「おはよう、ございます……天都君」
「うん、おはよう寧々」
心の内を洗いざらい吐き出した次の日の朝、私は柔らかな陽光の気配で目が覚めます。ぼやけた視界が徐々にピントを合わせていって、そうして捉えたのは、私の想い人が慈愛の表情を浮かべて私の顔を覗き込んでいた光景でした。それが少しだけ恥ずかしくて、でもそれ以上に嬉しく感じて、私も自然と笑顔を浮かべてしまいます。
その時になってようやく私は昨夜とは違って、胸につっかえていた何かが綺麗に取り除かれたような感覚を覚えました。それは山の頂上で深呼吸をして新鮮な空気を肺いっぱいに取り込んだ様な感じとでも言えば良いのでしょうか。とにかく、全身に活力が漲っているような、未来に不安なんて何も感じていないような、そんな感じです。
そして、それは目の前にいる天都君が成してくれたという確信がありました。
「天都君……♪」
「よしよし」
何だかたまらなくなって、天都君にぎゅっと抱き着いて、自分でも信じられないぐらい甘い声を出すと、彼は嫌な顔一つせずに私を抱き返しながら頭を撫でてくれました。えへへ、幸せです。
でも、これでは恋人同士というより、懐いた猫とその飼い主みたいですね。猫だと七緒と被ってしまいます。
「さて、起きて準備したら相馬さんのとこに行こうか」
「え? 今日は学校があるのでは……」
そこまで口にして、私は今日の準備どころか、お風呂にも入っていなかったことを思い出します。へ、変な匂いとかしてないですよね?
「報告は早い方がいいと思ってさ。学校もちゃんと午後から行くつもりだよ」
「あっ、え、そ、そうですね、ちゃんと七緒にも伝えておかないと……」
報告という単語から、昨日……いえ、随分と前から七緒には心配をかけてきたことに気が付いて、私は俯き気味にそう口にしました。彼女にはちゃんとお礼を言っておかないといけません。
「とりあえず、私は急な仕事で遅れることになるって連絡入れといたから、寧々も適当に理由考えて学院に電話しておいてね。その間に朝食の準備とかしておくから」
そう言いながら、天都君は私の頭を一撫でしてから立ち上がります。昨日のことも相まって、何だか母の温かみを私は感じました。それが嬉しくて口角が上がっていくのを感じながら、私は天都君に言われた通り行動しようとしましたが、その前に……。
「しゃ、シャワーをお借りしてもいいですか?」
身を清める方が先決です。乙女の身嗜みは大切なのです。
登校時間から時間を外して、人目に付かないように一旦寧々の家に寄って二人とも私服に着替えてから、
「やあ、いらっしゃい。コーヒーを淹れるから少しだけ待ってておくれ」
そう言って相馬さんは手にしていたモップを壁に立てかけて、私たちにカウンター席に座るよう促してきた。
少しだけ待っていると、準備を終えた相馬さんも席に座って話を聞く体勢に入る。事前にあらましを寧々が話しているようであったが、その面持ちは少しだけ硬かった。
「それで空閑君、寧々の問題をどうにかしたっていうのはどういうことなんだい?」
「恐らく、見てもらった方が早いと思いますよ」
そう言いながら、私は寧々の方へと視線を送り、相馬さんに無言で寧々の魂を見てみることを勧めると、彼女もそれが一番であると分かっていたのか、寧々に手を翳して魂をスキャニングしていく。
暫し沈黙が場を支配し、その間相馬さんの様子を見守っていると、最初は無表情だった彼女の表情がだんだんと驚愕の色に染まっていくのが見て取れた。どうやら見ることができたようだ。
「なるほど……これが君の神髄というわけか……。昨日から空閑君には驚かされてばかりだ」
手を降ろし、コーヒーを一口飲んでから、相馬さんは呆れるような、感心したような表情で私を見つめてくる。お褒めにお預かり光栄だ。
「でも、これで心配事が一つなくなった、か……。空閑君、君にはお礼を言わなくてはならないね」
「私は私がしたいことをしただけですから、お礼なんて」
「! ……それでもだよ。本当にありがとう、空閑君」
一度は謙遜してみたが、それでも相馬さんは私に頭を下げてお礼の言葉を口にした。何だかそれが少しだけむず痒い。
「七緒、今まで本当に心配をかけてしまいました……」
「ううん、いいんだ、いいんだよ、寧々」
「七緒……ありがとう……」
涙ぐんで相馬さんに今までのことを詫び、お礼を言って、どちらからともなく静かに抱き合う。そこには深い親愛が感じられた。
ともあれ、一時はどうなるかと思われた騒動は一先ず幕を下ろすこととなった。願いの変更により、必要になる心の欠片が増えてしまったが、そこは私も協力して早めの解決を心がけていこう。今回のことで魔女と
「ふぅ……それで、どうして空閑君は楽器態から戻っていないんだい?」
あれからささやかなお茶会をした後、あらぬ疑いを避けるため──私が既に午後からの登校を指定していたからというのもあるが──に、寧々とは時間をずらして登校することとなり、寧々は学校に行くために自宅へと帰っていった。今は午後までやることもないため、開店時間まで居座る許可をもらって、相馬さんとカウンター越しに向かい合って雑談に興じていたところだ。
「やっぱり気付いてました?」
そして、私は相馬さんの問いに対して特に驚くことをせずに肩を竦めてみせる。
彼女の言う通り、私は昨夜の一件から半分ほど人間態に戻ることができていない。寧々はこの一週間と経たない短期間で三度、それも力の強い干渉波を受けたせいでその変化に違和感を覚えていないようだったが、付き合いも短く、また、干渉波を一度も受けたことがない相馬さんには見抜かれているようであった。
「聞く限りでは随分と無茶したようだけど、大丈夫なのかい?」
「普段人間態で過ごしていただけで、そもそもの私は楽器態が謂わば通常形態ですからね。問題はありませんよ」
そう、楽器態の時は在り方が人を釘付けにするから、それを回避するために人間態を好んで使用しているだけであって、私の今世の器の通常形態はあくまで楽器態の方である。通常形態とは即ち無理のない形態。故に、この姿でい続けることで起きる悪影響は皆無と言っていいだろう。強いて挙げるとすれば、少々周りからの視線が増えてしまうことが問題であろうか。
「それならいいんだけど……空閑君、寧々を泣かせたりしたら承知しないからね?」
「それは重々承知しています。泣かせないために頑張ったんですから」
そう言いながら、相馬さんはジト目で私を見つめてきた。こうして見ると、何だか歳の離れた妹を心配する姉のようである。
「さて、そろそろ私も学校に行きますね。コーヒー、ご馳走様でした。美味しかったですよ」
「あぁ、それならまた来てくれたまえ。君ならいつでも歓迎しよう」
そこそこ良い時間になってきたので、飲んだコーヒー分のお金を相馬さんに渡しながら私はゆっくりと立ち上がった。それに対して相馬さんは笑顔を浮かべながら私を見送ってくれる。さあ、今日から心機一転、頑張っていくとしよう。
甘えることは子供だけの特権ではないのだ。