「お会いするのは初めてですわね、ミスター」
女優、アイリーン・アドラーは部屋の中に入ってきた男の顔を見ると不思議そうな顔をしたが、それはほんの一瞬だった。
「仮面が気になりますか」
男の言葉に女優は、いいえと首を振った。
「知り合いかと思ったものですから」
「私はアメリカで劇場を経営しています、名前はそうですね、エリックとでも呼んで下さい」
平凡な名前ねと女優は呟き、そしてフランスの方ではないのねと呟き、何の用ですのと尋ねた。
「私の劇場で歌って欲しいのです」
難しいですわねと女優は答えた、近いうちにイタリア、海外への遠征が決まっている、それだけではない年内の予定は決まっていて、アメリカにまで行ける時間と余裕などないんです、すると男は首を振った。
「いいえ、お願いしているのは貴方ではなく、代わりに舞台に立った女性にです」
その言葉に、アイリーンの表情が変わった。
「何の事でしょうか」
「オペラ座の舞台ではなかった、そう、寺院、いや、教会でしたか、有名な女優が慈善事業の為に歌うという噂を聞いて」
「アメリカから、わざわざいらしたの」
「いいえ、偶然、旅行中でした、そこで歌を聞いたのです、いや、それだけではない、子供たちに物語の読み聞かせをしてい姿を見て驚きました、それで」
「それで、どうしたいと」
「私の劇場に来てほしいと」
「ノン、ムッシュ、いいえ、妹は」
まるで叫ぶような返事だ、男は驚いた、ここに来るまでに男はある程度の事は調べていた、たが、目の前にいる女優は私生活も謎の部分が多い、それを知っているのは亡くなった貴族だけだという噂もある。
「妹、ですか」
信じられないといいたげに男はわずかに顔を曇らせた。
「私、一時、体調を崩してしまいました、それも特別な舞台を目前にして、代役はいませんでした、降板、そんな事になったら」
「それで妹に代役を」
「化粧と舞台設定、装置で誤魔化してなんとか乗り切って、その後、しばらく妹は教会などで歌ったでしょうが、身代わりではありません」
「オペラ座でも」
「私を訴えますか、ゴシップ記事に新聞社に売れば格好のネタになるでしょうね、どちらにしても」
そう言って女優は黙り込んだ後、メイドに紅茶を運んでくるように言いつけた。
「二週間ほど前に妹はオペラ座の舞台に立ちましたわ、それで最後です、歌は好きでも歌手になりたいかと聞かれたら、別でしょう、でも創作する事は好きなんでしょうね、侯爵が、そういう方でしたら」
「亡くなった侯爵の書いた物は文学とは認められないと聞いていましたが」
異性だけでなく、同姓同士の閨、睦言、それも淫猥なものばかりだったので相応しくないとを言われていたが、実際は。
「妹を侮辱なさるおつもり、何も知らないくせに」
「いいえ、プリマドンナ、とんでもない、私は」
男は思い出した、子供たちに囲まれて、大きく手を、体を動かして物語を話している女の姿を、最初は本を読み聞かせているのかと思ったが、後で知ったのは、それが彼女自身が考えた物語だというのだ。
物語の内容もだが、話している女の楽しそうな声が、それを傍らで取り囲んで聞き入っている子供たちの様子が楽しそうで何故か、羨ましいと思ってしまった。
自分が子供なら、あの楽しそうな場所に躊躇うこともなく行けるのに。
通りを歩いている、その姿を見つけた時、男はほっとした表情になった、その背中を追うようにして間を詰めながらも、ほんの少し声をかけるのを躊躇ったのは、相手が落胆しているのがわかったからだ。
多分、売り込みは失敗したのだろう、数日前、女優、アイリーン・アドラーを尋ねて色々な事を聞き出した。
そして自分は力になりたいのだと申し出た、最初のうち女優は信じようとはしなかったが、それも無理はない、自分の周辺を嗅ぎ回り、ゴシップを見つけて自分の劇場で、もしくは恐喝しようと思っていたらしいのだ。
そうではないと説明した、ところが話が彼女の妹の子になると女優は自分の事以上に疑い深くなった。
最初から、うまくいくとは思っていなかったので落胆はしなかった。
女優の疑り深さ、頑固さには驚いたが、こういう世界に生きているのだ、そうでなければ生き残ってはいけないと反対に感心した。
だが、妹はどうだろう、姉と同じ、もしくは。
物書き、亡くなった小説家になりたいのだという話を聞いて男は驚いた、女流小説家という存在は決して多くはない。
それも裕福な貴族出身者が道楽や暇に任せて書いているという場合が多い、多少の後ろ盾があったとしても成功している女性は少ないのだ。
そして彼女は、自分の出生を秘密にしている、ロンドンで淫蕩と浮き名を流し絞首刑となった貴族の娘であること、アイリーン・アドラーの妹で
あることを隠しているのだ。
もし、そのどちらかでも隠さずにいたら多少のチャンスはあったかもしれない、パリではなくロンドンでなら。
少しずつ歩みを早めて、距離がほんの少しというとき、声をかけた。
「失礼、ミス・ジューリアではありませんか」
立ち止まり、振り返った女は不思議そうな顔をしたが、男の顔を見るとああと頷いた。
「ミスター、確か、姉の ところでお会いした」
女の好意的な声と口調に男は内心、ほっとした。
「紅茶でいいですか、それとも珈琲が」
女優の元を何度も尋ね、彼女の協力もあってここまで漕ぎつけた、でなければ、こんなに簡単に部屋に、一人暮らしの部屋にすんなりと通される事はなかっただろう。
「本当にすみません、姉を尋ねて留守だなんて」
恐縮したように女が謝罪の言葉を述べた。
「いえ、私のほうこそ、約束の日を勘違いをしていたようです」
正直なところ、ここに来るまで男は色々と考えていた、どうやって話を持ちかけたらいいかと、だが、出された紅茶に口をつけて話し始めると、正直、取りとめのない関係のない話ばかりだ、といっても大半はアイリーン・アドラーの舞台に関することばかりだったのは幸いだった。
「それで具合はどうなんだい、ワトスン」
いつもなら、お茶でもどうだい、何かおもしろい事件はないかいと聞かれるのだが、今回に限って、それはなかった、部屋に入るなり、それは予想ももしなかった質問なのだろう、少し驚いた顔で探偵を見ながら大丈夫だよと医者は答えた。
「風邪だよ、疲れていたせいもあるんだろうが」
「ただの風邪かい、一週間も」
「女性の一人暮らしだ、ここへ引っ越してきてから、まだ半月ほどしかたっていないんだよ、ホームズ、気になるのかい」
「別に」
「大丈夫だよ、マダム・アドラーのメイドが様子を見に来ていたし」
「メイドだけじゃないだろう」
その言葉に医者は、ああと頷いた、思い出したように探偵の顔を見ると、にっこりと笑った。
「だったら頼まれてくれないか、後で僕の診療所に来てくれないかい、薬を取りにね」