「さあ、おいで」
声をかけて誘うように男は手を伸ばした、女の顔に一瞬、不安そうな表情が見えたが男は辛抱強く待った。
ラウール・ド・シャルル、貴族の息子だ、家を継ぐのは長男と決まっているので次男であるラウールは家の者達、周りからは冷遇とまではいかなくてもあまり相手にされていないようだ。
決まった女、恋人もいない、娼婦ならと思うが、決して上流階級階級とはいえない貴族の次男坊なら金のないのはわかりきっているので、娼婦達も相手にはしない、一、二度、相手をしたら終わりだ。
若い頃なら、それでも我慢できただろうが、それも三十半ばを過ぎると相手にされなくなる。
そんな男が出会ったのはオペラ座のコーラスガールだった、有名女優の妹だという彼女の名前はアイリーナという。
外国人の血が混じっているのか、容姿も物腰もフランス女性のような色香や妖艶さが欠けている、言葉遣いもだ。
何度か話をするうちらオペラ座で歌う事になったから観に来てと言われたとき、ラウールは驚いた。
オペラを観るのは初めてではなかったのに、始まるまえから緊張してしまうのは知り合いが出ているからだ、そんなことを思っているとアイリーナという名前が聞こえてきた。
きっと金の力さ、そうでなければ、こんなに早く舞台に立てる訳がない。
思わず聞き耳をたててしまう、金の力、まさか、彼女には今まで何度か会って話をするが、着ているものも、身につけているものは高価なものではない、パトロンがいれば別かもしれないが。
「アイリ、あの女優の妹というのは本当なの」
「血は繋がっていないと聞いたが、あの家は」
「どちらにしても実力なんて、しれているさ」
女優の妹、ラウールは内心驚いた、そんな話は今まで聞いた事がなかったからだ、いや、もしそうだとしても自分は彼女は友人なのだから、関係ない。
「よかったら食事に行かないかい」
楽屋の中で男が話しかけている様子を鏡の中から男は、じっと見つめていた、舞台が終わり、激励の言葉をかけるつもりで急いで楽屋を訪れるつもりだったのだ、ところが、先客がいた。
貴族の次男坊、彼女は友人だと言っていた、その言葉に嘘はないだろう、昨今の貴族達は階級制度というものが揺らぎ始めている。
次男とともなれば、まとも似相手にされることもなく、結婚もできないのが普通になり、女性に相手にしてもらえないことなど珍しくもない。
若くはなく、顔立ちもハンサムではない、だが、そんな男が自分の弟子と仲良く話をしているという、ただそれだけの事に何故、こんなにも苛立つのか、答えはわかっている、嫉妬だ。
数ヶ月前、弟子をとらないか、レッスンを頼みたいと話が持ち込まれたとき、引き受けるつもりなどなかったのだ、いや、迷ったといってもいい、だが、詳しく話を聞いていくうちに気が変わった、引き受けてみてもいいかも知れないと思ったのだ。
一度、舞台に立つことができれば契約は終わりだという、では、レッスンを受ける本人には将来プリマになるという気持ちはないのだろうか。
少し考えたが、悪い条件ではないと思い引き受けることにした。
だが、それを今では後悔した。
この世界では舞台で主役になれない者は五万といる、だが、磨けば光る素材というものもいるのだ。
自分が、これから先も指導をすれば彼女は、もっと伸びるのではないだろうかと思えるのだ。今回の初舞台は群舞の一人だ、踊というより、歌が多い。
だが、彼女は舞台に立った、これで契約は終わりだ。
「大丈夫だ、ほら」
鏡の裏の通路は誰も知らない、自分と女だけの秘密だった、だが女は困った顔で家に帰らなければと首を振った。
「今日でレッスンは終わった、最後なんだ、少しだけでも」
その言葉に女は諦めたのか、男の手を取った。
どこへ行くんですと女が訪ねると、私の家だよと男は振り向きもせず答えた。
しばらく歩いていたが、長く急な降りていく階段まで来ると女は初めて立ち止まった、思わず元来た方、後ろを振り返った、する男が振り返った、灯りで女の顔を照らし、怖いのかと尋ねるが返事はない。
後ずさるように、そして背を向けようとする女似男は慌てて声をかけ腕を伸ばした。
「大丈夫だ」
振り返った女の視線は階段の先を見つめているだけで、男の声など聞こえていないかのようだ。
「おいで、ほら」
男は近づき、女の腕を掴むと自分の胸に引き寄せた。
「レモンティーだ、ロシア式だよ、砂糖は」
部屋に着くと男はサモワールに火をつけて、紅茶を飲むかいと声をかけたが、女は無言だった。
「今日の舞台は素晴らしかった、本当に、レッスンを続ければプリマになることだって夢ではない、だが、君は本当に」
「終わりです」
初めて女が口を開いた。
「明日からは普通の生活に戻るんです」
意味が分からず男は尋ねた、すると女は仕事をして結婚するんですと答えた。
「結婚、相手は、あの子爵の次男か、やめたほうがいい、幸せにはなれないだろう」
そんなつもりはなかったが、自分の声がレッスンの時とは違う厳しいものになっていることに気づいたのは女の顔だ、自分を見る目だ。
「すまない、ただ私は」
視線を逸らしながら言葉を探すが見つからない、いや、目の前にあるのに言葉にするのが怖いのだ。
「私は好きなんだ、君のことが」