西暦2064年――
いわゆるヴァーチャル・リアリティの技術に1つの革新が起きた。MANABUシステムが、世に登場したのだ。
それは商標であり、その装置の名称。
それは、自分の見る夢を制御し、しっかりとした意識を保ったまま、夢の中の世界をまるで現実のように体感できる電子機器だった。
本来、夢で見る世界とは不安定で不確か、そこで起こる出来事の意味も物理法則もあやふやなものだ。MANABUシステムは、それを明確で安定した空間に変えることができる。また事前の設定1つでどんな夢をみることも可能となる。
MANABUシステムは発売当初は販売戦略上の失敗から売れ行きが伸び悩んだものの、その長所と汎用性が正しく理解されると、ゲームやSNSへの活用が急速に進んでいった。
MANABUシステムを用いれば、どんな異世界もそれまでのVR技術の産物とは比較できないリアルさで実感できるし、思考のみの操作――移動や攻撃等はもちろん、メニューウィンドウの表示などシステム上のことも容易に設定できるのだ。それを使ったゲームが面白くないはずはなかった。
打って変わって、MANABUシステムは爆発的に普及していった。
そのえげつないまでの売れようは、とある著名な批評家が「まるで潜伏期を終えたウィルスのよう」とまで形容したほどだった。
1年も経たないうちに、MANABUシステムはもはや、持ってない者のほうが珍しいくらいのありふれた物になっていった。だが、そこで1つの転機となる事件が起こった。「社長令嬢夢中監禁事件」――一般的にそう呼ばれる前代未聞の犯罪が、それだ。
三隈真尋はその事件の被害者だった。
西暦2067年のある日――
「じゃあね、拓志。家に着いたらメールするから」
地下鉄駅のプラットホームに残る恋人に真尋がそう告げると、彼はいつものように寂しげに微笑みながら頷いた。いつものように……いや、その表情の翳りはますます濃くなってゆくように見える。
列車のドアはすぐに2人の間に割って入り、真尋はただ微笑みかえしながら運ばれてゆくしかなかった。車内は朝のラッシュで混雑していて、空いている吊革はひとつもない。揺れに堪えながら、真尋は両脚でなんとか踏ん張る。
「はぁ……」
真尋は恋人の雨島拓志のことを、名前を呼び捨てにして呼んでいる。拓志のほうが3つも年上ということもあってか、彼女にそう呼ばれた彼は決まって少し微妙そうな顔をするのだが、それが面白くてずっと呼び捨てで通してきた。
止めてくれと言われたなら止めよう、くらいに思っていたが、しかしもう自主的に止めるべきなのかもしれない……2人の関係は、今、密かに岐路に直面しているのでは、という気がしてならないからだ。
真尋が「監禁状態」から解放されて、はや1年が経つ。街角やネットのニュースから、さすがにその話題はもうあがってこなくなった。まあ、真尋がまだ女子高生ということもあって、メディアへの露出は極力抑えられていた。今までも、彼女が街なかを歩いていたからといって、後ろ指を指されるようなことは、そもそもあまりなかったが。
それもこれも、些細なことにいたるまで、拓志が気を配り、尽力してくれたおかげだと真尋は感じていた。
真尋にとって、拓志は恩人だった。MANABUシステムを悪用され、夢想空間から出られなくなった彼女を救ってくれたのだ。
2年前のある日、真尋は夢を見たまま起きられなくなった。MANABUシステムが取り外されても目を覚まさず、やがて犯行声明が出され、それが何者かの画策によるものだと判明する。
彼女の父親はMANABUシステムを売り出す家電メーカーの社長だ。だから誰もが、はじめは身代金目的だと思っていた。ところが、犯人は真尋からMANABUシステムを外すことを禁じ、ネットに繫ぎ続けることしか要求せず、そのまま1年が経過する。
その間、警察も、エンジニアも、誰も真尋を救えなかった。そして真尋は、囚われた夢想空間の中で凌辱の限りを尽くされていたのだった。
犯人は、婚約者だった。
親が決めた許婚で、父親の会社の重役の息子だった。また、MANABUシステムの開発者でもある。
彼は父の会社の命運を握っていて、父の信頼の厚い部下の息子……この縁談を断ることは出来ないと思っていた。それなのに、わざわざこんな犯行に及ぶなど、真尋にはまったく理解できなかった。
MANABUシステムが性犯罪に使われるケースはすでに多数あったが、この機械で作られた夢の中でいくら犯しても、リアルにある本当の肉体に影響はない。処女を奪えるわけでもなく、妊娠させられるわけでもない。
何年か待って結婚してしまえば、真尋からの抵抗があるにせよ、現実世界で合法的に出来るはずのことをあえて夢の中でやる理由……しかも、犯罪に手を染めてまで……どんなに考えても、真尋には分からない。まあ、皮肉と言うべきか、おかげで婚約を破棄する理由がつくれはしたが。
長い悪夢の終焉は、突然訪れた。拓志がハッキングに成功し、真尋の意識を覚醒させたのだ。ただのプログラマー志望の大学生でしかなかった拓志が、自宅のMANABUシステムからそんな快挙を成し遂げ得たのは、ほとんど奇跡的な偶然が重なった産物ではあった。
ともあれ、真尋の口からこの不可思議な監禁事件を引き起こした犯人の名が告げられると、事件は解決へと急転していった。
そして、真尋と拓志は恋人同士となった。それまでまったく面識がなかった2人だったが、知り合うとたちまち惹かれあい、求め合った――生まれた時から失っていた、自分の半身を取り戻すかのように。
真尋は、はっきりと拓志に運命を感じた。将来をともにするなら、この人以外にありえないと思った。
長く真っ直ぐな黒髪をばっさりと切り、忌まわしい過去も吹っ切れた。
何もかもうまくいっている、信じられないほどに。諦めかけていた、幸福に満ちた未来がこれから待っている…はずなのに。
しかし、犯人、つまり真尋の元婚約者は、行方をくらましてまだ見つかっていない。
真尋はそれが不安でならなかった。いや、そうではない。彼女は、はっきりと確信していた。あの男は、必ずまた現れる。そして、今度こそ、私の……
あの心の監禁から解放されても、真尋の精神内に留まる異常な心理、理由不明な行動の制約。それが、彼女に告げているのだ。事件は何も終わってない。恐怖の再来は必ずある、と。
真尋はそれに怯えながらも、なんとかしなければならないと思っていた。
拓志にはとても相談できない、こんなこと。両親にもだ。だが、真尋の力だけではとても無理に思えた。でも、やらなければ。一刻も早く解決しなければならない。この、心の中の異常を取り除くことさえできれば、あるいは、あの男への恐怖や悪い予感も、消えて無くなるかも――
「!?……あ」
抱え込んだ苦悩に没頭していた真尋は、そこで我に返った。
列車の揺れはあいかわらず酷く、客車は満員でその場に立っているのがやっとの状態。
尻に、悪寒を感じた。
痴漢。間違いない。薄水色ワンピースのスカートの上から、何者かの指が真尋の尻を撫でていた。尻肉の丸みをなぞっていた。
――こんな時に!
恐怖よりも、怒りというより、ただ苛ついた。真尋はほとんど衝動的にその無礼者の手首を摑み、捻りあげようとした。
「!!!!?」
だが、出来なかった。当然というべきか、摑んだ手首は太さから、間違いなく男性のものだった。男は真尋の手が動揺で硬直し、力がすぐに弛むと、何事もなかったかのように行為を続行した。いや、さらに大胆に、スカートを捲りあげた。
――まずい、見られる……知られる……!
と、思うと、真尋の腹腔に身体を蹂躙されるということ以上の緊張が張り詰めた。
真尋が穿いているのは、黒いショーツだった。しかも、ただ黒いだけではなく、形状も材質も、あまりにもセクシャルで男性に媚びた感じで、他にもあり得ない刺繍がされてある代物だった。
真尋が絶対に穿きたくない、見たくもないと思っている類いの下着…なのに、穿いてしまう、どうしても。そうしなければならないように、されてしまっているのだ、おそらくは「あの男」によって。
薄い、ショーツの布地1枚を隔てて、男の指先が尻を這う。満員電車の中だ。他の乗客が邪魔になって目で確認するのは難しいだろうが、臀部が半分程度しか隠れないような破廉恥な下着だ。手触りだけで、どんな物かはすぐに分かるだろう。
止めなければ、これ以上は――そう思い、必死で男の手首をまた摑みあげようとするが、力がどうしても入らない。その触り方に、「あの男」の癖が感じられたからだ。もし、本当にそうなら、真尋は抵抗することなく、為すがままにされなければならない。
劣情を満たさせなければならなかった。
尻を弄る男の指に、ショーツの形で動揺した様子はなかった。より直接的に伝わってくる刺激と、予感にともなう不安が、真尋の腰のあたりをざわつかせる。
その、独特の撫で方に、彼女にはやはり覚えがあった。背筋に戦慄が走り、体温が下がってゆくのを感じた。
弱く2回擦ってから、強く擦ってくる。
同じだ。触り方が、あいつと……!
「ん…そん、な……やっぱり……」
呻きとともに、真尋は思わず声を漏らした、口にせずともよいことを。すると、その時、後背の痴漢が小声で話しかけてきた。
「シーー…静かに。周りの人に迷惑だよ」
耳許で囁かれたその声に、真尋の恐怖と絶望は最高潮に達した。その指、その声、かつて1年もの間、真尋を苦しめ悩ませた、その男――南郷
そう、はっきりと認識した途端、自動的にそれは起こった。
「っ!?……な、ぁ……」
手首を摑んだときもそうだが、いや、それ以上に反射的に、頭で考えるよりも早く、体のほうが動く。真尋自身が一瞬、何が起きたのか分からなくて驚くほど、意識外の行動だった。
男の手首から手を離し、ショーツ丸出しの尻を差し出すように後ろへと突き出した。なぜ、自分がそんなポーズをとったのか……戸惑いながらも、その理由だけは、真尋ははっきりと意識できた。
自分の肉体を、触りやすくして、南郷にたっぷりと堪能させ、愉しませるためだった。
南郷の手が、ショーツの中に侵入してきた。真尋は、強張っていた尻肉から力を抜いた。その弾力と柔らかさを確かめさせるために。
次回、「03 MANABUシステム」