Familiar Phobia~倒錯のすゝめ~ 作:友井架月
周囲から寄せられる好意的な視線は、常に期待と羨望によって彩られた無慈悲なものだった。
時には名家のお嬢様として、礼節と気品を重んじることを矯正された。
時には完璧な優等生として、叡智と規律を体現することを強制された。
彼らが望むのは決してありのままの私ではなく、皆が夢見る虚像としての私だったのだ。
私は彼らが求める完全なる私を演じるために、いくつもの衣装を着飾り仮面を被る。
偶像としての自分を作り出し、誰もが認める理想の私を観客席に披露した。
朝の挨拶から日常の何気ない仕草まで、一挙手一投足を虚構のオリジナルへと近づけていく。
しかし誰かの理想を追い求める度に、少しずつ実像の自分から離れていった。
空想上の私と現実に存在する私。両者の乖離は次第に歪みを生んでいく。
小さな歪みは段々と傷口を広げ、化膿した患部は修復不可能な病を引き起こした。
自分という個の崩壊。致命的なまでのアイデンティティーの欠落である。
元々他者からの願望の寄せ集めで自我を形成していた私に、確固たる意志などあるわけなく。
ボロボロに崩れ落ちた瓦礫の山を必死に固めても、できるのは空虚な廃墟に他ならない。
身も心も疲弊し世界に絶望しそうになっていた私を、辛うじて現世に繋ぎ止めてくれたのは。
皮肉なことに、幼い頃は恐怖の対象でしかなかった“痛み”であった。
◇真夜中の賓客
「…………」
「…………」
気まずい。息苦しい。居心地が最悪だ。何だこの嫌な雰囲気は。
暑くはないのに、
その時、
自分はこの空気をつい最近味わったことがある。というか、今日の出来事である。
古神一真は日中に友人である
まぁ、あの時と相手が同じなのだから酷似しているのは当たり前ではあるのだが。
そう、一真の目の前にいるのは高嶺の花である白雪姫その人だった。
時刻は日付を跨ごうかという深夜帯。皆が寝静まる時間に、自分は何をしているのか。旧家のお嬢様を自宅にお持ち帰りとか、他人に知られたら社会的に死にかねない。一真は今更ながら、今の自分が置かれた状況に恐怖していた。
だが仕方のないことだった。こうなってしまったのにはマリアナ海溝よりも深い理由があるのだ。
それはついさっきのこと。優馬から見せてもらった画像に映っていた女性が白雪嬢ではないかと疑った一真は、写真の撮影場所と思われる公園に向かい彼女と遭遇。白雪が野外で自慰をしているところを目撃してしまう。その後なんやかんやあって現場を盗み見しているのを白雪にバレてしまい、両者の間で非常に気まずい空気が流れ、そしてなぜかこうして古神家に彼女を招くことになってしまったわけだ。
今にして思えばもっといい選択肢があったかもしれないが、あの場ではそこまで考える余裕がなかったのだ。決して下心があって彼女を自宅に呼んだわけではない、と一真は心の中で弁明した。
「…………」
目の前では、借りてきた猫状態で小さくなっている須納白雪の姿があった。彼女は彼女でいきなりこんな意味不明な状況に置かれて困っていることだろう。彼女の痴態を盗み見するばかりか野郎の家に連行してしまうという不届きを働いて申し訳ない限りなのだが、もう少しだけ付き合ってもらおう。
二人の若い男女が、まるでお見合いでもしているかのように緊張した面持ちで向き合っている最中、この複雑な状況を作った遠因である少年がダイニングに現れた。
「ごめんなさい須納さん。わざわざこんな夜中にうちへ呼んでしまって。他人の家に来て落ち着けというのも無理な話かもしれないけど、まずはココアでも飲んで一息ついてくださいよ」
そう言って、弟は作り笑顔を顔に貼り付け気持ち丁寧な口調で白雪姫に応対する。こいつお得意の良い子アピールだろう。初対面の人は大体奴の口八丁手八丁でころっと騙されてしまうのだが、彼女もその例に漏れず大人びいた
「これはこれはどうもご丁寧に……一真さんの妹さんですか?」
「いや、こいつは……」
一真が言い淀む横で、優馬は慣れた様子で答えてみせる。
「いいえ、須納さん。僕はこう見えて弟なんです」
「まぁ、そうなんですか……!」
優馬の言葉に、白雪は新鮮な反応を見せてくれた。優馬はどこからどう見ても少女にしか見えないのだ。驚くのも無理はないだろう。しかし、彼の発言をあっさりと信じてしまうお嬢様は、思ったより純粋なのかもしれないと一真は思った。
少年の気さくな態度を信用したのか、白雪は弟からココアを受け取り彼のことを案じた。
「でも、貴方はこんな夜更けに起きてて大丈夫なのですか? ご両親に怒られたりしませんか?」
「それなら大丈夫です。うちの親は放任ですので、これくらいのことで怒ったりはしませんよ」
正確には、両親は優馬に嫌われるのを極端に恐れているので夜ふかし程度で怒れないのだが、そんなことは彼女に言う必要はないだろう。
それ以前に、部外者であるはずの弟がこの場に居るほうがおかしいのだが、ここに居て当たり前とでも言いたげな振る舞いを見せる彼の圧力に押されているのだろうか。
それか彼女もまた一真と同じように、この不可思議な様相に意識を割かれて正常な思考ができなくなっているのかもしれない。
そんなどこから切り出すか迷う二人に、口火を切るのはやはり意味深な笑みを浮かべた少年だった。
「それで、彼女はどうして我が家へ来たのかな、お兄ちゃん? 僕は詳しいことは何も聞かされてないんだけど……」
優馬はわざとらしい仕草で兄に話を切り出した。何も知らないなんて、もちろん弟の嘘である。そのことは一真も無論分かっていた。そもそもこの状況を作り出したのは優馬自身なのだから。
こうなってしまった原因の一端、白雪に一真の存在がバレてしまった携帯のアラームは、何を隠そう優馬の電話によるものなのだから。更に言えば、彼女を自宅に招き入れるよう遠回しに勧めたのもこいつである。奴がどこまで企んでいるかは知らないが、一真以上に白雪の事情に精通しているのは確かだろう。それを明かさず、兄を誘導して自分の思い通りにコトを進めようとしているのだから質が悪い。
だからといって、そのことをこの場で問い詰めるのは悪手である。弟は当然しらばくれるだろうし、何も知らない白雪が居る手前、奴の本性をわざわざ明かすことはないだろう。そんなことをすれば、下手すれば自分まで彼女に怪しまれてしまう。白雪の前で自分の立場を貶めるようなことは絶対にしたくない。
「いやー……それはだな。彼女にだって事情があるだろうし、何より先輩のプライバシーに関わることだから、俺の口からはとても……」
だから一真は当然の選択肢として、先輩の名誉を盾にしてごまかすことにした。これが一番彼女を傷つけないし安全だろう。何より、こんな危険な会合をさっさと切り上げたかったのだ。
一真の危機察知能力が特大の危険信号を発している中、対面の白雪が先程までの不安な表情を一転させて、覚悟を決めた表情で話し始めた。
「……そうですね。ここまで部外者の一真さんを巻き込んでおいて、何も話さないというのは不義理かもしれません」
「良いんですか? 俺なんかに話して。白雪先輩にとって、それは誰にも知られたくないことなのでは?」
「確かにその通りですけど……隠し事をしたままで、一真さんと友人でいられる自信が私にはないのです。ですから、私のことについて知ってほしいのです」
なんて愚直なまでに誠実な人なのだろう。一歩間違えれば、他人に容易く傷つけられてしまいそうな危うさはあるものの、彼女の高潔な精神は一真には輝いて見えたのだ。
彼女の話を聞いて大丈夫なのだろうか。一真の心に罪悪感が重くのしかかる。自分のような凡人が、彼女のような高貴な存在のプライベートな部分に土足で踏み込んで本当に良いのだろうか。
けれど……けれども、これは彼女のことを知る重要な機会なのだ。この機を逃したら、これ以上彼女と親密になるチャンスはないかもしれない。そう思うと、白雪の話を聞いてみたいという気持ちが次第に大きくなっていった。
「僕はお邪魔そうだから部屋に戻るね。……そうそう、お父さんたちはぐっすり寝ているから、大声を出さない限り起きてこないと思うよ」
一真たちに気を利かせたのか、優馬は白雪に会釈するとダイニングから出ていった。弟のような人間の業が大好きな悪魔なら白雪の話を面白がって聞くと思ったのだが……やけに引き際があっさりしている。
……盗聴器でも仕掛けてないだろうな。奴なら十分ありえるが、確かめる術は一真にはない。白雪の前でゴソゴソ探し始めるのも怪しまれるし、ここはこのまま話を聞くことにしよう。
「それじゃあ聞かせてください、白雪先輩の話を」
せめて自分から話を聞くことで、彼女の心の重荷を肩代わりできますように。
「はい、聞いてください。私の話を、須納白雪の本当の姿を」
白雪は滔々と話し始める。
須納白雪という名の、何者でもない彼女の話を。
◇須納白雪
須納白雪は九十九市にその名を轟かせる名門須納家の長女として生を受けた、生まれながらに将来を約束された生粋のお嬢様である。その誰もが振り向く麗しい容姿と上品な立ち居振る舞いは正に名家のご令嬢であり、明晰な頭脳と気立ての良さで周囲を魅了する須納家の名に恥じぬ才媛なのだ。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花とは彼女のことを指す言葉であり、華やかで気品もある大学のマドンナであると同時に上流階級に住む者でも迂闊には手を出せない高嶺の花だった。
そんな皆が羨む白雪だが……実のところ、彼女自身は自分のことや家のことをあまり快くは思っていなかった。あまり、などというオブラートを外すと須納家という家柄に少なからず嫌悪すら抱いていた。そんなことは決して表に出さない強かな彼女であるが、その心の内は暗闇よりも暗く深淵よりも深い。彼女の本性を知る者など家族はもちろん、この世のどこにも存在しないだろう。
万人が認める夢と理想の体現者である須納白雪の、ありのままの姿を見てみよう。綺麗なだけの人間などどこにも居やしない。誰だって心に闇を抱えているものだ。それは聖人君子のような彼女だって変わらない。須納白雪は神や仏では決してなく、どこにでも居る普通の人間なんだと知ってもらうための、これは他でもない彼女の物語だ。
須納白雪の家族構成は祖父母に両親、兄が二人に妹がひとりの七人家族である。白雪はそこの長女として生まれたわけだが、彼女が生まれる前から須納家の人間としての人生のレールは決まっていた。
須納家は九十九市の大地主として各方面に多大な影響力を持っている旧家の家系である。須納家の言動ひとつひとつが周囲に大きな影響を与えるものである以上、彼らの双肩にかかる重責は並の人間には遠く及ばないものとなっている。それは長女である白雪も同様、須納の人間としての責任が存在した。
彼女の物心がついてすぐに次代を担うための英才教育が始まった。それは子供を有名私立小学校に行かせるためのお受験対策などではない、優秀な人材を育成するための本物の教育である。教養を深めるための勉学やお稽古ごとはもちろんのこと、上流階級に住まう者としての作法や礼節を会得し、時には人の上に立つ者としての堂々たる立ち居振る舞いや配下の使い方までもを習った。
その大人でさえも逃げ出してしまいそうな過酷な教育の数々を、白雪は幼い頃から耐えてきた。
あまり要領が良くなかった彼女は、何度も失敗し両親や指導係に何度も叱られた。
「どうして、こんな初歩的なことができないんだ?」「お兄さんはもっと上手くできましたよ」「何度やったら覚えるんだ?」「貴女は須納の人間なんですから、完璧に出来ねばなりませんよ」「どうしてお前はそんなに物覚えが悪いんだ?」「全部できるようになるまでご飯は抜きですよ」「白雪、お前は本当に須納の子なのか?」「他の兄妹は、皆あなたよりも優秀だというのに……」「白雪、おい」「白雪、ちゃんと聞いてますか?」「白雪ったら……」「お前はこれだから……」
白雪は叱られた。テストで百点を取り逃したからだ。
白雪は呆れられた。昨日と同じ間違いを犯したからだ。
白雪は怒られた。朝寝坊して朝の稽古に遅れたからだ。
白雪は嘆かれた。彼女の成果が両親の期待を下回ったからだ。
白雪は比べられた。彼女の才能は他の兄妹よりも劣っていたからだ。
白雪は叩かれた。両親への口の聞き方がなっていなかったからだ。
これは教育なのだと、愛情の裏返しなのだと、白雪は事あるごとに罵声を浴びた。
白雪、お前は出来損ないの娘だ。ろくでなしの子だ。怠惰で気弱で不真面目で不遜な子供だと。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も執拗に何度も何度も何度も何度も何度も徹底的に何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も無慈悲なまでに何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も異常なほどに何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も執拗に執拗に言葉の暴力を浴びた。
毎日毎時間が苦痛に溢れた地獄のような日々を、白雪は瞳を曇らせながら耐えていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。すみません。申し訳ございません。次は、次こそはちゃんとしますから。失敗しませんから。同じ間違いを繰り返しませんから。須納の人間として立派な大人になりますから。お願いです。どうかお願いします。お父様の、お母様の言う通りにします。口答えなんて絶対にしません。両親の期待に応えてみせます。家族のため、須納家のために誠心誠意尽くします。私の全てを須納家に捧げます。ですから。お願い。だからどうか……、
私を見捨てないでください。
「それは……大変だったんですね……」
白雪の話を聞き、一真は気まずそうに頷いた。彼女の雰囲気からある程度の事情は察していたものの、それを遥かに上回るほど重たい話だった。どう反応したらいいか困る一真は、当たり障りのない返答をすることしかできなかった。
一方、これだけ暗く重い話をしてみせた白雪の方は、驚くほど穏やかな表情だった。まるで心温まる話をした後の清々しさすら感じさせる。それは今まで誰にも話してこなかった辛い過去を、初めて人に話せた解放感から来ているのだろうか。一真に彼女の心の内は読み取れない。けれども、今の白雪の雰囲気は先程よりいくらか落ち着いたものになっていた。
「白雪先輩は……家族を恨んでるんですか?」
なんて言葉をかけようか迷った末口をついて出てきた言葉は、配慮に欠けた失礼な発言だった。喋った後に後悔するものの、一度発した言葉は戻ってこない。
一真がどうしたものかと逡巡していると、白雪は朗らかな笑顔で返答する。
「恨んでいませんよ。私は家族のことを大切に思っています」
嘘を言っているようには見えなかった。あれだけ彼女を心身ともに追い詰め苦しめられたというのに、白雪は本心から家族のことを恨んではいないのだ。本当にそんな事がありえるのだろうか。
分からない。一真には白雪の心情が分からない。自分の理解力が足りないのか、それとも彼女が特殊な環境下で育ったせいなのか。少なくとも、彼女は一真のことを信用して自分の身の上話を語っているということだ。ならば、彼女の誠意に報いなければならない。
白雪の抱える事情の重さについ気後れしてしまった一真は、深呼吸をし、気を取り直して話を続ける。
「白雪先輩の過去については分かりました。それで、それからどうしてあのような行為をするようになったんですか?」
「はい、それは……」
一真に促され、白雪は話を再開した。
夜の公園であんな痴態に及んだ経緯について。
心身を痛めつける過酷な日々は、白雪の精神を日に日に蝕んでいった。元々特別な才能を持っていない普通の少女であった彼女に、須納家の苛烈な教育は無理があったのだ。牢獄のような環境で周囲に助けも求められない状況の中、肉体的にも精神的にも限界を迎えた白雪の身に異変が生じていた。
日に日に自分の感情が希薄になっていったのだ。それは地獄のような責め苦から肉体を守るためのせめてもの防衛反応だったのだろう。段々と外部からの刺激に鈍くなっていった彼女は、それからしばらくの間虚ろな日常を過ごしていくことになる。
私はなぜ生きてるのだろう。
私はなぜ辛い思いをして勉強しているのだろう。
皆はなぜ私に酷いことをするのだろう。
皆はなぜ私を助けてくれないのだろう。
なぜ。なんで。どうして……。
自分が生きているかも死んでいるかも判然としない無感動な日々。
無感情にいつもの日課を消化していくだけの無意味な毎日。
このままでは彼女の心が死んでしまう。いや、その時の白雪は事実心が壊れかけていた。一応会話は成立するし日常生活に支障はないものの、実態は中身のない生ける屍も同然である。
そんな出口の見えない暗闇の日々を過ごす白雪であったが、彼女を闇の底からすくい上げてくれたのは、皮肉なことに今まで苦痛でしかなかった“痛み”であった。
精神を病んでからも当然のように続く苦痛の教育をなんとかしのいできたある日のこと、白雪はあろうことかカミソリを手にしリストカットを試みたのだ。
別に人生に嫌気が差して自殺を図ったわけではない。ただなんとなく、心の中に僅かに残った本能が命の限界を叫んでいたのかもしれない。
白雪は己の手首にカミソリの刃を押し当てると、そのまま躊躇なく肌を引き裂いた。
ズブリと嫌な感触とともに、腕に紅い雫が垂れ落ちる。
「つぅ……!?」
流れ落ちる鮮血と腕に走る鈍い痛みに白雪は顔を歪める。しかしそれは、彼女にとって不快な痛みではなかったのだ、
痛み。痛覚。それは彼女に久しく感じていなかった生の実感を与えてくれた。親が与える折檻などではない、これは自分の意思で自分に与えた生の苦しみなのだ。
痛い。痛い。痛い。しかしそれは、彼女が生きていることの確かな証明だった。
赤い。赤い。血が赤い。滴る鮮血は、色褪せていた彼女の世界に色彩を取り戻した。
この世に神様がいるとしたら、なんて皮肉なことをするのだろうか。親から与えられた痛みによって心を失いかけていた少女を、よりにもよって自殺未遂という形で現実に繋ぎ止めたのだから。
けれども、その悲惨な出来事が結果的に白雪を救ったのは紛れもない事実であった。
人は死の間際から生還を果たすと、性格や人生観が一変することがある。須納白雪の場合は、正に人生における革命であった。
普通ならば闇に葬られるべきリストカット事件を契機に、白雪はそれまでの地獄のような毎日を肯定的に見られるようになったのだ。しかしそれは、白雪の苦労を救済するお涙頂戴の感動話では決してない。
白雪の苦行は依然として続く。彼女の精神状態が回復したわけではない。白雪が病んだままなのは変わりない。ただ彼女の意識に変化が生じた。それを救済と呼ぶにはあまりに惨たらしく、見るに堪えない悍ましい覚醒であった。
白雪はある日、両親に折檻を受けた。痛い。酷い。辛い。苦しい。けれどもそれは両親による愛の鞭だ。彼らは決して白雪のことが憎くて体罰を行っているわけではない。むしろ娘の将来のため、娘に期待しているからこそ厳しくしているのだ。獅子は我が子を千尋の谷に落とす。これもきっと、彼らなりの愛娘への愛情表現なのだ。
そう思い、信じることで、肉体の痛みが段々と快感へと変わっていった。私は両親にこんなにも愛されている。だからどんな痛みも怖くない。
そうやって痛みを享受することで、彼女の感覚が少しずつ狂っていく。痛覚を酷使することで得られる快感で、白雪の感情が縛られていくのだ。
痛い、痛い、気持ちいい、痛い。痛みを、もっと痛みをちょうだい。もっと私を打って、もっと私を痛めつけて。お願いだから、私に生きている実感を与えてください。
なんて皮肉なことだろう。苦痛よる快感を生きる糧にするようになった結果、逆に苦痛がなければ生きられなくなってしまったのだ。
それは現実逃避であり何の解決にもなっていないと、誰が彼女のことを責められるだろう。
誰にも救いを求められない白雪は、そうすることでしか地獄のような生活を肯定することができなかったのだから。
この結果は彼女なりの足掻き。彼女に残された精一杯の生存戦略である。
こうして苦難の道のりに僅かな希望を見出した白雪は、人生を前向きに明るく生きていく……ということには残念ながらならなかった。彼女の人生の歪みはここから更に大きくなっていったのだ。
周囲から受ける苦痛を快楽に変えて耐え忍んでいた彼女だが、徐々に周囲から与えられる痛みだけでは満足できなくなってしまったのだ。
とはいえ両親に『刺激が足りないからもっと叩いてくれ』とは口が裂けても言えない。自分にマゾヒズムな嗜好があるだなんて誰にも知られてはいけないのだ。
かといって、湧き上がる欲求を我慢することもできない。彼女の身体は既に、長年の体罰によってふしだらに開発されてしまったのだから。
理性と欲望の狭間で迷いに迷い悩みに悩んだ結果、白雪はひとつの結論に至った。
それは欲求の自己解消。外部からの刺激で満足できないのなら、自分で自分を慰めるしかないという単純なものだった。
しかし両親によってそれらの知識を意図的に隠されてきた白雪にとって、ぱっと思いつくのは腕をつねったり髪の毛を抜いてみたりと子供のイタズラのようなものばかりだった。流石に以前やったリストカットみたいな危険な行為をする勇気はなく、白雪はクラスメイト等の会話を盗み聞きして知識を得ていった。さりとて思春期の少年少女の知識は偏っており、当然彼女の知識も偏っていくのだが背に腹は代えられない。
白雪はそこから得た情報で欲求を発散させようとした。最初こそ卑猥な行為に恥じらいを見せていたものの、次第にその快感に飲み込まれていった。
とはいえ須納家は輪をかけた厳格さを体現したお堅い家柄なので、万が一にも白雪の自室で性具やアダルト本が見つかるようなことがあってはならない。よって彼女の行為は器具のいらないものに限定された。始めは自慰等で肉体の火照りを満足させていたものの、すぐに簡単な刺激では物足りなくなってくる。彼女の欲求はより過激で、より背徳感を生むものへとシフトしていった。
「……というわけなのです」
その結果が、一真の見た野外での自慰行為だったのだろう。良家のお嬢様とは思えない卑猥な行為にも、彼女なりの深い事情があったのだ。それを知らずして、適当な励ましの言葉などかけられるはずがない。
「……色々大変なんですね。須納家のお嬢様というのも」
正直に言うと、平凡な一男子大学生の手には負えないほど白雪の話は重かった。ぶっちゃけ、これを聞いた俺にどうしろというんだと思わなくもない。
けれども、本当の彼女を知れて良かったとも思っている。白雪のことを深く知ったことで、彼女との距離も近づいたと思うから。
「俺からはその、うまい助言とかはできないですけど……」
「はい、これはあくまで私の独り言ですので一真さんが責任を負う必要はありません。今日は貴方にこの話をできて、なんだかスッキリした気持ちになりました」
それは社交辞令のようなものだったのかもしれないが、彼女の気分が少しでも晴れたのならば一真としても幸いだった。
「今日は本当にありがとうございます。変な話ですけど、一真さんにお話できて良かったです」
「それは俺もです。……もう遅い時間ですし、家まで送りますよ」
「ありがたいお申し出ですが、万が一ふたりでいるところを誰かに見られたらまずいことになりますので……」
こんな夜更けに女性をひとりで帰らせることに抵抗を覚えるけども、彼女の事情を考慮すれば仕方のないことだろうか。
「それじゃあ今日はこの辺で。また大学で会いましょう」
「はい、今後も引き続き仲良くさせてくださいね」
あれほど重い話をしたとは思えないほど、白雪の表情は朗らかだった。やはり自分の秘密を誰かに打ち明けられて心の重荷を下ろせたからだろうか。一方、一真としては白雪の話を聞くだけ聞いて何もできなかったので若干消化不良であった。
その後古神家から去っていく白雪の背中を、一真は複雑な心境で見送るのだった。
◇誰がために
「……どうだった、彼女の話は。感動した? それとも不憫で同情したのかな?」
白雪を見送りダイニングに戻ってきた一真を、曇りのない笑顔を浮かべた優馬が出迎えた。あれだけ深刻な身の上話を聞かされたというのに、こいつの顔を見た途端に全てが台無しだ。奴にしてみれば、人の不幸など極上の料理にも勝るとも劣らないほどの大好物だろう。見てみろ、あの汚れのない無垢な笑顔を。新しい獲物を見つけて興奮が止まらないとでも言いたげな表情である。
白雪との会話中は離席しておいて彼女が帰ったタイミングで現れたということは、また何か悪いことを企んでいるのだろうか。こちらから優馬に話しかけるのは正直嫌なのだが、確認しておかないと気が済まない。一真は弟に不審な視線を向けながら疑問を投げかける。
「まさかお前、さっきの話を盗み聞きしていたんじゃないだろうな?」
「まさかそんな。僕は人様の事情にズカズカと足を踏み込むような無粋な人間じゃないよ。神に誓って二人の話を盗み聞きしていない」
家族のプライベートを盗聴しておいて、よくもまぁ平然とそんな薄っぺらいことを言えるものだ。こいつが誓う神とは邪神の類ではなかろうか。一真は弟の発言を一ミリも信じてはいなかった。
とはいえ、優馬が盗聴していたという証拠を突きつけたとしても意味はない。奴が盗み聞きをしていたかどうかは、この場の論点ではないからだ。弟が白雪の帰宅を見計らって兄に話しかけてきた理由はただひとつ。
「ねぇお兄ちゃん。もしかしたら彼女の話を聞いて悩んでいることがあるんじゃないかな。僕で良かったら相談に乗るから、彼女が抱える事情を僕に話してくれないかな?」
どういう訳かは知らないが、奴は白雪の件に介入したがっている。しかし優馬自身は彼女との接点を持たないため、誰かを仲介にして接触する必要がある。
そこで選ばれたのが兄の一真というわけだ。弱みを握っている一真ならば自分の意のままに動かせる上、兄の望みを叶えるという形で共犯者として対等な関係を表面上保つことができる。こいつらしい小狡い考えである。
この悪魔の思惑に乗るのは癪ではあるが、自分ひとりではどうすることもできないのも事実だった。こいつは手段と目的は悪意に満ちているものの、その頭脳は素直に言って一真では遠く及ばない。奴の悪知恵を借りられるのならば、この際背に腹は代えられないだろう。一真は不承不承といった調子で優馬に話し始める。
「実は……」
「ふむふむ、なるほどね~」
白雪が抱える事情を聞き、優馬は得心がいったとばかりに微笑を浮かべていた。何がそんなにおかしいのか、一真にはまるで分からない。今こいつの脳内でどんな悪辣なことを考えているのか、想像するだけ恐ろしい。
そんな一真の不安をよそに、優馬は滔々と所感を述べる。
「なるほど、あの清楚を絵に描いたような優雅なお嬢様にも、他人には見せられない裏の顔があったというわけだね。いや、彼女にとってはアレこそが真の素顔というわけか。いやはや、人は見た目で判断できないとはよく言ったものだね」
白雪の話を少し聞いただけで全てを知った風に語る優馬だが、お前に彼女の何が分かるんだ。白雪と出会って過ごした期間は優馬とそう大差ない一真であるものの、弟の言い方には腹がたった。こいつはいつも他人の神経を逆撫でするような話し方をするのだ。更に今は兄のことを冷やかししているような節さえあった。一真が白雪に対して気があるのを小馬鹿にしているのだろうか。
「それで、彼女の素顔に触れたお兄ちゃんはこれからどうするつもりかな? 弱みを利用して彼女を好き放題にしてみたりとか?」
「そんなお前みたいな卑怯なことするかよ。俺はただ、先輩が幸せならそれで……」
「嘘はいけないなぁ、お兄ちゃん。お兄ちゃんのココは、彼女ともっと親密な関係になりたいと思ってるみたいだよ」
「うぅっ……!?」
兄の弱みを見つけた優馬は、楽しそうに一真の股間を撫でてくる。こんな状況でも本能に忠実な愚息は、小憎らしいくらい敏感に反応していた。弟のいやらしい手つきで股間は硬度を増し、性交ができるほどに勃起していることは明らかだった。
「彼女の赤裸々な姿を聞いて、お兄ちゃんは興奮したんじゃない? だからおちんちんはこんなに勃起してるんだ。彼女の変態性につけ込めば、憧れのお嬢様と関係を持てるかもしれないってね」
優馬は話をしている間も流れるような動作でズボンのチャックを開け、勃起したペニスを露出させる。現れたのは言い訳のしようがないほど完全に屹立した男根である。これで邪な感情がないといったら、それはそれで病気であろう。この欲情は、優馬の指摘が的を射ていることの証左だろうか。ならば自分には、弟の言う通り邪悪な欲求が渦巻いているというのか。
「勘違いしてもらっては困るけど、僕は別にお兄ちゃんの思いを否定してるわけじゃないからね。むしろ僕は、お兄ちゃんの願いを叶えてあげたいと思ってるんだ。僕で良ければお兄ちゃんの恋のキューピッドになっても良いよ?」
そう言って、優馬は勃起したペニスに跨ると躊躇なく自分の尻穴に挿入する。兄との交尾という禁忌的な行為は慣れたもので、弟は自然な動作で腰を動かしピストンを始めた。対面座位で一真の顔を見つめながら、この場から決して逃さないように腸内の圧力で男根を締め付ける。こうなってしまっては、一真は弟の魔の手からは逃げられない。
「彼女はアブノーマルな行為を望んでいる。けれど彼女の体面や家柄を考慮すれば、表立ってそんなことをできるはずがない。もちろん彼女の性癖を把握しているのは極わずか。彼女の苦悩を理解してあげられるのは、お兄ちゃんひとりだけなんだよ」
優馬は会話を続けながらも腰を振り悩める兄を攻め立てる。逃げ場のない快楽で蝕まれた思考では、正常な判断などできるはずもない。結局一真の行動はすべて悪魔の掌の上なのだろうか。不承不承ながら、またしても弟の思惑通りに事が進んでしまう。
「お兄ちゃんが手を貸せば、彼女の欲求はきっと満たせるだろう。それが彼女の為になるんだよ? だったらヤラない手はないはずだ。そして同時にお兄ちゃんは想い人と仲良くなれる。お互い幸せになる選択肢なんだから、選ばない手はないよね」
弟の誘惑に呼応するかのように、愚息の硬度が更に増す。白雪との行為を妄想しているのだろうか。こんなにも簡単に自分の欲望を表に出してしまうのは理性がない証拠だ。優馬とのプレイによって道徳心のハードルが下がったからだろうか。
この罪深い衝動は本当に優馬のせいだけなのか。それとも一真自身に最初から眠っていた素質だったのか。認めたくはない事実だが、先輩とのアブノーマルなプレイを期待している自分がいた。自分の邪な感情で彼女を汚すことを恐れる一方で、自分色に染まる先輩を想像し興奮している自分も存在するのだ。どちらが本当の一真なのだろう。あるいはどちらも真実の姿なのだろうか。
「ふふっ、先輩とのエッチを想像して興奮したね。お尻の中でビクッとおちんちんが反応したよ。やっぱりお兄ちゃんはあの女の人と親密な関係になりたいんでしょ?」
「それはそうっ……だが、お前の手なんか借りなくても」
「それならそれで別に良いよ。お兄ちゃんが自力で女性と仲良くなれるならね。僕の助言は小鳥のさえずりだと思って無視するといい。でもね……」
「うっ、くぅっ……!」
弟は兄を挑発するように腸内を締め付ける。兄の命運は自分の手中にあるとでも言わんばかりの傲慢な態度に、一真は腸が煮えくり返りそうだった。しかし一真の本心とは裏腹に、愚息は憎たらしいくらい快楽に純粋だ。優馬の扱きにほだされて、アナルの虜になっていた。
「どういう道筋を辿ろうと、結局お兄ちゃんは僕を頼ることになるよ。その時はこのおちんちんのように、優しくエスコートしてあげるから安心してね」
「ぐぅっ、その締め付けはヤバいっ……!」
兄とのアナルセックスに慣れた優馬には、どこをどう攻めれば兄が感じるのか手に取るように分かるのだ。勢いよく根本まで陰茎を挿入し、ゆっくりと腰を引きカリを肛門に引っ掛け刺激すると一真は大変悦ぶことを優馬は熟知している。それもそのはず、彼と一番多く性行為しているのは弟の自分なのだから。
「お兄ちゃんったら、弟相手にそんな必死に腰を振っちゃって。そんなに僕のアナルが気に入ったの? やっぱりお兄ちゃんには僕が必要なんだね。良いんだよ、弟の僕に頼っても。僕はいつでもお兄ちゃんの味方なんだから」
優馬は甘い言葉で兄を誘う。奴の口車に乗れば、すべて上手くいくかもしれない。
あぁでもそれで本当に良いのだろうか。奴が指し示す道標とは奈落への一本道に他ならない。進んだら最後取り返しのつかない地獄へと突き落とされてしまうかもしれないのだ。
だとしても、悪魔に魂を売り渡そうとも白雪先輩と親しくなれるのなら。その邪念が一真を惑わせる。古神一真は凡人だ。俗な分、悪魔の誘惑に抵抗できないのだろう。優馬の的確な揺さぶりで、一真の心は確実に揺れ動いていた。
「んんっ、んくぅっ、あぁっ……! 分かるよ、お兄ちゃんイキそうなんだね。良いよ、僕の中でイッても。我慢は身体に毒だからね、このまま全部出しきって発散させちゃおう」
このまま無様に射精してしまえば、優馬の誘いに乗ってしまうだろう。だからといって、ここで耐えられるほど一真の心は強くない。結局は楽な方へと気持ちが流れていってしまう。
とはいえ、誰が一真のことを責められようか。悪魔的な頭脳を持つ優馬の前では、人の子など皆等しく掌の上なのだから。
「くそっ……出るっ……!」
誇るまでもない儚きプライドなんて、低俗な射精の欲求の前では埃も同然だ。本能的な性欲に押し流され、弟の腸内へと呆気なく吐き出してしまう。
「くぅっ、んんっ、あぁっ、出たねっ……! おちんちんからドクドクって出てるのが分かるよ。んあっ、こんなにいっぱい……お腹の中が熱いよっ。……まったくお兄ちゃんったら、弟相手に大人げないね」
一真が中出ししたのを満足気に見やり、優馬は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は行為の快感によるものではなく、兄が自分の思い通りに動くことを察してのものだろう。優馬には分かるのだ。兄の心の動きが手に取るように。
「安心して、お兄ちゃん。悪いようには絶対しないから。お兄ちゃんの望み通り、きっと彼女と仲良くなれると思うよ」
古神優馬は断言する。弟がそう言うのなら、奴の言う通りに動けば自分の望みは叶うのかもしれない。
しかし悪魔の言いなりになって本当に良いのだろうか。それで本当に自分は幸せになれるのだろうか。
一真の胸中でざわめく葛藤、晴れるのことのない迷いの霧が視野を狭くしていた。
だからといって、このまま引き下がることはできない。彼女の素顔を知ったことで、より強く惹かれるようになったから。
彼は迷いながらも、悩みながらも、己の欲求に従っていく。その先に待っているのは果たして幸福かそれとも奈落の底か。
一真の運命の行く末を知っているのは、傍らで微笑む悪魔だけかもしれない。