Familiar Phobia~倒錯のすゝめ~ 作:友井架月
足元に火がついてからやる気になってももう遅い。
◇憂鬱な休日
「はぁ……」
雲ひとつない晴天の下で、一真は重苦しいため息を付いていた。嘆息なんてしていては気分が余計に滅入るだけだと分かっていても、つい口から出てしまうのだからどうしようもない。自分自身のことだというのに、感情とは真にコントロールがしがたいものだ。人格とは地中深くに食い込んだ大樹の根のようなものであり、一度根付いてしまったものはそう簡単に取り替えが効かない。それが悪い性分だと自覚していても、中々直せないのが人情というものである。己の欠点に直面した時、それを改めるのか、諦めるのか、妥協するのかは人それぞれだろうが、古神一真の場合は中途半端な『保留』することを常套手段としていた。臭いものには蓋をして見ないようにするのが一番気が楽なのだ。
だが、その問題の先延ばしが事態を徐々にややこしくしているのに、彼はまだ気づいていない。状況はすでに軌道修正が不可能なほどに悪化の一途を辿っているのだ。このままでは取り返しのつかないことになってしまう。そう頭の中では薄々実感しているのに、具体的な対抗策は見出だせていなかった。これも一真が現段階を心のどこかで『まだなんとかなる』と悠長に捉えているのが原因なのだ。彼の呑気な性格では、本当に切羽詰まらなければ行動を開始しないだろう。危険が目の前まで迫っているのに目を背けている。人間とは斯くも度し難い生き物なのだ。
今日は日曜日。予定のない一真はいつもなら家でゴロゴロしているはずだったのだが、何の因果かこうして街を出歩くことになっていた。それも隣に悪魔が一緒にいるという最悪のおまけ付きである。奴の従順な下僕であるこの身は、悪魔の望むままに動くしか助かる術がないのだ。
休日は両親の相手をしていることの多い優馬であったが、本日は生憎二人とも用事で不在のため、悪魔の生贄として暇な一真が選ばれたのだった。弟の気まぐれでせっかくの日曜を使い潰すことになった兄は、渋々と奴の後をついていく。あいつは今日も今日とて女装をしており、誰もが振り向く美少女の振りをしていた。弟が可愛いのは今更認めざるをえないとして、その本性を知っていると恐ろしくて仕方がない。奴は己の美貌を利用し愛嬌を振りまき、周囲を意のままに操っているのだ。それも彼の真意が全く読み取れないのだから、この先何が起こるのか分かったものではない。我々のような愚かな小市民は、悪魔の掌で踊らされるしかないのだろうか。
「お兄ちゃんどうしたの、そんな仏頂面してさ。せっかく僕とデートしてるんだか、楽しくいこうよ」
何がデートだ。デート初体験が弟とか冗談もほどほどにしてくれ。お前と一緒に外出してもちっとも楽しくないどころか、どんな罰ゲームだよ。端から見ると仲の良い兄妹に見えなくもないが、気色悪いだけだからあまり近付かないでくれ。
「おい、あまり引っ付くな歩きづらいだろ。腕を組もうとするな邪魔くさい。お前わざとやってるだろ。俺をからかって反応を見て楽しんでるんだよな」
「何言ってるの、そんなことあるわけないじゃない。お兄ちゃんは被害妄想すぎなんだよ。僕はただ、お兄ちゃんと一緒に休日を過ごしたかっただけなんだから」
奴が見せる無垢そうな笑顔からは、本音か建前なのかは判別できない。どちらにしても油断していい道理はないのだ。弟に背後から刺されるなんて戦国時代のようなことにならなければ良いが。
「さぁさぁ、一日は短いんだから、どんどん街を回ろうよ」
優馬に背中を押され、一真は重い足取りで歩を進めた。
今日一日、どうか何事もなく無事に終わってくれ。
彼の切実な願いは虚空に消え、薄暗い心象に反した青空が皮肉に思えてならなかった。
「はぁ……」
一真の暗澹とした嘆息が、明るくきらびやかな店内にこだました。
なぜ自分はここに居るのだろう。先程からその疑問ばかりが脳内を漂っていた。
優馬に連れてこられたのは、駅前にあるランジェリーショップだった。もちろん、女性とのお付き合い経験のない一真は初めて訪れた場所である。そして当たり前だが、男同士で来るような所では決してない。周りは女性やカップルばかりで、野暮ったい一真の存在は完全に浮いていた。
それでもなんとか周囲から変な目で見られずに済んでいるのは、優馬の存在が大きいのだろう。外見は完全無欠に美少女な彼がいれば、とりあえずは妹の付き添いで来た兄という体裁が保たれる。本当はどちらも野郎なわけで他の客や店員を騙しているような気持ちになるが、別に男二人でランジェリーショップに入ってはいけないなんて法律はないので、もっと堂々としていればいいはずである。
だのに気まずさが胸を締め付けるのは、女性だらけの空間に慣れていないからか、連れの女の子が実は弟であるのがバレるのを恐れてなのか、自分のことでありながら複雑な心境を推し量ることはできなかった。
「お兄ちゃん見てみて、このショーツすごいよ! すっごいフリフリで派手派手だね。こんなにゴワゴワしたもの着て動きづらくないのかな?」
借りてきた猫のように萎縮している兄をよそに、優馬は慣れた様子でオトナの女性向け下着を物色していた。こいつは母親とよくショッピングに行ってるので、この手の店は平気なのだ。女性物の下着を漁っていてもおかしくないどころか、違和感なく似合っている男はこいつくらいのものだろう。それも小学生のクセに大人顔負けの立ち振舞いは、奴の貫禄が成せる業だろうか。
「俺に下着を押し付けてくるのはヤメろ。そんなものを見せられて、どんな返答をしろって言うんだ。俺がこういう場所に慣れてないのは分かってるだろ。これもお前の嫌がらせか何かか?」
一真の不満の声に、優馬は苦笑しながら答える。
「何言ってるの、嫌がらせなわけないじゃない。これは将来お兄ちゃんに彼女ができた時の予行演習をしてるんだよ。こういう場所でもちゃんと女性をエスコートできないと恥ずかしいよ?」
だからなぜ弟に彼女ができた時の心配をされねばならんのだ。それが余計なお世話だとなぜ分からんのだ。いくら恋人童貞だからと言って、何が悲しくて女装弟と仮想デートしなければならんのだ。やはりこいつ、兄が慌てふためく様を眺めて愉悦に浸っていやがるな。
「ごめんごめん。やっぱり男の子が楽しめる所じゃなかったね。休みの日につまらない場所に連れてこられたら、そりゃあ機嫌も悪くなるよ。そうだ、次はゲームセンターにでも行こうか。そこならお兄ちゃんも楽しめるでしょ?」
兄が不服そうに顔を歪めたのを気にしたのか、優馬は子供をなだめるような声音で優しく話しかけてくる。なんだか弟に気を使われているようで無性に腹が立った。これではどちらが年上か分からないではないか。これもヤツの計算のうちなのか、こちらの精神を煽って試しているのだろう。その手には乗るかと気分を落ち着かせようとするものの、そうやって変に意識してる時点で優馬の術中というものだ。
このデートという名の兄弟による腹の探り合いは、どうやっても一真が主導権を握れそうになかった。元々精神力で悪魔に勝てるとは思っていないが、負けっぱなしは気分が悪い。この休日で少しでも優馬が焦るところを見てみたい。一真の無謀な挑戦は、果たして実を結ぶのだろうか。
結果など試す前から分かりきってると言ってはいけない。男には負けられない勝負というものがあるのだ。
◇テーブル下の攻防
「お兄ちゃん、そんなに気を落とさないで。たかが対戦ゲームで負けたくらいなんてことないさ。うん、今日の僕はたまたま調子が良かっただけで、今度やったらお兄ちゃんが勝つかもしれないじゃない。勝負なんてものは時の運だよ。それにゲームは勝敗だけが全てじゃないって」
ゲームセンターで優馬に惨敗を喫したその後、立ち寄った喫茶亜璃亜で一真は弟に慰められていた。奴の一言一言が胸に突き刺さり、味わった屈辱を殊更に強調させるのだ。こいつは慰めるフリをして兄を煽っているな。弟のわざとらしいセリフは、兄の神経を逆撫でるだけだった。
それにしても、この異常な天才児はゲームにおいても一切の隙がなかった。家でも優等生を演じている優馬がゲームの類をしている姿を見たことがなかったため一真も舐めていたのだが、彼は肝心なことを失念していた。勉強での成果ばかりに目が行きがちだが、奴は基本的に全方位万能な完璧超人なのだ。弟の比類なきセンスをもってすれば、ゲームくらいお茶の子さいさいであろう。
実際、優馬はアーケードゲームに馴染みがないようで、最初は他の人のプレイを見よう見まねで操作を覚えていた。だが初心者だったのは始めの数十秒だけで、一度コツを掴むと奴は尋常ではない速度でゲームをマスターしていった。友人との付き合いでそこそこゲーセンに通っている一真だったが、神童の成長速度には勝てずすぐに追い越されてしまう。天才の天才たる所以をまざまざと思い知る結果となったわけだ。
それでも一真は、なけなしのプライドを懸けて優馬に挑んだ。格闘ゲーム、レースゲーム、音ゲー、パズル、クイズ、エトセトラ。果てはクレーンゲームで景品を取りまくり背後にギャラリーができるほどだった。自分は弟の新たな才能を開拓してしまったのかもしれない。最後の希望さえも打ち砕かれてしまった一真に、もはや無敵の弟に立ち向かう気力は残っていなかった。
ちなみに、持ち帰りきれないクレーンで得た景品はギャラリーに配っていた。こういう細部で人々の好感を勝ち取るのだから抜け目がない。
優馬は全ゲームで兄に圧勝したその後、真っ白に燃え尽きた一真を連れて喫茶亜璃亜に立ち寄った。兄弟で久しぶりに勝負をして盛り上がった熱を落ち着かせるクールタイムといったところだろうか。ここでも弟の気遣いが癪に障るが、敗北者の一真に文句を言う資格はない。勝者のおごりに甘んじて、飲みなれたコーヒーでも啜るとしよう。
「はぁ……」
久しぶりに感じた敗北の味は、コーヒーよりも苦かった。そういえば、こうして優馬相手に面と向かって勝負をしたのは随分と久しぶりのことだった。こいつにはどんな分野でも勝ち目がないと早々に悟って、今まで競い合いを避けていたのだ。それが遊びとは言え、負け知らずの悪魔に対戦を挑んだのだ。一真のこれまでの人生を考えれば、絶対にあり得ない出来事である。どういう心境の変化なのか自分でも理解不能だが、まだ弟に負けて悔しいと思う感情が残っていたのが意外だった。負けて当然のたかがゲームのお遊びくらいで、こうも熱くなってしまうとは大人げない。
「いや~、初めてゲームセンターに行ったけど、中々面白いものだね。今までは子供の遊びだと思って触れてこなかったけど、考えを改めるべきかな。お兄ちゃん、また今度対戦しようよ」
もう勘弁してくれ。こいつは手加減とか接待とかを知らないから、兄貴相手でも全力でプレイしやがるんだ。むしろ一真をいたぶって楽しんでいるフシさえあった。金輪際、優馬とはゲームをしないと心に誓う一真であった。
「…………」
「ふーんふーんふ~ん♪」
日曜の昼下がり、和やかな音楽が流れる喫茶店の一角で、どこか歪な兄弟が気まずい空気を醸し出していた。通い慣れた喫茶亜璃亜ではあるが、優馬と一緒に来店したのは初めてである。神聖な自分の居場所を悪魔に汚されたようで正直不愉快だが、奴に出てけなどとは口が裂けても言えない。敗者は敗者らしく、惨めな思いを噛み締めながら今後の糧にするしかない。
「お兄ちゃんったら、僕が居るからって露骨に嫌そうな顔しないでよー。……ふふ、そうだ。可哀想なお兄ちゃんのために僕が慰めてあげるね」
そう言って、優馬は素早くテーブルの下へと潜り込む。一体何をするのかと思いきや、奴はあろうことか一真のズボンのチャックを下ろし中からペニスを取り出したではないか。ゲームで負けて意気消チンしている男根を握り、シコシコと流れるような動きで手コキを始める。
「おっ、おいお前! こんなところで何をっ……!」
「しーっ! 騒がないで。他のお客さんにバレちゃうでしょ」
店内にはまばらとはいえ兄弟以外の客もいるし、店主の老夫婦もカウンターの奥にいる。誰もこちらに注意を払っていないものの、騒げば嫌でも目立つであろう。人目につく場所で公序良俗に反する行為をしていることを目撃されれば、出禁にはならなくとも二度とこの喫茶店に来れなくなるだろう。それだけは絶対にあってはならない。優馬の思いもよらぬ奇襲により、一真は先程のゲーム対決とは比べ物にならないほどの苦境に立たされていた。
「んしょ、んしょっ……っと。よし、大きくなったね」
優馬は兄の焦りなどお構いなしにペニスを弄る。状況が背徳的であればあるほど逆に燃えるのか、愚息は一真の意に反してガチガチに勃起してしまう。なんとも情けない無様な姿だが、本能的な性欲には逆らえない。一度やる気になってしまった男根は、そう簡単に萎えてはくれないのだ。
「それじゃ、おちんちん舐めるね。ちゅぷ、れろ、んちゅうぅっ……!」
立派に育った陰茎を前に、優馬は当たり前のように肉棒を咥えフェラチオを始めた。こいつは喫茶店で行為をおっぱじめるのに何の躊躇もないようだった。むしろいつ見つかるとも知れない危険な状況を楽しんでいるのか、始めからトップスピードで魔羅をしゃぶっていた。
「じゅぶっ、んちゅる、んくちゅっ……じゅっぷ、じゅっぽ、んぐっ、んんっ、んぶうぅっ!」
「うおぉっ、すごっ……!」
小賢しい弟の超絶フェラチオに圧倒される一真は、なんとか周囲に見つからないよう声を潜めて口淫に耐えていた。これは悪魔との実質的な第二ランドなのだ。奴のフェラに意識を奪われ衆目に恥を晒すようなことになれば、自分の人生が終わってしまうことだろう。自分の日常を、そして大事な居場所を守るため、一真の負けられない戦いが始まったのだ。
優馬は持ち前のフェラテクで兄の肉棒を攻め立てる。これが三度目のフェラチオではあるのだが、相変わらず小学生とは思えない舌捌きである。一真は本物の膣の味をまだ知らないが、これはそれに匹敵しうる口マンコだと肌で感じていた。こんな筆舌に尽くしがたい快感にどうやって抗えばいいというのか。悪魔的な口撃ですでに完敗気味一真だったが、それに追い打ちをかけるように突発的なアクシデントが舞い込んだ。
「おっ、誰かと思ったら一真さんじゃないっすかー。おいおいおーい、ひとりで亜璃亜に来るなんて珍しいんじゃなーい?」
一真たちの前に、友人の屋代甲太が現れたのだ。彼の後ろにはもう一人の友人である水戸原敬二も付いてきていた。二人が喫茶亜璃亜に訪れるのは別に珍しいことではないが、まさかこんな時に遭遇するとは。恨むべきは神か悪魔か、いや間違いなくテーブル下でペニスを咥えている弟の責任である。
「なっ、なんでお前らがここにっ……!?」
「なんでって、俺ら神咲さんにバイト紹介してもらいに来たんすよー。そしたら事務所に不在なもんで、そんで連絡したらすぐに戻ってくるらしいから、それまで亜璃亜で待ってようってことになったんですよ」
兎にも角にも、二人が神咲さん待ちで亜璃亜に居続けるのは非常にまずい。友人たちが乱入しようとも優馬のフェラはいまだ続いており、射精するまで止める気はなさそうだった。テーブル下は死角になっているため友人からは見えないものの、覗かれでもしたら万事休すである。二人には一刻も早く帰っていただきたいが、フェラチオの快感で頭がいっぱいで何も考えつかなかった。
「……誰か連れがいるのか?」
「えっ?」
一真が表情には出さずに脳内で慌てふためいていたその時、甲太の後ろに居た敬二が問いを投げかけてきた。なぜいきなりそんなことを聞いてきたのか。虚をつかれた一真は動揺で間抜けな声を上げる。相手の返答を待たず、友人は更なる追撃を浴びせてくる。
「紅茶。お前のコーヒーと合わせてカップが二つあるだろ」
「あっ……」
敬二の言葉に、一真は言葉を失った。そうだ、今の今まで忘れていたが、テーブル上には一真の注文したコーヒーの他に優馬の紅茶が置いてある。確かにこれは、一真が誰かと一緒に居た他でもない証拠であろう。言い逃れのできない失態に顔を青くするしかない。
「あんれー、もしかしてもしかすると、彼女さんと一緒でしたかー? 二人のラブラブデートを邪魔しちゃったかなー?」
「ばかっ、んなわけないだろっ!」
何も知らない甲太が茶化しにくるが、今はそんなことに気を回している場合ではない。二人をごまかす都合のいい言い訳を早急に考えねば。
自分で二つ頼んだというのは……紅茶のカップが対面に置いてあるのはおかしいし、コーヒーが飲みかけなのに新しく注文するのは不自然だ。マスターが注文を間違えた、というのも嘘なのがバレバレだ。と言うか、そういう如何にも言い訳がましいことを言ってる時点で、何かを隠しているのは明白ではないか。ならばここは、変に取り繕うことをせずに本当のことを言ったほうが誤解されずに済むのではないか。
そう思った一真は、降参したかのように両手を上げて真実を話す。
「……それがな、今日弟と一緒に来たんだ。今はちょっと席を外しているけど……」
「弟って、優馬くん? お前ら兄弟仲悪かったんじゃないの?」
当然、長年の友人たちは古神兄弟の不和については知っている。だからこそ一真の発言に疑問を抱いたのだが、ここは多くを語らずとも察してくれる彼らの信頼に期待するとしよう。
「まぁ、そこは……色々あってな……」
「はぁ、なるへそ……」
甲太はまったく分かっていないような顔をしているが、敬二の方は訳ありな空気を感じ取ってくれたようだ。一真に一瞬だけ視線を送り、声をかけることなく踵を返す。
「甲太、神咲さんから連絡きてるぞ。事務所に帰ってきたってな」
「あらそうっすか。なら合流するとしますか。そんじゃあ一真さん、また大学でなー」
「あ、あぁ……」
一真の心臓が破裂しそうなほどドクドクと鳴っている中、友人二人は優馬の存在に気づくことなく喫茶店から去っていった。敬二の気遣いに救われた形だが、なんとか最悪の事態だけは回避できたようだ。程よい背徳感は快感を増倍させるとは言え、物事には限度というものがある。正直、あまりに緊迫した状況で下半身に意識を向ける余裕などなかった。
兄のピンチなどどこ吹く風といった感じの優馬は、友人たちとの会話中もフェラチオを続けていた。こいつは本気で兄を困らせて楽しんでいるのか、可愛い顔して心底憎たらしい奴である。
「……おい、もう少しで見つかるところだったろ」
「んじゅっ、んちゅうっ……ふぁい? あぁ、友達が来てたんだね。僕は別に見つかっても問題なかったけどね。……ところで、このままイカせてもいいけど、どうせなら場所を変えて本番にしない? お兄ちゃんのおちんちんを舐めてたら、僕もその気になってきちゃった」
優馬はペニスから口を離すと、テーブル下からぬるっと顔を出した。おいおい、中途半端なところで中断しやがって、この勃起した男根はどうすればいいんだ。
一真はイキそこねた愚息を労りながら喫茶亜璃亜を後にする。相変わらず弟に手綱を握られている不甲斐ない兄は、またもや倒錯的な遊びへと足を踏み入れるのだった。
◇個室のせめぎあい
「どう、せっかくだからラブホテルにでも入ろうか?」
喫茶店から出た優馬は、駅からほど近いホテル街を指差しそう言った。いくらなんでも、日も暮れていない時間帯に小学生とラブホテルに入るのはまずかろう。一真が全力で拒否すると、弟は即座に提案を取り下げた。兄をからかっているのだろう。何をするにも腹が立つ生意気な弟だが、今は爆発してしまいそうな性欲をどうにかするのが先だ。
ラブホテルは論外だが、自宅までは距離がある。さてどうするかと迷う一真に、優馬は新しい案を提示した。
「ふふ、それじゃあ……今日も背徳的な交わりを楽しもうか」
奴は蠱惑的な笑みを浮かべ、九十九駅の方へと視線を向ける。別に電車に乗って遠方へ行こうというわけではなかろう。駅の中で優馬はナニをしようとしているのか。軽い足取りで駅に向かう弟の後をついていく一真は、その答えをすぐに知ることになる。
「ここって……トイレか?」
優馬に案内されてやってきたのは、駅中にある男性用トイレであった。確かに駅のトイレで隠れてセックスをしていたというのはたまに聞く話ではあるが……まだ夕方にもなっていない日中だぞ。今は幸運にも二人以外に人は居ないが、誰が来るかも分からない公共施設はリスクも高いはずだ。何もこんなところでヤラなくても……。
「リスクが高いところでするからこそ気持ちが良いんじゃない。さっきはお兄ちゃんにとって過激すぎたらしいけど……とにかく、人が来る前に中へ入らないと」
一真は優馬に引っ張られて強制的に個室へチェックイン。当たり前だが、一人用の個室に二人で入るのはどう考えても狭い。だが、奴の華奢な肉体と密着すると、どうしようもなく肉欲を掻き立てられるのだ。萎えていた兄の肉棒は見る見るうちに復活し、先程までの硬度を取り戻していた。
「ふふ、なんだかんだ言ってやる気になってるじゃない。いいよ、僕もお兄ちゃんに犯されたい気分だから、そのまま一気に挿れちゃっても」
妖艶な小悪魔のスイッチが入った優馬は、下着を脱いでスカートを捲り、洋式便器に手をかけこちらに無防備なケツを差し出してくる。弟のアナルはパクパクとひくつき、今か今かと男性器を待ち望んでいるようだった。兄との交尾で淫乱なメス穴へと成長した肛門は、一真の情欲を煽りペニスの挿入を急かしてくるのだ。そんな魅力的な淫穴を見せつけられては、これ以上我慢などできやしない。一真はギンギンに漲った男根を手にとり、魅惑の穴へと力強くぶち込んだ。
「あぁっ、きたああぁっ! お兄ちゃんチンポがお尻の中にぃっ……!」
極上の肉棒を尻穴で咥え込み、優馬は喜悦を滲ませ嬌声を上げる。そんな大きな声を出せば誰かに気づかれる危険があるというのに、一真でさえ弟のことを注意する気にはなれなかった。
弟のアナルがペニスをぎゅうぎゅうに締め付けてくるので、声を抑えるだとか外への警戒だとか、そういった注意力が散漫になってしまったのだ。さっき射精しそびれたこともあり、脳内が性欲で支配され腰を振ることしか頭になかった。一真は片手で優馬の足を持ち上げ、抑えられない衝動をぶちまけるようにピストン運動を開始する。
つい一週間前までは童貞だった一真だが、優馬と交わることでセックスが確実に上達していた。弟相手に性技を鍛えてどうなのかとも思わなくもないが、他に相手をしてくれる女性など皆無なので仕方がない。未だ味わったことのない女体の神秘より、眼前の肉欲のほうが何よりも重要だ。奴との性行為は、それまでのちっぽけな価値観を吹き飛ばすほどの衝撃だったのだ。一真は獣のごとく激しくピストンし、淫乱なアナルを攻め立てる。これが本来の自分の姿であると誇示するように、力の限り腰を振っていた。
「くぅっ、気持ちいいっ……!」
「あぁっ、はあぁっ、んんっ、いいよっ、お兄ちゃんっ! あぐっ、んくぅっ、僕も気持ちいいよっ……んあぁっ! ふあっ、あうっ、んはあぁっ……もっと激しく突いてぇっ……お兄ちゃんの立派なおちんぽでっ、お尻の穴をズボズボ抉ってぇっ……!!」
古神兄弟はここが公共の場所であることも忘れて、目の前の快楽を貪ることに夢中になっていた。人間とはどうしようもなくか弱い生き物だ。普段どれだけ理性の皮を被ろうと、こうして欲望に晒されれば常識も道徳心も容易く吹き飛んでしまう。本能的な欲求に従って腰を振るだけでは、野生の獣と変わらないではないか。
一真は自身の変化に戸惑っていた。弟と交わるこの瞬間だけは、奴への憎しみがどこかへ消えていくのだ。これはいよいよ悪魔に飼いならされてきた証拠だろうか。それとも、自分もまた精神が悪魔よりになってきたのだろうか。そんなはずはない。そんなことありえない。そう心で強く念じようとするも、煩悩には勝てずに目の前の快楽に意識を奪われてしまう。本当に、人間とは救えない生き物だ。
「くぅっ、ケツの締め付けがきついっ……!」
「ああっ、んあっ、んくぅっ……どう、僕のお尻は絶品でしょうっ……これでも色々と勉強してるんだからっ……主にお兄ちゃんの私物を漁って、ねぇっ……!」
弟が聞き捨てならないセリフを吐いたその時だ。一真が追求するその前に、二人がいる男子トイレにハプニングが到来した。
「ふぅ~、漏れるかと思ったぜー」
「だから家を出る前に用を足しとけって言っただろ」
声から察するに、二人組の男だった。駅のトイレなのだから誰が来てもおかしくはない。セックス中の乱入者は風呂場での父や、さっきは口淫中に友人たちと遭遇している。非常事態に慣れてしまったわけではないが、いささかマンネリ気味ではある。
そんな一真の複雑な心情を察したのか、優馬がいらぬお節介を焼いてきた。
「あぁっ、んあぁっ……!」
奴はあろうことか、個室の外にも聞こえるようにわざと大きな声で喘いだのだ。これには流石の一真も驚愕する。こいつ、サディスティックにも程があるだろ。
「おい、今何か変な声聞こえなかったか?」
「変ってどんな?」
「女の叫び声のような……喘ぎ声か?」
「ははっ、こんな明るいうちから盛ってるやつはいねぇだろ。幻聴が聞こえるとは、お前欲求不満なんじゃないのか?」
二人組の内ひとりには優馬の声が聞こえたようだが、もうひとりが冷静に否定する。そうだ、このまま何も聞こえなければ、空耳ということで片付けられるだろう。
しかし、あの悪魔がこの程度で満足するわけがなかった。
「あ……」
優馬は再び口を開け、わざとらしい嬌声を上げようとする。もし次に大声を上げれば、確実に外の二人にバレてしまう。それだけは絶対に避けねば。一真の片手が弟の口元に伸びる。
「ぅぐっ……!?」
間一髪のところで、叫声を上げられる前に優馬の口を塞ぐことに成功する。だが一瞬だけ呻き声が出てしまった。これは非常にマズイ。外の奴らに気づかれるだろうか。一真の全身の毛が逆立ち汗が吹き出す。呼吸を忘れるほどに息を殺して、個室の外に聞き耳を立てる。
「ほら、また声が聞こえた」
「そうか? カラスの鳴き声か何かじゃないか?」
「いや、確かに人の声のような……」
「そんなことどうだっていいだろ。ほら、電車の時間ださっさと出るぞ」
ひとりはまだ疑っているようだったが、駅のホームに電車が来たのが幸いした。謎の嬌声のことなど脳内から消し飛んだのか、二人は慌ててトイレから去っていく。何はともあれ脅威は消えた。
「ふぅ……」
一難去って一安心した一真はゆっくりと息を吐いた。まったく、この弟は本当に悪魔だな。
「どう、お兄ちゃん楽しめたかな?」
「黙れ。お前はなんで毎回無茶苦茶なことをするんだ」
優馬のやることなすこと理解の範疇を越えていた。こいつはわざと危ない橋を渡りたがっているような気がしてならないのだ。生物は本能的に安全を求めるものだと思っていた。だが弟はその真逆を行っている。自ら進んで危険な道を歩み、苦境に立たされることを楽しんでいるフシがあるのだ。なんて狂気的な人間だろうか。こいつは疑うことなく天才ではあるが、悪い意味で頭のネジが数本外れてやがる。
兄の言葉に、弟は誇るように言う。
「だって退屈な日常はつまらないよ。毎日同じことの繰り返しなら、緩やかに死んでいくのと変わりないじゃないか。僕はそんな人生嫌だね。たった一度きりの人生なんだから、それがどれだけ異常なことでも、誰も歩まない道を行かないと損だよ」
やはりこいつは、普通の人間とは違う感性を持っているようだ。ピンチを楽しむマゾのようには見えないが……悪魔の心理を理解するのは難しい。だが、奴の風変わりな思想には惹かれるものがあるのも事実だった。身も心も蝕む破滅的な甘い毒は、脳内を侵食し一真の自我にまで影響を与えているようだ。これはいよいよ医者に診てもらったほうが良いのかもしれない。
「そんなこと俺は望んで……んぐぅっ!」
「忘れてるかもしれないけど、今は情事中だよ? お兄ちゃんのおちんちんは硬いままだし、まだ射精してないね。我慢は身体に毒だから、このままイッちゃおうか」
誰のせいで我慢させられたと思ってるんだ。一真の男根は度重なるハプニングで射精を邪魔された反動で、イキ場所を求めていつもよりいきり立っていた。このままでもいつ暴発してしまうか分からないが、どうせなら最高の瞬間にイキたいものだ。切羽詰まった性衝動に突き動かされた一真は、全力全開でピストン運動を再開する。
「あぐっ、んんっ、あぁんっ……! お兄ちゃん激しいっ……そんなに僕のアナルに射精したいのかなぁ? 男の子に中出ししても子供なんてできないのにねっ……んあっ、はあぁんっ……!」
このクソ生意気な弟め。いつまでも余裕ぶっていられると思ったら大間違いだ。いくら神童とは言っても、単純な腕力なら年上のこちらが有利だろう(これで優馬のほうが力が上なら立ち直れない)。暴力的なまでの力任せのピストンで、弟アナルを壊しにかかる。一方的な陵辱の嵐で、次第に優馬の声色に艶が帯び始めていた。
「あぁんっ、あんっ、んあぁんっ! お兄ちゃん乱暴なんだからっ……そんなに激しく突いたら、僕イッちゃうっ……! んはぁっ、んんぅっ……お兄ちゃんのおちんぽも膨らんできてるねっ……いいよっ、一緒に気持ちよくなろうっ……んああぁっ!」
この個室トイレでの交わりも最終局面へと移行する。優馬のアナルは過激なピストンにも負けじと肛門を締め付け反撃してくるのだ。唯でさえ射精寸前だというのに、この締まりは刺激が強すぎる。一真の性の高まりは一瞬にして最高潮にまで達し、後はケツの中に精を吐き出すだけとなった。
「くあぁっ……射精るっ……!!」
「んあっ、だめっ、イクっ、イッちゃうぅっ! お兄ちゃんチンポでイっクうううぅぅっ!!」
快楽の頂きへと到達した兄弟は、二人ほぼ同時に射精した。兄の男根から粘性の高い白濁液が勢いよく飛び出して腸内に流れ込み、弟の小さな陰茎からは半透明のザーメンがぴゅっぴゅっとリズムを刻んで迸る。
「ふああぁっ、すごいっ……お尻の中にお兄ちゃんの精液がどくどく流れてるよぉっ……!」
「うおおぉっ、すげー締め付けっ……精液を搾り取られるっ……!」
射精中で敏感な肉棒に、急激なアナルの収縮は強烈すぎた。イッている最中だというのに、その場で急遽ザーメンが製造され延々射精が続きそうな錯覚に陥ってしまう。弟の淫乱尻穴は、兄の子種汁をゴクゴクと美味しそうに飲んでいた。
優馬の尻穴にたっぷりと精液を注ぎ込んだ後、ようやく満足できた一真はアナルからペニスをゆっくりと引き抜いた。肛門から溢れ出したザーメンがボタボタと便器に流れ落ちていく。
「あぁっ、お兄ちゃんの精子が溢れちゃう……もったいない……」
弟はしばらくの間、尻穴からザーメンを排泄する感覚に酔いしれていた。その表情は普段の小憎らしい不敵な悪魔ではなく、発情した雌のそれだった。いくつもの顔を持つ悪夢の化身は、天国を漂う夢でも見ているのだろうか。傍目には演技のように見えないが、彼もまた快楽の虜になっているのだろうか。
「ふぅ……」
一真は一真で、汚れた獣欲を発散し心地よい脱力感に浸っていた。いまだに感情の整理はつかないが、気持ちいいものはいいのだ。心からの欲求を偽ることはできない。自分は弟との交わりを純粋に楽しんでいる。あぁ、なんて業の深い欲望だろうか。この関係はいつまで続くのかもわからないのだ。このままでは救いようがないところまで深みにハマってしまうだろう。
だが時すでに遅し。彼の肉体は底なし沼にどっぷりと浸かり、身動きすら取れない状態だった。
そして今宵、一真を新たな道へと突き動かす決定的な出来事が起こる。
それはまさに悪夢と呼んでも誇張ではない、彼の根幹を致命的に揺るがすものだった。
◇帰宅、そして急転
「お兄ちゃん、今日は楽しかったね♪」
昼の支配者たる太陽が沈み代わりに月光が闇を照らし始めた頃、兄弟は帰宅の途についていた。
今日は色々あったが、なんだかんだ楽しめたような気がする。弟と遊びに行くのもたまにはいいかもしれない。奴への態度が軟化していることを自覚していた一真だったが、このままズルズルと両親のような信者になってしまうのか。
それだけはないだろうと油断するものの、明確な否定材料があるわけでもない。一真の心は完全に隙だらけだった。
「また一緒に遊びに行こうね、お兄ちゃん」
「勘弁してくれ……」
一真はあからさまに嘆息する。嫌そうにしながらも拒絶はしていない、そんな絶妙な表情である。
自分は積年の恨みを持つ弟と和解しようとしているのだろうか。そのことについて抵抗のない自分に一番驚いていた。あれほど憎んでいたのに、顔を見るのも嫌だったのに、どうして十年分の憎悪をわずか一週間足らずで解消させられるのか。これが悪魔の為せる人心掌握術なのだろうか。
優馬の手練手管に恐怖する一真だったが、この後別の意味で弟に恐怖することになる。
それは二人が自宅の玄関を開け、居間に入ろうとした時のことである。
「だから違うって言ってるだろ! お前は何度説明すれば納得するんだ!」
帰宅した二人が居間に入るやいなや、父の怒号が周囲に響き渡った。
父親が何か怒っているようだ。彼の対面には、これまた怒り心頭といった表情の母の姿がある。
両親は息子たちが帰ってきたのにも気づかず口論を続ける。
「いいえ、絶対そうだわ。上着のポケットに入ってたこのマッチは、駅前にあるホテルのものでしょう!? どうしてそんなものを持ってるのかしら? どうせ他の女と会ってたんだわ!?」
「だから仕事でちょっと立ち寄っただけと言ってるだろう! なんでお前はこっちの話を聞いてくれないんだ!?」
「なら、この女物のハンカチはどう説明するの? こんなもの、貴方は持っていなかったわよね?」
「それは職場の女性社員から借りただけだ、他意はない。お前はもしかして、それだけで私を疑うつもりなのか!?」
二人は聞くに堪えない怒声で喧嘩していた。要するに、父に浮気の疑いが持ち上がり、母がそれを追求しているのだろう。こんな両親を見るのは初めてだった。普段は二人仲良く優馬に媚を売っているのだが、こんな一面を持っているとは。
両親の口喧嘩は熱を上げまだ続く。今まで溜まっていたものを吐き出しているのだろう。肉親が醜い感情を露わにする姿は、息子として絶対に見たくなかった。
「私たちという家族がありながら、他の女にうつつを抜かすなんて信じられない! どうせその女は金品目当ての醜い女なんでしょうね。さっさと縁を切ることをお勧めしますわ」
「だから勘違いだと言ってるだろ! そういうお前こそ、最近金遣いが荒くないか? 私が稼いだ金をどこぞの馬の骨に貢いでるんじゃないだろうな?」
あぁ、ああ、両親の醜態など見たくなかった。聞きたくなかった。この場から一目散に逃げ出したかった。しかし両足が地面に縫い付けられているかのように動かない。急な状況に理解が追いつかなくて身体が硬直してしまったのだろうか。
一向に収まる気配のない言い争いに耐えられなくなった一真は、両親から目を逸らして弟の方を見る。優馬は両親の口喧嘩をどう見ているのか。彼の反応が気になったのだが、奴の表情を見た一真は愕然とする。
弟は……この悪魔は、実の両親が醜く言い争っているというのに、ニヤニヤと不気味に笑っているのだ。まるで弱者が潰し合っているのを眺めて愉悦に浸っている悪代官のような、そんな怖気が走る表情だった。
奴が生粋のサディストだったとしても、なぜこんな状況で笑っていられるのか。これではまるで、両親の口論も奴の想定内だったみたいじゃないか。
……もしかして、そうなのか? これもお前の仕組んだことなのか、優馬。
「貴方のような信用ならない人には、大事な優馬を任せられません。彼の今後は、母である私と二人で決めさせてもらいますからね!」
「なんで優馬の話になるんだ! それとこれとは話が別だろ! ありもしない疑惑で私を除け者にしようなんて、なんて卑劣なんだお前は!」
話題は父の不倫疑惑から次男の親権問題にまで移っていた。今まさに殴りかからんばかりの勢いで激昂する父と、ヒステリックに叫ぶ母。こうなってしまっては、子供の彼らに夫婦喧嘩を止める術はない。無力な自分たちでは、こうやって遠くから見守ることしかできないのだろうか。
……いや、二人の諍いを止められる者ならここにいる。古神家の支配者たる悪魔めいた弟が。
「まぁまぁ二人とも、ちょっとは冷静になりなって。ただの罵り合いは生産的じゃないよ。いい大人がみっともなく暴言を吐いているところを子供に見せちゃいけないよ」
「優馬……」
「あの、これは……」
口論に夢中で息子たちの存在に気づいていなかったようだ。二人は優馬の登場で目に見えて狼狽する。悪戯がバレて大人しくなっている子供のようだった。数秒でこの場を支配した弟は、慌てる両親を諌めにかかる。
「優馬、これは違うんだ。お父さんたちは、その……ちょっと意見が食い違っただけなんだ」
「そうなのよ、優馬。お母さんたちは別に仲が悪くなったわけではないの。だから私たちを嫌いにならないで」
両親は床を這って優馬に縋り付く。万が一彼に嫌われれば、自分たちはきっと見捨てられてしまう。それだけは何としても回避しなければならない。打算にまみれた彼らの瞳は、薄汚い欲望で曇っていた。両親という肩書きすら消えてしまいそうな二人の惨めな姿に、一真は呆れて何も言えなかったのだ。
「分かってる、僕はちゃんと分かってるよ。二人はちょっと疲れているだけだったんだ。誰にだって自分を見失うことくらいあるよ。でも、僕はちゃんと二人の本当の姿を知っているから、これくらいで軽蔑なんかしないさ。そう、今日の出来事は何かの間違いだったんだ。明日からは、また仲のいい家族に戻れるよ。僕が保証する。だって僕らは世界で唯一血の繋がった家族なんだから」
「おぉ、ありがとう優馬……」
「優馬、私の大切な息子……」
二人の肩を抱き、優馬は聖母のごとく微笑んでいる。もはや見慣れた笑えない茶番劇ではあるが、一真は薄ら寒い感情を胸に抱いていた。
あぁ、これは駄目だ。この家族は崩壊しかかっている。
両親の仲は壊れる寸前で、その裏には悪魔の息子が居座っているのだ。
このままでは、奴を自由にしたままでは、遠からず古神家は滅茶苦茶になってしまうだろう。
自分がなんとかしなければ。唯一マトモな自分がどうにかしなければ、あの悪魔に家庭を乗っ取られてしまう。一真はなけなしの正義感を奮い立たせて弟に立ち向かうことを決意する。
古神一真の絶対に負けられない戦いは、こうして始まった。
その先に救いようのない絶望が待っているとも知らずに。
次回、第一章完結となります。