将棋盤をかれこれ十分近く睨んでいた銀子は駒台に手を翳して頭を下げた。
「やっぱり平手でやるには早すぎたな」
正面で胡座に座る鳴滝鋼介は駒台に置かれた駒を返しながら感想を口にする。
確かに銀子の将棋の才能は特筆する物がある。
しかし、最近の鋼介もすこぶる調子が良く、久しぶりのA級入りもあり得る戦績だった。
40歳を越え、気力はあっても体力が落ちているのはどうしようもなかったが、弟子を取ってから復調の兆候が現れてきていた。
それは弟子に格好悪い所を見せたくないというエゴもあるが、それ以上に鋼介の性格と弟子、特に八一との対局にあった。
元来世話焼きの鋼介は請われればどこにでも将棋普及に出掛けている。自分が得る物は少なくとも将棋界が賑やかになればとの思いからだ。
しかし、八一との将棋は普通の指導対局とは違い、上手が下手に教えるばかりではなく、時々ながら鋼介も見落としていた場面を盤上に現出させて見せた。
研究が未熟な為に途中から直感で打っている場面もあったが、小学生らしい柔軟な思考と、らしくない閃きは大器を感じさせるには十分だった。
そしてそれは鋼介に新しい視点を与えてくれた。
一方で銀子の将棋は堅牢堅実のとても幼児が打つ将棋とは思えない玄人めいた棋風だった。
棒銀に執着しているのはアマらしいと言えるが、ガチガチの穴熊具合は彼女の性格と同じく相手をするのは大変だった。
王将を駒で囲んだ穴熊を相手にするのは非常に神経を使う。
特に攻め駒を失った穴熊は延命にしかならないが、それだけに銀子は勝機を作ろうと粘りを見せる。
結果として脳を使い過ぎて床に臥してしまうまでがワンセットだった。
鋼介としては倒れるまで将棋を差す銀子を好ましく思う。しかし、毎回のように倒れてしまっては彼女の体力が持たないとの不安もあった。
なので対局後の感想戦に体力を残す為に勝敗を手早く決めてしまう作戦を鋼介は取っていた。
残念ながら銀子の将棋からは得る物が無かった。
そんな損得で弟子を取ったつもりは毛頭ないが、プロの将棋差しとしてどうしても対局相手を値踏みしてしまう。
特に八一という非凡な弟弟子と比べられてしまうこの年下の姉弟子を師匠として不憫に思ってしまう。
銀子に才能が無い訳ではない。むしろ将来は女流棋士として活躍するには十分な才能を持っている。
しかし、奨励会の三段リーグを抜けるには厳しいと言わざるえない。
女性でリーグを突破した人間はなく、それは言い換えれば将棋界の中心には男性しかいないことの証左だった。
「よし、今日はこれで終いや」
感想戦を終えた鋼介が盤上の駒を駒箱に入れていくのを銀子がじっと見据えた。
表情からは疲れが見てとれ、背中は丸みを帯びている。
最初は行儀よく膝に置かれていた腕も、今は畳の上に手を付いていた。
感想戦を含めても二時間弱でこの疲弊具合は銀子が将来苦戦する最大の要素だと鋼介は予想していた。
終日で一局を差す順位戦では体力が重要になってくる。
疲労すれば当然判断力も薄れて悪手を差しやすくなる。
今はまだ長時間の対局を経験することは無い。しかし、いずれ向き合う問題だった。
「ふぅ」
銀子が出て行った部屋で鋼介は溜め息を吐いた。
体力を付けさせるとは言ってもまだ就学前の幼児である。運動を強いてインドアな人間になってもらいたくない。
ただでさえ頭脳労働の将棋は室内に籠る機会ばかりなだけに意識的に外に出て気分転換をする習慣を持って欲しかった。
「師匠!」
そんなことを考えていると小学校から帰ってきた九頭竜八一が勢いよく襖を開けて入ってきた。
夏休みにあちこちの将棋道場に入り浸りだった八一は移動で小麦色に日焼けした肌をしていた。
「おう、おかえり」
八一は背負っていたランドセルを畳に置くと、さっきまで銀子が座っていた座布団に座り鋼を並べ始めた。
一途に将棋に向かう姿勢に鋼介の口元が緩む。
「師匠、なんでニヤニヤしてるの?」
「ああ、ちょっといいことがあってな」
手をやり、弟子に指摘された口角を揉んで表情を正す。
「よっしゃ、それじゃいっちょ揉んだるで」
八一が駒を差したことを確認した鋼介は駒を握った。
鳴滝家では食事の席で将棋の話はしない。
はっきりと決めている訳ではないないが、鋼介の娘の桂香が将棋から離れている為になんとなく話題にしずらい。
食事の間も将棋の話をしては桂香に疎外感を与えてしまうし、弟子二人もオンとオフを切り替える訓練にもなるので都合が良かった。