声をかけた瞬間、振り返った相手の顔を見た、女の顔を見て、瞬間、探偵の方が驚いてしまった、だが、こんな夕暮れなら無理もないだろうと思いなおして、僕ですよと帽子を取った。
「ああ、探偵さん」
女が、ほっとしたように笑顔になったので、探偵は、ええと小さく頷いた。
「お帰りですか、よろしければ」
女の荷物を見ながら手を差し出した、半ば強引にだ、そして歩き出した。
「日も暮れかけている、あまり遅くなると」
少し迷いながら探偵は言葉を続けた、ここ最近、倫敦の夜は危険だ、日が暮れると悪人が我が物顔で通りを歩いている、窃盗だけでなく、殺人まで平気で行われる、朝一番で新聞配達員が死体と遭遇することもある。
「少し、店に長居をしすぎてしまって、駄目ですね」
自分の言葉が伝わったことに探偵は、ほっとしながら隣を見た、こうして見ると、どうしてと思わずにいられない、初めて会ったとき、あの人に似ているなどと。
「突然、こんなことを言い出すと驚かれると思いますが」
この数日、自分の中で考えて出した答えを口にするなら今しかない、そう思って探偵は尋ねた。
「何かって、困ったことですか、いえ、別に」
立ち止まり、不思議そうに自分を見る視線と表情に、探偵は内心しまったと思った、彼女は気づいてはいないのだと、この数日アパート付近、通りに見える、あの影を。
「事件でもあったんですか」
探偵は何か言い訳を考えなければと思った、こんな時、相棒の医者なら楽しい話題で気をそらすことができるのだが、自分の場合は、それが得意というほどではない。
「それで、ホームズ」
続きをと促す相棒の言葉に探偵は少し困った顔をした。
「君は昨日、彼女を夕食に招待したんだ、そして夜中、近くまで彼女を自分の部屋に引き止めたというわけだね、珍しいことあるものだ、いや、実に珍しい」
「ワトスン、その言い方は」
「わかっているよ、だが、それで関係のない女性が危ない目に遭ったらどうするんだい」
すると探偵は首を振った。
「昨日まではわからなかった、だがね、ワトスン、結論が出たよ、狙われているのは僕ではない」
医師は驚きの声をあけだ。
「彼女の部屋に誰かが、こっそりと入った形跡がある、詳しく調べようとしたが、そこまでの時間がなくてね」
「どういうことだい、ホームズ」
医者が驚いたのも無理はない、彼女は知っているのかいと尋ねると、返事はすぐに返ってきた。
部屋の中はしんとなった、無理もない。
「ホームズ、彼女は」
「物取り、泥棒でないことは確かだ、それだけに不要な心配はさせたくなくてね」
「だからといって、自分の部屋に誰かがこっそりと」
「わかっているよ、ワトスン、だがね、彼女の知っている人間だったらどうする」
「知り合い、いや、もしそうなら事を荒立てて」
自分の捜査を批判されなくて良かったと言わんばかりに探偵は、ほっとした顔つきになった
「家族、いや、それなら、もしかして以前つきあっていた相手が」
ホームズと呼びかけたが、続く言葉を医者は飲み込んだ。
「どうしたんだい、ワトスン」
「い、いいや」
慌てて医者は首を振り、僕にできることはあるかいと誤魔化すように言葉を続けた。
二つの影が窓から見えた、あそこに居るのは自分ではなかったか、なのに、今知らない男がいる、彼女の隣に、どうしてだと聞きたい。
パリを出た彼女の後を追いかけた、人を雇い調べさせて、ようやく住んでいるところを突き止めたのはいい、だが、それから先、どうすればいいのか、男は迷っていた。
彼女はプリマドンナになどなりたくなかった、自分から逃げたのだ、そう思っていた。
それなのに、彼女の部屋には自分の痕跡があった、彼女の為に作った曲、楽譜があったのだ。
プリマドンナにならないなら、音楽を捨てるなら、もう必要ないものだろう、なのに。
答えてほしい、アイリーナ。