数日前
小金井愛美は、実家の自室にいた。部屋の広さは、とても一人部屋とは思えないほど広く、おおよそ十畳程。部屋の中は、女性らしく、ピンクや黄色の明るく淡い色使いの家具や壁紙。真っ白な椅子やテーブル等で、小物も可愛らしい動物が置かれている。部屋のほぼ中央には、一人では大きすぎるダブルベッドがあり、愛美はそこで不貞腐れていた。
(……覚悟はしていたけど、やっぱり言われると響くわね)
愛美の表情は冴えない。それもその筈。先程、小金井グループの代表取締役、つまり愛美の父親に結婚の話を聞いたからだ。小金井の家は、成人したら親の決めた相手と結婚しなければいけない。政略結婚である。愛美も幼い時からずっとそう言われ続け、それが当たり前だと思っていた。
(結婚する前に、恋愛したかったなぁ)
小さく溜め息をつく愛美。
(あと二ヶ月で、私も大人の仲間入りかぁ)
寝返りをうち、天井を見つめる愛美。しばらくそのままでいると、扉をノックする音。愛美は返事する。部屋の中に、父が険しい表情で入ってきた。
「……パパ、どうしたの?」
「…………」
険しい表情の父親に、愛美の表情も怪訝になる。
「愛美、急で悪いが。結婚の話が早まった。」
「っえ!?」
急な展開に、愛美は固まる。父親も大きな溜め息をつき、首を横に振っていた。
「……先方の状況が変わったらしい。詳しい事はまだ聞いてはいないが、どうやらお前の夫になる筈の息子が家を出ていったらしい。それで別の息子がお前の結婚相手になるそうだ。」
「それで?どうして、結婚が早まるのよ。」
愛美の表情は少しずつ変化していく。
「お前の写真を見て、その相手の息子が、成人まで待てないと言っているようだ。」
それを聞いて、愛美の表情は怒りに変わる。
「そんなの、許される分けないじゃない!?大体、私の立場は?いくら政略結婚でも、私だって一人の人間なのよ!!」
いつもは見せない愛美の表情に、父親も顔が歪む。愛美はスマホと財布を乱暴に掴むと部屋を出ていく。大きく広い屋敷を飛び出し、すでに呼んであったタクシーに乗り込む。後ろから父親や使用人達が走って追い掛けて来るが、愛美はそれを振り切り家を後にした。
(……パパなら、どんな手段を使っても絶対捜しに来る筈)
愛美はスマホを取り出し、あらゆるサイトから自分名義で全ての移動手段のチケット予約をした。そして、それを終えると、子供の頃仲の良かった友人に連絡を取り、友人名義で飛行機のチケットを予約、空港に着くとその飛行機に乗り込んだ。しかし、愛美の予想以上に父親の情報網は凄かった。某有名温泉地に着くと、すぐに追っ手が待機していたのだ。愛美は追っ手から上手く逃げていた。
しばらく走っていると、一人の男性にぶつかる。その男性は歩きスマホをしていたようだ。男性が声を掛けてきていたが、愛美の意識は追っ手に向いている。その男性を見る事なく、その場を離れた。
どのくらいの時間、走っているのだろう。愛美の息は荒く、疲労が濃くなっていた。すると、目の前に先程ぶつかった男性の姿。愛美はその男性にすがる様に袖を掴む。
「あんた、ここに泊まるの?」
「……ああ、そうだけど」
愛美の内心は焦っていた。後ろから追っ手の気配を感じたからだ。男性は愛美に対して怪訝な表情をしているが、どうやら助けてくれるようだった。愛美は男性の腕にしがみつく。フロントでチェックインを済ませ、エレベーターに乗り込んだ。いきなり二人きりになり、愛美は少し不安になった。
(どうしよう。勢いで同じ部屋に泊まるって言ったけど)
心の中でそう思うも、後には引けない。愛美はエレベーターから素早く降りると部屋に向かった。男性も後ろからついてくる。部屋に入る前に愛美に念を押す男性。返事をし頷く愛美。部屋の中に入った。愛美はすぐに座椅子に座る。男性も溜め息をつきつつ、反対側の座椅子に座った。
「俺は篠崎悟史だ」
男性は名前を教えてくれた。愛美は教える気はなく、拒否。悟史の声のトーンが下がり、愛美は一瞬で恐怖を覚えた。
「……小金井愛美」
愛美は言う。少し怖い表情をしていた悟史。愛美の名前を聞くと、普通の表情に戻り、愛美が上手く浴衣を着れず、はだけていると赤面で狼狽えている。
(……良かった。悪い人じゃないみたい)
でも、冗談で『悟史が浴衣着せて』と言うと、表情を強張らせ、部屋を出ていった。
(怒らせちゃった)
愛美はシュンとしながら、部屋に備え付けられている冷蔵庫を開けると、銀色の缶が数本あった。
(喉乾いちゃった)
缶の口を開け、一口飲む。少し苦く感じたが一気に飲み干した。
(何これぇ、フワフワするぅ)
愛美の手は、二本目を開けていた。それも一気に飲み干す。フワフワした意識の中、三本目を開け、一口飲んでいると眠気が来た。そのまま畳に横になる。その時、悟史が戻ってきた。何か言っている。
「お前、社会人なら飲む量考えろよ」
「……私、19だよぅ」
その言葉に悟史の表情が驚きに変わる。
(……っあ、そんな表情もするんだぁ)
愛美は思った。悟史が無理矢理布団に寝かす。愛美は抵抗する気力もなくそのまま夢の中に落ちた。
夢の中、愛美は家の中にいた。長い廊下を歩き、父親の書斎に入る。
『愛美、お前もあと二ヶ月で成人だ。分かっているな?』
『ええ、分かっています。』
『……お前の夫となる男は、お前より三つ上だ』
愛美は無言で小さく頷く。
『今、大学に行って、経済学を学んでいるそうだ』
父親の話にただ耳を傾ける愛美。
『行く行くは、小金井家の経営も任せられる男になってくれるだろう』
愛美の手が小さく震えている。父親は気付いていない。
『愛美、夫になる人の名は知りたいか?』
『……はぃ』
愛美の返事に、父親は頷く。
『篠崎悟史、それが愛美の夫になる男の名だ』
(……どんな人なの?)
愛美はまだ見ぬ夫に不安を感じたのだった。
煙草の臭いで目を覚ます愛美。微睡む意識の中、愛美は煙草を吸う人物を見た。すっかり暗くなった外の景色を眺める悟史。その横顔があまりにも色っぽく、愛美の心臓が締め付けられた。その時ようやく愛美は彼をちゃんと見たのだ。少し色が抜けた黒い髪。くっきりとした目鼻立ち。細く感じた身体は、酔っていても分かる程筋肉質で、雄を感じさせる。
『彼の名は、篠崎悟史だ』
父親の言葉が蘇る。
『俺は、篠崎悟史だ』
数時間前に自己紹介してきた彼。愛美は今、目の前にいる男性が自分の夫となる人。婚約者だと気付いたのだ。
「……何だ?俺の顔に何か付いているか?」
見惚れている愛美に、悟史が言う。愛美は我に帰った。
(嘘でしょ?まさか、こんな風に出逢うなんて)
愛美の心は荒れた。そして、疑問が浮かぶ。
(どうして家を出たの?私の事分かってるの?……私と結婚したくないの?)
頭の中はごちゃ混ぜだ。悟史がホテルマンに頼んだワインを見て、愛美は無理矢理それを飲む。混乱している自分を誤魔化す。そして、そのまま眠った。眠る前に泣いた記憶はない。
どのくらいの時間が経過したのか分からない。愛美はトイレに向かった。部屋の出入り口側に悟史が寝ている。トイレから出ると、愛美は悟史の布団に入った。男性特有の匂いと、筋肉質の身体に愛美の心は早鐘を打つ。
「お前の布団は向こうだ」
そう言われたが、愛美は悟史から離れなかった。いや、離れられない。狼狽えている悟史に、愛美の心は締め付けられた。だから、酔っぱらっているフリをしたのだ。次第に睡魔に襲われた愛美。そのまま眠りにつく。
朝、目を覚ますと悟史の姿はなく、テーブルに置き手紙があった。愛美はそれを見る。
『俺は銭湯巡りをしてくる。好きな時に出ていけ。金は俺が払うから要らない 悟史』
愛美はその紙をぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に投げ入れた。
(……話聞くまでは、絶対離れないんだから!?)
決意新たに愛美は悟史が帰ってくるのを待つのだった。
次も愛美sideからです。