サグメ「…ただいま」
と言っても、「おかえりなさい」を言ってくれる人は居ないが。分かってはいても、何故かこんな挨拶は言ってしまうものだ。声は虚しく響いて、やがては静かに消えるだけだと言うのに。
サグメ「…はぁ…」
ソファに倒れ込んだ私は、大きな溜め息をつく。疲れからくる溜め息ではない。呆れているのだ。偽りの報告とはいえ、何の根拠も無く疑い、己の考えだけが絶対だと認めないあの者に。そして、ただそれに同調し意見を出さない、取り巻きに。
八意様なら、意見の違う相手が出た場合、確たる証拠を相手に突き付け、正解を見せて、そこから相手の意見の論破にかかっていた。それこそが、真の賢者だと私は思う。
サグメ「…疲れた…」
あそこに居ると、精神が疲れる。
賢者と呼ばれるようになってから…いや、賢者と呼ばれる前から、私は、月の都に尽くしてきた。それを知っていながら…何故、あのようなことを言われなくてはならないのだろう。
さっきは、「穢れを持ったまま都に侵入した」のような事を言われた。穢れを嫌う月においてその言葉は、「お前は裏切った」と言われているのと何の違いもないのだ。口先ばかりで、何の行動も起こさない奴に私の何がわかるというのだろう。ああ、本当に嫌になる。ここまで生きづらい世界だったのだろうか、この月は。
裏切り、裏切られる世界…月。よもや、ここまで殺伐としていたとは…賢者と呼ばれる私ですらも分からなかった。もう…誰も信用出来ない。あの写真はどこから流出したのだろう。恐らくそれはあの賢者が撮ったか、念写で捏造したかだ。月の技術ならば、念写は誰にでも可能だ。あの写真が本物である確証はどこにもない。……偽物である証拠も、まだ不十分だが。
もしあの写真が本物だった場合…私は、あの男の前で…あんなにも自然に笑っていたのだろうか。いや、仮に偽物…念写だったとして、あの賢者は私の笑顔を知っているのだろうか。念写は知っている風景、モノしか写せない。つまりあの写真は本物ということになる。私は、八意様と綿月姉妹と…彼以外の前では、笑った事がないのだから。
サグメ「……笑っていたのか、私は…。あの男の前で…あんなにも自然に…」
念写の可能性を考えたら自然と写真が本物という証拠が出てしまうが、本物や偽物よりも、自分が笑っていたことにただただ驚いた。
少しは心が楽になるとは私自身常々思っていた。だがまさか…笑う程とは。
サグメ「丁度いいではないか…躊躇う事も無い」
そちらが私を裏切り者に仕立て上げるのならば…私は、裏切り者になろう。…それに、地上に行く良い口実ができた。私には家族も何も無い。故に私が月で何をしようと誰かに迷惑をかけることも無い。私が月を裏切ろうと、なんの問題も無い。
もう一度だけ…深く、強く、思いを巡らせよう。
私は一体、何の為に月で生きているのだろうか。それから、一体何の為に生まれてきたのだろう。
月に仕える為…だろうか?否。そんなのは違う。
この私は、月の為に生きている訳でも、月の為に生まれてきた訳でも無い。その理由も、今ならば手に取るようによく分かるようになった。
世界を楽しむ為だ。私はもう何にも縛られない。
目に見えぬ檻、鎖に縛られた己を解き放つのだ。
解き放つには─────。
サグメ「私もそちらへ参ります、八意様…」
「堕ちた」と言われても構わない。堕ちてやる。
決して揺るがぬ決意を固めた私は、地上へ降りるための準備を開始した。それは故郷を裏切る行為だというのに、私は自然と笑みを零していた。
キリのいいところで切ります。