※この作品はR-18です。

酒のあやまち   作:餅屋

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古戦場前なので投稿です。
お久しぶりです。半額を満喫しておりました。



隠宿交合録 三晩目 前

 三日目、少年がぱちくりと瞬きして、もぞもぞと起き上がったのは、共に床につくイルザの、ほっそりとした指先が温もりを求めて寝巻の中にまで入り込んだ為である。ひんやりとした感触にぶるりと震えながらもしっかりと温めてやり、ようやっと布団から、そろりと抜け出した頃には目覚めてからそこそこの、短い蝋燭が消えるくらいの時が経っている。

 

 卓上の時計を見やれば午前九時を過ぎた辺り。昨晩から数えて半日ほどは眠りこけていた事になる。まさしく泥の様な、夢の欠片すら引き出せぬ眠りであった。

 

「身体重いなぁ……」

 

 と、ぽつり漏らした少年である。昨日、未だ布団に温もるイルザの、身に流れる血の故郷で好まれるという酒、その実に頭の悪い効能に溺れた挙句に、湯殿で荒淫に耽る醜態を晒した二人であったけれども、頑丈な彼の身にとて未だ激烈な倦怠感が残る。この分では彼女の身も同様であろう。

 酒屋……土産屋の店主が話していた、その氏族しか買わないというのも頷ける。その酒によって齎(もたら)される氏族の特徴というのが、常人には作用があまりにも強過ぎた。

 仮に番(つが)う者が虚弱であれば、文字通り心身共に昇天してそのまま帰って来れなくなるだろうと思われる。酒は百薬の長とは言われるが、こんな物は薬を通り越して毒であった。質自体は物凄く佳(よ)い酒であるのがまた悔やまれる。

 

(まあ、誰かに贈ろう)

 

 と、彼はそう考えて、少し遅い朝食を摂るために紐を引いた。

 昨日とはまた違う、趣のある音色が響く。

 

 それから少しして。もぞもぞとイルザが起き出してからほんの数分、互いを確かめる様に抱き合っている最中に引き戸を小突く音。跳ねる様に離れて、応じれば引き戸が開き、食事が運ばれて来た。

 昨日は申し訳ありません、と眉を八の字にして謝る女将を二人して止めて、毎度の如く品の内容を朗じてもらい。お決まりの言葉と共にやはり煙の様に去っていく女将に、二人はもう訝しむ事もない。居ると何処と無く据わりが悪いのもあるが、そういうものなんだろうなと考えていた。

 よくよく考えてみると彼女一人だけが態々食事を持って来るのもおかしな話であるけれど、それを突けばそもそもこの宿そのものが奇妙な雰囲気にある。が、二人ともそういった事態には慣れており、かつ欠片も害意が無いので気にしない事にしていた。

 何よりこの居心地の良さが失われるのは望むところではないのだ。

 

「今日はどうしようか?」

「残りの土産屋を周ってから、さて……」

 

 青物の多い朝餉をぱくぱくと摘む少年の言葉に、どうしよう、と彼女は結んだ。

 土産を見繕うだけでも楽しいとは思えたが、何しろ奥まった立地の『うわばみ』へ行き帰りするだけで半刻は使うほどの広さである。それに比べて近場とはいえ三軒も周れば相応に時間も費やされよう……と、そこまで考えて、閃く。

 

「そういえば昨日は大浴場に行こうと話していたんだったか」

「……あー、すっかり忘れてた。そこにする?」

 

 彼女はちゃんと土産を買った後でな、と微笑って答え、すっかり慣れた味わいの茶を啜ったのだが、そこにまた来客がある。

 

「やあやぁおはようございます……昨夜のお詫びっちゃ何ですが、お風呂をご案内しますよぅ……今日は穏やかな天気ですし、館内図に載ってない所を」

 

 そのような、まっこと胡散臭い物言いと共に訪れたのは『うわばみ』の主人であるミノミであった。

 寝惚け眼に、ほんのりと朱に染まる肌を墨染の衣に包み、しかしながら相当適当に着付けたのであろうか、くしゃくしゃと皺寄って、豊かな胸が溢れそうで溢れない、布地が四割程しか機能を果たしていないその姿は本来ならば宴もたけなわの中、閨に誘うおんなといった風情であるのだけれど、当人から香るのは濃い酒精の匂いで、更に柱に凭れかかりつつ、おまけに床へ視線を向けて怪しい呂律で告げるのだ、明らかに酔客である。一切の色気というものが霧散しているその在り方はいっそ芸術的ですらあった。

 

『……』

「……その……そちらこそ、大丈夫、なのか?」

 

 たっぷり十秒ほど硬直して、そうイルザが訊ねたのは無理もない。概ね二秒先の未来には嘔吐していそうですらある彼女の姿に不安を抱かぬ者も居ないだろう。訊ねられた当人はといえばつい、と俯く顔上げて、こ(・)れ(・)か(・)ら(・)酒(・)気(・)は(・)抜(・)け(・)る(・)んで大丈夫ですよぅ、と宣う。

 少年は何とも信頼のおけない案内人の様子を眺めながら、はぁ、と呆れ混じりの溜息ひとつ吐いて、答えた。

 

「……行って、みたいかな。探検みたいで面白そうだし、それに」

 

 と、一つ区切り、じっとミノミに訝しむような視線をやって続けた。

 

「何か伝えたそうだし」

「おやぁご慧眼」

 

 そんな彼女は受ける視線を気にする風でもなく、ちろりと舌で唇を湿らせて答えた。

 

「別に伝えなくても良いんですが、何となく御二方は受け入れそうですし、久しくこの季節に本(・)来(・)の(・)仕(・)事(・)が出来そうですし……向かう道すがら話しますよぅ……この宿について。あ、向かう時は上に着込んだ方が良いですねぇ一度外に出るので」

 

 そう告げて、ぺたりと廊下に座り込んだのである。そこで待つつもりらしかった。

 

 *

 

「──この宿が娑婆のお偉いさん御用達になったのは今代になってからでしてねぇ、それも元々の機能がそういった人々に必要とされたのが理由でした」

「元々の機能?」

 

 ええ、と問うた少年に答えつつ歩み先導するミノミ、霞が揺れるような奇妙な歩法であった。行き交う影法師達は皆、道を開いて。

 

「先代以前の、本来の客の為に一種の咒(まじない)がかかっておりましてねぇ、各々の認識を弄る、とでも言いますか、他人を上手く認識できなくなるんですよぅ。この宿、静かでしょう? これはその影響ですねぇ」

「では今も別の客が?」

「いや、今は私らみたいな者以外は在りませんねぇ。この季節なら皆別の所を使うんでしょう、毎年こんな具合です。……それで、本来の客というのはお二人さんのような方々を指します。……ざっくり異種の夫婦、恋人ですよぅ。娑婆じゃあまり良くは思われない者達の安息の地としてこの宿は建っているのです。そうあれと望まれたので……聴いた話じゃ、娑婆も今はそこまで悪くもないらしいですけどねぇ。そうそう、夏の暮れ辺りには本来の客人もずっと増えます。その分今の客人も増えますが、先代の頃に比べれば幾らか少なくはなりました。その分単価はぐんと上がったので昔よりは左団扇ってえところでしょうねぇ」

 

 図で見る限りは行き止まりであった脇道、その先へゆっくりと進む。揺れる燈に照らされた薄暗い廊下、響く幽かな音は足音か、それとも。

 

「この隠は、留まれぬ者の寄る辺として機能します。旅人、化外、遍く者を受け容れて、癒すのですよぅ。与えるは永遠の富、貰う対価は情。何かへの執着、そのひとかけらを金子の代わりに貰って、機能し続ける」

 

 歩みを進めるごとに、朗じる彼女の声は鮮明に、導く姿は殻を脱ぎ捨てるように洗練されていくように見えた。

 

「隠(なばり)を包む咒は、以前の屋号に準えてマヨヒガ、と呼びます。それは霞へ変じた神のようなものでして、かつてはもっと、ずっと、確りとした形を持っていました。自らも情を交わすほどに。しかしながら色々とありましてね……今やこの家に憑いて彼方此方(あちらこちら)を漂うばかりです。好いて好かれたおんな一人放ったらかして──」

 

 唄にも似た、何処か哀切を孕む声を聴きながら、山襞を刳り貫いて、目にするだけで吸い込まれそうな谷底が望める通路を行く。穏やかなれど、冷たい風が首筋を通った。

 

「──全く大馬鹿ですよねぇ……おっと、此処ですよぅ。脱いだ服は此方に」

 

 迷路のように奥まった通路の最中、ぽつんと置かれている水を湛えた硝子の器、それに浮かぶ一輪の花を印としているのか、傍には脱衣を置く棚と、件の風呂へ続くと思われる、湯気を漏らす引き戸がある。

 

「店主、貴女は……」

「……今の私は不真面目な案内人ですよぅ。ささ、冷えた身体を温める為にも入って下さいな」

 

 イルザの問いを遮ったミノミは、おどける様に急かした。その顔が歳経たように見えたのは、光の加減であったのかもしれない。そう考えて欲しそうだった。

 支度を終えた事を認めて彼女が引き戸を開けると、果実のような仄かに甘い香りが漂う。立ち昇る湯気の香りだった。

 山を刳り貫き外界へ繋がる、洞穴のような湯殿を、ゆらゆらと仕組みに見当の付かない灯りが茫と照らし、源泉から湧く白く濁った湯は湯船から溢れて、緩やかな勾配に沿って、遠く湯気に烟る外へ流れ落ちていく。

 特に灯りを数多く備えた岩壁には、墨で描かれたと思しき絵があった。山の頂へ、天地四方八方から様々なものが集まっている様子が濃淡で見事に描かれている。

 此処は先に身体を洗わずとも良いとの言葉に従って、二人共に足を浸ける。ぬるりとした湯の感触がこそばゆく、そろそろとおっかなびっくり身を沈めた。

 

「──と、こんな具合でして。さて、そろそろですかねぇ。驚かないでくださいな」

 

 と、共に湯船へ浸かったミノミが口にしたのは壁面の絵の事、数代前の頃に訪れた絵師が当時の客層の雑多さに何やら刺激され、閃きの赴くままに描いたというのを語り終えた頃である。

 少年とイルザ、二人が身を寄せた周りの、暗がりの湯中がぽつ、ぽつと薄緑の燐光を発し始めた。

 

「その……これは?」

「『ゆぼたる』って呼ばれてます。疲れや心の澱……よくないものを食べる精の一種ですよぅ。害はありません」

 

 ゆらゆらと湯に浸かる彼女は、燐光を愛おしげに撫ぜるようにしながら言った。しかしながら遠目にも、肋の下──肝の辺りが一際目立って光るのはご愛嬌、皆に纏わりついて拍動のような明滅を見せるゆぼたる達は、次第に満足したかのようにひとつ、またひとつと離れていって湯気に烟る外界へ向かい、姿を消していく。

 確かに、身に凝る疲れであるとか、心に残る負荷といった物がじりじりと削れていくのを感じた。

 その雪が溶けていく様を思わせる光景に、言葉を失いながらもしっかりと見届けて、一息ついたところにミノミが言を紡いだ。

 

「……ふう。酒気がすっかり抜けるのも久しぶりですね」

 

 そう言葉を紡いだ彼女の姿には、背筋が粟立つほどの色気がある。酒気が残っている際の有り様を見たならば、文字通り別人のようだった。

 

「では改めて……元案内人のミノミと申します。今更ですけれども幾らかの不調法はお許しくださいましね。大浴場へ向かうご様子でしたが、先に此方に浸かった方が効能の効きが良いのでご案内させていただきました。今暫く、よくないものがすっかり溶けるまではこの湯にゆっくりとお寛ぎ下さいな。……多分私が一番長く浸かる事になりますが」

 

 また締まらない言葉で結んで、彼女は二人に暇を持て余させないようにか、かつてこの宿で起こった様々な噺を語り始めたのであった。

 

 *

 

「──大浴場には夫婦の湯と名付けられた場所がありまして、その効能は夫婦円満とあります。要するに精気を満ちさせるんですな。夏にはそこにもゆぼたるが湧いてくるので、本来ならよくないものと入れ替える形で精気を詰めてくれるのですけれど、流石に年中ゆぼたるが湧く湯殿は隠の軒にはありませんで、先にあの湯へ案内させていただきました。所変わりますがマヨヒガであった頃には何と言いますか、妙ちきりんな出来事がよくありまして。娑婆のお客様にとってはその方が良いのですけれども、当時はその出来事が幸運の兆しとして持て囃されておりました。囃すに掛けましてひとつ挙げれば、隣室から囃す声聴こえども姿見えずして、襖開けばはずれ、と書いた札がひらひら落ちて来て化かされるだとか──」

 

 大浴場への道すがら、ミノミはそのような話を口にしながら二人を先導する。酒焼けした嗄れ声ではあったけれど不思議とよく通り、心地好い響きがあった。人を飽かせぬように紡がれる説明と逸話はどれも歩き回るにつけ溜まる疲れを癒し、忘れさせ、向かうにかかる時間を忘れさせた。

 

「──土産は会計に頼めば纏めて部屋まで持って来てくれるので、量によってはそうした方が宜しいかと思います……おっと着きました此処ですね。混浴ですが脱衣所は男女別です。右は男、左は女。替えの衣は浸かる内に手すきの者が持って来ます。夫婦の湯は扉に看板が掛けてあるので直ぐに判るかと」

「貴女は入らないのか?」

「字の如く夫婦の湯ですから、私は此処で待たせて貰います。どうかお気になさらず」

「そうなのか……ではお言葉に甘えて」

「また後でね、ミノミさん」

「ええ、ええ。ごゆっくり……」

 

 と、そのような遣り取りがあって大浴場へと入ったのだけれど。

 二人はぽかんとした顔で、立ち込める茫大な湯煙を眺めていた。

 

「……思っていたのよりは遥かに広い」

「どうやって支えているのやら」

 

 どの様な方法で組み上げられたのか、湯煙の向こうに柱など見えず、見上げる天井さえ霞む様、昨日登った階段はこれほどの高さがあったのかと思うほど。入口の傍には巨大な朱塗りの柱があるので、恐らくは壁に埋まるように建っているこれと同様のものが幾つもあるのだろう、それらによって支えていると思しいが、それにしても大浴場の間取りは広過ぎた。

 漂う湯煙からは雨に濡れる土の薫り。じっとりと蒸し暑い日に、通り雨が降って過ぎた後のような、粘る感触の甘い匂いだ。複数の源泉から湧き出る香りが混淆されて生み出された匂いだった。

 ぺたぺたと石床を歩いて件の湯を探る。踏みしめる床は湯の熱に暖められて、心地良い温もりを感じさせる。大きな浴槽を三つほど通り過ぎた頃、やっと件の、夫婦の湯というのを見つけて、仕切る扉を開いた。

 

「ああ、夫婦ってそういう事なんだ……」

「これは確かに、二人じゃないと入れないな……」

 

 と、中へ入った二人は口にした。他に比べれば随分と狭い湯殿である。木造の浴槽は種族の体格差にも対応できる様には作られているが、三人がゆったりとは浸かれないくらいの大きさである。

 扉を閉めると、むわりと濃密な甘さを持つ湯煙──爛熟しはち切れ、薄皮を伝い滴る果汁を思わせる薫り──が二人を包む。匂いだけで胃が満足しそうなくらいの濃厚さがある。

 

「滑らない様にね」

「君こそ」

 

 互いに手を握って、渾々と湧いて湯を溢す浴槽へ浸かる。湯温は少し熱いくらい、人肌が熱を鎮めるに適温と感じる熱さ。共に並んで浸かり、互いに互いへ寄り掛かかる様にして、どちらともなく身を寄せた。

 

「……このまま眠っちゃいそうだ」

「なら私が君の枕になろうか……しばらくしたら起こしてあげるよ」

「ん……お願い……」

「うん、おやすみ」

 

 丁度良い心地の温もりを持った女は、微睡む少年に最上の眠りを齎した。枕となったイルザは、微睡む伴侶へ身を寄せ支えながら、天井を見上げて目を細める。

 夢のような安らぎがあった。欲しくても手に入らなかったものを思う存分与えられて、できることならこのままでありたいと感じて、駄目だ、と否定した。

 まだやらねばならない事があるのだ。それは寄り添い眠る彼も同じで、それらを放棄する訳にはいかなかった。気持ちの据わりも悪いので。

 

(全て終わらせたら、今度は私が誘ってあげる。けど、今は、この宿に居る間だけは──)

 

 視線を降ろして、早くも穏やかな寝息を立てる彼を眺めた。

 

(──私は、ただの女でありたい。愛しい君に恋する、ただの女に)

 

 心に浮かんだ言葉達は、溢れる湯に沁み溶けて、何処(いずこ)かへと流れ行く……。

 

 *

 

 ──燈に透かされ緋色を湛えた滴が、また別の滴と交ざり合い、その衝撃に柔らかな稜線を伝って湯船へと落ちていく。

 

「……ぅん……ん」

 

 微睡みの中より呻きをあげた少年は、寄り掛かる女の、濡れる柔肌で演じられた光景を認めて眠りから引き上げられた。

 身体を起こせば、イルザは微笑みを浮かべて可愛らしい寝顔だった、と戯けるように紡いだ。どれくらい寝ていたのか、と思えば、顔に出ていたらしく。

 

「おそらく三十分ほどだろう。随分疲れがあったようだ、あんまり気持ちよさそうに眠るものだから私もつられてしまいそうだったよ」

「そんなに?」

「そんなに、さ。……また今度してあげ……させてくれるか? 君の寝顔を見ると安らぐんだ。お風呂ではちょっと、止めてもらいたいのだけれど。指が皺々になってしまう」

「うん、じゃあその時はお願いね」

 

 そのような話をしながら湯船から上がり、体を洗ってから脱衣場へと向かい、手早く着替えて入り口に備えられた椅子へ腰を下ろして待つ。

 イルザが居ないことへの心細さがあった。ほんの数分の別れすら名残惜しく感じるのだからこの病(・)は厄介だ。しかし弱くなっている、と思えど、それが恐ろしくは感じなかった。以前とは違って。

 ぼんやりとしながら傍の棚へ視線をやると、古びた冊子──まよひが報と題──が目に入った。イルザが支度を終えるまでの慰めになろう、と手にして広げると、当時の──ずっと旧い人々がこの宿で過ごした際の出来事が記されている。それは例えば、

 

『滞在三年目となるツツジ屋夫妻、また迷う。夫妻らの遭難はこれにて通算三十を数えた。まよひが報の読者諸氏にはこれ以上の惨劇を食い止めるためにも、夫妻らの滞在する二階弐拾弐の間の位置を覚えて戴きたく──』

 といったものや、

 

『今週はゆぼたるの群来る兆候有り。離れの露天にも溢れると思われるので注意されたし──』

 といったものなど、内容も様々な、外では思いもつかぬような奇天烈な出来事の数々が活き活きと描かれて、存分に楽しめた。

 ちょうど読み終えた頃、折よく待ち人が来たる。

 

「──髪を乾かすのに思いの外時間がかかってしまった……それは?」

「此処の古い冊子みたい。面白かったよ」

「ふむ、最近の物は売っているのだろうか?」

「申し訳無いのですが、それは前の屋号の物でして……一番新しい物でも先々代の頃になりますね。在庫は売店にも無いでしょうね」

「そうか……少し残念だ」

「何分古いものですし、離れの、棚には幾つか残っているやもしれませんね」

「戻ったら探してみる?」

「や、そこまでじゃあないんだ。それじゃあ行こうか」

「はい。では短い道中ですが、またご案内しますね」

 

 土産屋へ向かう前にちょっとした遣り取りがあり、三人は土産屋を巡り始めた。勿論ミノミの朗じる声と共に。

 

 *

 

 巡り終えて離れに着いたのは、夕暮れの頃である。

 

「これにて案内を仕舞わせて戴きます。ではまた、いつか」

 

 ミノミはそう告げて去っていった。足音に隠れるようにして腰に括り付けた瓢箪の栓を抜く音が聴こえたのは二人の気の所為ではあるまい。

 土産はと言うと、随分と、そう随分と買い込んだ。あんまりに多くなってしまったので、費用は嵩むが後日よろず屋を介して受け取る予定となった。

 団員が多くなればそれに応じて量も増え、それに加えて二人して実用品やちょっとした小物にばかり目が行くので持つには嵩張り過ぎたのが原因であったが、さて……恋人との逢瀬であるからして、少々浮かれていたのかもしれない。

 それはともかくとして。

 

 日が沈みきり程なくして、久しく見なかった気さえする女将によって夕餉が運ばれてきた。

 今までとは打って変わって、量が少なく、装飾品を思わせる見た目の夕餉である。

 

「……明日には出立するそうですが、楽しめましたか?」

「はい。とても」

「それはそれは……こちらとしてもそう言っていただければそれが最高の報酬です……この宿に留まるのももう少しというところでしょう。せめてその間は、ゆっくりとしていらしてください」

 

 そう話しつつも淀み無く配膳する女将は全てを並べ終えた後、居住まいを正して続けた。

 

「今晩の献立は『たまあひ膳』と言われるものです。旧宿の案内人、ミノミからの報せに拵えさせて貰いました……何分久しぶりに拵えたので、お恥ずかしながら味や盛り付けが些か不格好であるかもしれませんがご容赦くださいませ。では後ほど片しに戻りますので、どうか最後の晩、悔いの無いようにお過ごしを……」

 

 子に言い聞かせるような、優しい声だった。彼女は最後に一礼して去っていく。その様子をじっと眺めて、少年はぽつりと呟いた。

 

「……食べようか」

「……うん」

 

 二人して手を付ければ、味わえたのは笹型に切られた人参の甘さ、薄味の汁を吸い込んだ練り物から溢れる仄かな甘さを残す旨味、自家製のタレに漬けたという菜っ葉はほんのりと残す苦味と、爽やかな辛味が鼻を抜ける。

 香辛料を振った鹿肉の薄切りは光を透かすほど、整えられた花弁を自重に崩し、親指ほどの小さな烏賊、その丸干しを炙ったものは火傷しかねない熱の先に、秘めた旨味を凝縮している。

 貝の身が浮かぶ澄んだ汁にはひとつまみにも満たない僅かな香草が揺れ、薫りでもって二人の胃を心なし軽くして、食を進ませた。

 

 言葉を交わすことも無かったのは、先程の女将の言葉が心中にぐるりと蜷局(とぐろ)を巻いていたからだろうか。見る見るうちに食事を平らげて、締めに朱色の小鉢に盛られた雪色の果実を一つずつ摘まみ、口の中を果汁で洗い流した。

 

 再び言葉を交わしたのは小一時間ほどを掛け出立の支度を終えて、共に床へ入ろうとした時の事。

 イルザは、口に、した。

 

「君は、どう、したい?」

 

 風の音が、聴こえた。

 閨を照らす灯の火が、揺れる。

 

 

 




後編は今夜十時に。
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