「おや」
夕餉と風呂を済ませて、取材に向けて隈を消すためにしっかり休もうと作業をせずに寝室まで移動したところで、ポケットに入れていた通信端末から、連絡用にインストールしていたSNSアプリのポップな通知音が鳴り響く。基本的に仕事の連絡はパソコンの方で受け取るようにしているので、友人の少ない俺があまり聞くことのない音でもある。
「誰かしらっと……」
軽快に独り言を呟きながらスマホを取り出して画面を見てみると、そこには綾地寧々という名前が映し出されていた。あれから何かあったのだろうかと、俺は画面をタッチしてアプリを開いていく。
──今、お時間はよろしいでしょうか?
チャット形式の画面には、今までの会話のログの下にそのような簡潔なメッセージが届いていた。何だろうと思いつつも、あとは寝るだけで時間は有り余っているので、俺は手早く返事を打ち込んでいく。
──大丈夫だよ。
こちらも簡潔に了承の意を伝えるメッセージを返すと、十秒もしないうちにそのメッセージの側に「既読」の文字が表示された。恐らく、ずっと手にスマホを握りしめていたのであろう。
──ありがとうございます。
──予定が無ければで良いのですが、明日の放課後、また部室の方まで来ていただけないでしょうか?
数十秒の待機の後、画面に表示されたのはそんな言葉だった。一瞬だけ昨日の今日でまた何かあるのだろうかと一人で惚けてみるが、用件は何となく予想できる。
──分かった、予定は開けておくね。
取材までは緩やかに過ごすつもりだったので、特にこれといって予定は入っていない。断る理由もないので、俺は綾地さんのお願いを二つ返事で受け入れた。
──ありがとうございます。
──それと、改めて今日は本当にすみませんでした。
──お休みなさい、空閑君。
その後の返信は捲し立てるように立て続けに返ってきて、いつもは付いてくる可愛らしいスタンプも貼り付けられない様子を見て、焦っていらっしゃるなと、何処か他人事のような感想を覚えつつ、お休みなさいのスタンプを貼り付ける。それが既読されて返信がないことを確認してから、俺はスマホを枕元に置いてベッドに身を投げ出した。おっと、充電器に繋いでおかねば。
綾地さんが呼びつけたのは、恐らく今日のことで何かあるのだろう。それが口封じか弁明かは当日にならねば分からないが、わざわざ自分から蒸し返す理由があるのは間違いないはずだ。
そんな風に予想を立てて、明日は波乱が起きそうだなと思いつつ、俺は夢の世界へと旅立っていった。
「ど、どど、どうぞ、コーヒーです」
「あ、ありがとう」
時は流れてあっという間に翌日の放課後。一日中挙動不審だった綾地さんをはらはらしながら見て過ごし、今は昨日とは違って向かい合って座り、ガタガタと震える手でソーサーをこちらに押す綾地さんを見て、またもやはらはらしているところである。顔色も微妙に青白く、疲れたような表情をしているので、恐らく昨夜は眠れなかったのだろう。ちなみに俺はぐっすり寝た。きっかり九時間睡眠である。
「そ、それで、今日空閑君を呼んだのはですね……」
「昨日のこと?」
「はい……」
お互いにコーヒーを口にして、綾地さんの言葉を皮切りに会話が始まった。内容は予想通り昨日の綾地さんの痴態についてらしい。
「その、一応お尋ねしますが、昨日私が、く、空閑君の身体使って、オ、オオオ、オナ、ニーをしていたのは……?」
「…………覚えてますね」
何で言わなくて良いところまでバラしていくのだろうかと思いつつ、思わず丁寧語で俺がそう返すと、綾地さんは一縷の望みも砕かれたのか、顔色が絶望一色に染まってしまった。何だか居た堪れない気持ちになるが、流石にアレを一日の間で忘れるようでは別の意味で問題があるだろう。
「う、ぐぅぅ……もう死にたい……」
俯き、喉奥から絞り出すような呻き声と共に、穏やかでない言霊が綾地さんの口から発せられる。いや、確かに同級生に自慰行為を目撃されるなど発狂ものであろうが。
私が空閑君を使って気持ち良くなっていたことに気付かれていたことが事実であると分かった後、私と彼の間に痛い痛い沈黙が流れました。私の事情で一度終わった話を掘り返している以上、私が話を進めないといけないのですが、正直既に心が折れそうです……。本当にどうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
「それで、その、わざわざ蒸し返したってことは何か理由があるんだよね?」
そんな風になかなか切り出せないでいると、少し恥ずかしそうにしながら空閑君が私に助け舟を出してくれました。そうです、こんな死にたくなるような恥ずかしい思いをしているのにはちゃんとした理由があるのです。
あれは昨日空閑君と別れた後のこと。空閑君はお互いに忘れて無かったことにしようと気を遣ってくれましたが、私の胸中は当然穏やかではありませんでした。空閑君が言い触らして学院中の男性に性奴隷として扱われるかもしれないだとか、弱みを握られて空閑君にえっちなことを強要されるかもしれないだとか、そういうことを心配していたわけではありません。後者に関してはちょっと良いかなとは思いましたが。
……話が逸れました。空閑君が誠実な人であることは、一年半ほど友人として関わってきている中で分かっていたので、そこに関しては心配はしていません。しかし、あれだけの醜態を想い人の前で晒し、その上で物凄い優しくしてもらったことで、私の精神はそのことを一人で抱えることができない状態になったと言いますか何と言いますか。とにかく、居ても立ってもいられなくなった私は七緒にその話をすることにしました。
──変にギクシャクし続けるより、いっそのことその想い人君に話してみたらどうだい?
七緒から返ってきた言葉を要約するとこんな感じです。曰く、その後も友人関係を続けるのであれば、変に心に影響を残しておくよりも、一度スッキリさせた方が良いとのことでした。早い話、空閑君をこちら側の世界に引き込むということです。
当然、私も初めは渋りました。いくら彼がオカルトに精通しているとはいえ、色々と後ろ暗い魔女の世界に引き込むのに気が引けたわけです。しかし、続く七緒の契約さえしなければ面倒ごとにはならないという言葉で納得してしまい、それからは流れで空閑君にアポを取って今に至ります。
「……空閑君はアルプというものを知っていますか?」
「えっと……確かドイツあたりの伝承にある妖精……夢魔だっけ?」
意を決して話を切り出すと、空閑君は少し考えた後にそう口にします。流石、博識な彼だけありますが、私の言うアルプは表の記録には残ってはいない存在のことです。
「では、魔女の方は」
「魔女? それって中世にいたっていう?」
話が読めないのか、空閑君は怪訝な表情なまま、一般的な認識の方の魔女のことを口にします。事前の確認のつもりでしたが、どうやら彼はこちらの世界のことは一切知らないようです。
「空閑君、私が今から言うことは全て真実です」
何も知らないのであれば、一から説明することにしましょう。少々話が長くなるとは思いますが……。
「なるほどね……」
妙に胡散臭いゴシップ誌のような文言から始まった綾地さんの説明は、何と言うか新鮮で面白く心が躍るものであった。彼女の雰囲気や目つき、そしてこの状況ということもあり、今の話が嘘ということはないだろう。
曰く、この世界には魔女とアルプと呼ばれる存在がいて、魔女はアルプに願いを叶えてもらうために、アルプは魔女から魔力をもらうために契約という関係を結ぶとのことらしい。そして、アルプは魔女から魔力を徴収する方法として、代償という名の呪いに近しい何かを背負わせ、魔女は魔女で願いを叶えるために「心の欠片」という人間の余剰分の感情を結晶化させたもの──魔力は人の感情から生まれるものらしい──を回収する必要があるのだそうだ。
普通であれば眉唾物であると切って捨てられるような話であるが、あいにくとこの世界が特異なもので溢れていることを知っている身としては、まあそんなこともあるのだろうと、結構すんなり信じることができた。まあ、自分自身がそれ以上の神秘の塊であることも要因の一つではあるが。
「その、信じてもらえるのですか?」
あっさりと納得してみせた俺を見て、綾地さんは疑われるものかと思っていたという風な顔をして、そんな言葉を口にする。俺も彼女の立場だったらそうするであろう。
「そんな嘘を吐く人じゃないって分かってるからね」
しかし、綾地さんの人柄を近くで見てきた人間として、彼女の言うことを疑うという選択肢は存在しなかった。その程度には信頼関係を結んできたはずであるから。
「まあ、ただ、それと昨日の話の繋がりが未だに見えてきてないんだけども」
続く俺の言葉を聞いて、感激したような表情をしていた綾地さんがボフッと一瞬で真っ赤に染まる。そう、忘れてはいけない。面白い話を聞けはしたものの、結局一番肝心なところがまだ明らかになっていないのだ。
「……そ、それは、その、えっと…………」
あたふたと視線を泳がせて、綾地さんは説明を言い淀む。
ここまで来ておいて言わないという選択肢はもう取れないと思うのだが、流石に急かすのは酷なので、俺は何も言わずにコーヒーを飲みつつ待っていると、数分の後、綾地さんは目の端に涙を溜めながらも、真っすぐに覚悟を感じさせる瞳で俺を見据えてきた。
「あ、あの、その、先程話した代償の話なんですけど、どういった代償になるのかは実際に契約してみるまで分からないんです」
言葉に詰まりながらも、綾地さんは俺に魔女の代償について追加の説明をする。何ともギャンブル要素の強い話だが……あぁ、何となく話が読めてきた。
「それで、わ、私に発現した代償というのがですね…………ぅ……なんです……」
「え?」
想像以上に小さな声で聞き取れず反射的に聞き返すと、綾地さんは俯き気味だった顔をガバッと上げて……。
「強制的に発情させられる身体になったんですっ!!!」
聞いたことのない大声でそう言い放った。シン……と、部室内が嘘みたいに静まり返る。どうやらそういうことらしい。
「……そ、それはまた、何と言うか……難儀、ですね……?」
明かされた余りにもあんまりな事実に俺は辛うじてそう返すと、耳まで真っ赤にした綾地さんの両目からぶわっと涙が溢れ出す。
「どうして私だけこんな代償なんですかぁ……! うぅぅぅぅぅ……!」
そして、机に突っ伏すようにして綾地さんはさめざめと泣き出してしまった。到底人に明かすことのできない秘密を吐露したことと、異性の友人に話すには些か下世話が過ぎる内容に羞恥心が爆発したといったところだろうか。いや、冷静に分析している場合ではないか。
「綾地さん、おいで」
「うっ、うぅぅ、くがくぅぅぅぅん……っ!」
俺は昨日綾地さんが泣き出した時のように、声色を調律して子を慈しむ親のような気持ちを乗せて綾地さんを呼ぶと、彼女はゆっくりと顔を上げてから机を迂回して、嗚咽混じりの声を漏らしながら俺へと抱き着いてくる。
昨日の今日で二回目だが、彼女のこれには何だかもうすっかり慣れてしまった。
「よしよし、今までよく頑張ってきたね」
「ぐすっ……」
俺に跨るように座り、強く抱き着いてきながら涙を流す綾地さんに、彼女が抱えていた苦労を労う声をかけつつ、俺は優しく綾地さんの頭を何度も何度も撫でる。
「言いにくいこと、打ち明けてくれてありがとう」
「ううぅ、は、いっ……」
次いで、彼女が一歩踏み出してくれた勇気に感謝の言葉を紡ぐ。少し落ち着いてきたのか、綾地さんはしゃくり上げながらも返事をしてくれた。
「話してくれた綾地さんのために、出来る範囲でなら俺も協力するよ」
「っ……本当、ですか……?」
そして最後に同調する意を言葉に添えると、綾地さんは少しだけビクリと身体を跳ねさせた後に恐る恐る言葉を返す。何でもとは言わないが、女の子にここまでさせた以上、言葉通り、出来る範囲であれば協力は惜しまないつもりだ。俺に何ができるかは明確には分からないが、契約を早く終わらせるために欠片集めの手伝いぐらいはできるだろう。多分。
「わ、私の発情を鎮めるお手伝いも、してくれますか……?」
……と思っていたのだが、綾地さんの口から震える声で予想の遥か上を突き抜けていく言葉が俺に叩き付けられた。本気で仰ってます? ……雰囲気的に仰ってるんだろうなぁ。
「そ、それは流石にどうなんだろうね? 俺も男だし、その、刺激が強すぎ……」
「好き、なんです……空閑君のことが、好きなんです」
突然の出来事で流石に動揺を隠しきれずにやんわりと回避しようと口を動かそうとするが、綾地さんはそんな俺に被せるように愛の言葉を紡ぎ始めた。…………何ですと?
「好きって、綾地さん……?」
「ずっと、出会った頃から、空閑君のことだけを見てきました……。ずっと、ずっと……好きだったんです……」
抱き着いた姿勢のまま、追い討ちをかけるように綾地さんは愛を囁き続ける。何となく、その言葉で俺の心は腑に落ちるような感覚を覚えた。
日課のように教室で休み時間に話すこと。オカルト趣味が共通していると分かった時に、本当に、本当に心の底からの笑顔を見せてくれたこと。長期休暇の時に、用事もなく、ただ雑談に興じるためにSNSでメッセージを送ってきたこと。俺の好みの味を事細かに記憶していたこと。そして、彼女が昨日、わざわざ俺の身体で彼女の身体を慰めていたこと。思い返せば、綾地さんが俺に好意を抱いていたことを示す出来事は多々あったような気がする。
「発情するからじゃなくて、空閑君だから、こんなことを、お願いして……うぅぅ……」
黙りこくってしまった俺に、綾地さんは焦るように何度も何度も愛を言葉にして、その声に再び涙の色が滲み始めた。
これ以上綾地さんに悲しい思いをさせるようでは、男としても友人としても失格だろう。
「綾地さん」
「っ……!」
止めていた手を再び動かし始めると、続く言葉を恐れるように彼女は身を縮こまらせる。
「俺で、いいの?」
「……く、空閑君だから、いいんです……空閑君じゃないと、駄目なんです……」
俺の問いかけに、綾地さんは泣きすぎて上手く回らない口を必死に動かしてそう言葉にした。
密着した身体から伝わってくる、彼女の心臓がはち切れんばかりの鼓動。震えながらも強い想いの熱を感じさせる声色。顔は抱き合っているので見えないが、きっと覚悟の炎が宿った瞳を見せてくれるであろう。
そして、そんな綾地さんに俺が伝えるべき言葉は……。
「綾地さんの願い、聞き届けたよ。うん、ここまで言われてヘタレてたら、男失格だからね」
「く、が、くん……っ!!」
綾地さんの愛を受け入れるという言葉に、彼女は感極まった声を漏らしながら抱き着く力を強めてきた。少しばかり苦しいが、これも想いの力ということでどうか一つ。
「二人で頑張ろっか」
「は、いぃ、ぃぃぃ……!」
彼女の瞳からボロボロと零れる涙が俺の右肩を濡らしていく感触を覚えつつ、俺は一人の孤独な少女の恋の成就を祝福するために……。
「愛してるよ、寧々」
一人の男の恋の萌芽を声の音色に乗せて、愛しの姫君に囁いた。
うーん、難しい。