朝の日差しが柔らかく家々を照らす。
登校前の娘と通勤前の母親が朝食をとる家庭を。
「…ねえ、…?」
「…」
「ねえ!ママ!」
「えっ?」
翡翠のような美しい瞳が自身の娘を捉える。
心配そうに見つめる娘を見てもなお、彼女は何やら呆けた様子のままだ。
「ママ…大丈夫?なんかぼーっとしてるけど、熱?」
「え…?あ、あぁ~!ちょっと昨日寝不足だったのよ、ごめんごめん」
わざとらしく取り繕い、娘に心配させてしまった事を詫びる日和。
急くように食事を済ませると、すぐに通勤の支度を整える。
「ママ…」
だが、そんな分かりやすい演技が娘に通用する訳がなかった。
いつもだったら電車で通勤するところを日和はあえて自宅付近からタクシーを使っていった。
電車に乗るとあの時の忌々しい記憶が蘇る…
あの日…日和はあのままキモオヤジに凌辱され続けた。
「嫌あっ!もうやめてええええっ!!」
「うひひひひい!まだまだ…おぢさんは満足してないから離さないぞぉ~」
一つになったまま色んな体位を試すキモオヤジ。
その精力は全く衰える事を知らず1発2発…7発8発ともう射精する精液が無くなっても犯し続けた。
最終的には日和の悲鳴を不審に思ったホテルの従業員によって犯罪を疑われて、強制的にホテルを出させられたのだが、日和の脳内にあまりにも重く深い傷を残したのは間違いない。
もう電車という言葉を聞いただけで身の毛がよだってしまう。
しかし、いつまでもタクシー通勤をする訳にもいかない。
いつかは電車でまた通勤しなければならないし…もしできたら、夫に車で送ってもらいたいのだが。
電車で痴漢された時も思ったが、やはり夫と離れ離れで暮らすというのは心もとない。
いくら日和のように自立していてしっかりした女性であっても、やはり男に助けてもらいたくなる時がある。
車窓からぼーっと景色を眺める。
あの日以来、日和は体調不良という名目で会社を1週間ほど休んでいた。
いや実際体調は悪かったのだが。
強姦された精神的ショックで引き籠もっていたのだ。
それで、今日が休み明けの出勤日一日目。
休んだ日は研修の日だった。
何の連絡もできずに研修をすっぽかし、その後の7日間休みをとるなど境遇によってはクビにもなりかねないだろう。
内心、出社早々どんな声をかけられるか、戦慄していた。
「宮崎さああああああん!!大丈夫でしたかぁ!?」
「宮崎さん待ってましたよぉ!」
彼女が姿を現わした途端、社内は歓喜に包まれる。
「ええ…もう大丈夫。心配かけてごめんね、みんな」
美人で快活な日和が職場にいるといないのとでは、やはり社員の士気、特に男性社員の士気は大きく違うようだ。
盛り上がる彼らを諫めるように、落ち着いた様子で健全ぶりを見せる日和。
しかし、彼女の復帰に喜ぶ裏で、陰湿な目を向ける者も中にはいた。
業務が終わった18時頃…
「宮崎さんお疲れ様でーす」
「お疲れ様」
次々と若い社員が帰っていく。
日和は久しぶりの出社という事でやらなきゃいけない事が山積みだ。
取り残されるような形で、彼女は業務を黙々と進める。
19時をまわった。
自分より年上の社員や年の近い社員も帰っていき、自身もそろそろ帰ろうかなと思っていた頃だった。
「…お疲れ様、宮崎」
ぽんと肩に手を置かれる感触にびくりと体を震わせる日和。
誰かと振り向けば部長を務める年配の社員だった。
「ぶ、部長…お疲れ様です」
こわごわとした様子で返事をする日和。
正直、この男には良いイメージがない。
以前、会社の慰安旅行で酔った勢いで日和の部下の若い女性社員にセクハラまがいの事をしようとしていたのだ。
『…君、ちょっとこれを着てくれないかね?』
『え…えっ!ちょっ、それって…ば、バニースーツ?』
『くひひ、よく知ってるじゃないか…君自身分かってるかどうか知らないが、君、結構人気があるんだよ、可愛いからね。だから君がこの格好をして皆の前に出ていけば盛り上がる事間違いなしなんだが…どうかね?』
『い、嫌に決まってます!なんで私がそんな格好…』
『おやおやぁ?この私に逆らう気かね?知ってると思うが私の父親はこの会社の会長なんだぞ?その私に逆らえばどうなるか…』
『ちょっと!何やってるんですか!?』
バニースーツを押し付けられ、女性社員が困惑していたところで日和が助けに入った。
役席でも年次でも日和の方が下だったが、人望と実績では日和の方が断然上だった。
いくら相手が会社の御曹司たる上司であっても日和は臆する事なく立ち向かい、部下を守る事に成功した。
日和が他の女性社員から慕われる理由はこういった所にある。
しかし、彼女はわかっていなかった。
一度振り払った邪な想いが彼女自身に降りかかっているという事に。
「もう体調は大丈夫なのか?んっ」
「は、はぁ…おかげさまで」
「君がいなくなって大変だったんだぞ?業務のスピードは落ちるわ、研修を休んだせいで上の連中にやんや言われるわ…」
わざとらしくため息をつきながら、嫌味ったらしく愚痴を吐く部長。
「それは…申し訳ありませんでした」
謝りたくないような相手だったが素直に謝る。
自分が休んだ事で回りに迷惑をかけてしまった事は事実なのだから。
「全くだよ…くひひっ、そうだ君の復帰祝いに一杯行かないか?」
「えっ?」
部長と言っても仕事上そこまで密接な関わりがある訳ではない。
当然、二人で飲みに行った事などなかった。
「ええっ?部長、それは一体どういう…」
「どういうも何も君の復帰祝いだよ、分からんかね?」
渋る様子を見て少し口調が強引になる部長。
一体なぜ、いきなり飲みに誘われる事になったのか。
そもそも部長と自分は顔見知りくらいの関係でしかない。
どういう目論みがあるのか、日和にはこの時さっぱり分からなかった。
「いいから行こうじゃないか。残った業務は明日片付ければ良い」
半ば強引に立たせるように日和の腕を引っ張る部長。
反射的に強くその手を振りほどく。
「…な、何するんですか?」
「何するんですか?…じゃないよ君は!」
急にバン!と机を叩いて怒り出す部長。
自分のどこにそこまで激怒される落ち度があるのか。
一週間休んだ事か?
それだったらお互い様じゃないか、部長だって急にハワイ旅行に行くと行って一週間会社を休んだ事があった。
理不尽な怒りに眉をしかめる日和。
「…一体何が目的なんですか?」
「何が目的い?さっき言ったばかりじゃないか、ただの君の復帰祝いだよ」
訝しんで問う日和に顔を真っ赤にしながら答える部長。
その様子からはとても『ただの君の復帰祝い』だとは思えなかった。
「…ちょっと今日はまだ、体調が万全ではないので…行けません」
「何い~!?」
歯を喰い縛りながら今度は日和の胸ぐらを掴んで壁に押し込む。
ドンッ!
「ちょっ、これ…!」
「君が研修をサボった事でどれだけ私がつつかれた事か、分かるのか!?ええ!?」
「貴方っ、自分が何をしているのか分かっているの!?」
謎の怒りを爆発させる部長。
こんな光景、映像にでも残っていたら左遷どころでは済まない。
「私の言い分によっては君をクビにさせる事だってできるんだからな?君は分かってるよなあ」
「全っ然分かりません」
胸ぐらを捕まれながらも冷静に冷悧に対応する日和。
おそらく会社の御曹司である自分が事を脚色して上層部に伝えれば日和をクビにできるという事なのだろう。
しかし、彼が思っているほど、彼の人望は厚くはない。
むしろ美人で仕事もできて気立ても良い日和の方が断然人望はある。
強引に部長の手を振りほどく日和。
「私の事より、今部長が私にした事の方がよっぽどバレたら不味いって、分かります?」
見下すような鋭い目付きで部長を突き刺す日和。
「な、何い?」
「一応このフロア、監視カメラ付いてるんですよ。今の映像、残ってますよ?」
弱味を握られるどころか弱味を握り返す日和。
「ぐ、ぐぬぬ…!」
流石に御曹司の彼が年下の女性社員へ腕ずくで脅迫まがいの事を言ったとなれば、大問題になるだろう。
それも彼一人の問題ではなく、会社全体が揺らぐような大問題だ。
あまりにも部長が単純でおつむが足りなかったせいで、彼の計画は脆くも崩れ去った。
研修をすっぽかした事を弱味に握って、彼女に卑猥な事を強要させようという下卑た計画が。
「ち、畜生…!」
バァンッ!
誰もいなくなったフロアで、一人椅子を蹴り上げる部長。
どうやったらあの女を掌中に収められるだろう。
どうやったらあの女を言いなりにさせられるだろう。
どうやったら…あの女にバニースーツを無理やり着せられるだろう?
こんなにもあの女、宮崎日和に執着するようになったのは、あの一件…日和が部下を助けたあの慰安旅行の一件だった。
部下を守ろうとする真っ直ぐな態度、そしてその瞳。
大企業の御曹司たる自分がその肩書きを出せばどんな女でもついてきた。
若い頃から禿げていて、背が低くて、肥満体型で、不細工な自分でも、美女を思うがままにする事ができた。
それは勿論、金銭的な理由で女はついてきているだけであったが。
しかし、彼女は違った。
社内の人間でありながら自分の肩書きにも怖じけず、部下を守る事を先決した。
見た目の美しさもそうだが、頭が良く、仕事もできて、且つ周囲に慕われ尊敬されるような存在。
そんな優秀な存在こそ、我が伴侶に相応しい。
ふとそんな事を思わせられるほど、彼は日和に一方的な好意を持っていた。
勿論、彼女のような自分とは歳の離れた美女だ。
ましてや夫も子供もいる彼女が自分の事など愛してくれる訳がないだろう。
だがそれが良いのだ。
金目当てで近寄られて、本当の愛情を持っているように振る舞われるよりも、思った事ありのままを言ってくれた方が部長としては嬉しかった。
あの真っ直ぐな瞳。
清らかで、正直な態度。
部下を思いやる優しさ。
濁したい。
歪ませたい。
汚泥のような自身の愛情を注いで、ぶち壊したい。
いつからか彼女の事ばかり想うようになっていた。
だが、一体どうすれば日和を意のままにできるだろうか?
好機だと思ったはずが、逆に弱味を握られて下手に出づらくなってしまった。
どうすればあの女をモノにできる?
そう考えている瞬間すら楽しい。
壁は高ければ高いほど、乗り越えた時は気持ち良い。
まさにこの事だ。
「ふむ…」
でっぷりと肥えた顎に手をやり、思案する部長。
どうすればあの小賢しい、生意気な女を好きにできるか。
…正直思い浮かばなかった。
強引に犯すのは趣味ではない。
何か弱味を握って好き放題するのが部長の趣味なのだ。
だが、そんな弱味が彼女のような完璧な人間にあるだろうか?
頭の中で思考が右往左往する中、天から一筋の糸が垂れてきた。