「ただいま」
玄関を開いた清滝鋼介は手にしていた手拭いで額に滲む汗を拭う。閉めきった屋内はエアコンが利いており、滲み出す汗が止まる。
「桂香ぁ。おぅい、桂香ー」
玄関先から娘の名前を呼んだ。特に用件はないが、いないならば自室以外は停めるつもりだった。
返事が無いことに仕方ないといった様子で肩を落とすと下駄箱に手を掛けて靴を脱ぐ。
「ししょう」
パタパタと足音を立てて一人の少女が居間の方から現れる。下駄箱とあまり変わらない身長に、透き通るような髪色と肌、強気な性分を感じさせる大きな瞳。白いワンピースの袖には青いラインが刺繍されている。いつも抱き抱えているトレードマークともいうべきマグネット将棋の「歩」駒をその小さな指に挟んでいた。清滝鋼介の内弟子の一人である空銀子は五歳とは思えない落ち着きで出迎えた。
「銀子、もう帰ってきとるんか。もう少しゆっくりしてきてよかったのに」
鋼介は将棋イベントに駆り出されるからいい機会だと銀子に帰省を提案していた。連れて行っても良かったのだが、彼女の身体を考えると炎天下に長時間居させるのは体調から厳しいものがあった。将棋に夢中なのは非常に嬉しいが、内弟子になってまともに家に帰った記憶が無かったからだ。この機会に親と顔を会わせさせようという子供を持つ大人としての配慮だった。
「家じゃししょうと対局できない」
最低限の言葉数を口にしただけで銀子はそれ以上話す様子は無い。じっと鋼介を睨むように見つめていた。
「なんや?」
視線に気づいた鋼介は下駄箱に靴を入れながら尋ねた。
「やいちと何局差したの?」
「少しや」
「嘘。やいちが少ししかやらない筈ない」
「40局くらいや、だいたい」
「…本当は?」
銀子の目に力が籠る。
「…68局です」
「じゃあ私とは70局。今から」
「ちょっと待っときぃ。今日はデパートで子供将棋大会の仕事やったんや。少し休ませてや。風呂にも入ってべたべたの体をすっきりさせてくれ」
鋼介が手拭いを絞った。吸った汗が出てくる気配はない。鋼介なりのアピールだった。銀子が壁掛け時計に視線を移す。短針は三の数字を僅かに跨いでいた。
「じゃあ四時から」
そう言うと銀子は踵を返して居間に引っ込んだ。残された鋼介は深い溜め息を吐いた。居間に顔を出すと銀子がセパレートタイプのマグネット盤に視線を落としている。
「そういえば八一はまだ帰っとらんのか」
八一こと空銀子の弟弟子である九頭八一は夏休み中は鋼介の将棋道場や街の将棋サロンを渡り歩いていた。
街のとは言っても鋼介と顔馴染みで席料はツケの場所である。
「まだ帰ってない」
声だけで不機嫌だと解る。体の弱い銀子は以前将棋道場までの道すがらで熱中症で倒れてしまった。話し合った末に鋼介との優先対局権を得る代わりに夏の間は道場やサロンに行くのは控えることになっている。
「やいちは、帰らないの?」
「いや、あいつも帰そうとしたんやけどな。あっちの親が「そっちの方が八一は多分幸せです」って言われてな。八一に聞いたら親に「帰るよりもこっちが良い」って言われてしもうたんや。そしたら無理に帰す必要も無いなって思うて」
「なら私も帰らなくて良かった」
「そうはいかん。銀子は女の子や。娘親って言うんは娘を猫可愛がりしたいもんや。」
パチンという乾いた音が立ち、マグネット盤の盤面を銀子は睨むように見つめていた。当てつけるように駒音が響く。鋼介の熱弁も当人には解らないらしい。
「そういえばご両親は?」
「家」
鋼介から汗が滲む。よく見れば顔が赤くテーブルに置いてある作り置きの麦茶の容器が半分程度の減っていた。
「銀子、お前誰と帰って来た?」
「一人」
鋼介は急いで銀子の実家に電話をかけた。
「いや、ワシもその向上心は買うたるけどな、親に心配かけるんは勘弁や。電話したら相当心配してたみたいやぞ。」
風呂に入って汗を流した鋼介は自室で銀子と盤に向かい合いながら小言を口にする。さっきまでの似合わないスーツ姿ではなく、普段から着慣れている和服を着ている。鋼介はあぐらで座り、銀子は背筋を伸ばして正座をしている。
話を聞いているのだろうが銀子は盤面を睨んだままでうんともすんとも言わない。口を固く結び盤の上二視線を走らせて活路を懸命に探している。しばらく息もしなかった銀子から肩の力が抜けて、大きく息を吐いた。
「負けました」
銀子が頭を下げる。盤の情勢は少し鋼介が優勢に見える程度だ。五歳児とはやはりおもえない判断力だった。
「銀子、もう少し粘らないかん。プロは最後の一手まで諦めたらあかんのや」
「ししょうの方が『読んでる』だろうから」
自分が詰んだと判断したら師匠である鋼介はそれを見逃す筈ないと思っているらしい。
「それでも、や。案外気付いてなくてひょいひょいと銀子の罠にハマりに行くかもしれん」
「私の罠に師匠が引っ掛かるわけない」
銀子はポツリと呟くと駒を初期位置に並べていく。表情が険しいが、どこか違和感がある。
「銀子、もしかして疲れてるんやないか?」
「…まだ平気」
言われたことで自覚したのか駒を配置する手が鈍る。
「頭が働かないのに上手い将棋が差せるわけない。そやから風呂に入って休憩や。八一が帰ってきたら一緒に稽古つけたるさかいに」
「嫌」
「強情やなぁ。どうしたら聞いてくれる?」
「将棋で聞かせたらいい」
銀子はそう言うと角道を開けた。
「…負けました」
銀子は今にも将棋盤をひっくり返しそうな勢いで盤面を睨み付けていた。自陣の大駒を取られながらも穴熊で活路を見出だそうとして鋼介にそれを咎められるように飛車で金駒を奪われた。それでも今度は投了せずに「詰み」が盤に現れるまで粘った。
「粘ったのは認めるけど、勝負は勝負や。約束通り一回休みや」
銀子は立ち上がると、
くつ下を脱いで座り直した。
「どういうつもりや?」
鋼介は渋い顔をしている。
「一回勝負って言ってない」
銀子は言いながら今度は飛車先の歩を上げた。
「…負けました」
銀子は胃から絞り出すような声を発しながら盤を睨み付けている。さっきのような大駒を取られてのじり貧な対局ではなく、最後まで駒を生かそうとしていた。ただ、ケアレスミスで自分から調子を崩し、鋼介がそこを咎めて形勢は決してしまった。
「今度こそ、風呂やぞ。今から帽子や手袋なんて小道具はなしや」
銀子が立ち上がる。
部屋を仕切る障子から顔を出して左右を見て盤の前に戻ってくる。
「ちょっ!」
銀子はスカートの中に手を入れると一気にパンツを下ろした。
「まだやれる」
パンツから足を抜いた銀子は、白の綿パンツを握りしめていた。
「……負け…ました」
悔しさを声に乗せて銀子が頭を下げる。二局目の終着時のように盤を眺めているがその表情は呆然としていた。
「納得したら風呂に行くんやぞ。」
鋼介は銀子のパンツを洗濯籠に入れるために部屋を出た。
脱いで時間が経ったパンツは既に人肌の温度は逃げてしまって冷たい。汗を吸って湿っている。
「こんなんしてたら風邪ひいてしまうぞ。」
パンツを洗濯籠に放り込んだ鋼介は台所で急須にお茶を淹れて部屋に戻った。
「銀子ォォォ!」
「ししょううるさい」
銀子はまだ盤面を凝視している。
ただ、今の彼女は体勢こそ鋼介が退出した時と同じ正座だったが、ワンピースが畳の上にたたまれている。全裸だ。
太ももの上に手を乗せて対局の姿勢を取っている。よく見ると腕の袖がカバーしきれなかった部分が日焼けで赤くしていた。
「まだ」
視線で鋼介に対面へ座る様に促す。その顔はさっきよりも真剣だった。
「あぁっ、もうっ、これで最後やぞ」
そう言うと鋼介は銀子と盤を挟んで対面に座った。
―――自分が勝つ限り銀子は諦めないんじゃないか。
鋼介は指しながらふとそんな戸惑うような疑問を抱いた。
目の前の少女は少なくとも羞恥心が無いわけでは無い。たまに視線を向けると体を前後に振って、股に手を当てて隠す仕草をしている。胸に関しては余り羞恥という感情が芽生えていないのか、ついでといった様子で上腕で申し訳程度に視線を遮る程度だ。日焼けで赤くなった腕に対して日焼けしていない股や腹、胸は余計にその白さが際立つ。
「なあ、銀子。せめてシャツくらいは着てくれ」
「嫌、洗濯物が増える」
よく見ればワンピース以外に洗濯機らしい物が無い。
「お前、着てたんは?」
「?」
銀子が首を傾げた。顔を上げてキョトンとしている。どうやらワンピースの下には何も着ていなかったらしい。鋼介は何度目かわからないため息を吐いた。
局面は銀子が優勢を取っている。果敢に棒銀で囲いを食い破り掛けていた。勝ちを自分からもぎ取ろうとしている。指導対局のつもりがまさかこんなにがつがつと来るとは鋼介は意外だった。
「ただいまー!」
玄関から元気のいい少年の声が響いてきた。その声に銀子は顔を上げて固まっている。反射的にワンピースに手を伸ばしたようだが、混乱しているのかそれ以上動く気配はない。
「あ、銀子ちゃん帰ってきたんだ」
声の主は声量をそのままに一人言を口にすると、ぱたぱたと廊下を走ってくる。このままでは10秒としない内に障子が開かれてしまうだろう。あわてて鋼介は布団を入っている収納の引戸を開ける。収納スペースは二段になっていて、下段は荷物で一杯だが、上段は布団が置かれているだけだった。
「銀子、八一に見つかったら面倒や!」
銀子は鋼介の小声に頷くと、猫のような身軽さで布団の上に飛び乗った。鋼介が障子を閉じる。入れ代わりに廊下側の障子が開いた。
「あ、師匠」
「おう、八一。ただいま」
銀子よりも少し年齢的に大きな少年、九頭八一ははつらつとした様子で立っている。
「あれっ?銀子ちゃんは?」
「八一、お帰りなさいかただいま言うんが先やろ。銀子やったらさっきまで居間で差しとったぞ」
「銀子ちゃんいなかったよ?」
「トイレちゃうか?居間で待っといたらその内来るやろ」
「じゃあ師匠、それまで一局……」
ガタッ
「何の音?」
「あっ、いやぁ、ちょっと荷物を掃除しててな。多分荷物が崩れたんやろ」
音をいぶかしむ八一を鋼介は平静なふりをしながらも必死にごまかす。障子一枚隔てた向こうには何も着ていない銀子が居ると思うと背筋が冷える。
「手伝い、いる?」
「いや、いらん。それよりも銀子が戻ってきたら相手したれ。銀子の奴、すごいへそ曲げとったぞ」
「何で?」
「そりゃぁ、八一だけ将棋道場に行ってたのとか、あいつが帰ってる間中ずっとワシとバーサスやってたのが悔しかったんだろうな」
「将棋道場に行けないのって師匠との約束じゃないか」
八一は腹を立てる様子もなく淡々と反論する。銀子の体の弱さを知っているからこその反応だった。
「それに、今日の師匠にだって付いていかなかったじゃん」
「……ワシとしては八一だけでも連れて行きたかったんやけど」
「僕だけ行ったら銀子ちゃんに悪いかなって思って」
八一は俯く。
「まあええわ。大舞台って訳じゃないし。とりあえず風呂に入ってきいや。上がったら稽古つけたる」
「うんっ!」
八一は嬉しそうにしながらバタバタと浴室に向かった。
「ふぅ」
鋼介は息を吐くと、障子を開けた。するとそこには猫のように丸くなって眠る銀子の姿があった。鋼介は今日一番の深い溜め息を吐いた。
銀子は八一の嫁()