしたと嘘をついた。これまでの信用の貯金のおかげか、特に疑われることもなかった。
帰郷してからトワが真っ先に取った行動が、密かに病院に足を運ぶことだった。それも当然だ。なにせ、堕ちてから解放されるまでの間、毎日のように中に出されていたのだから。市販の道具で確認する方法もあったが、より信頼性の高い方を選んだ。
診察を待つ間、あえて不安から目を背け、平静を装っていたが、すでにトワは半ば確信していた。そして、産婦人科の医者から告げられた診断結果は、その予想の通りだった。
つまりは……妊娠していた。すでに、5週目だった。無論、相手はダニエルだ。時期的に考えれば、堕ちた直後辺りに当たったのだろう。周期的にも、ちょうど一致していた。
それが、1週間前の出来事だ。妊娠した事実を家族に明かすこともできずに、時間だけが無為に経過した。その結果が、現在喫茶店で黄昏ているトワだった。
望まぬ形での妊娠。子供が欲しいと考える年齢でもなかったし、本来は自身の進路を決めるための活動の真っ最中だったのだ。子を産む可能性など、全く考えていなかった。
しかし、たとえ調教という不本意な形で身篭った生命であっても……トワには、堕ろすという選択はできそうになかった。経緯はどうあれ、1つの生命であることに変わりはない。
そうなると、産むしかないわけだが……それが、ダニエルを告発すべきかどうかの葛藤に繋がる。生まれる子の父親にあたる人物を牢に閉じ込めてしまってよいのだろうか、と。トワが無理やり孕まされた末に生まれた子であることを真実にしてしまってよいのか、と。
そしてトワの中では、どちらかというと真実を屠ってしまう方に天秤が傾いていた。子供の将来を考慮すると、どうしてもそうなってしまう。どうせ、トワ1人が我慢すればそれで済むのだから、と。
しかし、真実を伏せて子供を育てるにしても問題はある。細かく挙げていくと切りがないが、特に大きな問題なのはミラの準備だった。
出産前後における入院、そして養育費……子育てには、多額の費用がかかる。安定した収入源を持たないトワが、それらを捻出するのはかなり厳しい。ミラを稼ごうにも、出産を控え、出産後も子育てがあるトワが安定した職に就くのは難しい。
解決方法自体はいくつか思いついている。たとえば、家族を頼る方法。子育ての経験がある叔父と叔母の助けが得られる上、多少は実家の店の手伝いもできるので、最も安心といえば安心な手段だ。
また、親友のアンゼリカを頼ることも選択肢としては存在する。気は進まないが、トワが働けるようになるまでの間、ミラを借りるという方法が考えられる。
他にも、必死で頼み込めば力になってくれる人はいるだろう。しかし、そのいずれの方法にも、共通の問題があった。父親が誰であるかを明かす必要があるという点だ。しかも、明かすだけでは不十分で、おそらくはその経緯も話さなければいけなくなるだろう。
トワは、真実を完璧に伏せたまま、彼らを納得させられるような筋書きをでっち上げられる自信はなかった。
「……はぁ、どうしよう」
再度、溜め息をついてしまうトワ。結局、トワはなにも名案が思いつかないまま百貨店を後にするのであった。
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しばらく帝都内をフラフラしたトワは、ヴェスタ通りにある実家へ戻った。実家の雑貨店はまだ営業中のため、トワは店の裏口から家に入った。そんなトワを最初に出迎えてくれたのは、リビングにいた叔母のマーサだった。
「……ただいま」
「あら、お帰り。外、寒かっただろう? ちょうど、コーヒーが入ってるよ」
「うん、ありがとう」
先ほどコーヒーを飲んでいたことはおくびにも出さず、厚意だけを素直に受け取る。早速コーヒーをマグカップに注ぎ、1口飲む。舌が焼けそうなくらい熱く、体に染み渡るような温かさだった。
「しっかし、トワが帰ってきてもう1週間かい。こんなに長く家にいるのは、いつぶりかねぇ」
「えっ、私、そんなに帰ってなかったかな」
「帰ってなかったさ。トールズは全寮制だし、卒業したと思ったらすぐ旅に出ちゃうし。最近は手紙すらほとんど寄越さなかったじゃないか」
「そ、そうかな……あはは」
誤魔化すように、トワは頬をかく。別に遠慮していたわけじゃないが、思い返してみれば確かに叔母の言う通りだった。
「まっ、たまにはゆっくりするんだよ。カイも喜んでるしね」
叔母の言葉に、トワは頷いた。いろいろと家族に隠し事をしているトワだが、それでも家族との会話は、彼女の心に癒しをもたらした。
コーヒーを飲み終えたトワは自室に戻ろうとしたが、そこで叔母に呼び止められた。
「ああ、そうそう。トワ、あんたに手紙が来てたよ」
「手紙? 誰から?」
「差出人は書いてないけど、代わりに貴族様の家紋の印が押してあったよ。あたしにはどこの家かさっぱりだけど、トワなら分かるんじゃないかい?」
「え? 誰だろう、アンちゃんかな」
悪戯好きのアンゼリカならありえると考えながら、トワは叔母から手紙の封筒を受け取った。そして家紋を確認しようと視線を落とし……心臓が止まった。
そのとき、動揺を表に一切出さなかったのは奇跡だった。
「っ……やっぱりアンちゃんだ。手紙、ありがとう。部屋で読んでみるね」
手早く礼を言うと、トワは努めて平静にその場を去った。そして自室に戻り、扉を閉める。そのまま扉に背中の体重を預けながら、改めて封筒を確認した。
封筒には、確かに貴族らしい優雅なデザインの印が押されていた。グリフォンという架空の生物の全身を象った印だった。トワはその印がどの家のものか知っている。いや、知らない筈がない。なぜならそれは、グリフ伯爵家の家紋なのだから。
(ダニエル君……)
必然的に、差出人はダニエルということになる。封筒を持つトワの指先が、プルプルと震え始めた。心臓を締め付けられ、血の流れが止まってしまったかのようだった。
(……中身、確認しないと)
死刑宣告を恐れる罪人のような心持ちで、ゆっくりと封を切る。爆発物の解体でもしているかのように慎重に、それでいてなるべく時間が掛かるように。
しかし、悲しいかな。封を切るのにそれほど時間は掛からない。あまりにもあっけなく開いてしまった。見たところ、2種類の紙が同封されているようだ。
トワはゴクリと唾を飲む。棘のある花を手に取るときのように、そっと紙の端を摘んで引っ張り出していく。ところが、出てきたのは意外なものだった。
「……小切手?」
最初に出てきたのは、小切手だった。ちゃんとグリフ伯爵家の名義でサインがされている。そこに記載されていたミラの値は、そこそこの額だった。
仮に、小切手を精算すれば……出産から半年分くらいまでの費用は賄えるだろう。おそらくは、それを見越しているに違いない。しかし、なぜわざわざこんなものを送ってくれたのだろうか。
妊娠を察知されていたこと自体は驚きに値しない。あれだけの期間に渡って膣内射精を行ったのだ。むしろ、妊娠していない方が不思議だ。
もしかして2枚目の手紙にその理由が書いてあるのだろうかと思い、取り出した。ところが、中身を確認した途端、トワは石のように固まってしまった。
(ぇ……え……?)
それは手紙ではなく、役所に提出する類の書類だった。本来、夫婦となる者同士がサインをする書類。そう……同封されていたのは、婚姻届けだった。夫の側には、ダニエルの名が記入されていた。
「……? えっと、つまり……」
負の感情が飛び出す以前に、あまりにも予想外の物を目にしたことによる戸惑いの方が大きかった。トワはイマイチ要領を得ないまま、小切手と婚姻届けを見比べていた。
「……あ」
しかし、幸か不幸か、トワの頭脳は正解を導き出してしまった。そしてその答えは、トワに究極の選択を要求するものだった。
(……そっか、ダニエル君と夫婦になればほとんどの問題が解決しちゃうんだ)
ダニエルの妻となるならば、出産や子育てに関して全面的に支援する。つまりは、そういうことだろう。伯爵家によるバックアップだ、不足することはあるまい。
それ以前に、夫婦となれば堂々と父親がダニエルであることを公表できる。夫が自身の子供のためにミラを使うことは、なんらおかしいことではない。
真実を隠し、普通に結ばれて夫婦になったような体裁を取るだけで、なにもかもが上手く回るのだ。ダニエルの手紙は、そのことを示唆した取引の提案なのだ。小切手は、経済力の証明書なのだろう。
トワは、そっと目を閉じる。脳裏には、想い人のリィンの姿が浮かんだ。子供のことを考えて想いを押し殺すべきか、それとも自身の力でなんとかすべきか。
(私は……)
答えを出すのは、そう簡単ではなかった。夕食の最中もほぼ無言を貫いてしまい、そこから更に1晩中悩み抜いてしまうほどだった。結論が出るころには、空が白みがかっていた。
もしもの話だが……トワとリィンが恋人同士であれば、違う結論を出していただろう。しかし、現実ではトワの片思いに過ぎなかった。また、リィンの気持ちがアリサ・ラインフォルトに向きつつあることは卒業前から薄々気がついていた。その辺りが、決定打となった。
次の日の朝、トワは荷物を纏めて帝都を発った。家族には、手紙で友人に呼ばれたから会いに行くと告げた。相変わらずすんなりと受け入れられ、トワの胸にチクリと棘がささった。
向かう先はラマール州。その中にある、グリフ伯爵家の治める街だ。なんのためにトワがそこに向かったのかは、もはや語るまでもないだろう。
それから更に1ヶ月後、唐突にグリフ伯爵家の次男とトワ・ハーシェルの結婚が関係者に発表された。同時に、トワがすでに妊娠していることも知らされた。
反応は様々だった。トワをスカウトしていた各方面の政府組織は本人から辞退の連絡を受け、悔しそうにしていた。その一方で、トールズ在籍時の2人を知るほとんどの者たちにとっては、概ね納得できる発表だった。
というのも、トールズ時代にダニエルがトワに熱いアプローチをかけていたのは周知の事実だったからだ。なので、最終的にトワが根負けしたのだろうというのが大半の認識だった。
しかしながら、トワの本当の想いを知っていた者たちはその発表に懐疑的な視線を向けた。その最たる例が、アンゼリカ・ログナーだ。他にも、旧Ⅶ組の面々の何名かが名を連ねていた。
彼らの追求は激しかった。アンゼリカに至っては、普段避けている四大名門の立場すら利用して事実の確認を行った。そのせいで、危うく真実が露呈するところだった。
しかし、彼らの追求は跳ね除けられた。他ならぬ、トワの手によって。あらかじめ作り上げた完璧な筋書きを以って、彼らを論破してしまった。また、トワ本人が問題はないと言っている以上、彼らもそれ以上は強く出れなかった。
そうして、2人の結婚は祝福されることとなった。全ての真実を闇に屠り、トワは純白のドレスを纏ったのだった。
余談だが、馴れ初めの内容に反して、夫婦仲は決して悪くはなかった。ダニエルが次第に、善良な彼に戻っていったからだ。まるで、憑き物が落ちるのを見ているようだったとトワは当時を振り返る。
そんな2人は最終的に、2男1女に恵まれることとなる。始まりはともかく、その後の人生は概ね平穏と呼べるものだった。
また、トワは持ち前の才覚をグリフ伯爵家の繁栄のために捧げた。結果として、貴族の力の衰退が著しい帝国においても常に一定の力を保ち、四大名門に匹敵する地位を手に入れることになる。
もし、トワがあのとき監禁されていなければ、別の道を選んでいたことだろう。軍人かもしれないし、役人かもしれない。あるいは、帝国を憂いて教官の道に進んだかもしれない。しかし、最終的に選んだのは伯爵家の夫人だった。
これもまた、無数に分かれた1つの軌跡ということなのかもしれない。
終わり。