そして彼女はあの人に似ているという設定です。
女の目はあるものを見つけた、部屋の隅にある大きな箱のようなもの、もしかしてと思いながらも聞くことができなかった、ああ、あれかいと男が気づいたように呟いた。
棺桶だよと、その声に女は答えることも疑問も沸いてこなかった、いや、どうしてそんなものがあるのかと聞くこともできなかった。
男の声がわずかに高くなった。
「私は、あそこで寝るんだ、いつ死ぬかわからないだろう」
「いつって」
「生きるということは私にとって、決して楽しいと思える事ではなかったからね」
返事ができなかった、隣に立つ男の横顔を見たが表情は見えない、なぜなら男は顔全体を覆う、目や鼻、口元以外は全ては隠れているからだ。
白い硬質な仮面をつけているので表情はわからない、だが、そこからわずかに覗く目の光と、唇からほんの少し見えるのだ、男が何を考えているか。
「先生」
女の呼びかけに男は、いいやと答え、もう先生ではないよと言葉を続けた、おまえは私の生徒ではなくなったんだ。
「音楽、舞台に立つのが、そんなに嫌かい」
すぐには返事ができなかった。
歌うことは嫌いではない、ただ、それをこのまま続けて行くことに意味があるのかと考え、そして答えを出したのだ。
「姉のようにはなれません、それほどの情熱も」
姉という言葉に男の脳裏に浮かんだのは栗色の髪の美女だ、音楽のレッスンをしてほしいと頼みに来た女性は女優だった。
女優で歌手でもある、美女は、ある日、突然、男の元を訪れた、そしてある女性にレッスンをつけてほしいと頼みにきたのだ。
たった一度、舞台に立つことができればという契約が終わった今、男はひどい虚無感に襲われた。
「私は愛しているんだよ」
「音楽を」
「いいや」
視線を動かし、隣に立つ女を見た、それだけで十分、伝わる筈だとわかっていたからだ、だが、女は逃げる用に視線を逸らした。
「私を知ってほしいんだ、だから今日、ここへおまえを連れてきたんだよ、わかるかい」
名前を呼ばれて女の体、心臓がびくりと跳ねた、名前を呼ばれるのは久し振りな気がしたからだ。
おまえの名前だ、どうだい、芸術的な感じがしないかい。
本当は小説のヒロインの名前にするつもりだったが、おまえの名前にしようと思うんだ。
「さあ、座って」
自分の隣に座り肩を抱き寄せた貴族の男は笑った。
「私の娘、アイリーナ、なんて素晴らしい響きだ」
「ヴァルモン」
呼びかけに貴族は首を振った、違う、ちがうと、おまえのお父様、パパだよと笑った。
「こうして隣に座っている女性が愛人ではなく、娘だなんて私の人生に奇跡が起きたとしか考えられないよ」
「本当に」
ああと男は頷いた、男には大勢の愛人がいた、女だけではない、男の愛人もだ、妻や子供がいない代わりに大勢の恋人を持ったのだ、貴族社会で、それは珍しい事ではない、このことで周りから色眼鏡で見られ、妬まれて妙な噂を流されたりするが男は気にすることはなかった。
恋人と芸術、絵を描き、小説を書き、舞台や音楽を鑑賞する、人生は短い、時間は無限にあるわけではない、他の事に費やす時間などない。
そんなときに出会ったのだ。
いつもなら、ベッドに誘うのに出会って、その顔を見て口にしたのは、娘にならないかの一言だった。
「アイリーナ」
名前を呼ばれて女は我に返った、父親の愛人たちは自分の事を可愛いひと、嬢さまなどと独特の声音と親しみを込めた声で呼ぶ、それは父親が亡くなった今も変わらない。
だからかもしれない、名前を呼ばれると少し落ち着かない、逃げ出したいような気持ちになるのだ。
「ロンドンに行くんです」
何だってと男は聞き返した、初めて聞くといわんばかりに。
「とてもいいアパートで、そこでしばらくゆっくりと過ごすつもりなんです」
自分の決心は変わらないと言いたげな言葉に男はしばらく無言になった。
「ああ、遠慮なさらず、どうぞ、実はハドスンさん、大家さんなんですが、出かけていて、新しい下宿人が来るのは」
階下から聞こえる、聞き覚えのある声に探偵は呆れた、わざらしい仰々しい声で、自分の部屋まで筒抜けだ。
多分、彼は新しい下宿人を自分の部屋まで連れてくるだろう、そしてお茶を淹れててもてなす気だ、そして自分の事は有名な探偵で友人なんですよと少し大げさに誇張して、まあ、それは気にしなければいいことだ。
「ホームズ、いいかな、ハドスンさんが帰ってくるまで」
返事をする前にドアが開いて友人のワトスンが入ってきた、その後ろには一人の女性だ。
「いいんでしょうか」
「勿論です、遠慮なさらず、さあ、その椅子に」
まるで自分の部屋ですからといわんばかりの態度に探偵は内心あきれた、女性を前にすると自分の友人は、何故、こうも人が変わってしまうのだろうかと思う。
だが、友人や周りから見ると、それは別に不思議な事ではなく、自分の方が特別らしい。
部屋の中に入ると女はホームズに気づいたのか、はじめましてと帽子とベールを取った、その瞬間、そばにいた医者もだが、ホームズも、ほんの一瞬、驚いた顔になり、言葉を失った。
「驚いたなあ、ホームズ、彼女、似ているよ、それにしても本当だろうか、実の姉妹じゃないなんて」
「血が繋がっていなくても骨格や顔立ち、そっくりな人間というのは世間には存在するよ、ワトスン」
「そうだが、いや、びっくりしたよ、彼女はあの人の妹だと言っていたが、本当に」
「アドラーに家族はいないよ、パトロンはいたが」
「絞首刑だろう」
「凶悪な犯罪者ではなかった、世間の常識というものを窮屈に感じていた変わり者と呼ばれていたらしいが」
「ロンドンに来たのは父親が亡くなったせいかな」
「色々とあるんだろう、彼女自身が犯罪者なら別だが」
「どういうことだい」
「人は見かけによらないっていうだろう、それにしても」
窓の外を見ていた探偵は振り返るとテーブルの上のスコーンとバターケーキ、サンドウィッチを見ながら尋ねた。
「ハドソンさんの為に彼女が作ったんだが、僕のところにもお裾分けがきてね」
「ええっ、彼女が、勿論、頂くよ、お茶を用意しようか、君は、どうだい、ホームズ」
椅子に座ると遠慮なく食べ始める友人の姿を探偵は、いつもと変わらない表情で見ていた、だが。
「君、最近少しズボンのベルトの調子はどうだい」
「うん、いつもとかわりないよ」
「いや、そんな事はないだろう」
頬のあたりが少しふっくらとしているよと、探偵は呟くように口にした言葉に自分でも驚いた。