Familiar Phobia~倒錯のすゝめ~ 作:友井架月
第十二話 高嶺の花
私は穢れている。
この世界には綺麗なもの、美しいもので溢れているのに、私の心はどうしようもなく醜い。
例えば、世界中を魅了した感動的な映画を観たとき。
例えば、言葉を失うほどの絶景を眼にしたとき。
それらこの世に存在するありとあらゆる『綺麗な』部分を目の当たりにしたとき、自分の内に潜む汚らしい感情が浮き彫りになってしまうのだ。
もちろんこの世にキレイなだけの聖人など居ない。
誰しも人格に表と裏があり、誰だって心に闇を抱えているものだ。
それでも、思わずにはいられない。願わずにはいられないのだ。
私がもう少しきれいな自分でいられたなら。
周りが想像する、理想の自分でいられたなら。
私が眼にするこの世界は、もう少しだけ美しく映るのかもしれない。
心の底から穢れている私では、夢のように遠い世界だとしても。
届かないからこそ縋りたくなってしまうのは、私の心が弱いからだろうか。
◇偶然の出逢い
六月。ある晴れた日の午後、
「うーん、何かムシムシするけど梅雨ってもう入ったっけ?」
三人の中で一番目立っているのは、遠目からでも金髪がよく見える軽薄そうな青年だ。
華々しい大学デビューを飾ろうと髪を染めて見事に失敗した
「まだじゃね? 確か数日後に入るって天気予報で言ってたはず」
甲太の話に返答したのは、三人の中ではこれといった特徴のない青年だ。
蒸し暑いのかシャツを動かし首元に風を送っている
「湿度高いのダメなんすよ。ほら、俺って天パでしょう? こうジメジメすると毛先がカールしちゃうんすよね。毎朝セットするのダルいっつーか、二重の意味で不快指数が上昇しちゃうんだよねー」
「知るかよ、勝手に不快になってろ。だから抱きついてくるなバカ野郎」
唯でさえ暑いのにタコのように腕をくねらせながら絡んでくる友人に、一真は苛立ちながら物理的ツッコミを入れる。湿度が上がっている原因はこいつにあるのではないかと真剣に思う。
「冷たくなーい? 親友に向かってその態度は冷たくなーい?」
中学からの友人に素っ気ない対応をされた甲太は、悲しみのあまり涙(嘘泣き)を流す。流れた涙は空気中に霧散し、湿度を更に上げるのであった。頼むから少し離れてくれ。
「あーあー、一真は話にノッてくれないからつまらんなぁ。なぁ、敬二もそう思うよなぁ」
辛辣な一真に愛想を尽かしたのか、甲太は続いて今まで会話に入ってこなかったもうひとりの友人に話を振った。
「ん……」
甲太に話を振られてようやく、敬二はバカやってる二人の方へ視線を向ける。三人で歩いていたのにナチュラルに蚊帳の外だったのはイジメとかではなく、こいつが必要以上に喋らないからだ。顔だけじゃなくて中身も渋い男なので、アホやってる二人には絡みづらいのだろう。自分たちのせいで敬二も含めて『三馬鹿』と一部で囁かれているのが、誠に申し訳なく思えてくる。
そんな昭和の映画俳優みたいな敬二は、蒸し暑いのに絡み合っている(不適切表現)間抜け二人を交互に見つつ、やれやれと軽くため息を付いて、
「暑苦しいからそういうのは他所でやってくれ」
至極最もなことを言った。
「はい……」
「ごめんなさい……」
敬二に正論を言われると大人しく引き下がるしかない。というか別に俺悪くなくね、と一真は思わなくもないが、敬二に呆れられると申し訳ない気分になるので素直に謝るしかないのだ。
煩わしい絡み方を止め気持ち大人しめになった甲太と、やっとバカの魔の手から解放された一真と、相変わらずクールな敬二が構内を闊歩する。大学に入って二ヶ月も経てば、最初は緊張していた風景も見慣れるものだ。こうして馴染みの三人で何気ない大学生活を送れることが、なんだかんだ嫌いではない一真だった。
「んで、これからどうする? もう講義ないっしょ? いつも通り
「んー、どうするかなー……」
暇を持て余した野郎三人が午後の予定を考えていた。彼女でもいれば、むさ苦しい男たちと時間を共有せずに済むのだが、現実はそう甘くない。夢のような大学生活は、結局夢のまた夢でしかなかったのだ。あぁ、さよなら夢のキャンパスライフ。そしてようこそ寂しいキャンパスライフ。
「んー、いつも通り
そんな『マスター、いつもの』みたいなノリで代わり映えのないデイリーミッションを消化しようとしていたその時、一真の眼にある光景が映る。
一真たちの前方に、三人分の人影が見える。自分たちと同じ男三人ではない。
野郎が二人と、女性が一人。それも仲良さうには見えない。
有り体に言えば、女性一人を野郎二人がナンパしているように見えたのだ。
「ねーねー彼女、今日暇? これから時間ある? 俺たちとお茶でもしない?」
「サークルとか入ってるの? ひとりで遊んでもつまらないでしょ? 俺たちと遊ぼうよ」
男二人の方は、見るからに頭の悪そうなチャラい風貌の学生だった。一真たちと同じ一年生だろうか。大学デビューでイキりたくなる気持ちも分からないではないが、身の程をわきまえていないと傍から見ても滑稽なだけである。ほら、隣のカノジョが困っているではないか。
野郎二人に絡まれている可哀想な女性は、遠目から見ても分かるほどの美人だった。
色白の肌に絹のような黒の長髪が特徴的な、深窓の令嬢のような雰囲気を持つ女性である。こんな田舎の大学にいるのが不釣り合いであり、まるで野良猫の集会に血統書付きの猫が混ざっているかのようだ。その気品溢れる彼女に群がる男たちは、さながら粗暴な野良二匹と言ったところだろうか。
「おっ、あれは……」
一真が立ち止まって三人(正確には二人組とひとり)を注視したところで、遅れて甲太も前方で繰り広げられている光景に気がついたようだ。彼は目を凝らして遠くの様子を把握すると、歓喜と驚愕が混ざりあった声を上げる。
「誰かと思えば、あれは白雪姫じゃないですかーっ!?」
「白雪……」
甲太が口にした名前は一真も聞き覚えがあった。そういや、最近こいつの話題に上がった人物だったな、と朧気な記憶を掘り返す。えぇと、あれは確か……。
「
「そりゃあ相手は旧家のお嬢様だしな。俺たちとは住んでる世界が違うし、会おうと思わなきゃ中々会えんだろ」
同じ街に住み同じ大学に通っていようと巡り合わないのは、やはりお嬢様と平民の生活レベルの差なのだろうか。こんなことで世知辛い現実を味わいたくなかった。
「暇なら良いじゃんちょっとくらい。うちのサークルで遊んでいってよ」
「いえ、サークル活動は……家の都合で禁止されてますので」
「うちはアットホームだから大丈夫大丈夫。見学してくだけでいいからさ」
素性が分かった上で改めて彼女のことを確認してみると、なるほど確かに微妙な振る舞いから育ちの良さが見て取れた。身の程知らずのバカ二人に対して見せる丁寧な対応は、やはり名家のお嬢様と言ったところだろうか。
こう見るとアレだな、美女と野獣どころか美女と害獣二匹だなこりゃ。
「どうするよアレ。見て見ぬ振りはできないんじゃない? 白雪姫とお近づきになるチャンスだろこれ」
「お近づきになるって言ってもなぁ。具体的にはどう助けるんだよ」
「まぁまぁ見てなさいって。王子様は白馬に乗って華麗にお姫様を助けるんだぜ」
お前は王子様じゃないし白馬もいないだろ、と心のなかでツッコミ甲太の後についていく。
本当に甲太に任せて大丈夫なのだろうか。一抹の不安を覚える一真が見守る中、三人の前に悠然と歩み寄った甲太がラッパーみたいな口調で語りかける。
「へいへいそこのチンピラ二人、女の子に迷惑をかけるのはおやめなさい」
「は……?」
「へ……?」
うん、甲太のおかげで野郎二人のナンパ行為が一瞬止まる。と言うか、全員の時間が止まった。
「…………」
六人分の沈黙。気まずい。非常に気まずい沈黙が流れる。
あー、甲太と他人のフリがしたい。こいつと友人とかバッドステータスでしかないのでは?
「おいおいなんだこの寒い空気は」
「滑ってるぞ、お前」
友人として、せめて介錯だけはしてやろう。その後に全力でこの場から逃げ出そう。
「なんだお前ら」
「俺らお取り込み中なんですけどう」
そう一真が思案していると、石化状態から復活した野郎二人がこちらにメンチ切ってきた。ナンパの邪魔をされてお怒りなのだろう。今にも噛みつかんばかりの勢いで一真たちに食って掛かると、一番先頭に居た甲太の胸ぐらを掴んで凄む。
「おいおい、暴力はいけないよ君たち」
「最初に突っかかってきたのはお前だろうが」
「三人いるからって調子に乗るなよ」
おうおう、元気のいいことで。最近の若者も血気盛んでいいではないか。
「それじゃ甲太、後は任せたぞ」
「おいおい無慈悲か!? 親友を見捨てる奴がどこにいんのよ!?」
「だって見てろって自分で言ったじゃん。俺は手を貸す気はないぞ」
自慢じゃないが暴力嫌いだし得意でもない。友人の頼みでも喧嘩に巻き込まれる気はないのだ。
「なんだなんだ、仲間割れかおい」
「邪魔だからどっか行ってくんね?」
一真の素っ気ない態度で、若干威勢が削がれた感のあるバカ二人。それでも元気が有り余っているようで、甲太がこれ以上食い下がるなら本気で殴ってきそうだ。
カッコつけてナンパを止めようと割って入った甲太だが、腕っぷしの方は大したことない。喧嘩の強さは一真と五十歩百歩だし、好き好んでヒトを殴る度胸は持ち合わせていない。向こうも喧嘩腰の割りにそこまで強そうには見えないとは言え、二対一なら普通に甲太が負けるであろう。ちなみに甲太がつついた藪なので、一真と敬二は助太刀に入る気は毛頭なかった。自分のケツは自分で拭けというわけだ。
そんな劣勢の中、それでも甲太は強気だった。何か秘策があるのか、その表情には余裕が窺える。なに、昨日読んだ漫画の影響?
「おいおい良いのかな、俺たちにそんな口聞いて。こちらにおわすのが誰だか分かってるのかな?」
そう言って、甲太は今まで後方で黙って見守っていた敬二に指をさす。
「ん……」
「そいつは……」
そこでようやく敬二の存在を認識したのか、野郎二人の視線がそっちに向く。
敬二という男には、ただそこに居るだけで相手を威圧する凄みがある。その風貌からヤのつく職業の方に間違われたり、度々警察から職務質問を受ける彼ではあるが、内面は真面目で優しい男だと一真たちは知っている。昔飛んだ風船を取ってあげた子供に泣かれたのを気にし、普段からあまり他人を怖がらせないよう気をつけている彼なのだが、そうと知らない初対面の人間には分からないだろう。
甲太の前では粋がっていた二人だが、敬二の視線に気圧されたのか態度が弱くなっていた。ひと目で彼が只者ではないことを察知したのだろう。小動物は自分が弱いと知っているからこそ、危険に対する感覚が鋭かったりする。彼らも馬鹿なりに、強者を相手にする愚かさを察するだけの本能は残っていたようだ。
「ふふ、君たちにも分かるだろう。奴の怖さが、恐ろしさが、ホラーが。その感情は間違いではない。奴を敵に回すこと、それ自体が愚か極まりない行為なのだから」
形勢が逆転したことを察した甲太は、意気揚々と捲し立てる。お前は一体何様なんだよ。
「奴は水戸原敬二。そう言えばお前らなら分かるだろ?」
「水戸原……!?」
「敬二、だと……!?」
敬二の名を聞き、野郎二人に衝撃走る。九十九市に住む不良の間では、敬二の悪名(ほぼ風評被害)は轟き渡っているのだ。
「あの健谷中の不良を百人切りした水戸原だとっ……!?」
「あのヤクザの事務所に押し入った水戸原だとっ……!?」
うん、それどっちもデマだから。敬二の名誉のためにも否定しておきたい。
それが嘘だらけの虚像だろうと、信じてしまえば影の巨人も脅威に他ならない。まぁ敬二の場合、デマは多いが腕っぷしの強さは本物なので、怯えるのもあながち的外れというわけではない。
「ふふ、俺たちを敵に回した愚かさをようやく理解したようだね。ちなみに後ろの敬二を従える俺の名は、影のボス屋代甲太だ」
「屋代……!?」
「甲太、だと……!?」
甲太の名を聞き、野郎二人に再び衝撃走る。あ、でも今度は敬二の時とは微妙に反応が違う。
「あの健谷小の女児を百人切りした屋代だとっ……!?」
「あの保育園の事務所に押し入った屋代だとっ……!?」
「それデマっ! 根も葉もないデマだからっ!?」
デマであってほしいと心から願う。隣りにいる馬鹿がリアル幼女に手を出すロリコンだとは思いたくない、と先日女子小学生とヤってしまった一真は切に願った。
甲太の正体を知ってしまい、いろんな意味で怯える男二人。こうなってしまっては、獅子の前に飛び出してしまった哀れな小動物も同然だろう。
二人の表情から勝ちを確信した甲太は、トドメとばかりに最後の一撃をドヤ顔で放つ。
「お前ら、俺たちを敵に回すとどうなるか分かってるのか?」
「「ヒィッ……!?」」
その言葉が決め手だった。
「「ごめんなさいでしたぁ~~!!」」
甲太のハッタリに怯んだバカ二人は、須納白雪のことを忘れて脱兎の如く逃げ出した。漫画に出てくる小物悪役みたいで非常によろしい。
後に残されたのは勝ち誇った表情がムカつく甲太と、特に表情が変わっていない敬二と、呆れて何も言えない一真と、状況が飲み込めずポカンとしている白雪だった。こんな訳の分からんことに巻き込まれて災難だったな、彼女も。
さて、彼女の一難は去ったがこれからどうするか。
白雪姫を助けたはいいがこう見えて奥手なので女性に話しかけられない甲太と、そもそも無愛想なので自分から話しかけない敬二と、相手が高嶺の花なのでどう話しかけたら良いか分からない一真のどうしようもない三人組である。助けた後はノープラン。いっそのこと、このまま何も言わずに立ち去ったほうがカッコいいのではないのか? そんなことが脳裏をよぎった三十秒。
「あのう……」
ダメダメな男たちに代わり、お嬢様が先に話しかけてきた。
「困っていたところを助けて頂き、誠にありがとうございました」
一分の隙もない、完璧なまでの感謝の言葉である。腰をきっちりと曲げ頭を下げる動作からは気品すら感じた。これが正真正銘のお嬢様なんだなぁと、感嘆すら覚えてくるのだ。この場に自分がいるのは何かの間違いではないかと思ってしまう。そんな不思議な感覚に一真は囚われていた。
三馬鹿がそれぞれ言葉を失っていると、頭を上げた白雪がニッコリと微笑み、言うのだった。
「……あの、貴方たちに何かお礼をしたいのですが、少しお時間を頂けますか?」
◇白雪姫との邂逅
喫茶亜璃亜。そこは老夫婦が経営する知る人ぞ知る隠れ家的な喫茶店である。顔馴染みの常連ばかりが集う憩いの場所は、一真たちにとっても癒やしの時間をもたらす貴重なオアシスとなっていた。
そんな一真たちにとって見慣れた空間に、あるひとつの異変が生じていた。
店内一番奥にある四人がけのテーブル席。普段は片側に二人座るところを、今日は椅子を三つ並べて男三人が仲良く並んでいる。どう見てもテーブルの幅に対して三人は窮屈なのだが、こうなってしまったのには理由がある。
野郎三人が座る反対側に、女性がひとり座っている。長袖の白いワンピースを着た、避暑地のお嬢様を思わせる優雅な女性だ。明らかに庶民とは別世界に生きているような人が、自分たちと同じテーブルを囲んでいる。昨日までの自分なら信じられないような現実が、慣れ親しんだはずの空間を異世界へと変貌させていた。
異世界の中心、日常の特異点である女性須納白雪は、店内の落ち着いた雰囲気に喜びの表情を見せていた。
「こんなところに喫茶店があるなんて知りませんでした。素晴らしいお店を教えて頂きありがとうございます」
「い、いえ……」
おかしい。本来はこちらのホームグラウンドのはずなのに、思うように調子が出ない。
なぜ自分はこんなにも緊張しているのか。女性経験が極端に少ないというのも関係しているだろう。更に彼女のような美人と一緒にお茶してるという非日常に動揺しているのかもしれない。一真は自分の精神状態がおかしいことを自覚しながら、どうすることもできずに会話を進めた。
「すみません。須納先輩のようなお嬢様に似合うお店じゃないですけど、俺たち他に良い店を知らないもんで……」
「そんなことありませんよ。心地よい雰囲気のお店だと思います。それに、その言い方はお店の方に失礼ですよ」
「あ、はい。そうですね……」
やはり慣れない相手に居心地が悪い。須納白雪という女性は、外見だけでなく中身も成熟した立派な人間らしい。名家のお嬢様というのは伊達ではないようだ。精神的にまだまだ大人になりきれない一真としては、落ち着かないことこの上ない。
というか、なぜお嬢様の相手を自分ひとりがしなければならないのか。無愛想な敬二はともかく、この状況を作った発端である甲太が仕切らなければいけない場面ではないのか。普段は頼んでもいないのにでしゃばるくせに、美女を相手にするとシャイになるのはいい加減にしろ。
一真が心の中で甲太を罵っていると、気を利かせたのか白雪が話を切り出した。
「それでは改めて自己紹介をさせていただきますね。私の名前は須納白雪と申します。この度は私が困っているところを助けて頂き、本当にありがとうございました」
そう言って、彼女は再度頭を下げる。ナンパされていたのを助けたくらいでこれほど感謝されるとは、どうにもむず痒いものだ。
一真は内心の気恥ずかしさを隠すために、彼女に続いて自分たちの紹介に移る。
「あぁ、いえいえ、俺たちは当然のことをしたまでですので……あ、俺の名前は古神一真といいます。こっちの金髪は屋代甲太、こっちの渋いのが水戸原敬二です」
「古神一真さんに、屋代甲太さん、水戸原敬二さんですね。私の恩人の方々のお名前です、しっかりと覚えさせていただきますね」
こんな綺麗な人に名前を呼ばれてドキッとしてしまうのは、流石に初心過ぎるだろうか。奥手の甲太のことを笑えない。一真も恋愛経験ゼロの非モテ男に過ぎないのだ。
だがこれはまたとないチャンスなのだ。一真だってモテたいという欲はあるし、もちろん彼女も欲しい。流石に須納白雪みたいなお嬢様は高嶺の花だが、これをきっかけに少しでも仲良くなれれば良い経験になるだろう。
そう思い、決心し、どうにか心の中で言葉を作り勇気を出して口に出す。
「あの、須納先輩は……」
「白雪でいいですよ。名字で呼ばれるより名前で呼ばれたほうが嬉しいですので。失礼でなければ、こちらもお名前で呼ばせてもらってもよろしいでしょうか?」
「あっ、構わないですけど……」
初対面でいきなり名前で読んでくれとは、この人は意外と大胆なのだろうか。正直名前より名字で呼んだほうが緊張しないのだが、彼女のお願いなら断る理由がない。一真は緊張で声が震えないよう気をつけて話を続ける。
「今日は災難でしたね。白雪先輩は綺麗ですから、ああいう迷惑な輩によく絡まれるんですか?」
「綺麗だなんてそんな……。でもまぁ、ああいった方々はたまにおられますね。悪い方たちではないと思いますが……」
須納家の令嬢という立場もあるので、厄介な輩に絡まれることも多いのだろう。オブラートに包んではいるが、彼女の言葉の節々から苦労が窺えた。裕福な家柄というのは一見羨ましいことばかりのように感じてしまうものの、地位故の責任もあるはずだ。一真程度の人間には分かり得ない、貴人ならではの複雑な事情が。
一真が白雪から醸し出される重い雰囲気に次の言葉を躊躇していると、隣の甲太が珍しく勇気を出して彼女に話しかける。
「不思議に思ってたんですけど、白雪先輩って頭脳明晰なのにどうして地元の大学に入ったんですか? 白雪先輩ならいくらでも有名大学の選びようあったのに」
言われてみれば、確かにその通りではある。彼女のように頭がよく家柄も良い人なら都内の某私立大学に行くのではないのか。
そんな偏見を一真が抱いていると、白雪は困った表情で事情を語る。
「私の家と大学の理事長が懇意でして。それから私は元々、大学卒業後は家のために働くことが決まっていましたので、地元の大学に通っていたほうが都合がいいということであの学校に決まったのです」
「へぇ、そうなんですか……」
旧家には一真の知らない様々なしがらみやしきたりがあるのだろう。家に決められた進路を当然のことのように語る彼女からは、その道に対する覚悟のようなものが見て取れた。人生のレールが定められていることに対して羨む者も居るだろうが、当事者である彼女はどう思っているのだろうか。彼女の本心は分からない。出会ったばかりの一真たちに話すことでもないだろう。
ただひとつ言えることは、彼女にも背負っているものがあるということだ。赤の他人には触れることすら許されない、大人の事情というやつが。
「ごめんなさい、聞いてて楽しい話ではありませんよね……」
「いえ、白雪先輩のような名家のお嬢様と話した経験はなかったので、貴重な話を聞けて良かったです」
「そうそう、そうです! 白雪先輩みたいな美人さんと話せるだけで嬉しいっていうか」
一真の言葉に甲太も言葉を重ね、無口な敬二は同意を示して頷いていた。
「皆さん、気を使って頂きありがとうございます……」
三人の気遣いに苦笑しながらも感謝する白雪。本当によく出来た人だと思う。一真たちとはそう年も変わらないのに、ここまでしっかりしているのは親の教育によるものなのだろうか。そう考えると、名家の生まれというのも想像以上に大変なのだろう。出会って間もない彼女の大して知りもしない事情を勝手に同情するのは失礼だが、なんとなく察するものはあった。
「私も今日は皆様とお話できて良かったです。あまり同世代の人たちと話す機会がないもので……」
「え、構内に学友とかいないんですか?」
「私は昔から人付き合いが苦手で、中々友達ができないんです。サークルも家の都合で入ってないので、大学の知り合いはあまり……」
「そう、だったんですか……」
聞けば聞くほど彼女のことが不憫に思えている。けれどそんなことは決して口にしない。
本人がどう思っているのかも分からずに、他人の感想でただ『可哀想』だなんて言えるはずがない。それは無責任を通り越して、ほとんど言葉の暴力だからだ。
だから一真は、適当に相槌を打つことしかできなかった。ここで気の利いたフォローでも入れられればカッコよかったのだが、そこまでの配慮ができるような男ではなかった。
「それじゃあ、俺たちと友達になりませんか? これも何かの縁ですし、俺たち大体暇なんで、いつでも付き合いますよ」
この重い空気の中、どう話しかけたらいいか迷っている一真に代わって、横から甲太が申し出た。甲太らしからぬ気の利いたナイスフォローである。
「えっ……」
甲太の提案に白雪は一瞬ためらうような素振りを見せるものの、すぐに微笑を戻して言葉を返す。
「……そう言って頂けて嬉しいです。私で良ければ、今後も友人としてよろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそ喜んで……!」
それは単なる社交辞令かもしれないが、自分では手が届かない場所にいる高貴な存在と知己を得た。平凡な人間である一真にとって、これは間違いなく劇的な変化である。
「まだ時間もありますし、貴重な機会ですのでもう少しお話しませんか? 皆さんのお時間がよろしければですが……」
「俺たちなら構いませんよ。もっと白雪先輩のお話を聞かせてください」
その後、一真たちは憧れのお嬢様と実に和やかな時間を過ごした。平凡な人間の何事もない日常でも、たまにはこういう偶然の幸運も降ってくるものだ。こんな幸運がいつまでも続けばいいのにと、一真は心の中でそう願った。
「……あ、もうこんな時間ですね」
それから一時間後。白雪お嬢様と暇人野郎三人組は、微笑ましくも他愛ない会話を繰り広げた。休暇の過ごし方や好きな食べ物など、プロフィールに書くまでもないくだらない話が大半だったが、少しでも彼女のことが知れて本当に良かったと一真は思う。今までは雲の上の人物であった彼女が、視界に入るくらいには全体像を把握することができた。まだ会話するだけで緊張してしまう女性であることには変わらないものの、高嶺の花が眼前に居るだけでも前進と言えよう。
願わくばもっと親密になり行く行くは……と妄想を飛躍させたところで現実に引き戻す。自分は彼女にとって今日初めて会話をしたばかりの知人男性に過ぎないのだ、身の程をわきまえよう。
「今日は皆さんとお知り合いになれて本当に良かったです。またお時間が合いましたら、ぜひご一緒させてくださいね」
「はい、こちらこそ」
幸福の時間に幕を引く締めの挨拶を交わし、端に座っていた一真は躊躇なく伝票に手を伸ばす。
一方、白雪も左手を伝票に伸ばし、先に手を出していた一真の右手とぶつかった。
「あっ……!」
「ごめんなさいっ……!」
手が触れ合った両者は慌てて手を引っ込め、赤面しながら謝罪を述べる。まるで付き合いたてのカップルのような初々しい光景であった。
「あ、白雪先輩うちの一真がすんません。でも、会計は俺らに任せてくださいよ」
「良いのですか? 元々は私がお誘いしたお茶ですのに……」
「大丈夫ですって。店を指定したのは俺たちなんで払いは持ちますよ」
女性に奢られる野郎三人組というのは気分が悪いので、男たちの小さなメンツのためにも彼女には引き下がってもらおう。もちろん三人の方は仲良く割り勘で。
「それでは皆さん、今日はありがとうございました。また機会があったらお話しましょうね」
「はい、その時はよろしくおねがいします」
店の外で別れの挨拶を交わし、四人はそれぞれ解散することに。
退屈なだけの大学生活にしては、まるで宝くじにでもあたったかのような素晴らしい一日だった。
「…………」
ただひとつ、一真の胸中に拭いきれない不安の影を残して。
◇夜歩く
「お帰りなさい、お兄ちゃん。今日もまたいつもの二人と寂しい日常送ってたの?」
家に着き玄関の扉を開け中に入るやいなや、待ち構えていたかのように遭遇した弟に悲しいことを言われた。なぜ顔を合わせてすぐそんな非情なことが言えるのか。
お前は鬼か、いいや悪魔だったわ。
性格は最悪だが顔だけは良いのが無性に腹立つ。こいつに弱みを握られてなければ百発くらい殴ってやりたい気分だった。
「うるせーよ。今日は良いことあったんだよ」
普段ならヤツへの憎しみで脳内が荒れているところだが、今日に限っては小波が立つだけだった。白雪姫には何度感謝してもしたりないくらいだ。
「え、なになに。良いことって、自販機の下に小銭でも見つけたの?」
兄の反応が気になるのか、
「実は今日な……」
「へ~、そんなことあったんだ」
大学構内にて暴漢から白雪姫を助けるという武勇伝(一分脚色あり)を語って聞かされた優馬は、意外にも淡白な反応を見せた。
なんだその興味がありませんみたいな顔は。これがどれだけ奇跡なことか分かってないのか。街中で偶然トップアイドルと出くわして仲良くなるくらいの幸運なんだぞこれは。
弟の微妙な反応に釈然としない一真であったが、何やら優馬には含むところがあるらしい。ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべると、演技じみた口調で兄を囃し立てる。
「いやー、九十九市にその名を轟かせる天下の須納家のご令嬢と仲良くなるなんて、お兄ちゃんにしてはやるじゃない。一体どんな手を使って彼女をたらしこんだのさ。なに、女の子の弱みでも握ったのかな?」
「うるさい。俺をお前みたいなゲスにしないでくれ。今日はまっとうな理由で知り合ったんだよ。やましいことなんてひとつもない」
せっかく良い気分に浸っていたのに、こいつのせいで全部台無しだ。優馬の相手などせず無視して自室に直行すれば良かったのだ。
そう一真が後悔していると、優馬が携帯を開いてこちらに画面を見せてきた。
「あ、そうそう。お兄ちゃんに見てもらいたい物があるんだけどさ」
「ん……?」
なんだなんだと見てみれば、携帯の画面にはぼやけた画像が映ってた。画質が悪いためハッキリとは分からないが、時間帯は夜で女性がベンチに座っている写真だろうか。
女性がベンチに座っている写真、というだけでは何の変哲もないだろう。問題なのは、女性がしている行動だ。彼女の手は股間を触っているように見える。それはつまり……。
「それは昨日、ネットの匿名掲示板で見つけた画像なんだけどね。どうやら九十九市内の公園で撮った写真らしいんだ。その女性、オナニーしてるように見えるでしょ? 流石に夜の暗い中遠くから撮ったであろう画像だから誰かまでは分からないんだけど、お兄ちゃんは見覚えあるかな?」
一真の背筋に、何か冷たい気配が走る感覚が伝わった。
それは虫の知らせなのだろうか。言葉では言い表せられない気味の悪さを感じ、一真は吐き気を催した。
こんなピンぼけした画像の女性を特定できるはずがないのに、なぜか問題の人物とさっきまで会っていたような気がしてならないのは、本当に錯覚なのだろうか。
味の分からない晩御飯を胃に無理やり流し込んだ後、一真は夜更けを待って外出することにした。
理由は先程胸に抱いた嫌な予感を払拭するためだ。こんなことをしても思い通りにいくとは限らない。けれど、何か行動に移さなければ今夜眠れないだろうことは明らかだった。
街々の光が次第に消え始め、皆が心地よい夢の中へと埋没していく時間帯。都市部ではない古神家周辺の住宅街からは明かりが消え、まばらに続く電灯がスポットライトのように夜道を照らしていた。この時間になると外に出てる人間は極端に少なくなり、一真は道中誰ともすれ違わなかった。
一真が向かっているのは、件の写真の撮影場所であろう公園だ。薄暗く写りが悪い中でもあのベンチには見覚えがあった。断定はできないが、あの画像が本当に九十九市内で撮られたのであれば、おそらく自分が知っている公園だろう。
例え写真の場所が同じだったとしても、今夜行って女性と出会えるとは限らない。それでも一真は確かめなければ気分が収まらなかった。別に彼女が居なくてもいい。むしろそれで構わない。足を運び何もなければ、気のせいだったと自分を納得させることができるからだ。
家を出て十五分。目的地の公園に到着した一真は、すぐさまベンチのある場所へと向かう。当たり前だが公園に人の気配はない。やはりベンチには誰もおらず、一真の不安は杞憂で終わるのではないのか。そう彼が思いかけたその時、
「……っ……ぅっ……」
ベンチのある方から、微かに人の声のようなものが聞こえた気がした。
まさかそんな。風の音を聞き間違えたのではないか。不安に駆られた一真は、恐る恐る茂みからベンチに近づき、そして目撃した。
「……あぁっ、んんっ……くぅっ……!」
写真で見た通りだ。深夜の公園のベンチに女性が座っていた。
髪は黒の長髪。長袖のワンピースを着た姿は、一度見れば忘れない。暗がりで距離はあるものの、あの人のことを見間違えるわけがない。
「白雪先輩……?」
驚きのあまり、一真は茂みの影から小声で呟いた。まさか本当に彼女がこんな時間にこんな場所にいるとは。
しかも信じられないことに、彼女はベンチに座りながら片手で胸を揉みもう片方の手で股間を弄っているではないか。
憧れの先輩が、深夜の公園で自慰に没頭している。その事実は、幼少の頃サンタクロースが現実には存在しないことを知った時のショックのような感情を一真に与えた。あんなにも穏やかで誠実そうな女性がこんなことをするものだろうか。未だに目の前の状況を受け止められない一真は、自慰を続ける先輩のことを黙って見ていることしかできなかった。
「くっ、んっ……んあ、んんっ……!」
日中一緒にお茶をした後輩が物陰から盗み見しているとも知らずに、白雪姫は気持ちよさそうに秘部を弄っていた。湿った夜風に甘い吐息を混ぜながら、火照った身体を慰めるために性感帯を刺激する。豊かな胸を服の上から揉みしだき、内から湧き出してくる蜜で濡れた下着の中へ綺麗な御手を滑り込ませる。アダルトビデオ等で何度となく観たはずなのに、眼前で行われている行為は現実味のない奇妙な新鮮さがあった。それはさっきまで談笑していた先輩が相手だからだろうか。
先輩の痴態を自分はこのまま黙って見ていていいのだろうか。彼女の名誉のためにも、ここは立ち去るべきなのではないのか。良識と好奇心がせめぎ合う中、一真は胸の奥につかえていた違和感に得心を抱いていた。
乱れる白雪の左手首に、布製のブレスレットが付けてある。普段は長袖に隠れているソレに、喫茶店で一真は触れた。伝票を取ろうとして白雪と手が交差したとき、誤って袖の下のブレスレットに指がぶつかってしまったのだ。
その時一真は見てしまった。ブレスレットの下に、刃物で付けたような傷があることを。その傷を隠すためにブレスレットや長袖を着ているだろうことを察してしまった。
旧家のお嬢様である彼女にどのような事情があるのか一真は知らない。だが彼女にも他人には容易に打ち明けられない秘密があるとしたら、それは眼前の行為と少なからず関係があるのではないだろうか。何の根拠もないただの妄想ではあるが、一真の本能がそう告げていた。
「あぁっ、んんっ、はぁっ……んくっ、んあぁっ……!」
一見清楚そうなお嬢様にも、他人には見せられないような本性が存在する。そう考えると、あれほど別世界の住人だと思っていた彼女に親近感を覚えてきた。その論理は勘違いも甚だしいことなのは分かっているものの、彼女に対する近寄りづらさが薄れていくのは事実であった。
彼女のためにも、本当は関わり合いにならないほうが一番なのだろう。さりとて抑えがたい好奇心が疼いていた。それは男の薄汚い下心なのか、それとも須納白雪への純粋な恋心なのだろうか。
「ああぁっ、イクっ、イキますっ……あぁっ、んあぁっ……!!」
一真の決断がつく前に、白雪は自慰でイッてしまったようだ。荒い息を吐き出しながら、絶頂の余韻に浸っていた。
結局最後まで見てしまった。彼女の痴態をこっそり盗み見るなんて、先輩には悪いことをしてしまった。今更になって一真は罪悪感のようなものに蝕まれる。それすらも、己の本性を偽るための建前に過ぎないのだろうか。
全部見てしまってからでは遅いだろうが、せめて彼女に見つかる前にここから立ち去ろう。そう決断し、一真が茂みから離れようとしたその時。
~~~~♪ ~~~~♪ ~~~~♪
ポケットに入れていた携帯が鳴り出した。
「そこに誰か居るんですか……?」
風の音もよく聞こえる静かな夜に、携帯の音はよく響く。周囲に何者かが潜んでいることに気づいた白雪は慌てて立ち上がる。そして相変わらず鳴り続ける音源の方へと近づいてきたのだ。
万事休す。急いで逃げようにも、後ろ姿が彼女に目撃されてしまうだろう。服装は日中と同じなので、正体が一真であることが彼女にバレてしまう。
仕方ない。どうせバレてしまうなら、せめて潔く白状しよう。彼女と対面する覚悟を決めた一真は、おもむろに立ち上がる。
「一真さんっ……!? どうして……?」
気まずさで顔を背ける一真と、驚愕のあまり顔を手で覆う白雪。
偶然の出会いによって知り合った二人は、こうして両者望まざる形で奇妙な再会を果たす。
彼らの巡り合わせが、これからどのような軌跡を辿るのか。
行く手に待ち受ける運命は、高嶺よりも遠く険しいものになるだろう。
今回はエロシーン少なめでしたが、次回はいつも通りにしたいです。